最終話:新しい命と家族、出会いと別れ
これまで二つの人生の中で、最も「生きた」と感じたのは、あの日でした。
僕が十四歳になった年。
僕の人生に、最高に愛おしい、小さな客人がやってきた日です。
この世界には優れた医療魔法が存在します。
痛みを和らげる魔法、出血を抑える魔法。
けれど、それでも、まだ成熟しきっていない十四歳の身体にとって、出産という営みは、あまりにも過酷な試練でした。
視界が白く染まり、呼吸の仕方を忘れるほどの激痛が波のように押し寄せます。
意識が遠のきそうになるたびに、僕の右手を、誰よりも強く、切実に握りしめる温もりがありました。
「エリー! 大丈夫だ、僕がついている。僕がずっとそばにいるから、頑張って!」
ヘンリー様の、泣き出しそうなほど必死な声。
その声が、僕をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨でした。
僕は、彼の手に、ありったけの力を込めて握り返しました。
役割なんてどうでもいい。貴族としての義務なんてどうでもいい。
ただ、この人の隣で、この命を、僕の手でこの世界に迎え入れたい。
その一心だけが、僕を突き動かしていました。
そして、最後の一踏ん張りをした瞬間。
静まり返った部屋に、高く、鋭い、けれどこの上なく生命力に満ちた産声が響き渡りました。
「……ああ……」
どっと、全身から力が抜けていきました。
目の前に、血と羊水にまみれた、小さくて、赤くて、不思議に温かい塊が届けられました。
僕は、震える指先で、その小さな、小さな手をそっと触れました。
僕が、僕であることを肯定してくれたヘンリー様。
僕を愛してくれた家族。
そのすべてが詰まったような、尊い命。
「……ありがとう。私の、赤ちゃん」
そう呟いたとき、僕の目からは、安堵と幸福が混ざった涙が溢れ出して止まりませんでした。
ヘンリー様が僕を、そして赤ちゃんを、強く抱きしめてくれました。
額と額を合わせ、僕たちは、静かに、深く、幸せなキスを交わしました。
僕の人生に、本当の意味での「家族」が完成した瞬間でした。
――それから、しばらくして、実家から一通の手紙が届きました。
そこには、父上からの、いつものぶっきらぼうな、けれどどこか照れくさそうな筆致で、驚くべき報告が綴られていました。
『……報告する。お前の妊娠が発覚した後、どういうわけか、母さんと私の間にも新しい命が宿ったらしい』
……はい?
僕は、手紙を読み返して、そのまま固まりました。
隣で一緒に読んでいたヘンリー様も、同じように、口をぽかんと開けて絶句しています。
「……え? 公爵様が、今さら……?」
母様があまりにも包容力に溢れていたから、あるいは、僕の妊娠という出来事が、父上の心に眠っていた「家族への情熱」に火をつけてしまったのかもしれません。
前世の僕からすれば、想像もつかない展開でしたが、なんだか、そういうこともあるのかもしれないな、と不思議と納得してしまいました。
そしてさら半年後。僕のところへ、嬉しい知らせが届きました。
公爵家に、僕の末の弟が誕生したそうです。
これで僕は、ついに「末っ子」を卒業しました。
前世では、役割に縛られ、正解のない問いに悩み、孤独だった僕。
けれど今、僕には、心から信頼できる夫がいて、深い愛情をくれる両親がいて、そして、僕が全力で守りたい宝物がいます。
男らしさでもない。
女らしさでもない。
貴族という役割でもない。
ただの「僕」として、自分から選び取った家族と共に歩む人生。
窓の外には、穏やかな陽光が降り注いでいました。
僕の隣で、赤ちゃんをあやすヘンリー様が、僕を見て優しく微笑みます。
僕は、その手にそっと自分の手を重ねました。
これから先、どんな困難があっても、もう怖くはありません。
だって僕は、僕自身の人生を、最高のパートナーと共に歩んでいるのだから。
僕の、幸せな物語は、これからもずっと、続いていくのです。
そして、僕の赤ちゃんが生まれてから、ちょうど一ヶ月後のことでした。
ヘンリー様の父様、ジョンソン様が、眠るように静かに旅立たれたのです。
病いとの長い闘いだった彼にとって、その旅立ちは、とても穏やかな、納得のいくものだったように感じられました。
彼は、孫の顔をこの目で見るという、人生最後の、そして最大の願いを叶えた直後だったからです。
彼を送り出した後、僕は、あの日のことを思い出していました。
産前に彼のお部屋を訪ね、彼が震える手を僕のお腹に添えてくれた、あの静かな時間を。
あんなに切実に、「息子をよろしく」と僕に願っていた、あの温かな手の感触を。
もし、僕たちが「十五歳まで待つ」という紳士的な約束を、頑なに守っていたら。
もし、僕たちが、周囲が納得する「正解」なタイミングを待っていたら。
きっと、彼はこの小さな、温かい命に触れることなく、旅立っていたことでしょう。
運命が僕たちに仕掛けた、想定外の早すぎる展開。
それは、僕たちが「正解」を捨てて、自分たちの心に従ったからこそ辿り着いた道でした。
そしてそれは、彼が僕たちに、そしてこの子にくれた、人生最後の贈り物だったのかもしれません。
そしてそれを彼に返すことができたのでした。
「……お義父様。ありがとうございました」
僕は、空の青い彼方に向かって、静かに、けれど深く感謝を伝えました。
役割に縛られず、自分の意志で選んだ道。
その先にあったのは、不器用で、けれど最高に愛おしい家族という形でした。
僕の手の中には、いま、心地よい重みの赤ちゃんが抱かれています。
隣には、僕のすべてを肯定し、共に歩んでくれる、世界で一番優しい夫がいます。
そして、遠い場所で、僕を愛してくれた父上と母様が、きっと微笑んでくれている。
男らしさ。女らしさ。
そんな言葉では、決して言い表せない、僕だけの人生。
僕は、もう一度、幸せを噛みしめるように、我が子の頬にそっとキスをしました。
僕の、本当の意味での新しい人生は、これからもずっと、この愛する人たちと共に、続いていくのです。




