第七話番外編
『揺れる心と、温かな手』
父上が屋敷を去った後、僕の日常は「妊婦」としての生活へと完全に移行しました。
お腹は日に日に大きくなり、歩くたびに心地よい重量感が増していきます。
けれど、それと同時に、言葉にできない不安が僕の心を浸食していました。
「……本当に、僕でいいんでしょうか」
鏡に映る自分の姿は、確かに幸せそうでした。
けれど、精神と肉体の不和と、これから「母親」になるという重い役割の間で、僕の心は激しく揺れていました。
そんな僕の不安を、誰よりも早く察してくれたのが、お付きのメイドのマーサと、娘のアリスでした。
「お嬢様、またそんな難しい顔をして。ほら、足をこちらに。少しむくんでいらっしゃいますね」
マーサさんが慣れた手つきで、僕の足をふっくらとしたクッションの上に載せます。
そして、アリスさんが温かいハーブティーを淹れて、僕の隣にそっと置きました。
「……マーサさん。僕、ちゃんと良い母親になれるでしょうか。淑女としての正解は覚えられたけれど、『母親』としての正解なんて、どこにも書いてありません」
僕がポツリと漏らした言葉に、マーサさんは手を止め、慈しむような瞳で僕を見つめました。
「お嬢様。母親に『正解』なんてないんですよ。
あるのは、その子と一緒に作り上げていく『思い出』だけです」
「思い出……」
「ええ。完璧な母親になろうなんて思わなくていいんです。
ただ、この子が『ああ、私は愛されていたな』と思えるように、隣にいてあげてください。
それだけで十分すぎるほどですよ」
隣でアリスさんが、「私も、エリーお嬢様なら絶対に素敵なお母さんになれますよ」と、言ってくれました。
前世では、役割に適合できない自分を否定され続けてきました。
けれどここでは、僕が僕のままでいい。
不完全なままであっても、ただ隣にいてほしい。
そう言ってくれる人々が、僕の周囲には溢れていました。
「……ありがとうございます。なんだか、少しだけ、自信が出ました」
僕が微笑むと、二人は顔を見合わせて、さらに優しく僕を包み込んでくれました。
役割という檻から、僕を連れ出してくれるのは、いつもこうした名もなき温かな優しさでした。
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『静かなる約束、灯火の継承』
出産を数ヶ月後に控えたある日。
僕は、病床にあるヘンリー様のお父様、ジョンソン様に会いに行くことになりました。
お部屋に入ると、そこには痩せ細り、今にも消えてしまいそうなほど儚い姿のジョンソン様が横たわっていました。
けれど、僕の姿を見た瞬間、彼の瞳に、パッと灯がともったのが分かりました。
「……エリザベス様。もっと近くに」
僕は、ふっくらとしたお腹を抱えながら、ゆっくりと彼の枕元へ歩み寄りました。
ジョンソン様は、震える手をそっと伸ばし、僕のお腹に触れようとされました。
僕がそれを促すと、彼は、壊れ物を扱うように、本当にそっと、掌を僕のお腹に添えました。
「……ああ。ここに、新しい命があるのだな」
その声はか細いものでしたが、深い充足感に満ちていました。
ジョンソン様は、ふっと小さく笑い、僕の目を見つめて囁きました。
「息子には、本当に申し訳ないことをしたな。
だが、あの子は、責任感があまりに強すぎる。
きっと、君に申し訳ないと思いながら、夜も眠れずに悩んでいたのだろう。
……十五まで待つなんて、あの子らしい約束だ」
「……だが、運命はそうでもなかったらしい。少し性急ではあるがな……。
あなたには申し訳ないが、私は二人が幸せそうで、本当にうれしいのだ」
「僕も……、あなたにお孫さんを見せれそうでよかったです」
僕たちは、顔を見合わせて小さく笑いました。
ジョンソン様は、僕の手を優しく握りしめ、静かに、けれど確かな意志を込めて言いました。
「エリザベス様。あなたが、ヘンリーの隣にいてくれたこと。
そして、この子を授かってくれたこと。
人生で一番の幸運を、息子にくれたことに、心から感謝している」
その言葉は、僕の心に深く、深く染み渡りました。
前世の父には、一度ももらったことのない言葉。
「何かをしたから」ではなく、ただ「そこにいてくれたこと」への感謝。
それは、僕が僕であること、そのすべてを肯定してくれる、最高の祝福でした。
「……僕も、ありがとうございます。ジョンソン様。
僕、この子と一緒に、ヘンリー様をずっと支えていきます」
僕がそう答えると、ジョンソン様は満足そうに目を閉じ、穏やかな表情を浮かべました。
もはや、言葉は必要ありませんでした。
彼から僕へ、そしてこれから生まれてくる子へ、静かな、けれど絶えることのない「家族の愛」という名の灯火が、受け継がれた瞬間でした。
お部屋を出た後、僕は空を見上げました。
運命が、僕たちを急がせたのかもしれません。
けれど、その急ぎ足だったからこそ、僕は今、この温かな繋がりに触れることができた。
僕は、もう迷いません。
この愛しさに応えるために。
僕は、最高に幸せな母親になるのだと、心に強く誓いました。




