第9話 白銀草
北門を出ると、町のざわめきが少しずつ背後へ遠ざかっていった。
交易町ラトルの外にも道は続いている。荷馬車が通る広い街道とは別に、北へ向かう細い道があった。ギルドで教えられた湿地へ続く道だ。
俺は腰に下げた短剣を確かめた。
ギルドから借りた護身用の武器。刃は少し古いが、手入れはされている。
ただ、それを持ったところで、自分が強くなったわけではない。
ライアークロウと戦った時も、勝てたのはぎりぎりだった。相手の嘘を見抜き、動きを記録し、どうにか一撃を通しただけだ。
次もうまくいく保証はない。
「レンさん」
隣を歩いていたクララが、少し緊張した声で言った。
「白銀草は、湿地の水辺に生えます。でも、奥に行かなくても外側に少しあるはずです」
「見分け方は?」
「根元が銀色に光ります。葉は細くて、先が少し丸いです。似ている灰白草は、葉の裏に黒い筋があります」
「間違えると?」
「薬には使えません。たくさん混ざると、薬師さんに買い取ってもらえないと思います」
「なるほど」
つまり、ただ集めればいいわけではない。
正しい草を見分けて、状態の良いものだけを持ち帰る必要がある。
クララがいなければ、俺一人では難しかったかもしれない。
「助かる」
「え?」
「クララがいてくれてよかった。俺だけだと、薬草の見分けは怪しかった」
クララは一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、少し照れたように目を伏せる。
「私、戦えませんから。こういうことくらいしか……」
「こういうことが必要なんだ」
俺は前を見ながら言った。
「戦うだけじゃ依頼は終わらない。薬草を間違えたら、弟さんの薬にもならないんだろ」
「……はい」
クララは小さく頷いた。
その表情に、ほんの少しだけ自信が戻った気がした。
道はだんだん細くなっていった。
足元の土が柔らかくなり、草の匂いに混じって、湿った泥の匂いが漂ってくる。遠くで虫の羽音が聞こえた。
しばらく進むと、木々の間から水の光が見えた。
湿地だ。
浅い水たまりがいくつも広がり、その間を細い土の道が蛇のように続いている。ところどころに背の低い草が群生し、ぬかるんだ地面には小さな泡が浮かんでいた。
空気が重い。
森とはまた違う嫌な静けさがあった。
「ここからは気をつけます」
クララが声を低くした。
「足元が沈む場所があります。草が多いところでも、下が泥になっていることがあるので」
「分かった。俺が先に歩く。クララは俺の足跡を踏んでくれ」
「はい」
俺は短剣の柄に触れながら、ゆっくり湿地へ入った。
一歩ごとに、靴の下で泥が鳴る。水面に波紋が広がり、虫が飛び立った。
視界の端に文字が浮かぶ。
《鑑定》
名称:湿地草
状態:湿潤
用途:不明
役に立つような、立たないような情報だ。
俺は苦笑しそうになった。
まだ《鑑定》は万能じゃない。
少なくとも、薬草の知識ではクララの方が頼りになる。
「あっ」
クララが小さく声を上げた。
彼女が指差した先に、淡い白色の草が群生している。細い葉が水辺に揺れ、その根元が、光を受けてわずかに銀色に見えた。
「あれが白銀草か?」
「近いと思います。でも、確認します」
クララは慎重に近づき、しゃがみ込んだ。
葉を一枚裏返し、根元を見て、泥を少し払う。
「白銀草です。状態も悪くありません」
俺も隣にしゃがみ、草に触れた。
《鑑定》
名称:白銀草
状態:良好
特徴:根元に銀色の薬効成分を含む
用途:瘴気抜き薬の材料
今度は、はっきり出た。
「間違いなさそうだ」
「根を傷つけすぎると価値が下がります。根元の泥ごと少し掘って、あとで余分な泥を落とします」
「分かった」
クララに教わりながら、俺は白銀草を採取した。
思っていたより手間がかかる。
無理に引き抜くと根が切れる。根が切れれば、薬効が落ちる。かといって泥を掘りすぎると、時間がかかる。
クララは慣れているのか、細い木べらを使って丁寧に草を掘り出していた。
俺よりずっと手際がいい。
「本当に詳しいんだな」
「弟の熱が続いてから、薬師のお婆さんに教えてもらったんです。何かできることが欲しくて」
クララの声は静かだった。
「でも、村にある薬草だけでは足りなくて……」
「だからラトルまで来た」
「はい」
クララは採取した白銀草を布で包む。
「弟は、夜になると苦しそうに咳をするんです。母さんは大丈夫って言いますけど、本当は全然大丈夫じゃないと思います」
俺は何も言えなかった。
大丈夫じゃないのに、大丈夫と言う。
そういう人間を、俺は知っている。
かつての俺も、そうだった。
仕事を抱えすぎても、大丈夫ですと言った。
眠れなくても、大丈夫ですと言った。
心が壊れかけても、大丈夫ですと言った。
誰かに助けてほしいと、言えなかった。
「クララは、ちゃんと動いていると思う」
俺は言った。
「弟さんのために、できることをしている」
クララは手を止めた。
「……そうでしょうか」
「ああ」
「でも、私一人では何もできませんでした」
「一人でできないことを、誰かとやるためにここにいるんだろ」
クララは少しだけ目を伏せた。
そして、小さく頷いた。
「はい」
俺たちは採取を続けた。
白銀草は思ったより少ない。湿地の外縁部だけで必要量を集めるには、少し奥まで目を向ける必要があった。
だが、ミレイユには言われている。
奥には入るな。
日没前に戻れ。
危険なら撤退しろ。
俺は空を見上げた。
まだ日は高い。
だが、湿地では時間の感覚が鈍る。足元を気にしているうちに、思った以上に時間が経っているかもしれない。
「あとどれくらいで、一束になる?」
「今ので半分くらいです。もう少し集めれば、一束分にはなります」
「無理に奥へ行かなくてもいい」
「でも、一束だけだと報酬が……」
「命の方が高い」
そう言うと、クララは黙った。
焦る気持ちは分かる。
薬代は足りない。
時間もない。
けれど、ここで無理をして怪我をすれば、全てが無駄になる。
俺は周囲を見回した。
湿地の奥に、白い草の群れが見える。
白銀草かもしれない。
だが、そこへ向かうには、水たまりの間を抜ける必要がある。足場は悪く、どこが沈むか分からない。
その時、水面に小さな波紋が広がった。
風は吹いていない。
俺は足を止めた。
「クララ、動くな」
「え?」
「そのまま」
クララが固まる。
俺は水面を見る。
波紋がもう一度広がった。
だが、おかしい。
波紋は外から内へ向かっている。
普通は逆だ。
何かが水面の下で、呼吸でもしているように泥を揺らしている。
視界の端に文字が浮かぶ。
《矛盾看破》発動
水面の揺れに不自然な逆流を確認。
周囲の泥に生命反応の可能性あり。
背筋が冷えた。
泥だと思っていた場所に、何かがいる。
「後ろに下がれ。ゆっくり」
クララは青ざめながら頷いた。
俺は短剣を抜いた。
湿った空気の中で、刃が鈍く光る。
次の瞬間、クララの足元の泥が盛り上がった。
「きゃっ!」
泥の中から、黒い縄のようなものが飛び出した。
それは生き物だった。
太い蛭のような身体。泥にまみれた表皮。先端には、円形に並んだ小さな歯がある。
俺は咄嗟に短剣を振った。
刃が黒い身体をかすめる。
魔獣は泥の中へ戻り、また水面が静かになる。
「何ですか、今の……!」
「分からない」
俺は息を整えながら、魔獣が消えた泥を見る。
「鑑定」
名称:マッドリーチ
種別:小型魔獣
特徴:泥中に潜み、獲物の足に噛みつく
危険度:低
状態:空腹
「マッドリーチ……」
危険度は低。
だが、ライアークロウの時もそうだった。
俺からすれば、低でも十分危険だ。
クララは震えながら、俺の後ろへ下がった。
「湿地にいるって聞いたことがあります。でも、外側にはあまり出ないはずなのに……」
「出てきた理由があるのかもしれない」
俺は泥を見る。
さっき白銀草を採った場所の近く。
掘り返した泥。
草の根。
そこから、薄い黒い水が滲んでいた。
視界に文字が浮かぶ。
《鑑定》
名称:瘴気を含んだ泥
状態:軽度汚染
特徴:小型魔獣を引き寄せる可能性あり
瘴気。
また、その言葉だ。
クララの弟の病気。
聖女ミコトが祓うと言われているもの。
そして、この湿地にある汚れ。
つながっているのか。
今は考えている場合ではない。
泥がまた揺れた。
マッドリーチは一匹だけではない。
水面の下で、いくつかの黒い影が動いている。
「クララ、少しずつ乾いた場所へ下がれ。白銀草は置いていっていい」
「でも……」
「命の方が高いと言っただろ」
「はい!」
クララは採取袋を胸に抱え、後ろへ下がる。
俺はその前に立った。
手が震えている。
怖い。
こんな湿地で足を取られたら、短剣一本ではどうにもならない。
けれど、ただ逃げても追いつかれるかもしれない。
なら、動きを見ろ。
嘘を見抜け。
泥に隠れているというだけで、そこに何もいないわけじゃない。
水面の揺れ。
泡の出る位置。
泥の盛り上がり。
最初の一匹は、攻撃の前に必ず小さな泡を出していた。
視界に文字が浮かぶ。
《証拠記録》発動
行動記録:攻撃直前、泥表面に小泡が発生。
攻撃方向:獲物の足元を狙う。
潜伏位置:瘴気を含む泥周辺に集中。
泡が出た。
右足の前。
俺は一歩引く。
直後、黒い魔獣が飛び出した。
「そこか!」
短剣を振り下ろす。
刃がマッドリーチの身体を裂いた。
今度は手応えがあった。
魔獣が泥の上でのたうち回る。黒い体液が飛び、嫌な臭いが広がった。
まだ動く。
俺は奥歯を噛みしめ、もう一度短剣を突き立てた。
マッドリーチは痙攣し、やがて動かなくなった。
胸元のペンダントが小さく熱を持つ。
《討伐成立》
対象:マッドリーチ
判定:敵性小型魔獣
獲得経験値:少量
息をつく暇はなかった。
泥の中に、まだ影がいる。
俺はクララの位置を確認した。
彼女は乾いた土の上まで下がっている。距離はある。今なら、逃げられる。
「クララ、走れるか?」
「はい」
「俺が合図したら、道まで戻る。白銀草は持っていける分だけでいい」
「レンさんは?」
「すぐ行く」
そう言いながら、俺は泥を見た。
残ったマッドリーチは二匹。
倒す必要はない。
目的は白銀草の採取であって、魔獣討伐ではない。
戦えば危険が増える。
なら、逃げるための道を証明する。
どこが安全で、どこが危険か。
泥の泡。
瘴気の黒い滲み。
草の倒れ方。
足跡が沈んでいない場所。
それらを頭の中でつなげる。
《証拠記録》発動
安全経路候補を記録。
危険区域:瘴気泥周辺。
推奨移動:乾燥した草地を経由。
俺は息を吸った。
「今だ!」
クララが走り出す。
俺も後を追った。
泥が跳ねる。
背後で水音がした。
一匹が追ってくる。
泡の位置は左後ろ。
来る。
俺は振り向かず、半歩だけ右へずれた。
黒い身体が左足の横をかすめる。
短剣を逆手に持ち、すれ違いざまに切りつけた。
浅い。
だが、足止めにはなった。
そのまま乾いた地面へ駆け上がる。
「はあっ……はあっ……」
息が荒れる。
クララも肩で息をしていた。
湿地の泥の中で、マッドリーチが数匹うごめいている。だが、乾いた場所までは追ってこないようだった。
俺は短剣を構えたまま、しばらく様子を見た。
やがて、泥の動きが収まる。
逃げ切った。
「大丈夫か?」
俺が聞くと、クララは何度も頷いた。
「はい……レンさんは?」
「少し泥をかぶっただけだ」
腕を見る。
大きな怪我はない。
だが、手は震えていた。
ライアークロウの時と同じだ。
勝ったわけじゃない。
今回は、逃げ延びただけ。
それでも、生きている。
クララは採取袋を確認した。
「白銀草……少し落としました。でも、一束分はあります」
「十分だ」
「でも、薬代にはまだ……」
「今日だけで全部稼ぐ必要はない」
俺は湿地を見た。
瘴気を含んだ泥。
小型魔獣。
湿地の異変。
これは、ただの採取依頼ではなかったのかもしれない。
「ミレイユに報告しよう。湿地の外側にマッドリーチが出たことと、瘴気を含んだ泥があったことを」
「報告……」
「ああ。これも依頼のうちだと思う」
採取した白銀草だけではなく、危険な情報も持ち帰る。
それが次の誰かを守ることになるかもしれない。
俺は胸元のペンダントに触れた。
表示はもう消えている。
だが、さっきの言葉が頭に残っていた。
瘴気。
この世界の病と魔物に関わるもの。
聖女ミコトは、それを祓う存在として信じられている。
なら、この湿地の瘴気も、いずれ聖女の名と結びつくのだろうか。
人を救うために。
それとも、人を支配するために。
「戻ろう」
俺は短剣についた泥を布で拭った。
「日が傾く前にギルドへ戻る」
「はい」
クララは採取袋を大事そうに抱えた。
その中には、白銀草が一束。
小さな成果だ。
だが、確かな一歩だった。
俺たちは湿地を離れ、ラトルへ続く道を戻り始めた。
背後では、湿った泥の匂いがまだ濃く漂っている。
初めての依頼。
白銀草の採取。
小型魔獣との遭遇。
そして、湿地に残る瘴気の気配。
ただ薬代を稼ぐだけでは終わらない。
この世界には、まだ見えていない嘘と危険がいくつも隠れている。
なら、見つけるしかない。
ひとつずつ。
証拠を拾い、矛盾を見つけ、真実へ近づいていく。
それが、俺の戦い方なのだから。




