第8話 冒険者ギルド
冒険者ギルドの扉は、思っていたより重かった。
木でできた大きな扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。ぎい、と鈍い音が鳴った瞬間、中のざわめきが少しだけこちらへ向いた。
酒の匂い。
革鎧の匂い。
鉄と汗の匂い。
村とも、薬師の店とも違う空気がそこにはあった。
広い室内には、いくつもの丸テーブルが並んでいる。昼間だというのに、酒杯を片手に笑っている者もいれば、依頼書らしき紙を真剣に睨んでいる者もいた。
壁には大きな掲示板があり、そこには無数の紙が貼られている。
薬草採取。
荷運び。
害獣退治。
森の調査。
読める。
やはり、文字の意味が頭に入ってくる。
俺は胸元のペンダントに、服の上から軽く触れた。
便利だ。
便利すぎる。
このペンダントがなければ、俺はこの世界で文字も読めなかったかもしれない。だが、その正体はまだ分からない。
美琴が落としたもの。
俺に《証明者》を与えたもの。
聖女ミコトの場所を示し、成長を告げ、時には警告まで出すもの。
本当に、これは俺の味方なのか。
それとも、俺をどこかへ誘導しているだけなのか。
「レンさん」
隣でクララが小さく声を出した。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
俺は手を下ろした。
「行こう」
受付らしいカウンターは、部屋の奥にあった。
そこには数人の職員が並んでいる。その中の一人、薄い金色の髪を後ろで束ねた女性が、こちらに気づいて顔を上げた。
年は二十代半ばくらいだろうか。
柔らかい雰囲気はあるが、目つきは落ち着いている。笑顔も、ただ愛想がいいというより、相手をよく見ている感じがした。
「ようこそ、ラトル冒険者ギルドへ」
女性は丁寧に言った。
「本日はご依頼ですか? それとも、登録でしょうか?」
「登録をお願いします」
俺はカウンターの前に立った。
「身分証がまだないので、登録できると聞きました」
「はい。冒険者登録を行えば、ギルド証が身分証の代わりになります。ただし、身元が確認できない場合は、最初は仮登録からになります」
女性はそう説明してから、自分の胸元の小さな札に手を添えた。
「受付のミレイユです」
「レンです。レン・クゼ」
「私はクララです」
クララも慌てて頭を下げた。
ミレイユは二人を順に見て、すぐに仕事の顔に戻った。
「登録されるのは、レンさんだけでしょうか?」
クララが少しだけ迷った。
けれど、すぐに首を横に振る。
「私は……まだ冒険者になるわけではありません。薬草のことだけ、少し手伝いたいんです」
「同行者という形ですね」
ミレイユは頷いた。
「依頼内容によっては、非登録者の同行は認められます。ただし、報酬を受け取れるのは依頼を受けた冒険者本人です。また、危険な依頼には同行できません」
「はい」
クララは少し緊張した顔で頷いた。
それでいい。
クララは正式な冒険者ではない。
弟の薬のために、ここにいるだけだ。
俺の事情に、深く巻き込んでいい相手ではない。
「では、レンさん。仮入町札をお持ちですか?」
「はい」
俺は門で渡された木札を出した。
ミレイユはそれを確認し、机の上に置く。
「登録料は銀貨一枚です」
また銀貨一枚。
門で支払ったばかりなのに、ここでも必要になる。
俺は布袋の中を確認した。
村長からもらった金は、もう心細い。薬代どころか、今日泊まる場所にも困りそうだ。
それでも、払わなければ前へ進めない。
俺は銀貨を一枚、カウンターに置いた。
「確かに」
ミレイユは銀貨を受け取り、書類を一枚取り出した。
「簡単に説明します。冒険者には等級があります。最初は銅級見習いから。依頼を達成し、実績を積めば銅級、鉄級、銀級と上がっていきます」
「失敗した場合は?」
「報酬は出ません。依頼内容によっては違約金が発生します。また、犯罪行為や依頼中の重大な規則違反があれば、資格停止や除名もあります」
ミレイユの声は穏やかだった。
だが、内容は厳しい。
「ギルド証は、町を移動する時の身分証にもなります。ただし、仮登録中は一部の町で確認に時間がかかることがあります。最初はラトル周辺で実績を作ることをおすすめします」
「分かりました」
「初心者が受けられる依頼は、薬草採取、荷運び、町内の雑用、簡単な害獣退治などです。魔獣討伐は、基本的に銅級見習いにはおすすめしていません」
ライアークロウとの戦いを思い出す。
あれは本当にぎりぎりだった。
あの時は《矛盾看破》と《証拠記録》がなければ、死んでいたかもしれない。
「次に、職業確認を行います」
ミレイユはカウンターの下から、小さな水晶を取り出した。
透明な球体で、内側に淡い光が揺れている。
「これは職業確認用の水晶です。戦士、魔法使い、斥候、薬師など、登録者の主職業を確認します。詳しい能力までは表示されませんので、ご安心ください」
詳しい能力までは表示されない。
その言葉に、少しだけ息を吐いた。
《矛盾看破》や《証拠記録》まで見られると面倒だ。
「手を置いてください」
俺は水晶に右手を置いた。
ひんやりとした感触が掌に広がる。
次の瞬間、水晶の中で白い光が揺れた。
ミレイユが表示を覗き込む。
そして、ほんのわずかに動きを止めた。
「……証明者」
その言葉を聞いた周囲の空気が、少しだけ変わった気がした。
近くのテーブルにいた冒険者の一人が、こちらを見た。
「証明者?」
「何だそりゃ」
小さな笑い声が聞こえる。
俺は黙ってミレイユを見る。
「珍しいんですか?」
「少なくとも、私は初めて見ます」
ミレイユは水晶から目を離し、俺を見た。
「戦士でも、魔法使いでも、斥候でもない。記録系か、調査系の職業に近いのでしょうか」
「たぶん、そんな感じです」
「たぶん?」
「まだ、自分でも分かっていない部分が多いので」
嘘ではない。
本当に、分からないことだらけだ。
ミレイユは少し考えるように指先を顎に当てた。
「証明者……名前からすると、事実確認や調査、証言の整理に向いていそうですね」
「嘘や矛盾を見つけるのは、少し得意みたいです」
そう言うと、ミレイユの目がわずかに鋭くなった。
「それは、かなり珍しい能力かもしれません」
「そうなんですか?」
「冒険者の仕事は、魔物を倒すだけではありません。失踪者の捜索、盗難品の調査、商隊護衛中の揉め事、依頼主の証言確認。力だけでは解決できない依頼もあります」
ミレイユは書類に何かを書き込んだ。
「ただし、最初は実績がありません。まずは安全な依頼から始めてください」
「分かりました」
その時、近くのテーブルから大きな声が飛んできた。
「証明者だってよ」
振り向くと、大柄な冒険者が酒杯を片手に笑っていた。
肩幅が広く、腕には古い傷がいくつもある。いかにも力で生きてきた男という印象だった。
「口で魔物でも倒すのか?」
周囲の数人が笑う。
クララがむっとした顔をした。
「そんな言い方――」
「クララ」
俺は小さく名前を呼んだ。
クララは言葉を止める。
ここで言い返しても、面倒が増えるだけだ。
大柄な冒険者はさらに笑った。
「新人が珍しい職業だからって調子に乗るなよ。ギルドじゃ、証明だの理屈だのより、剣を振れるかどうかだ」
俺は男を見る。
声が大きい。
態度も大きい。
だが、声の大きさと正しさは違う。
そう思った時、ミレイユが静かに口を開いた。
「ギルド内での新人への威圧行為は、評価減点の対象です」
笑い声が止まった。
大柄な冒険者の顔がわずかに引きつる。
「冗談だろ、ミレイユ」
「冗談として処理するかどうかは、こちらで判断します」
ミレイユの声は穏やかなままだった。
だからこそ、余計に逆らいにくい。
大柄な冒険者は舌打ちし、酒杯を置いた。
「分かったよ」
ミレイユはそれ以上何も言わず、俺に向き直った。
「失礼しました」
「いえ」
「ギルドにはいろいろな方がいます。無用な衝突は避けてください」
「そのつもりです」
俺は答えた。
現代でも、怒りに任せて殴っていたら、本当に俺が加害者になっていた。
ここでも同じだ。
相手がどれだけ不愉快でも、手を出せば不利になる。
俺はそれを嫌というほど知っている。
ミレイユは登録用の薄い金属板を取り出した。
そこに水晶をかざすと、淡い光が走る。
しばらくして、文字が浮かび上がった。
登録名:レン・クゼ
等級:銅級見習い
職業:証明者
状態:仮登録
「こちらがギルド証です」
ミレイユが金属板を差し出す。
俺はそれを受け取った。
手のひらに収まる程度の大きさだが、ずしりとした重みがある。
この世界で初めて得た、身分を示すもの。
ようやく、俺はただの余所者ではなくなった。
「これで、レンさんもこの町で仕事ができるんですね」
クララが小さく言った。
「ああ」
俺はギルド証を握りしめた。
「まずは薬代だ」
ミレイユは依頼掲示板の方へ視線を向けた。
「薬代ということでしたら、報酬を重視した依頼を探しているのですね」
「はい。ただ、無茶な依頼を受けるつもりはありません」
「良い判断です」
ミレイユは掲示板から数枚の依頼書を外し、カウンターに並べた。
「初心者向けなら、町内の荷運び。報酬は銅貨十枚。安全ですが、時間がかかります」
銅貨十枚。
それがどれほどの価値かはまだ完全には分からないが、銀貨十枚には遠そうだった。
「こちらは薬草採取。ラトル近郊の草原で、傷薬用の薬草を集める依頼です。報酬は銅貨二十枚から。採取量によって増えます」
クララが少し反応した。
薬草なら、彼女の知識が役に立つ。
「そして、こちらが少し特殊な依頼です」
ミレイユは三枚目の紙を前に出した。
「白銀草の採取」
白銀草。
紙には、淡い白色の細長い草の絵が描かれている。
「白銀草は、瘴気抜きの薬に使われる材料です。ラトル北の湿地の手前に生えます。報酬は一束につき銅貨十五枚。状態が良ければ追加報酬があります」
「瘴気抜き……」
クララが息を呑んだ。
弟の薬に必要な材料。
その名前が出た時点で、選択肢はほとんど決まったようなものだった。
だが、ミレイユはすぐに続けた。
「ただし、銅級見習いが一人で受けるには少し危険です」
「魔獣が出るんですか?」
「大型の魔獣は滅多に出ません。ただ、小型の魔獣や毒虫が出ることがあります。それに、湿地は足場が悪い。慣れていない人が奥へ入ると、帰れなくなることもあります」
俺は依頼書を見る。
報酬は高い。
薬の材料にもなる。
クララの知識も活かせる。
だが、危険もある。
俺一人ならまだいい。
でも、クララを連れていくなら話は別だ。
「クララ」
「はい」
「危ないと思ったら、すぐに引く。奥には入らない。それでも行くか?」
クララは少しだけ唇を結んだ。
迷いはある。
怖さもある。
それでも、目は逸らさなかった。
「行きます。白銀草は、弟の薬に必要かもしれません。私、見分け方なら分かります」
「戦闘になったら下がれ」
「はい」
「俺の言うことを聞く。勝手に動かない」
「分かりました」
その返事を聞いてから、俺はミレイユを見る。
「この依頼を受けます。ただし、湿地の手前まで。奥には入りません。危険があれば撤退します」
ミレイユは俺の顔をじっと見た。
しばらくして、小さく頷く。
「無謀ではなさそうですね」
「無茶をして薬代を稼いでも、帰れなければ意味がありませんから」
「その通りです」
ミレイユは依頼書に印を押した。
「条件付きで受理します。日没前に必ず戻ってください。採取場所は北の湿地の外縁部まで。湿地の奥へ入った場合、ギルドは救助を保証できません」
「分かりました」
「それと、クララさんは非登録の同行者です。戦闘参加は認められません。採取補助のみです」
「はい」
クララは真剣な顔で頷いた。
ミレイユはカウンターの下から、古びた短剣を一本取り出した。
「登録直後の方には、本来貸し出し武器はありません。ただ、今回は湿地へ行く依頼です。護身用としてこれを貸します。返却時に破損していれば弁償です」
「助かります」
俺は短剣を受け取った。
刃は少し擦り減っているが、手入れはされている。ライアークロウと戦った時の木の棒よりは、よほど武器らしい。
だが、これで急に強くなったわけではない。
俺は戦士ではない。
ただの《証明者》だ。
証拠を拾い、矛盾を見つける職業。
それでも、この世界で生きるには、時には武器を持たなければならない。
「白銀草は、根元が銀色に光ります」
クララが依頼書を見ながら言った。
「似た草に灰白草がありますけど、そっちは薬には使えません。葉の裏に黒い筋があるので、見分けられると思います」
ミレイユが少し感心したようにクララを見る。
「詳しいですね」
「弟のために、少し勉強しました」
「それなら、採取補助としては十分役に立ちそうです」
クララは少しだけ嬉しそうにした。
助けられるだけではない。
自分にもできることがある。
その実感が、彼女を少し強くしているように見えた。
ミレイユは最後に、依頼書の控えを俺へ渡した。
「北門を出て、道なりに進むと湿地へ向かう細い道があります。森側へ逸れないように。日が傾き始めたら、採取量に関係なく戻ってください」
「はい」
「それと、レンさん」
「何ですか?」
ミレイユは少しだけ声を落とした。
「証明者という職業がどういうものなのか、私にもまだ分かりません。ただ、あなたが本当に嘘や矛盾を見つけられるなら、今後頼みたい調査依頼が出るかもしれません」
「調査依頼?」
「冒険者同士の揉め事や、依頼品の紛失、報告の食い違い。ギルドには、表に出しにくい問題もあります」
ミレイユはそこで言葉を切った。
「まずは、今日の依頼を無事に終えてください」
「分かりました」
俺はギルド証と依頼書をしまった。
身分を得た。
依頼も受けた。
短剣も借りた。
けれど、安心はできない。
薬代にはまだ遠い。
王都へ向かう道も、まだ見えない。
そして、聖女ミコトは王都で正式な聖女になろうとしている。
時間は、あまりないのかもしれない。
ギルドを出る前、さっきの大柄な冒険者がちらりとこちらを見た。
「湿地で泣いて帰ってくるなよ、証明者」
俺は足を止めなかった。
クララも、今度は何も言わなかった。
扉を開けると、外の光が差し込んだ。
町のざわめきが戻ってくる。
露店の声。
荷馬車の音。
どこかで売られている聖女の加護の証。
その全部が、この世界の現実だった。
俺はギルド証を握りしめた。
クララの弟を救う薬。
王都へ向かうための金。
聖女ミコトへ近づくための道。
その最初の一歩は、町の北にある湿地から始まる。




