第7話 交易町ラトル
交易町ラトルは、遠くから見た時よりもずっと大きかった。
村とは違う。
まず、人の数が違う。門の前には荷馬車が並び、商人らしき男たちが大きな声で荷物の数を確認している。旅人、農夫、剣を腰に下げた者、背中に弓を背負った者。服装も年齢もばらばらの人間が、ひとつの門へ向かって流れていた。
木と石で作られた外壁の向こうからは、鉄を打つ音や、人の話し声が聞こえてくる。
俺は思わず足を止めた。
この世界に来てから、初めて見る大きな町だった。
「レンさん?」
クララが不思議そうに俺を見る。
「大丈夫ですか?」
「ああ。少し驚いただけだ」
「ラトルは、このあたりでは大きな町ですから」
クララはそう言って、少しだけ誇らしげに町を見上げた。
「薬師さんもいますし、商人も多いです。冒険者ギルドもあります」
「村とはずいぶん違うな」
「はい。村では手に入らないものも、ここなら買えます。弟の薬も、きっと……」
クララはそこで言葉を止めた。
期待している。
でも、不安もある。
その表情を見れば、分かった。
俺たちは門の列に並んだ。
門番は二人いた。革鎧を身につけ、腰に剣を下げている。村のダンよりも慣れた雰囲気で、出入りする人間を手早く確認していた。
前に並んでいた商人が、身分証らしい木札を見せる。門番はそれを見て、すぐに通した。
やがて、俺たちの番が来る。
「身分証は?」
門番が聞いた。
クララは小さな木札を差し出す。
「フェル村のクララです。薬を買いに来ました」
「フェル村か。最近、薬草の件で少し揉めたと聞いたが」
クララの肩がぴくりと震えた。
噂はもうここまで届いているのか。
俺は一歩前に出そうになったが、クララが先に口を開いた。
「はい。でも、もう解決しました」
声は小さかった。
それでも、ちゃんと前を向いていた。
門番は少しだけクララを見ると、今度は俺に視線を移した。
「そっちの男は?」
「レンです」
「身分証は?」
「ありません」
門番の目が細くなる。
「身分証がない余所者か」
その言い方には、明らかな警戒が混ざっていた。
俺は胸の奥が少し重くなるのを感じた。
また、疑う目だ。
けれど、今回は理由がある。
この世界で、俺は身元を証明できない。
「森で魔獣に襲われて、フェル村に保護されました。ラトルでは身分証を作りたいと思っています」
そう説明すると、門番は俺の腕に巻かれた布を見た。
「魔獣?」
「ライアークロウです」
クララが横から言う。
「レンさんは、フェル村の近くでライアークロウを倒しました。それに、村で私を助けてくれた人です」
門番は少し驚いたように眉を上げた。
「ライアークロウを?」
「証拠なら羽があります」
俺は腰の袋から、残しておいた黒い羽を一枚取り出した。
門番はそれを受け取り、光にかざして確認する。
「……本物だな」
もう一人の門番が小さく頷いた。
「だが、身分証がないことに変わりはない。仮入町になる。通行料は銀貨一枚だ」
「銀貨一枚……」
クララが小さく声を漏らした。
高いのだろう。
俺は村長にもらった布袋から銀貨を取り出した。まだこの世界の金の価値はよく分からないが、出費として痛いことだけは分かる。
門番は銀貨を受け取り、薄い木札を俺に渡した。
「仮入町札だ。今日中は町にいられる。正式な身分証が欲しいなら、冒険者ギルドか商業組合へ行け。無くすなよ」
「分かりました」
俺は木札を受け取った。
身分証。
通行料。
信用。
どこの世界でも、人は何かで自分を証明しなければならないらしい。
町の中へ入ると、さらに人の声が大きくなった。
石畳の道の両脇には露店が並んでいる。焼いた肉の匂い。乾いた香草の匂い。荷馬車の車輪が軋む音。遠くから響く鍛冶の音。
すべてが、一気に押し寄せてくる。
クララは慣れているのか、迷わず南門近くの通りへ向かって歩き出した。
「薬師さんのお店はこっちです」
「ああ」
俺はクララについて歩きながら、周囲を見た。
露店の一つに、人だかりができていた。
「聖女ミコト様の加護の証だよ! 旅の安全に、病除けに、魔除けに! 今なら神殿印入りだ!」
聞こえてきた声に、足が止まる。
並べられているのは、手のひらほどの薄い木片だった。第6話で見たものと同じ、聖女の加護の証。
表面には聖女ミコトの名と、神殿の聖印が焼きつけられている。
買っていく者は多かった。
旅人らしい男が一枚。母親らしい女性が二枚。商人がまとめて十枚。
名前だけで、人が動く。
名前だけで、物が売れる。
名前だけで、誰かが信じられる。
それが、今の聖女ミコトだった。
「レンさん……」
クララが俺の顔色をうかがうように見ていた。
「また、怖い顔をしています」
「そうか」
「聖女様のことになると、レンさんは本当に……」
「信用していない、か?」
クララは困ったように頷いた。
「はい」
「信用するには、証拠が足りない」
俺は露店から視線を外した。
「信じられる名前ほど、嘘を隠しやすい」
クララは何かを言いかけたが、結局何も言わなかった。
昨日の夜、村長の家で聞いた噂。
聖女ミコトが訪れた町で、誰かが罪人として裁かれることがある。
そして、今日の道中でも見た。
ミコト本人がいなくても、その名は誰かを疑わせる道具になっていた。
町の中に入ったことで、その影響がさらに大きく見えた。
聖女ミコト。
美琴。
あの女は、この世界でどれだけ深く根を張っているのか。
「こっちです」
クララの声で、俺は我に返った。
南門近くの細い通りに、薬草の匂いが漂っていた。そこに、小さな薬師の店があった。
木の看板には、薬草の束を描いた印がある。店先には乾燥させた草や、小瓶、すり鉢が並んでいた。
「マーヤさん」
クララが店の中へ声をかける。
奥から、白髪混じりの女性が出てきた。年は五十代くらいだろうか。背筋は少し曲がっているが、目つきは鋭い。
「あら、クララじゃないか」
薬師マーヤは驚いたように目を丸くした。
「あんた一人で来たのかい?」
「いえ。レンさんが一緒です」
クララが俺を紹介する。
俺は軽く頭を下げた。
「レンです」
「見ない顔だね。旅人かい?」
「そんなところです」
ごまかすような答えになったが、マーヤは深くは聞かなかった。
代わりに、クララの顔をじっと見る。
「弟さんの薬だね」
「はい」
クララは鞄から折りたたんだ紙を取り出した。
「薬師のお婆さんに、これを持っていくように言われました」
マーヤは紙を受け取り、目を細めて読む。
「熱下げと、咳止め。それから……これは少し強めの薬草だね」
「ありますか?」
「熱を下げる薬なら出せるよ。今すぐにでもね」
クララの表情が明るくなる。
だが、マーヤはすぐに難しい顔をした。
「ただし、根っこから治したいなら別だ」
「え?」
「弟さんの症状、ただの風邪じゃないかもしれない。前に聞いた時も気になっていたんだ。熱が上がったり下がったりを繰り返す。咳が長引く。夜になると苦しそうにする。もし胸の奥に黒い痣のようなものが出ているなら、瘴気に当てられた可能性がある」
「瘴気……」
クララの顔から血の気が引いた。
俺はその言葉に反応した。
「瘴気って何ですか?」
マーヤが俺を見る。
「魔物や呪われた土地から出る悪い気だよ。弱い者が浴びると、熱を出したり、体の中を蝕まれたりする。軽ければ薬で抑えられるが、放っておくと厄介だ」
「治せるんですか?」
「治す方法はある。瘴気抜きの薬と、浄化薬が必要だ。ただ……高い」
マーヤは棚から小さな包みを取り出した。
「これが熱下げ。これは今の持ち金でも買えるだろう。でも、瘴気抜きと浄化薬まで揃えるなら、銀貨が十枚はいる」
「十枚……」
クララの手が震えた。
彼女は小さな布袋を取り出し、中の銅貨を数え始める。母親が持たせてくれた金だろう。
俺も村長からもらった布袋を開けた。
門で銀貨を一枚使った。
残っている銀貨を数える。
足りない。
全然、足りない。
「すみません……私、足りると思っていました」
クララが小さく呟いた。
「謝ることじゃない」
俺はそう言ったが、クララの顔は晴れなかった。
弟の薬を買うために、村からここまで来た。けれど、本当に必要な薬には手が届かない。
その現実が、彼女の肩に重くのしかかっているのが分かった。
マーヤはため息をついた。
「熱下げだけでも、今夜と明日は楽になるはずだよ。それはすぐに持って帰らせた方がいい」
「でも……」
「根治薬が欲しいなら、金を稼ぐしかないね」
マーヤは俺を見る。
「旅人さん。腕に傷があるね。魔獣とやり合ったのかい?」
「ライアークロウと少し」
「それで生きているなら、まるきり素人でもないってことか」
「ぎりぎりでした」
「正直でよろしい」
マーヤは店の奥から布を出し、熱下げの薬を包んだ。
「金を稼ぎたいなら、冒険者ギルドへ行きな。薬草採取、荷運び、町の雑用。初心者でも受けられる依頼はある。身分証も作れる」
「冒険者ギルド……」
やはり、そこへ行くしかないらしい。
クララが薬包みを握りしめる。
「でも、私は薬を持って村に戻らないと……」
「ちょうど夕方前に、フェル村方面へ戻る薬草商の馬車がある」
マーヤはそう言った。
「あたしから頼んでやるよ。熱下げはその馬車で村へ届ける。手紙も一緒につけな。母親も安心するだろう」
クララの目が揺れた。
「いいんですか?」
「弟を助けたいんだろう。だったら、あんたが今できることをしな。戻るだけが家族のためとは限らないよ」
クララは唇を噛みしめた。
泣きそうだった。
でも、泣かなかった。
「……手紙を書きます」
マーヤは頷き、紙と炭筆を出した。
クララは店の隅で手紙を書き始めた。
俺はその横顔を見た。
村へ戻る予定だった彼女は、今、ここに残る理由を得てしまった。
弟を治すための薬代。
瘴気という新しい不安。
そして、ギルドで金を稼ぐ必要。
巻き込まない方がいい。
そう思っていた。
だが、彼女にとっても、これは自分の問題になっている。
簡単に「帰れ」と言える状況ではなかった。
クララが手紙を書き終え、薬包みと一緒にマーヤへ渡す。
「お願いします」
「任せておきな」
マーヤは薬を丁寧に布で包み、店の奥へ置いた。
そして俺たちを見る。
「冒険者ギルドは中央通りの先だ。大きな剣と盾の看板があるから、すぐ分かる。登録料が少しかかるけど、身分証にもなる」
「登録料……」
「銀貨一枚だね」
また銀貨か。
この世界で何かを始めるには、とにかく金がいる。
俺は小さく息を吐いた。
「行くしかないな」
クララがこちらを見る。
「レンさん。私も行きます」
「クララはここで待っていてもいい」
「いえ。弟の薬代を稼ぐためです。私も、自分にできる依頼があるか聞きたいです。薬草の知識なら、少しは役に立つかもしれません」
その声には、迷いがなかった。
昨日、村で自分の無実を証明された少女は、もう助けられるだけの存在ではなくなろうとしている。
「分かった」
俺は頷いた。
「ただし、危ない依頼は受けない。まずは話を聞くだけだ」
「はい」
クララはしっかり頷いた。
薬師の店を出ると、町のざわめきがまた耳に戻ってきた。
中央通りへ向かう途中、俺は何度も聖女ミコトの名前を耳にした。
「王都の聖女認定式、もうすぐらしいぞ」
「聖女様の加護の証、今のうちに買っておけ」
「病除けならミコト様の名入りが一番だ」
人々は疑っていない。
聖女ミコトという名前を、当たり前のように信じている。
クララの弟の病気が瘴気の影響かもしれないと聞いた時、ふと思った。
聖女は瘴気を祓う存在だという。
なら、美琴はこの国で、病や呪いに苦しむ人間からも信仰を集めているのだろう。
人の弱さに寄り添う顔をして。
人の苦しみを利用しながら。
胸の奥に、冷たい怒りが沈んだ。
やがて、中央通りの先に大きな建物が見えてきた。
木と石で作られた二階建ての建物。入口の上には、剣と盾が交差した看板が掲げられている。
扉の前には、武器を持った男たちが数人立っていた。笑っている者もいれば、こちらを値踏みするように見る者もいる。
クララが少し緊張したように鞄を握りしめた。
「あそこが、冒険者ギルドです」
俺は建物を見上げた。
薬を買うにも、王都へ向かうにも、金と身分がいる。
この世界で生きるために、避けては通れない場所。
俺は冒険者ギルドの扉の前で、ゆっくりと息を吐いた。
真実を証明する力だけで、どこまでやれるのか。
それを試す時が来た。




