第10話 湿地の報告
ラトルの北門が見えた頃には、空は少し赤く染まり始めていた。
湿地を出てから、俺たちはほとんど休まずに歩き続けた。靴には泥がこびりつき、ズボンの裾も濡れている。借りた短剣は布で拭ったが、まだ泥の匂いが残っていた。
隣を歩くクララは、採取袋を大事そうに抱えている。
中に入っているのは、一束分の白銀草。
瘴気抜き薬の材料になる薬草だ。
初めての依頼としては、成果があったと言っていいのかもしれない。だが、湿地で見たものを思い出すと、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
瘴気を含んだ泥。
湿地に現れたマッドリーチ。
本来なら奥にいるはずの小型魔獣が、入口に近い浅い場所まで出てきていた。
ただの偶然なのか。
それとも、何か理由があるのか。
「おい、湿地帰りか?」
北門の門番が、俺たちの姿を見て眉を上げた。
「ずいぶん泥だらけだな」
「採取依頼です」
俺は短く答えた。
「少し、問題もありました」
「問題?」
「ギルドに報告します」
門番は俺のギルド証を確認すると、それ以上は聞かなかった。
「日が落ちる前に戻れてよかったな。夜の湿地は危ない」
「ええ」
俺は頷き、クララと一緒に町の中へ入った。
夕方のラトルは、昼間よりもさらに騒がしかった。
仕事を終えた人々が通りを行き交い、露店からは食べ物の匂いが漂ってくる。荷馬車が通りを抜け、子どもたちがその隙間を走っていく。
けれど、俺たちは寄り道をしなかった。
白銀草を提出すること。
湿地の異変を報告すること。
それが先だ。
冒険者ギルドの扉を開けると、中は昼間よりもずっと賑わっていた。
依頼を終えた冒険者たちが報酬を受け取り、酒場側の席では大きな笑い声が上がっている。掲示板の前には、明日の依頼を探している者たちが集まっていた。
俺とクララが中に入ると、何人かがこちらを見た。
泥だらけの新人と、採取袋を抱えた少女。
目立たないわけがない。
「おいおい」
聞き覚えのある声がした。
見ると、昼間に俺をからかった大柄な冒険者が、酒杯を片手に笑っていた。
「証明者様が泥遊びして帰ってきたぞ」
周囲の数人が小さく笑う。
クララがむっとした顔をした。
だが、今度は何も言わなかった。
俺も足を止めない。
声の大きさと正しさは違う。
今するべきことは、言い返すことじゃない。
報告することだ。
受付カウンターに向かうと、ミレイユがすぐにこちらへ気づいた。
「お帰りなさい、レンさん、クララさん」
いつもの落ち着いた声だったが、俺たちの姿を見ると、目が少し細くなった。
「……何かありましたね」
「はい」
俺は採取袋をカウンターの上に置いた。
「白銀草は一束分あります。ただ、湿地で小型魔獣に遭遇しました。それと、瘴気を含んだ泥を確認しました」
ミレイユの表情が変わった。
「順番に聞きます。まずは採取品の確認から」
彼女は白銀草を丁寧に取り出し、根元や葉の裏を確認していく。クララは緊張した顔でそれを見ていた。
「根が傷んでいませんね。灰白草の混入もなし。状態は良好です」
ミレイユはクララを見た。
「クララさんが見分けを?」
「はい。レンさんにも手伝ってもらいましたけど、白銀草かどうかは私が確認しました」
「正確です。採取補助としては十分な働きですね」
クララの表情が、少しだけ明るくなった。
「あ、ありがとうございます」
助けられるだけではない。
自分にもできることがある。
その言葉は、今のクララにとって大きかったのだと思う。
ミレイユは白銀草を布の上に並べ、記録用の紙に何かを書き込んだ。
「基本報酬は銅貨十五枚。状態良好の追加報酬で銅貨五枚。合計、銅貨二十枚です」
銅貨二十枚。
初めて自分で得た報酬だった。
けれど、クララの弟を根本的に治す薬には、まだ遠い。
それでも、一歩は一歩だ。
「ありがとうございます」
俺が報酬を受け取ると、ミレイユはすぐに表情を引き締めた。
「では、次です。小型魔獣と瘴気泥について、詳しく教えてください」
「湿地の入口近くで、マッドリーチに遭遇しました」
「入口近くで?」
ミレイユの声がわずかに低くなる。
「はい。複数いました」
「マッドリーチは本来、湿地の奥や、瘴気の濃い泥場に出る魔獣です。入口近くに複数出たとなると、少しおかしいですね」
クララが頷いた。
「私もそう聞いたことがあります。浅い場所に出ることもあるけど、普通は一匹くらいだって」
ミレイユは俺を見る。
「どのあたりで遭遇しましたか?」
「白銀草の群生地の近くです。湿地の奥ではありません。ギルドで言われた通り、奥には入っていません」
「状況は?」
俺は頭の中で、湿地の光景を思い出した。
泡。
黒い泥。
マッドリーチの潜伏位置。
クララの足元から飛び出した最初の一匹。
そして、瘴気を含んだ泥の周囲に集まっていた影。
「偶然一匹が出たなら、運が悪かったで済むかもしれません」
俺はゆっくり言った。
「でも、泥に黒い滲みがありました。鑑定では、瘴気を含んだ泥と出ました。その周囲に、マッドリーチが複数潜んでいました」
ミレイユは黙って聞いている。
「攻撃前には、水面に小さな泡が出ていました。泥の揺れも不自然でした。白銀草の群生地に近い場所で、そういう反応がいくつかありました」
「かなり細かく見ていますね」
「そうしないと危なかったので」
俺は正直に答えた。
「倒したのは一匹だけです。もう一匹には傷を負わせましたが、討伐は確認していません。残りは泥の中へ戻りました」
「撤退判断は正しいです」
ミレイユは記録を書きながら言った。
「銅級見習いが、湿地でマッドリーチ複数を相手にする必要はありません」
その言葉に、少しだけ力が抜けた。
逃げたことは間違いではなかった。
勝てなかったわけじゃない。
必要のない戦いを避けた。
そう言ってもらえた気がした。
「瘴気泥の位置は覚えていますか?」
「大まかには。北門から湿地へ入って、入口近くの細道を進んだ先です。白銀草の小さな群生地のすぐ近くでした」
俺は指で簡単な位置を示した。
「白銀草が生えている場所そのものではなく、その少し奥。泥が黒く滲んでいました。そこに魔獣が集まっていました」
ミレイユはしばらく考え込んだ。
「採取依頼で、そこまで周囲を記録して戻る新人は多くありません」
「偶然です」
「偶然でも、持ち帰った情報には価値があります」
ミレイユは棚から別の記録用紙を取り出した。
「これは正式な危険情報として記録します。湿地の入口付近における瘴気泥とマッドリーチの出現報告。少額ですが、危険情報報告料を追加します」
「報告にも報酬が出るんですか?」
「冒険者が情報を持ち帰ることで、次の被害を防げます。ギルドでは、それも仕事です」
ミレイユは銅貨を十枚、追加でカウンターに置いた。
「白銀草の報酬と合わせて、銅貨三十枚です」
クララが驚いたように目を見開いた。
「三十枚……」
まだ、薬代には届かない。
けれど、確かに近づいた。
「ありがとうございます」
俺は報酬を受け取った。
その時だった。
「瘴気の件なら、神殿に任せればよい」
横から声がした。
振り向くと、白い法衣を着た男が立っていた。
年は三十代くらいだろうか。胸元には神殿の聖印があり、首からは聖女の加護の証に似た小さな木片を下げている。
男は俺たちではなく、ミレイユの方を見ていた。
「冒険者が不用意に騒ぎ立てれば、民に余計な不安を与えるだけだ」
ミレイユの表情が、わずかに硬くなった。
「神殿の方でしたか」
「ラトル神殿の使いで来ている者だ」
男はそう名乗ったが、名前までは言わなかった。
「最近、瘴気の噂が増えている。だが、聖女ミコト様の加護が広まれば、いずれ民は守られる。未熟な冒険者が騒ぐ必要はない」
聖女ミコト。
その名前が出た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
まただ。
調べる前から、答えが決まっている。
聖女がいれば大丈夫。
神殿がそう言えば大丈夫。
だから疑うな。
だから騒ぐな。
「湿地に瘴気泥がありました」
俺は静かに言った。
法衣の男が初めて俺を見る。
「君は?」
「レン・クゼ。今日登録した冒険者です」
「新人か」
男の声に、はっきりとした軽視が混ざった。
「新人の報告一つで、神殿の判断に口を挟むつもりか?」
「口を挟むつもりはありません。ただ、見たものを報告しているだけです」
「瘴気は神殿が浄化する。聖女ミコト様が王都で正式に認められれば、このような不安もすぐに収まる」
「調べる前から、そう決めるんですか」
言った瞬間、周囲の空気が少し変わった。
クララが不安そうに俺を見る。
ミレイユも、こちらに視線を向けた。
法衣の男の目が細くなる。
「何が言いたい」
「瘴気があるなら、まず発生源を調べるべきです。どこから出ているのか。なぜ湿地の入口近くまで広がっているのか。白銀草の群生地に影響があるのか。それを確認しないまま、聖女に任せればいいとは言えません」
「聖女様を疑うのか」
その言葉は、何度も聞いた形だった。
村長にも言われた。
町でも感じた。
聖女を疑うのか。
まるで、それ自体が罪であるかのように。
俺は法衣の男を見た。
「疑っているんじゃない」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
「証拠なしに信じないだけです」
法衣の男の顔が険しくなった。
「同じことだ」
「違います」
俺は言った。
「信じるためにも、疑うためにも、証拠が必要です。誰かの名前だけで判断すれば、間違った時に誰かが傷つく」
クララが小さく息を呑んだ。
彼女は知っている。
証拠もなく疑われる痛みを。
俺も知っている。
証拠を見てもらえない苦しみを。
法衣の男は何かを言い返そうとした。
だが、その前にミレイユが口を開いた。
「ここは冒険者ギルドです」
声は穏やかだった。
だが、はっきりとした線を引く響きがあった。
「提出された報告の扱いは、ギルドが判断します。神殿への共有が必要と判断した場合は、正式な手続きを通します」
「……冒険者ギルドは、神殿の忠告を軽んじるのか」
「いいえ。ですが、冒険者の報告を軽んじることもありません」
ミレイユは真っ直ぐに男を見る。
「湿地で実際に危険に遭遇したのは彼らです。報告を記録するのは、ギルドとして当然です」
法衣の男はしばらく黙っていた。
やがて、小さく鼻を鳴らす。
「余計な混乱を広めぬことだ」
それだけ言い残し、男はギルドを出ていった。
扉が閉まる音が、妙に大きく聞こえた。
周囲の冒険者たちは、しばらくこちらを見ていたが、やがてまたそれぞれの話に戻っていく。
クララが小さな声で言った。
「レンさん……大丈夫ですか?」
「ああ」
本当は、大丈夫とは言い切れない。
神殿関係者に目をつけられたかもしれない。
だが、黙っていればよかったとも思わなかった。
ミレイユは少しだけ息を吐いた。
「レンさん。聖女様や神殿に関わる発言は、慎重にした方がいいです」
「分かっています」
「分かっていて言いましたね」
「はい」
ミレイユは困ったように、けれど少しだけ興味深そうに俺を見た。
「あなたは、決めつけを嫌うのですね」
「嫌いです」
俺は即答した。
「嫌というほど、知っていますから」
ミレイユはその言葉に何かを感じたようだったが、詳しくは聞かなかった。
代わりに、記録用紙を一枚まとめる。
「湿地の件ですが、明日、再調査を行います」
「再調査?」
「はい。入口近くの瘴気泥と、マッドリーチの出現位置を確認する必要があります。ただし、あなたたちだけで行かせるわけにはいきません」
当然だ。
俺はまだ銅級見習いで、クララは冒険者ですらない。
「ベテラン冒険者を一名同行させます。レンさんには記録と違和感の確認。クララさんには薬草と瘴気草の確認をお願いします。戦闘は同行者が担当します」
「俺たちが、調査補助を?」
「あなたの職業は、戦闘より調査に向いているかもしれません」
ミレイユは俺のギルド証へ視線を落とした。
「《証明者》。珍しい職業です。今日の報告を見る限り、使い方次第ではギルドにとって有用です」
調査補助。
報酬も出るだろう。
湿地の異変も気になる。
瘴気と聖女ミコトの名前が、どうしても頭の中でつながってしまう。
まだ証拠はない。
ただの疑いにもなっていない。
けれど、違和感はある。
「報酬は?」
俺が聞くと、ミレイユは少しだけ頷いた。
「調査補助として、基本報酬は銀貨一枚。危険度によって追加があります」
銀貨一枚。
クララの弟の薬代にはまだ届かないが、大きな一歩だ。
クララが俺を見る。
「レンさん……」
「クララは無理に来なくていい」
「行きます」
彼女はすぐに答えた。
「白銀草の近くに瘴気泥があったなら、他の薬草にも影響が出ているかもしれません。私にも、確認できることがあると思います」
「危険だぞ」
「分かっています。でも、弟の病気にも関係があるかもしれないんですよね」
クララの声は震えていた。
怖くないわけではない。
それでも、引くつもりはないらしい。
俺はしばらく彼女を見た。
昨日まで、罪を着せられて泣いていた少女。
けれど今は、自分で進もうとしている。
「分かった。ただし、無理はしない。危険なら撤退する」
「はい」
俺はミレイユに向き直った。
「受けます」
「分かりました。正式な依頼書は明日の朝に用意します。集合は北門前。夜明け後、二刻以内です」
「同行する冒険者は?」
「こちらで手配します。湿地に慣れた方を選びます」
ミレイユは記録を閉じた。
「今日はもう休んでください。初依頼のあとに神殿関係者とやり合う新人は、そう多くありません」
「やり合ったつもりはありません」
「向こうはそう受け取ったかもしれません」
それは否定できなかった。
俺は小さく息を吐いた。
ギルドを出る前に、クララは薬師マーヤの店へ寄りたいと言った。
俺たちが店へ向かうと、マーヤはちょうど荷物をまとめているところだった。
「戻ったかい。泥だらけだね」
「湿地で少し……」
クララが苦笑する。
「薬は?」
「ああ、心配しなくていい。熱下げ薬は、フェル村へ戻る薬草商の馬車に預けたよ。あんたの手紙も一緒にね。今頃、村へ向かっているはずだ」
クララは胸を押さえた。
「よかった……」
その顔に、初めて少しだけ安心が戻った。
弟の熱を下げる薬は、村へ向かっている。
根治薬にはまだ届かない。
けれど、何もできていないわけではない。
俺たちは確かに、一歩ずつ進んでいる。
その夜、安い宿へ向かう道すがら、俺は空を見上げた。
ラトルの町の上に、知らない星が浮かんでいる。
白銀草を採った。
報酬も得た。
クララの弟へ、熱下げ薬も送れた。
けれど、見つけたのは薬草だけではなかった。
湿地に広がる瘴気。
浅い場所に現れた魔獣。
神殿関係者の反応。
そして、瘴気を祓う聖女ミコトの名。
まだ証拠は足りない。
疑うにも、断じるにも、何もかも足りない。
だが、違和感はある。
なら、次にやることは決まっている。
調べる。
証拠を集める。
そして、確かめる。
この瘴気が、ただの自然現象なのか。
それとも、誰かが作った嘘の始まりなのかを。
【作者より】
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