第50話 最後の面会
監査保護室は、神殿の奥ではなく、ギルド管理の建物に用意されていた。
小さな部屋だった。
余計な装飾はない。
白い幕も、香炉も、祈りの花もない。
机が一つ。
椅子が二つ。
壁際には、記録水晶が置かれている。
その隣に、エルハルト監査官が立っていた。
二人きりではない。
記録も残る。
それが、俺が面会を受ける条件だった。
扉の前で、俺は一度だけ息を吐いた。
胸の奥に、重いものがある。
怒りではない。
恐怖でもない。
ただ、あの日の駅へ戻る道が、まだ自分の中に残っているような感覚だった。
俺は扉を開けた。
部屋の中に、ミコトがいた。
いや。
白羽美琴がいた。
白い聖女服ではない。
簡素な薄灰色の服。
髪にも花飾りはない。
首元にも、聖女の証はない。
その姿は、驚くほど普通だった。
人々に祈られる聖女ではなく。
白い光に包まれた象徴でもなく。
ただ、疲れ切った一人の女が、椅子に座っていた。
美琴は、俺を見るとゆっくり立ち上がった。
「……来てくれたのですね」
弱い声だった。
けれど俺は、その弱さに反応しなかった。
その声で、何人もの人間が動かされてきたことを、俺はもう知っている。
俺は向かいの椅子に座った。
「一度だけだ」
美琴は小さく頷いた。
「はい」
エルハルトが記録水晶を起動する。
「本面会は、監査記録として保存します。発言はすべて記録対象です」
「承知しています」
美琴はそう言って、両手を膝の上で重ねた。
祈るような形だった。
だが、すぐに自分で気づいたのか、その手をほどいた。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、美琴だった。
「あの時のことを、謝りたいのです」
俺は黙って聞いた。
「私は、あなたを傷つけました」
美琴の声は震えていた。
「あなたの人生を壊しました」
それから、深く頭を下げる。
「本当に……ごめんなさい」
静かな謝罪だった。
刃は鳴らない。
嘘ではない。
少なくとも今この瞬間、美琴は本当に謝っている。
だが、それで何かが戻るわけではなかった。
仕事は戻らない。
家族との距離も戻らない。
友人も、信用も、現世で失った時間も戻らない。
俺はしばらく黙っていた。
そして言った。
「謝罪は記録された」
美琴が顔を上げる。
「だが、それで俺が許すかどうかは別だ」
「……はい」
美琴は目を伏せた。
以前なら、ここで涙を見せたかもしれない。
誰かが庇いたくなるような、弱い顔をしたかもしれない。
だが、今の彼女は涙をこらえていた。
それが本当に反省なのか。
それとも、泣けばまた《庇護誘導反応》が出ると分かっているからなのか。
俺には分からない。
でも、分からないことは分からないままでいい。
俺は、もう勝手に誰かを白くも黒くもしない。
「私は」
美琴が口を開いた。
「これから、どう生きればいいのでしょうか」
俺は何も言わなかった。
美琴は続けた。
「聖女でなくなった私は……何になればいいのでしょう」
その声は、迷子のようだった。
「人々に祈られない私に、何が残っているのか分からないのです」
俺は彼女を見た。
白羽美琴。
かつて俺を壊した女。
この世界で聖女として祈られ続けた女。
そして今、自分を飾っていた白いものを失った女。
「人間として生きろ」
俺は言った。
美琴が顔を上げる。
「誰かに祈られる存在じゃなく」
「誰かに罪を背負わせる存在でもなく」
「ただ、自分の罪を背負う人間として生きろ」
美琴の唇が震えた。
「私に……できるでしょうか」
「知らない」
俺は即答した。
美琴の目が揺れる。
「俺は、お前の人生まで証明できない」
「……」
「これからお前がどう生きるかは、お前が証明しろ」
美琴は、膝の上の手を強く握った。
「でも……私は一人で背負えるでしょうか」
その瞬間、記録水晶が黒く光った。
《庇護誘導反応》
発言内容:助けを求める言葉
反応構造:責任分散への誘導を含む
美琴の顔が凍った。
エルハルトも記録水晶を見る。
俺は何も言わなかった。
美琴は、自分の言葉を見つめるように沈黙した。
「……今のも、そうなのですね」
小さな声だった。
「私は、また誰かに背負わせようとした」
美琴は両手を見た。
震えている。
「ずっと、こうしてきたのですね」
俺は答えなかった。
答えは記録されている。
証明されている。
今さら俺が言葉で刺す必要はなかった。
美琴は、しばらくしてから言った。
「あなたは、私を許してくれますか」
その問いに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
許す。
簡単な言葉だ。
だが、許すとは何なのか、俺にはまだ分からない。
忘れることではない。
なかったことにすることでもない。
相手を救うことでもない。
少なくとも、今の俺に、その言葉を軽く扱うことはできなかった。
「許しに来たんじゃない」
俺は言った。
美琴が息を止める。
「お前を救いに来たわけでもない」
「では、どうして……」
「確認しに来た」
「確認……?」
「あの日の駅に、俺がまだ立ち尽くしているのかどうか」
美琴の目が揺れた。
「俺が、まだお前の言葉に縛られているのかどうか」
俺はゆっくり息を吐く。
「それを確認しに来ただけだ」
美琴は何も言えなかった。
俺は続けた。
「白羽美琴。お前がしたことは消えない」
「はい……」
「俺が失ったものも戻らない」
「はい」
「でも、俺はもう、証明できない男じゃない」
その言葉を口にした時、胸の奥で何かが静かにほどけた。
あの日、誰にも届かなかった声。
違う。
俺はやっていない。
その叫びは、長い間、俺の中で腐り続けていた。
けれど今は違う。
真実は記録された。
白い嘘は裁かれた。
俺はまだ傷ついている。
でも、あの日の場所に置き去りにされたままではない。
「ペンダントは……」
美琴が小さく言った。
「あれは、私の聖具でした」
「そうだな」
「でも、もう私のものではないのでしょうね」
俺は少し考えてから答えた。
「あれは、お前の聖具だった」
美琴は黙って聞いている。
「だが、俺の無罪を覚えていた」
「……」
「だから今は、証拠だ」
美琴の目から、一粒だけ涙が落ちた。
記録水晶は反応しなかった。
誰かを動かすための涙ではなく、ただ落ちただけの涙だった。
俺はそれを見ても、何も言わなかった。
「謝りたいなら」
俺は言った。
「俺にだけ謝るな」
美琴が顔を上げる。
「トビーに謝れ」
「リーネに謝れ」
「ミリィに謝れ」
「湿地の民に謝れ」
「記録を消された者に謝れ」
「お前の白さの下で、黒くされた人間全員に謝れ」
美琴の顔が歪む。
「そして、全部を記録に残せ」
「……はい」
「二度と、誰かに罪を背負わせるな」
「はい」
その返事がどこまで続くのかは分からない。
今日だけの反省かもしれない。
明日にはまた、誰かに助けを求めたくなるかもしれない。
それでも、記録は残る。
美琴自身が、自分の癖に気づいた記録が。
そこから逃げるか、向き合うかは、彼女の問題だ。
俺の問題ではない。
面会の終わりを告げるため、エルハルトが一歩前へ出た。
「時間です」
美琴は小さく頷いた。
そして最後に、俺を見た。
「レン」
その呼び方に、胸が少しだけざわついた。
「私は、あなたに許される日は来るのでしょうか」
俺は立ち上がった。
「知らない」
美琴の瞳が揺れる。
「でも、それを俺に求めるな」
俺は扉へ向かう。
「お前がこれからどう生きるかは、お前が証明しろ」
美琴は何も言わなかった。
俺は扉を開けた。
外の廊下には、クララが待っていた。
彼女は俺の顔を見るなり、小さく息を吐いた。
「終わりましたか?」
俺は少し考えた。
終わった。
そう言えるほど単純ではない。
過去は消えない。
傷も残る。
許したわけでもない。
だが、確かに変わったものはある。
「分からない」
俺は答えた。
「でも、あの日の駅には、もういない」
クララは、泣きそうな顔で笑った。
「はい」
それ以上は何も聞かなかった。
その沈黙がありがたかった。
翌朝。
俺たちは湿地へ向かった。
空は薄く晴れていた。
昨日までの曇りが、少しだけ遠ざかっている。
湿地では、作業員たちが新しい浄化杭を打ち込んでいた。
マーヤは白銀草の根元に膝をつき、土を慎重に調べている。
バルトは離れたところで資材を運び、クララは記録板に作業内容を書き込んでいた。
誰か一人の奇跡ではない。
たくさんの人間が、面倒な作業を積み重ねている。
壊れた場所を、壊れたと認めた上で。
少しずつ直そうとしている。
「レンさん」
マーヤが顔を上げた。
「まだ薬効は弱いです」
「そうか」
「でも」
彼女は、白銀草の根元を指した。
そこには、小さな緑があった。
細く、頼りない新芽。
踏めば簡単に折れてしまいそうなほど弱い。
けれど確かに、土の中から伸びていた。
「新芽は出ています」
俺はその小さな芽を見つめた。
壊れたものが、すべて元に戻るわけじゃない。
失った時間も。
信用も。
現世での人生も。
何もなかったことにはならない。
それでも。
嘘で止まっていた場所に、真実が戻れば。
人は、もう一度だけ歩き出せるのかもしれない。
俺は湿地に差す朝の光を見た。
証明のあとに残るもの。
それは、裁きではない。
勝利でもない。
誰かを憎み続けるための理由でもない。
生きていくための、最初の一歩だ。
俺は静かに息を吸った。
まだ痛みはある。
傷も残っている。
だが、足は前へ出せる。
だから俺は歩き出した。
レン・クゼとして。
証明者として。
そして、押しつけられた罪を本来の場所へ返す者として。
嘘は、全部を消せない。
けれど真実もまた、消えない。
そのことを、俺はもう証明した。




