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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第51話 エピローグ 証明者の帰る場所



 それから、何年も経った。


 俺は、現世には戻らなかった。


 戻る方法が完全に失われたわけではない。


 白環のペンダントに残っていた異界接続の痕跡を調べれば、いつか道が見つかるかもしれない。


 そう言われたこともある。


 だが、俺はこの世界に残ることを選んだ。


 現世に未練がないと言えば、嘘になる。


 壊された人生が、なかったことになるわけでもない。


 失った時間も。


 失った信用も。


 あの日から戻らなくなったものも。


 全部、俺の中に残っている。


 それでも、この世界には俺の仕事があった。


 証明を待つ人がいた。


 俺を必要としてくれる場所があった。


 そして。


 帰る家ができた。


「証明官殿。次の裁定記録です」


 裁定院の書記が、分厚い記録束を机の上に置いた。


 どさり、という音がした。


 俺はその厚みを見て、思わず眉を寄せる。


「……まだあるのか」


「はい。今日の確認待ちが四件。明日の審理が二件。来週の予備調査が五件です」


「多すぎる」


「それだけ、証明官殿に見ていただきたい案件が多いということです」


「俺一人で裁定院を回すつもりか」


「まさか」


 書記は真面目な顔で言った。


「半分ほどです」


「冗談に聞こえない」


「冗談ではありませんので」


 俺はため息をついた。


 聖女ミコトの一件が終わってから、俺はしばらくギルド所属の証明者として働いていた。


 冤罪。


 偽造契約。


 証言のすり替え。


 死者に着せられた罪。


 弱い者へ押しつけられた責任。


 最初は小さな依頼だった。


 だが、証明を重ねるうちに、裁定院や法務官からも呼ばれるようになった。


 今の俺は、裁定院付きの特別証明官という立場にいる。


 簡単に言えば、裁判に関わる仕事だ。


 忙しい。


 とにかく忙しい。


 けれど、嫌ではなかった。


 証拠を見る。


 記録を読む。


 証言を照らし合わせる。


 声の大きさではなく、事実に従う。


 それは、かつての俺が一番欲しかったものだった。


「次の件は?」


「商会長殺害未遂事件です。容疑者は使用人の少年ですが、倉庫の鍵記録に矛盾があります」


「証拠は?」


「鍵束、血のついた外套、割れた銀の指輪、倉庫出入り記録、証言者三名です」


「分かった。先に鍵記録と指輪を出してくれ」


「はい」


 書記が部屋を出ていく。


 残された俺は、椅子の背にもたれた。


 窓の外は、夕暮れだった。


 今日も帰りが遅くなる。


 妻にまた見られる。


 責めるわけではない。


 怒鳴るわけでもない。


 ただ静かに、こちらを見る。


 あの視線は、断罪者の称号より効く。


 仕事を終えた頃には、空はすっかり暗くなっていた。


 家へ帰ると、玄関の明かりが灯っていた。


 扉を開ける前から、子どもたちの声が聞こえる。


「父さん!」


 最初に飛び出してきたのは、息子だった。


 まだ小さい。


 だが、足だけは妙に速い。


 勢いよく突っ込んできたので、俺は慌てて受け止めた。


「走るな。転ぶぞ」


「転ばない!」


「昨日転んだだろ」


「あれは床が悪かった!」


「床に罪を着せるな」


 息子はきょとんとして、それから笑った。


 その後ろから、娘が顔を出した。


 息子より少し年上で、落ち着いた目をしている。


 手には小さな焼き菓子を持っていた。


「父さん、また遅い」


「悪かった」


「仕事?」


「ああ」


「また誰かを断罪したの?」


 俺は首を横に振った。


「今日は、まだ証明の途中だ」


「断罪と証明は違うの?」


「違う」


「どう違うの?」


 答えようとしたところで、奥から妻の声がした。


「その話、食事の前に始めると長くなるでしょう?」


 俺は黙った。


 娘は小さく笑った。


「母さん、正解」


 居間に入ると、妻が食卓の準備をしていた。


「おかえりなさい」


「ああ。ただいま」


「今日も遅かったですね」


「記録が多かった」


「それは昨日も聞きました」


「明日も言うかもしれない」


「では、明日も同じ顔で見ます」


 俺は言葉に詰まった。


 娘と息子が笑う。


 裁定院では、俺は証明官と呼ばれる。


 時には、断罪者と呼ばれることもある。


 けれど、この家では違う。


 帰りが遅い父親。


 仕事の話が長い夫。


 子どもに説明を始めると止まらない男。


 それだけだ。


 食事のあと、息子が俺の膝に乗ってきた。


「父さんは、悪い人をやっつける人?」


「違う」


「違うの?」


「俺は、悪い人を探すためにいるわけじゃない」


「じゃあ、何する人?」


「本当のことを探す人だ」


「本当のこと?」


「ああ」


 俺は息子の頭を撫でた。


「誰かが『あいつが悪い』と言っても、それだけでは信じない」


「なんで?」


「間違っているかもしれないからだ」


 娘が焼き菓子をかじりながら言った。


「嘘かもしれないから?」


「そうだ」


「でも、本当に悪い人だったら?」


「その時は証明する」


「逃げたら?」


 娘の目が、少しだけ鋭くなる。


 俺はその目を見るたびに、妙な感覚を覚える。


 この子は、時々、俺よりも静かに人を見る。


 相手の言葉ではなく、その奥を見ようとするような目をする。


「逃げたら、追う」


「隠したら?」


「探す」


「誰かに罪を着せたら?」


 俺は少しだけ黙った。


 娘は、じっと俺を見ている。


「その時は」


 俺はゆっくり答えた。


「押しつけられた罪を、本来の場所へ返す」


 娘は頷いた。


「それが断罪者?」


「そう呼ばれることもある」


「父さんは、断罪者なの?」


 職業は証明者。


 称号は断罪者。


 それは今も変わっていない。


 だが、自分からその名を名乗りたいと思ったことは一度もない。


「俺は証明者だ」


 俺は答えた。


「断罪は、その先にある仕事だ」


 娘は焼き菓子をもう一つ口に入れた。


「ふうん」


「分かったのか?」


「少しだけ」


 妻が横から微笑んだ。


「この子、あなたの仕事の話が好きなんですよ」


「そうなのか?」


 娘は少しだけ顔を赤くした。


「好きじゃない。難しいから聞いてるだけ」


「そうか」


「あと、父さんの話は長いから、途中でお菓子が必要」


「それは理由になるのか」


「糖分がないと、理解力が落ちる」


 妻が笑った。


 俺も、少しだけ笑った。


 こういう時間が、自分に来るとは思っていなかった。


 あの日の俺は、すべてを失ったと思っていた。


 仕事も、信用も、人との繋がりも。


 未来も。


 何もかも壊れたと思っていた。


 実際、壊れたものは戻らなかった。


 現世で失ったものは、今も戻っていない。


 けれど、別の場所で、別のものが生まれた。


 妻。


 娘。


 息子。


 帰る家。


 積み重なっていく仕事。


 誰かに罪を押しつけさせないための記録。


 それらは、壊された過去を消すものではない。


 だが、壊された後にも人生が続くことを、俺に教えてくれた。


 夜。


 子どもたちが眠ったあと、俺は書斎にいた。


 机の上には、明日の裁定記録が置かれている。


 妻が温かい茶を持ってきた。


「まだ仕事ですか?」


「少しだけ」


「その少しだけは、信用できません」


「証明しようか」


「不要です。過去の記録で十分です」


 俺は何も言えなかった。


 妻は机の上の記録に目を落とす。


「忙しいですね」


「忙しい」


「でも、嫌ではなさそう」


「ああ」


 俺は記録束に手を置いた。


「誰かが、証明を待っている」


 妻は静かに頷いた。


「あなたらしいです」


 その時だった。


 窓の外で、小さな音がした。


 乾いたものが、地面を転がるような音。


 俺は立ち上がり、窓を開けた。


 庭の端に、小さな石が落ちていた。


 石には、紙が巻きつけられている。


 妻の表情が変わった。


「また……?」


「ああ」


 俺は庭に出て、その石を拾った。


 紙を開く。


 そこには、乱れた文字で短く書かれていた。


『断罪者の家族も、同じ痛みを知るべきだ』


 妻が息を呑んだ。


 俺は紙を握り潰さなかった。


 破り捨てもしなかった。


 机に戻り、記録用の封筒を取り出す。


「捨てないのですか?」


「証拠だ」


「こんなものまで?」


「ああ。こんなものほど、残しておく」


 妻は何か言おうとして、やめた。


 俺が証明者として働き続ける限り、こういうものはなくならない。


 罪を暴かれた者。


 裁かれた者の家族。


 名誉を失った者。


 財産を失った者。


 彼らの中には、自分の罪ではなく、それを見つけた俺を憎む者がいる。


 俺が罪を作ったわけではない。


 俺はただ、証明しただけだ。


 それでも、人は時に、自分の罪よりも、それを見つけた者を憎む。


 俺はそれを知っている。


「父さん」


 振り向くと、娘が書斎の入り口に立っていた。


 眠ったと思っていた。


 だが、目ははっきり開いている。


「今の、何?」


「大したものじゃない」


 そう答えた瞬間、娘の目が細くなった。


「嘘」


 俺は言葉を失った。


 妻も、少しだけ驚いた顔をした。


 娘はゆっくり書斎に入ってきた。


「大したものじゃない顔じゃなかった」


「……そうか」


「父さんは、悪いことをしたの?」


「していないつもりだ」


「じゃあ、どうして恨まれるの?」


 俺はすぐには答えられなかった。


 子どもに言うには、少し早い言葉がある。


 けれど、言わずに隠せば、この子はたぶん気づく。


 そういう目をしている。


「人は」


 俺は静かに言った。


「自分の罪より、それを見つけた者を憎むことがある」


「変なの」


「ああ」


「悪いことをした人が悪いのに」


「そうだ」


「なのに、父さんが恨まれるの?」


「そういうこともある」


 娘は黙った。


 その顔に浮かんでいたのは、怒りだった。


 子どもらしい単純な怒り。


 けれど、まっすぐな怒りだった。


「おかしい」


「ああ」


「父さんは、本当のことを探してるだけなのに」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 この子は、まだ知らない。


 本当のことを探すという行為が、どれほど人を傷つけることがあるのか。


 真実を暴くことで救われる者がいる。


 だが同時に、暴かれた真実によって壊れる者もいる。


 罪を作った者が悪い。


 それは間違いない。


 だが、罪を見つけた者が憎まれないとは限らない。


 俺は、それを知っている。


 この子には、できれば知らずにいてほしかった。


「もう寝なさい」


 妻が優しく言った。


 娘はまだ納得していない顔をしていたが、小さく頷いた。


「父さん」


「なんだ」


「父さんは、怖くないの?」


 俺は少し考えた。


「怖いこともある」


「でも、やめないの?」


「ああ」


「どうして?」


「俺がやめたら、証明を待っている人が残るからだ」


 娘はその答えを、じっと聞いていた。


 やがて、小さく頷く。


「分かった」


 たぶん、まだ分かってはいない。


 それでいい。


 今はまだ、分からなくていい。


 娘が部屋を出ていく。


 妻も、その後ろ姿を見送っていた。


「似ていますね」


「誰に?」


「あなたに」


 俺は答えなかった。


 答えられなかった。


 誇らしいと思うべきなのかもしれない。


 だが、胸の奥にあったのは、別の感情だった。


 怖さ。


 この子が、俺と同じ場所に立とうとしているのかもしれない。


 そう思った瞬間、誇らしさより先に、怖さが来た。


 この子が正しいことをした時。


 この子を憎む者が、必ず現れる。


 この子が誰かを救った時。


 救われなかった誰かが、この子を恨む。


 この子が嘘を暴けば、嘘で守られていた者が怒る。


 この子が罪を剥がせば、罪を隠していた者が牙をむく。


 俺は、その未来が怖かった。


 いつか俺は、この子から離れなければならないのかもしれない。


 この子を守るために。


 俺のそばに置かないために。


 そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。


「あなた?」


「……何でもない」


「それは嘘ですね」


 妻は静かに言った。


 俺は苦笑した。


「この家には、嘘を見抜く人間が多すぎる」


「いいことです」


「そうか?」


「はい。あなたが一人で抱え込めなくなりますから」


 妻はそう言って、机の端に置かれた封筒を見た。


 脅迫状を入れた封筒。


 俺はそれを証拠箱にしまった。


 それから、明日の裁定記録を開く。


 商会長殺害未遂事件。


 容疑者は使用人の少年。


 証拠品は、鍵束、血のついた外套、割れた銀の指輪。


 俺は記録に目を通した。


 まだ、誰が嘘をついているのかは分からない。


 少年が罪を犯したのかもしれない。


 別の誰かが罪を着せたのかもしれない。


 だから調べる。


 証拠を見る。


 記録を読む。


 声の大きさではなく、事実で判断する。


 それが俺の仕事だ。


 ふと、視界の端に文字が浮かんだ。


職業:《証明者》


称号:《断罪者》


職務記録:継続中


 俺はその文字を見つめた。


 昔なら、その称号の重さに息が詰まったかもしれない。


 今も軽いとは思わない。


 だが、もう一人で背負っているわけではなかった。


 この家がある。


 待っている人がいる。


 俺を証明者でも断罪者でもなく、ただ父さんと呼ぶ子どもたちがいる。


 それだけで、人は少し強くなれる。


 俺は羽根ペンを取った。


 明日の裁定記録の一行目に、静かに文字を書く。


『証明を開始する』


 その時、背後で小さな声がした。


「……父さん」


 振り向く。


 娘が、また書斎の入り口に立っていた。


「寝なさいと言われただろう」


「水を飲みに来ただけ」


「書斎に水はない」


「知ってる」


 娘は悪びれもせずに言った。


 そして、机の端に置かれていた古い指輪を見つめる。


 明日の裁定で使う証拠品。


 割れた銀の指輪。


 ただの古い装飾品に見えるそれを、娘はじっと見つめていた。


「触るな。証拠品だ」


「触らない」


 娘はそう言って、指輪から目を離さなかった。


「どうした?」


「この指輪」


 娘は、少しだけ眉を寄せた。


「泣いてる」


 俺は、息を止めた。


 妻も動きを止めた。


 娘は、自分が何を言ったのか分かっていないようだった。


 ただ、不思議そうに指輪を見ている。


「悲しいの?」


 俺が聞くと、娘は首を横に振った。


「違う」


「違う?」


「悔しい」


 その言葉で、背筋が冷えた。


 俺はゆっくりと指輪を見た。


 割れた銀の指輪。


 明日の裁定で使うだけの証拠品。


 まだ俺でさえ、記録を読み切っていない。


 その指輪に、娘は何かを見ている。


 物に残された声。


 人が隠した感情。


 証言には出てこない、痕跡のようなもの。


 その言葉の意味を、まだ娘自身も知らない。


 けれど、俺には分かった。


 この子は、俺と同じ場所に立とうとしているのかもしれない。


 いや。


 もしかすると、俺とは違う方法で。


 もっと深く、物に残された声を聞くのかもしれない。


 そう思った瞬間、誇らしさより先に、怖さが来た。


 窓の外で、夜風が揺れる。


 俺は、指輪を見つめる娘の横顔を見た。


 幼いはずのその目は、ひどく静かだった。


 嘘を憎む目。


 押しつけられた罪を許さない目。


 そして、まだ自分の力の重さを知らない目。


 俺の物語は、ここで一度区切りを迎える。


 だが、物に残された声を聞く者の物語は。


 まだ、始まってすらいなかった。


第五部 白羽美琴の罪 完

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