第5話 聖女ミコトの噂
日が沈んでも、村にはまだ重い空気が残っていた。
バルドが薬草を駄目にし、その罪をクララに押しつけようとした。その事実は、村人たちの間に気まずい沈黙を落としていた。
広場にはもう人だかりはない。けれど、家々の窓から漏れる明かりの向こうで、誰もが今日の出来事を思い返しているようだった。
謝ったから終わり。
そんな簡単な話ではないのだろう。
俺はそれを知っている。
無罪になっても、人生は戻らなかった。謝罪の言葉があったとしても、壊れた関係がすぐ元に戻るわけではない。
俺は村の端にある空き小屋の前で、包帯代わりの布が巻かれた腕を見下ろした。クララが薬草で手当てしてくれたおかげか、痛みは少し引いている。
それでも、爪で裂かれた傷はまだ熱を持っていた。
「レンさん」
声をかけられて振り返ると、ダンが立っていた。
昨日――いや、つい数時間前に村の入口で俺を止めた門番だ。今は槍を持っていない。少し疲れた顔をしている。
「村長が呼んでいる。今日の件で話があるそうだ」
「今からか?」
「ああ。明日まで待てない話らしい」
「分かった」
俺は頷き、ダンの後について歩いた。
夜の村は静かだった。
昼間には聞こえていた畑仕事の音も、家畜の鳴き声もない。代わりに、家の中から小さな話し声と、かまどの火が爆ぜる音だけが漏れていた。
村長の家は、広場の奥にあった。他の家より少し大きいが、豪華というほどではない。木の扉をくぐると、中には白髪の老人が座っていた。
老人の前には、小さな布袋と、折りたたまれた古い地図が置かれている。
「君がレンか」
「はい」
「今日は、村の者を助けてもらった。礼を言う」
村長は深く頭を下げた。
俺は少しだけ戸惑った。礼を言われることに慣れていない。疑われることには、嫌というほど慣れているのに。
「俺は、証拠を集めただけです」
「それができる者は多くない」
村長は静かに言った。
「村は狭い。誰が貧しいか、誰の家族が病気か、誰が困っているか、皆が知っている。だからこそ、思い込みも強くなる。クララに弟がいる。それだけで、皆は彼女を疑った」
村長の声には後悔が滲んでいた。
だが、完全に責任を背負うほどの強さはないようにも見えた。
村を守る者。
けれど、村の空気には逆らえなかった者。
そんな印象だった。
「バルドはどうなるんですか?」
「薬草管理の役目は解いた。しばらくは倉庫にも近づけさせん」
「それで済むんですか」
思わず、少しきつい声になった。
村長は目を伏せる。
「済むとは思っていない。だが、この村には牢もない。人手も足りない。まずは村の中で裁きを決めるしかない」
納得はできなかった。
けれど、ここは俺のいた国ではない。法律も、仕組みも、価値観も違う。
俺が今すぐ全てを正せるわけではなかった。
村長は布袋を俺の前へ押し出した。
「少ないが、礼だ。銀貨が少しと、干し肉、硬いパン、水袋。それから、このあたりの簡単な地図だ」
「いいんですか?」
「受け取ってくれ。何も持たずに森へ戻るつもりではないだろう」
俺は布袋を手に取った。
ずしりとした重みがある。
金がある。
食料もある。
地図もある。
それだけで、昨日よりはずっとましだった。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、村長は地図を広げた。
古びた羊皮紙のようなものに、村と森、川、道が簡単に描かれている。村の東には、少し大きな町の名前があった。
「交易町ラトル……」
「この村から一番近い町だ。薬師もいる。商人も来る。冒険者ギルドもある」
「冒険者ギルド」
聞き覚えのある単語だった。
小説やゲームなら定番だ。
だが、今の俺には笑えない。
この世界で生きるなら、そういう場所に行く必要があるのかもしれない。
「ラトルへ行けば、仕事も情報もあるだろう」
村長はそう言ってから、少し間を置いた。
「それと、もう一つ頼みがある」
「頼み?」
「クララの弟の薬だ」
俺は顔を上げた。
「弟さんは、まだ悪いんですか?」
「昨夜から熱は少し下がったそうだ。だが、村に残っている薬草だけでは足りない。バルドの管理していた薬草は、一部が使えない状態だった。熱下げに使える薬を、ラトルで買う必要がある」
「誰かが行くんですか?」
「本来なら村の者を出す。だが、今は畑の手も足りない。森にライアークロウが出たこともあって、皆が怖がっている」
村長は申し訳なさそうに言った。
「君がラトルへ向かうなら、薬を買う手伝いを頼めないだろうか」
俺はすぐには答えられなかった。
頼まれる理由は分かる。
俺もラトルには行きたい。情報も必要だ。装備も、金を稼ぐ手段も必要になる。
だが、クララの弟の薬となれば、責任が重い。
俺が黙っていると、扉の外から小さな声がした。
「あの……私も行きます」
振り返ると、クララが立っていた。
昨日より顔色は良くなっているが、目元にはまだ疲れが残っている。彼女の隣には、痩せた女性がいた。おそらく、クララの母親だろう。
「クララ」
村長が眉をひそめる。
「お前は弟のそばに――」
「母さんが見てくれます。それに、弟の薬のことなら、私が行った方が分かります。薬師のお婆さんから、必要な薬草の名前も聞きました」
クララは緊張した顔でそう言った。
母親は心配そうに娘を見ていたが、止めようとはしなかった。
「本当に行くのか?」
俺が聞くと、クララは頷いた。
「ラトルまでなら、何度か行ったことがあります。道も分かります。弟の薬を買ったら、私は村に戻ります」
その言葉に、少し安心した。
正式に旅へ同行するわけではない。
家族を置いて、どこまでもついて来るわけでもない。
あくまで、交易町ラトルまで。
弟の薬を買うための一時的な同行。
それなら、不自然ではなかった。
「危なくないのか?」
「危ないです。でも、弟の薬が必要なんです」
クララは小さく拳を握った。
「今日、レンさんが私を助けてくれました。今度は、私が弟のために動きたいんです」
その目に迷いはなかった。
広場で泣いていた少女とは少し違う。
助けられたままでは終わりたくない。
そんな意思が見えた。
「……分かった」
俺は頷いた。
「ラトルまで一緒に行こう。ただし、危ないと思ったら俺の判断に従ってくれ」
「はい」
「俺も強いわけじゃない。ライアークロウだって、ぎりぎりだった」
「それでも、一人で行くよりずっと心強いです」
クララは少しだけ笑った。
その笑顔は、まだ弱い。
けれど、さっきよりは前を向いていた。
村長は地図の一点を指差した。
「ラトルまでは、歩いて半日ほどだ。森沿いの道を進み、川を渡れば着く。ただし、夕方になる前には町へ入った方がいい。夜道は危ない」
「分かりました」
「それと、ラトルに着いたら薬師を訪ねるといい。南門近くに店を出しているはずだ」
クララが頷く。
「知っています。前に母さんと行きました」
話がまとまりかけた、その時だった。
俺は気になっていた名前を口にした。
「村長。一つ、聞きたいことがあります」
「何だ」
「聖女ミコトという人物を知っていますか?」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
村長だけではない。
クララも、クララの母親も、ダンも、全員が俺を見た。
まるで、当たり前のことを聞かれたような顔だった。
「知っているも何も……」
村長は少し驚いたように言った。
「聖女ミコト様は、王都で正式な聖女に選ばれると言われているお方だ」
胸の奥が冷えた。
やはり、この世界で美琴は聖女として認められようとしている。
人を救う存在として。
誰からも疑われない存在として。
「どんな人なんですか?」
俺は声を抑えて聞いた。
村長は不思議そうに眉を寄せた。
「遠い土地から来たのなら、知らぬのも無理はないか。聖女ミコト様は、病を癒やし、呪いを祓い、魔物の瘴気から人々を救ったと聞く。王都では、聖女認定式の準備が進んでいるそうだ」
「それは、本当に本人が救ったんですか?」
口にした瞬間、部屋が静まり返った。
村長の目が細くなる。
クララも驚いたように俺を見ていた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
俺は自分の声が冷たくなっていることに気づいていた。
でも、止められなかった。
「人を救ったという話がある。でも、それを見た人間はいるんですか。記録は? 証言は? その聖女が言ったから、皆が信じているだけじゃないんですか」
「レンさん……」
クララが小さく声を漏らした。
村長の表情が険しくなる。
「聖女様を疑うのか」
「聖女だから正しい、は証拠になりません」
俺はそう言っていた。
部屋の空気が、さらに重くなる。
言いすぎだ。
分かっている。
けれど、俺は知っている。
信じられる側に立った人間が、どれだけ簡単に誰かを壊せるのかを。
泣きそうな顔。
震えた声。
周囲の同情。
その全部を使って、俺の人生は壊された。
「レン」
村長の声が低くなった。
「この村では、聖女様を悪く言う者はいない」
「悪く言っているつもりはありません」
「同じことだ。疑う言葉は、時に侮辱より重い」
村長はゆっくりと言った。
「聖女様は多くの者に信じられている。疑うような言葉を口にすれば、それだけで敵を作る」
その言葉が、胸に刺さった。
疑うだけで敵を作る。
信じられている者は強い。
あの日の美琴もそうだった。
彼女が怯えた声を出しただけで、周囲は彼女を信じた。俺の言葉など、誰もまともに聞かなかった。
この世界でも同じなのか。
美琴はまた、信じられる側にいる。
俺は拳を握った。
「……分かりました」
そう答えるしかなかった。
だが、まだ引けなかった。
「もう一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「その聖女様が、誰かを罪人だと言ったことはありますか?」
村長が眉をひそめた。
「なぜ、そんなことを聞く」
「気になるからです」
「普通は気にせん」
「俺は気にします」
俺の声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。
「誰かが罪人だと言われた時、本当に調べたのか。証拠はあったのか。本人の言い分は聞いたのか。そういうことを、俺は気にします」
クララが息を呑んだ。
たぶん、今日の自分のことを思い出したのだろう。
薬草の麻袋。
赤土。
曖昧な証言。
そして、誰も自分の言葉を聞いてくれなかった広場。
村長も、それに気づいたようだった。
部屋に沈黙が落ちる。
しばらくして、クララが迷うように口を開いた。
「あの……」
「クララ?」
村長が見ると、クララは少し怯えたように肩を縮めた。それでも、小さな声で続ける。
「聖女様のこと、悪く言うつもりはありません。でも、薬師のお婆さんが言っていました」
「何をだ」
「聖女様が訪れた町では、誰かが罪人として裁かれることがあるって」
部屋が静かになった。
俺はクララを見る。
「どういうことだ?」
「詳しくは知りません。ただ、聖女様が呪いを祓った町で、薬師が毒を盛った罪で追放されたとか。寄付金を盗んだって言われた孤児院の子がいたとか。商人が呪具を隠していたって捕まったとか……」
「証拠は?」
思わず聞いていた。
クララは首を横に振る。
「分かりません。噂です。でも、聖女様が言うなら間違いないって、みんな信じたそうです」
喉の奥が乾いた。
同じだ。
やり方が同じだ。
周囲に信じさせる。誰かを罪人にする。疑う者を黙らせる。
美琴はこの世界でも、誰かに罪を着せているのかもしれない。
「……やっぱり」
小さく漏れた声に、クララが反応した。
「やっぱり?」
俺はすぐに口を閉じた。
言えない。
美琴を知っているとは言えない。
まして、彼女が別の世界で俺を陥れた女だなどと、言えるはずがない。
「いや……ただ、気になっただけだ」
苦しいごまかしだった。
クララは不思議そうに俺を見ていたが、それ以上は聞かなかった。
その気遣いが、少しありがたかった。
胸元のペンダントが、わずかに熱を持った。
俺は服の上からそれに触れる。
次の瞬間、視界に文字が浮かんだ。
《追跡対象情報更新》
対象:聖女ミコト
現在地候補:王都ルセリア
状態:聖女認定式準備中
危険度:高
俺は息を止めた。
王都ルセリア。
そこに美琴がいる。
だが、今すぐ向かうには遠すぎる。金もない。装備もない。この国のことも、道も、町も知らない。
まずはラトルだ。
交易町で情報を集める。薬を買う。必要なら仕事を探す。
そして、王都へ向かう準備をする。
「レンさん?」
クララの声で、俺は我に返った。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
俺はペンダントから手を離した。
「まずはラトルへ行く。クララの弟の薬を買う。それから、王都へ行く方法を探す」
「王都へ……」
クララは少し不安そうに呟いた。
俺は彼女を見る。
「クララはラトルまででいい。薬を買ったら、村に戻るんだ」
「……はい」
クララは頷いた。
少し寂しそうにも見えたが、それでいい。
彼女には家族がいる。
病気の弟がいる。
俺の事情に、簡単に巻き込んでいい相手ではない。
出発は、翌日の昼前に決まった。
夜道は危ない。クララの弟の薬は急ぎたいが、暗い道を無理に進めば、かえって危険が増える。
今夜は村で休み、明日、陽が高くなってから交易町ラトルへ向かうことになった。
話し合いが終わると、クララは母親と一緒に家へ戻っていった。薬草の名前を書いた紙と、薬を買うための銅貨を準備するらしい。
俺は村長の家を出たあと、少しだけ夜風に当たった。
空には見慣れない星が並んでいる。
知らない空。
知らない世界。
それでも、人が誰かを疑い、誰かを信じ、誰かを罪人にする仕組みは、俺のいた世界と変わらないのかもしれない。
翌日、昼前。
村の入口には、クララと母親、そしてダンが立っていた。
クララは小さな鞄を胸の前で抱えている。旅装というにはあまりに軽い。長旅ではなく、近くの町へ薬を買いに行くための荷物だった。
母親はクララの肩に手を置き、何度も気をつけるように言った。
「無理はしないで。薬が買えなかったら、すぐ戻ってきていいから」
「大丈夫。ラトルまでなら道も分かるから」
「レンさん」
クララの母親が俺を見る。
その目には、不安と感謝が混ざっていた。
「娘を、お願いします」
重い言葉だった。
俺は軽々しく頷けなかった。
だから、できるだけ正直に答えた。
「俺にできる範囲で、必ず守ります」
母親は少しだけ安心したように頭を下げた。
ダンが俺に近づく。
「ラトルまでは道なりに行けば迷わない。ただ、森側には近づきすぎるな。またライアークロウがいるかもしれない」
「ああ」
「それと、ラトルに着いたらギルドで身分証を作るといい。余所者が町に入るなら、その方が面倒が少ない」
「助かる」
俺はダンに礼を言った。
クララが隣に並ぶ。
それでいい。
これは一時的な同行だ。
クララの目的は弟の薬。
俺の目的は、美琴へ近づくための情報。
同じ道を、少しだけ一緒に歩くだけ。
村の門を出ると、風が吹いた。
昨日歩いた森とは違い、道は踏み固められている。遠くに川の音が聞こえた。
クララが少し緊張した声で言う。
「ラトルまでは、まず川沿いの道を進みます。途中に古い石橋があって、そこを渡れば町が見えてきます」
「分かった。案内を頼む」
「はい」
クララは頷き、前を向いた。
俺は一度だけ、村を振り返った。
小さな村だった。
昨日、ひとりの少女が盗人にされかけた場所。
そして、俺が初めて誰かの無実を証明した場所。
この村で起きたことは、小さな事件なのかもしれない。
だが、俺には分かった。
美琴がいる限り、同じようなことはきっと起きる。
誰かが罪人にされる。
誰かが泣きながら否定する。
そして、誰も信じない。
それを止めるために、俺は進む。
俺を地獄に落とした女は、この世界で聖女と呼ばれていた。
人を救う者として。
誰からも疑われない者として。
なら、証明してやる。
その光が、どれだけ嘘で汚れているのかを。
俺はペンダントを握りしめ、クララと共に交易町ラトルへ向かって歩き出した。




