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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第38話 使用禁止の記録



 聖女ミコトは、私室の再確認を拒まなかった。


 それどころか、静かに道を譲った。


「必要なことなのでしょう。どうぞ、お確かめください」


 白い衣。


 白い髪飾り。


 白い微笑み。


 その姿は、疑われている者には見えなかった。


 むしろ、疑いを向けられてもなお、すべてを受け入れる聖女に見える。


 だから厄介だ。


 人は、綺麗に差し出された手を疑いにくい。


 俺は知っている。


 白羽美琴も、そうだった。


 疑われたのは俺で、信じられたのはあいつだった。


 何も証明されていないのに。


 ただ、あいつの方が綺麗に泣けたから。


「レンさん」


 クララの声で、意識が戻る。


「大丈夫ですか?」


「ああ」


 俺は短く答えた。


 大丈夫ではない。


 だが、問題はない。


 感情はある。


 けれど、証明には混ぜない。


 聖女の私室前には、エルハルト監査官、バルト、マーヤ、クララ、そして俺が立っていた。


 神殿兵が二名。


 書記が二名。


 すべて記録水晶で残す。


 ミコトはそれを見ても、表情を変えなかった。


「記録も、必要ですね」


「はい」


 エルハルトが硬い声で答える。


「後の混乱を避けるためです」


「ええ。混乱は、少ない方がいいですから」


 その言葉にも刃は鳴らない。


 ミコトは本心でそう思っているのかもしれない。


 混乱は少ない方がいい。


 ただし、その混乱を避けるために、誰が泥を被るのか。


 そこが問題だ。


 私室に入ると、前回と同じ白さがあった。


 整えられた寝台。


 香の薄い匂い。


 小さな祈り机。


 白い花の刺繍が入った布。


 余計なものはない。


 美しい。


 だが、美しすぎる部屋は、時に何より不自然だ。


 マーヤが小声で言った。


「また綺麗すぎるね」


「そうだな」


「人が使ってる部屋って、もっと跡が残るのに」


 マーヤは薬師だ。


 薬草を扱う者は、汚れや残り香に敏感だ。


 俺よりも、この部屋の違和感を肌で分かっている。


 エルハルトがミコトへ向き直った。


「聖女様。禁書棚より持ち出された『浄化香及び香油を用いた穢れ凝集試験記録』について確認します」


「はい」


「あなたは、先ほど拝見したと認められました」


「認めます」


「資料はどこで読まれましたか」


「この部屋です」


 刃は鳴らない。


「誰が運びましたか」


「オルグ神官です」


 鳴らない。


「返却は」


「オルグ神官へ渡しました」


 そこで、刃が微かに鳴った。


 俺は目を細める。


 ミコトは嘘を言った。


 いや、完全な嘘ではないのかもしれない。


 渡した。


 しかし、全部ではない。


 あるいは、返却と言える形ではない。


 エルハルトも反応に気づいた。


「聖女様。今の発言について、正確にお願いします」


「正確に、ですか」


「はい。禁書資料を、そのまま全てオルグ神官へ渡しましたか」


 ミコトは少し沈黙した。


 ほんのわずかな間。


 だが、今までの彼女にはなかった間だ。


「……一部、写しを取りました」


 クララが息を呑む。


 マーヤの眉が上がる。


 バルトの目が鋭くなった。


 エルハルトが重く問う。


「禁書資料の写しを?」


「はい。湿地の異常に対処するため、必要な部分を確認できるように」


「許可は?」


「サーシャに相談しました。正式な手続きが必要とは思いませんでした」


 鳴らない。


 思わなかった。


 その言葉が本心なら、刃は鳴らない。


 だが、無許可で禁書資料の写しを取った事実は残る。


「写しはどこにありますか」


 俺が聞いた。


 ミコトは俺を見た。


 静かな目だった。


「処分しました」


 刃が鳴った。


 今度は、はっきりと。


 室内の空気が変わる。


 ミコトの周囲にいた神殿兵が、動けずに固まった。


 クララが低く呟く。


「今のは……」


「ああ」


 俺はミコトを見据えた。


「処分していない。少なくとも、全部は」


 ミコトは悲しそうに目を伏せた。


「レン・クゼ様。私は隠すつもりで申し上げたのではありません」


「なら、言い直してください」


「写しは、祈りの整理をした際に、不要なものとして清めました」


 刃は鳴らない。


 清めた。


 処分した。


 言い方を変えた。


 だが、それは全部を燃やしたことにはならない。


 俺は部屋を見回した。


「写しを取った場所は?」


「祈り机です」


 ミコトが指した。


 白い布のかかった机。


 小さな香炉。


 祈祷文を書くための筆とインク。


 花印の封蝋。


 すべて整っている。


 マーヤが机に近づこうとすると、ミコトが静かに言った。


「そこは祈りの場所です。どうか、丁寧に」


「証拠の場所でもあります」


 俺が言うと、ミコトは俺を見た。


「あなたにとっては、そうなのでしょうね」


「ええ」


 俺は答えた。


「祈りでも、証拠になるなら調べます」


 マーヤが机の上を確認する。


 まず香炉。


 浄化香の反応。


 香油の反応。


 それは前にも出ている。


 次に筆。


 インクは新しい。


 筆先は洗われている。


 しかし、筆置きの下に黒い小さな粉が残っていた。


「紙灰」


 マーヤが言った。


「かなり細かい。燃やして、さらに潰してる」


「清めた灰でしょう」


 ミコトが言う。


 刃は鳴らない。


 清めた灰。


 そう呼ぶなら、そうなのだろう。


 だが、灰は灰だ。


 燃えた紙があった。


 それだけは消えない。


 マーヤは祈り机の引き出しを調べた。


 中には白い紙。


 祈祷文の下書き。


 町の人々の名前を書いた祈り札。


 どれも綺麗だ。


 綺麗すぎる。


「下に敷いてある板、外せる?」


 マーヤが言う。


 エルハルトがローヴェンから借りた小さな工具を差し出す。


 引き出しの底板を慎重に外す。


 すると、その隙間から薄い紙片が一枚落ちた。


 焦げてはいない。


 ただ、折り畳まれていた。


 白い紙。


 端に、禁書資料と同じ管理印の一部が写っている。


 写しだ。


 エルハルトが息を呑んだ。


 マーヤが広げようとする。


 紙は薄く、少し湿気を吸っていた。


 破らないように慎重に開く。


 そこには、細かい文字が写されていた。


『泥状穢れを香油により局所誘導』


『浄化香燃焼により表層濁りは短時間で軽減』


『ただし白銀草根部の薬効蓄積に阻害を確認』


『浄化杭反応鈍化』


『再使用禁止』


 室内が静まり返った。


 マーヤが紙面に顔を近づける。


「これ……禁書資料の本文ですね」


「写しだな」


 バルトが言う。


「処分したはずのものが、机の底に残っていた」


 エルハルトがミコトを見る。


「聖女様」


 ミコトは悲しそうな顔をした。


「私も、そこに残っているとは知りませんでした」


 刃は鳴らなかった。


 俺は奥歯を噛む。


 知らなかった。


 それは本当なのか。


 あるいは、残っていたことだけは本当に知らなかったのか。


 ミコトは言葉の置き方がうまい。


 自分が逃げられる場所を、ほんの少しだけ残す。


「写しを取ったのは、あなたですね」


 俺が聞く。


「はい」


 刃は鳴らない。


「この内容を読んだ」


「はい」


「白銀草の根部に薬効阻害が残ることも知った」


「知りました」


「浄化杭反応が鈍ることも知った」


「はい」


「再使用禁止と書かれていることも知った」


「……はい」


 鳴らない。


 ミコトは認める。


 認めた方が傷が浅いと判断したのだ。


 知らなかったでは、もう逃げられない。


 なら、知っていたが使っていない。


 知っていたが止められなかった。


 知っていたが、誰かが悪用した。


 次はそこへ逃げる。


「では、湿地で同じ反応が出た理由は?」


 俺が聞くと、ミコトは静かに答えた。


「私には分かりません」


 刃は鳴らない。


 分からない。


 それは、便利な言葉だ。


「ただ」


 ミコトは続ける。


「私がその記録を求めたことで、誰かが誤った使い方をした可能性はあります」


「誰か、ですか」


「はい」


「サーシャですか。オルグですか。マルドゥクですか。リーネですか。ミリィですか」


 俺が名前を並べると、ミコトの表情がわずかに痛んだ。


「皆、神殿のために働いてくれた人たちです」


「そして今、全員あなたの周りから切り離されている」


 室内の空気が冷える。


 エルハルトが止めようとしたが、何も言わなかった。


 ミコトは俺を見つめる。


「私は、誰も切り捨てたいなどと思っていません」


 刃は鳴らない。


 思っていない。


 おそらく本心だ。


 切り捨てたいわけではない。


 ただ、自分が汚れるくらいなら、周囲が勝手に落ちるのを止めない。


「思っていないことと、起きていることは別です」


 俺は言った。


 ミコトは微笑まなかった。


 ただ、静かに目を伏せた。


「そうですね」


 その姿は、反省しているように見えた。


 だからこそ、危うい。


 責められても、なお柔らかく受け止める聖女。


 その形を崩さない限り、あいつはまた白い場所に戻る。


 マーヤが写しをさらに調べていた。


「裏にも何かある」


 紙を裏返す。


 そこには、本文ではない文字があった。


 写しを取った時に、裏側へ書き足されたものらしい。


 字は小さい。


 丁寧だが、少し急いでいる。


『表層濁り 消える』


『根部阻害 残る』


『再浄化 可能』


『民衆告知 時期調整』


 クララが小さく声を漏らす。


「これ……」


 前に祈りの間で見つかった紙片と似ている。


『根部阻害、残存』


『再浄化日程』


『民衆告知、聖女判断』


 言葉が繋がる。


 表層は消える。


 根の傷は残る。


 再浄化が可能。


 民衆告知の時期を調整。


 これは、ただ危険を避けるためのメモではない。


 残ることを前提にしている。


 もう一度祈ることを前提にしている。


 救いが一度で終わらないことを、計画として扱っている。


 マーヤの声が震えた。


「これを書いた人、湿地が完全には治らないって分かってた」


 エルハルトがミコトを見た。


「聖女様。この裏書きに心当たりは」


「ありません」


 刃が鳴った。


 鋭く、短く。


 その場にいた全員が分かるほどに。


 ミコトの顔から、ほんの一瞬だけ血の気が引いた。


 俺は逃さない。


「心当たりがある」


「……正確には」


 ミコトは言い直そうとした。


「祈りの中で、似たような懸念を書き留めたことはあります」


「懸念?」


「はい。もし根部に影響が残るなら、再び祈る必要がある。民に不安を与えないため、告知の時期を慎重に考える必要がある。そういう意味です」


 刃は鳴らない。


 言い換えた。


 まただ。


 計画ではなく懸念。


 操作ではなく配慮。


 信仰のためではなく、民の不安を減らすため。


 あまりにも上手い。


 だが、今度は残っている。


 裏書きが。


 言葉の形が。


 紙の上に。


 マーヤが静かに言った。


「この筆跡、前に見つかった紙片と比べられる」


「できるか?」


 俺が聞くと、マーヤは頷いた。


「インクの種類、筆圧、書き癖。完全には無理でも、同じ人が書いた可能性は調べられる」


 エルハルトが書記へ命じる。


「この写しを保全。前回発見した紙片と照合する」


「はい」


 書記が震える手で記録を取る。


 ミコトはその様子を見ていた。


 怒りも、焦りもない。


 ただ、少し悲しそうだった。


 その顔に、また人は騙される。


 そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 俺はこの顔を知っている。


 自分は悪くない。


 ただ、悲しい。


 ただ、怖かった。


 ただ、みんながそうした。


 俺はその顔に、一度殺された。


「レン・クゼ様」


 ミコトが呼んだ。


「あなたは、私が湿地をわざと完全に救わなかったとお考えですか」


 まっすぐな問いだった。


 罠でもある。


 ここで感情で頷けば、俺はただ聖女を憎む男になる。


 俺は答えた。


「考えではありません」


 ミコトは黙って聞いている。


「証明すべき仮説です」


 クララが息を整える音が聞こえた。


 バルトがかすかに笑った。


 エルハルトは険しい顔のまま、目を逸らさない。


 ミコトは、静かに言った。


「では、証明してください」


「そのつもりです」


「もし証明できなければ?」


「できないことは証明しません」


「では、私の潔白は?」


「潔白も、証拠があれば証明できます」


 ミコトの目が、わずかに細くなった。


 初めて、柔らかさの奥に硬いものが見えた。


「あなたは、本当に証明だけを信じているのですね」


「信じるしかなかったので」


 言った瞬間、室内の空気が変わった。


 クララが俺を見る。


 マーヤも。


 バルトも。


 ミコトだけが、静かに俺を見ていた。


 その瞳の奥に、何かが揺れた気がした。


 現世のことを覚えているのか。


 覚えていないふりをしているのか。


 分からない。


 まだ、証明できない。


 ミコトは微笑んだ。


「強い方ですね」


 俺の内側で、刃が鳴った。


 小さく。


 だが、確かに。


 俺は強くない。


 あいつは知っているのか。


 それとも、ただの言葉か。


 俺は動かなかった。


 ここで踏み込むな。


 今は、湿地だ。


 今は、使用禁止の記録だ。


 ミコトの現世の顔に届くには、まだ足りない。


 マーヤが祈り机の下をさらに調べる。


「こっちにも跡がある」


 机の脚の内側。


 白い塗料がわずかに剥がれている。


 その隙間に、黒い粒が挟まっていた。


 試薬を落とすと、黒泥反応が出た。


「黒泥」


 マーヤが言う。


「それと、香油。かなり薄いけど、湿地のものに近い」


「禁書資料をここで読んだ時についたのか」


「資料か、第二箱の中身に触れた何かがここに置かれたか」


 俺はミコトを見た。


「第二箱の中身を、私室で確認しましたか」


「箱そのものは確認していません」


 刃は鳴らない。


「中身の一部は?」


「サーシャが祈りに必要な資料として、泥の状態を報告しました」


「見ましたか」


 ミコトは静かに答えた。


「少量の泥を、祈りの対象として見ました」


 室内に緊張が走る。


 ミコトは続けた。


「穢れを祈りで受け止めるためです。危険なものとして扱う認識はありませんでした」


 刃は鳴らない。


 また逃げ道が残る。


 見た。


 だが、危険とは思っていなかった。


 祈りの対象として見た。


 この言い方なら、自分はまだ白い。


 だが、事実は増えた。


 ミコトは第二箱の中身に近い泥を見ている。


 禁書資料を読んでいる。


 使用禁止を知っている。


 根部阻害を知っている。


 再浄化可能と書いた。


 民衆告知の時期調整と書いた。


 もう、知らなかったとは言えない。


 俺は机の上の写しを見た。


 焦げずに残った紙。


 引き出しの底に挟まっていた、消し残し。


 まただ。


 嘘は全部を消せない。


「聖女様」


 エルハルトが重々しく言った。


「この写し、裏書き、机の黒泥反応を監査証拠として保全します」


「はい」


「また、禁書資料の無許可写し、写しの一部清め、第二箱関連物の私室持ち込みについて、後ほど正式に事情を伺います」


「分かりました」


 ミコトはあくまで静かだった。


「私に答えられることなら、すべて」


 俺はその言葉を聞いた。


 すべて。


 きっと違う。


 あいつが答えるのは、答えても傷にならないことだけだ。


 だから、こちらが答えさせるしかない。


 証拠で。


 物で。


 消し残しで。


 私室の確認が終わる頃、外は夕方になっていた。


 白い部屋に、西日が差し込む。


 その光の中で、ミコトの白い衣が赤く染まる。


 一瞬だけ、血の色に見えた。


「レン・クゼ様」


 部屋を出る直前、ミコトが俺を呼び止めた。


「何ですか」


「あなたは、救いを信じませんか」


 俺は立ち止まる。


「信じたい人は、信じればいい」


「あなたは?」


「俺が信じるのは、証拠です」


 ミコトは悲しそうに笑った。


「それは、とても寂しいことですね」


 また刃が鳴った。


 今度は、俺の中で深く。


 寂しい。


 そう言える側はいい。


 信じてもらえなかった人間に、信じるものを選ぶ余裕などなかった。


 俺は振り返らずに言った。


「寂しくても、嘘よりはましです」


 返事はなかった。


 私室を出る。


 廊下の空気は冷たかった。


 クララが隣に並ぶ。


「レンさん」


「何だ」


「だいぶ近づきましたね」


「ああ」


 近づいた。


 だが、まだだ。


 ミコトはまだ落ちていない。


 今のままなら、あいつはこう言える。


 禁書資料は危険を避けるために読んだ。


 写しは不適切だったが、悪意はなかった。


 裏書きは民の不安を減らすための懸念だった。


 泥は祈りの対象として見ただけ。


 第二箱の運用はサーシャたちがした。


 自分は命じていない。


 まだ、そこに逃げる。


「次は筆跡だ」


 俺は言った。


「裏書きがミコト本人のものか。前に出た紙片と一致するか。さらに、本人の正式な筆跡資料が必要になる」


 エルハルトが頷く。


「聖女様の公式祈祷文、署名済み告知文、私的な祈りの記録。監査対象として提出を求めます」


「私的な祈りの記録は拒まれるかもしれない」


「拒まれれば、拒んだ事実も残ります」


 バルトが低く笑った。


「やっと、聖女様も記録から逃げにくくなってきたな」


 マーヤが写しを入れた保全袋を抱える。


「この紙、絶対に守らないと」


「ああ」


 俺は頷いた。


 使用禁止の記録。


 その写し。


 その裏に残された、再浄化の文字。


 それは、ただの紙ではない。


 ミコトの白い物語に入った、黒い裂け目だ。


 白い衣は、まだ破れていない。


 だが、糸は見えた。


 あとは、引く。


 一本ずつ。


 丁寧に。


 証拠で。


 嘘は、全部を消せない。


 使用禁止と書かれた記録は、燃やされてもなお残った。


 そして今、その警告は、聖女ミコトの手元まで繋がった。


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