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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第36話 確認者の名



 記録神官オルグの聴取は、ギルドの会議室で行われることになった。


 本来なら、神殿内で行うべき案件だ。


 相手は神殿の記録を管理する神官。


 聖女関連の資料にも触れる立場にある。


 神殿側の人間を、ギルドの会議室へ呼び出す。


 それ自体が、かなり異例だった。


 だが、もう神殿内だけで済ませられる段階ではなかった。


 マルドゥク。


 サーシャ。


 リーネ。


 ミリィ。


 第二箱。


 白い花の印。


 旧花印管理帳の燃え残り。


 そして、ミリィが握りしめていた紙片。


 ――第二箱。


 ――花印使用。


 ――確認者 聖女ミコト。


 この一文が出た以上、神殿の記録そのものを信じることはできない。


 だから、記録神官を神殿内で聴取するわけにはいかなかった。


 記録する者が、記録を整える側にいる。


 それはあまりにも危険だった。


 会議室の中央には、記録水晶が二つ置かれている。


 神殿監査用。


 ギルド保管用。


 どちらも同時に起動する。


 机の上には、今回の証拠品が並べられていた。


 清め場の灰から出た燃え残り。


 ミリィが握っていた旧帳の断片。


 聖女の私室から出た紙片。


 白銀草資料の消された余白。


 白い花の封蝋。


 リーネとミリィの暫定証言記録。


 これらは、どれも小さい。


 紙切れでしかない。


 灰で汚れた欠片でしかない。


 だが、嘘を追い詰める時、大きな証拠だけが武器になるわけではない。


 小さな消し残しが、最後の逃げ道を塞ぐこともある。


 俺は机の上の紙片を見つめていた。


 確認者 聖女ミコト。


 その文字は、サーシャの筆跡だとミリィは言った。


 つまり、ミコト本人の直筆ではない。


 だから、まだ足りない。


 だが、それでも重い。


 サーシャが、第二箱の花印使用について、確認者として聖女ミコトの名を書き残していた。


 サーシャは聖女を守るために罪を背負った女だ。


 そのサーシャが、なぜ旧帳にミコトの名を残したのか。


 そこに意味がある。


「来たぞ」


 バルトが扉の外を見て言った。


 廊下から足音が近づいてくる。


 神殿兵が一人。


 その後ろに、灰色の法衣を着た男。


 痩せた体。


 細い目。


 年齢は四十代くらいだろうか。


 髪はきっちり撫でつけられ、手には白い手袋。


 その指先には、青い刺繍が入っていた。


 ミリィが言っていた、記録神官の手袋。


 その男は、会議室に入ると、深く頭を下げた。


「記録神官オルグです」


 声は落ち着いている。


 だが、目が動きすぎている。


 机の証拠品。


 記録水晶。


 エルハルト監査官。


 バルト。


 俺。


 そして、扉の近くに立つギルド員。


 一つずつ確認するように視線を動かしていた。


 逃げ道を探している目。


 あるいは、どこまで知られているか測る目。


「オルグ神官」


 エルハルトが硬い声で言った。


「本日は、聖女関連記録、花印旧帳、清め場で焼却された記録片、および補助侍女ミリィの件について話を聞きます」


「承知しております」


 オルグは静かに答えた。


「ただ、私は記録を管理する立場です。現場の判断や聖女様のご意向については、詳しく存じません」


 最初から線を引いてきた。


 自分は記録係。


 現場判断は知らない。


 聖女の意思は知らない。


 それが最初の逃げ道らしい。


「詳しく知らないかどうかは、これから確認します」


 俺は言った。


 オルグの目がこちらへ向く。


「あなたが、証明者レン・クゼ殿ですね」


「はい」


「噂は伺っております」


「どんな噂ですか」


 オルグは一瞬だけ言葉を止めた。


「真実を重んじる方だと」


 刃は鳴らない。


 嘘ではない。


 だが、それだけではないだろう。


 聖女を疑う余所者。


 神殿を乱す証明者。


 そういう噂も、きっと出ている。


 だが、オルグはそれを言わない。


 言葉を選ぶ男だ。


 サーシャに少し似ている。


 ただ、サーシャほど強くはない。


 彼女は罪を背負う覚悟を持っていた。


 オルグは違う。


 背負いたくない者の目をしている。


「始めます」


 エルハルトが記録水晶を起動した。


 青い光が会議室を満たす。


「記録神官オルグ。あなたは聖女ミコト様の私室周辺の記録整理を担当していましたか」


「一部を担当しておりました」


「花印管理帳も?」


「補助的に確認したことはあります」


「旧花印管理帳の存在を知っていますか」


「はい」


 刃は鳴らない。


「現在、旧帳はどこにありますか」


「存じません」


 刃が、小さく鳴った。


 会議室の空気が変わる。


 オルグの瞼がわずかに震えた。


 エルハルトが言う。


「虚偽反応あり」


 書記が記録する。


 俺はオルグを見た。


「もう一度聞きます。旧花印管理帳はどこにありますか」


 オルグは唇を湿らせた。


「……正確な所在は、存じません」


 刃は鳴らない。


 言い方を変えた。


 知っているが、正確な所在は知らない。


 サーシャと同じだ。


 嘘から、曖昧な本当へ逃げる。


「では、最後に見た場所は」


 エルハルトが問う。


「聖女様の私室前にある記録棚です」


「いつですか」


「サーシャ様が拘束された翌朝です」


「その後、誰が持ち出しましたか」


「……私は見ておりません」


 刃は鳴らない。


 見ていない。


 だが、知っている可能性はある。


「ミリィが清め場で旧帳の一部を燃やしたことは知っていますか」


 俺が聞くと、オルグは少しだけ目を伏せた。


「後から聞きました」


 刃は鳴らない。


「誰から」


「聖女付きの侍女たちが噂していたのを」


 刃が鳴った。


 今度は強い。


 オルグの顔から少し血の気が引く。


「それは嘘です」


 俺は言った。


「あなたは噂で知ったんじゃない」


 オルグは黙った。


 沈黙。


 嘘ではない。


 だが、答えでもない。


「オルグ神官」


 エルハルトの声が低くなる。


「あなたは、清め場で焼却された灰の件に関与していますね」


「私は、記録の清浄管理について助言をしただけです」


「誰に」


「ミリィに」


 刃は鳴らない。


 認めた。


「何と助言した」


「聖女様の私室周辺に残った不要な下書きや旧記録は、混乱を避けるために清め場へ回すようにと」


 混乱を避けるため。


 また、その言葉だ。


 マルドゥクも使った。


 サーシャも似たような言葉を使った。


 都合の悪いものを消す時、人は必ず綺麗な理由をつける。


「不要な下書きや旧記録」


 俺は繰り返した。


「旧花印管理帳は不要だったのか」


「新しい管理帳へ移行していましたので」


「移行後、元記録を燃やしていいという規則はありますか」


 オルグは黙った。


 エルハルトが答える。


「ありません。花印使用記録は、旧帳も保存対象です」


 オルグの額に汗が浮かんだ。


「私は……聖女様周辺の混乱を抑えるために」


「規則にない焼却を助言した」


 俺が言うと、オルグは口を閉じた。


 刃は鳴らない。


 事実だからだ。


「この紙片を見てください」


 俺は、ミリィが握っていた旧帳の断片を机の中央へ置いた。


 オルグの視線が、その紙片に吸い寄せられる。


 明らかに知っている目だった。


「これは旧花印管理帳の一部ですか」


 俺が問う。


「……そう見えます」


 刃は鳴らない。


「あなたは、このページを見たことがありますか」


「あるかもしれません」


 刃は鳴らない。


 ずるい答えだ。


「この記録を読み上げます」


 エルハルトが紙片を見た。


「第二箱。花印使用。確認者、聖女ミコト。これは、どういう意味ですか」


 オルグはしばらく黙っていた。


 沈黙の中で、彼の目だけが動く。


 エルハルト。


 バルト。


 俺。


 記録水晶。


 扉。


 逃げ道を探している。


 だが、逃げ道は少ない。


「形式上の確認です」


 やがて、オルグは言った。


「形式上?」


「花印を使用する際、聖女様のお名前を確認者として記す場合があります。必ずしも、聖女様ご本人が箱の中身まで確認したという意味ではありません」


 俺は息を吐いた。


 予想通りの逃げ方だ。


 確認者。


 だが、何を確認したかは限定する。


 箱の中身ではない。


 花印の使用形式だけ。


 そう言いたいのだろう。


「では、ミコトは何を確認した」


 俺は尋ねた。


 オルグは眉をわずかに動かす。


「聖女様を呼び捨てにするのは」


「質問に答えてください」


 俺は遮った。


「確認者として聖女ミコトの名がある。彼女は何を確認した」


「花印の使用許可です」


「第二箱に花印を使うことを?」


「はい」


 刃は鳴らない。


 ここは本当。


 ミコトは第二箱に花印を使うことを確認していた。


 中身までは知らないと言い逃れるだろう。


 だが、第二箱の存在と花印使用は知っていた。


「第二箱が湿地浄化に関わる物資だと知っていましたか」


 俺が問うと、オルグは目を伏せた。


「私は、認定式用物資として認識していました」


 刃は鳴らない。


 彼自身の認識はそうだったのかもしれない。


「ミコトは?」


「聖女様の認識までは」


 刃が鳴った。


 オルグの肩が跳ねる。


「今のは嘘です」


 俺は言った。


「あなたは、ミコトが第二箱について何を認識していたか知っている」


 オルグの口元が震えた。


「私は……推測しか」


「推測を聞きます」


 エルハルトが言った。


「監査記録として、あなたの認識を述べなさい」


 オルグは、深く息を吸った。


「聖女様は、第二箱が湿地浄化に使われることを知っておられました」


 会議室が静かになる。


 俺は拳を握った。


「なぜそう分かる」


「聖女様の私室で、サーシャ様が第二箱の花印使用について説明していたからです」


「あなたはその場にいたのか」


「扉の外で記録を控えていました」


「何を聞いた」


 オルグは答えない。


 俺は一歩前に出た。


「何を聞いた」


「……サーシャ様が、『第二箱は湿地側へ回します。見える穢れをまとめ、浄化の効果を示しやすくします』と」


 マーヤの顔が険しくなる。


 見える穢れ。


 また出た。


「ミコトは何と答えた」


 オルグは唇を噛んだ。


「『分かりました』と」


 刃は鳴らない。


 短い。


 だが、重い。


 第二箱。


 湿地側へ回す。


 見える穢れをまとめる。


 浄化の効果を示しやすくする。


 それを聞いて、ミコトは分かりましたと言った。


 直接命令ではない。


 だが、承認だ。


「それが、確認者として記録された理由か」


 俺が聞くと、オルグは小さく頷いた。


「はい」


 刃は鳴らない。


 線が繋がった。


 確認者 聖女ミコト。


 それは、形式だけではない。


 ミコトは第二箱が湿地側へ回され、見える穢れをまとめ、浄化の効果を示しやすくするために使われることを聞いた。


 その上で、分かりましたと言った。


 まだ、黒泥や薬効阻害を知っていた証拠ではない。


 だが、第二箱が単なる認定式用物資ではないことは、知っていた。


「なぜそれを旧帳から削除した」


 エルハルトが問う。


 オルグは汗を拭った。


「サーシャ様から、旧帳を整理するようにと」


「サーシャ様からだけですか」


 オルグは黙った。


 俺の掌が熱を持つ。


「ミコトからは?」


「聖女様は……直接、削除を命じてはおられません」


 刃は鳴らない。


 やはり、直接命令はない。


「では、何と言った」


 オルグの顔が歪んだ。


「……『記録が人を傷つけることもあります』と」


 クララが小さく息を呑む。


「それから?」


「『サーシャをこれ以上苦しめたくありません』と」


 俺は目を細めた。


 サーシャを守る言葉。


 優しい言葉。


 だが、その後に何が起きたか。


 旧帳は燃やされ、ミリィが消された。


「あなたは、その言葉を聞いて、旧帳の削除が必要だと思った」


 俺が問うと、オルグは頷いた。


「はい」


「誰のために」


「聖女様のために」


 刃は鳴らない。


 本心。


「サーシャのためではなく?」


「サーシャ様のためでもあります」


 刃は鳴らない。


「神殿のためでも?」


「はい」


 刃は鳴らない。


「自分のためでも?」


 オルグは言葉に詰まった。


 刃が小さく鳴る。


 答えないことに反応したわけではない。


 彼の中に、否定しようとした嘘が生まれたのだろう。


 オルグは小さく俯いた。


「……はい。自分のためでもありました」


 ようやく、本音が出た。


 記録神官オルグ。


 聖女のため。


 神殿のため。


 サーシャのため。


 だが、結局は自分のためでもあった。


 記録を守る立場の人間が、記録を消した。


 その罪を認めるのが怖かったのだ。


「ミリィに旧帳を燃やさせたのは、あなたですか」


 俺が問うと、オルグは首を横に振った。


「燃やせとは命じていません」


 刃は鳴らない。


「では、何と言った」


「清め場へ回せ、と」


「清め場へ回せば燃やされると分かっていた?」


「……はい」


 刃は鳴らない。


「白い頭巾でミリィを古い洗濯場へ連れて行ったのは、あなたですか」


 オルグの顔が青ざめた。


「違います」


 刃が鳴った。


 強い音だった。


 会議室の全員がオルグを見る。


 彼は椅子の背に手をかけ、震えていた。


「違う……私は……私は、あの子を傷つけるつもりは……!」


「質問に答えろ」


 バルトの声が低く響く。


「白い頭巾でミリィを連れ出したのは、あなたですか」


 オルグは目を閉じた。


「……はい」


 クララが息を呑む。


 エルハルトの顔が険しくなる。


「なぜ」


「ミリィが……燃え残りを隠したと気づいたからです」


「どうして気づいた」


「清め場の灰を確認した時、旧帳の一部が足りないと分かりました。ミリィの様子もおかしかった。だから問いただしました」


「それで薬湯を飲ませた?」


「眠らせるつもりでした」


 刃は鳴らない。


「古い洗濯場に閉じ込めた」


「はい」


「なぜ」


「少し時間を稼ぎたかった」


「何の時間だ」


 オルグは答えなかった。


 俺は言った。


「ミリィが証言する前に、残りの記録を処分する時間か」


 オルグは黙った。


 刃は鳴らない。


 沈黙。


 だが、十分だった。


「ミリィを殺すつもりはありましたか」


 エルハルトが問う。


 オルグは激しく首を振った。


「ありません!」


 刃は鳴らなかった。


 殺すつもりはなかった。


 だが、眠らせて閉じ込めた。


 寒い古い洗濯場に。


 薬が効きすぎれば、命に関わると知りながら。


「危険だと分かっていたか」


 俺が聞くと、オルグは俯いた。


「……はい」


 刃は鳴らない。


 エルハルトが重い声で言う。


「記録隠滅、証言妨害、証人監禁、薬物使用。重い罪です」


 オルグの肩が落ちた。


「私は……ただ、これ以上神殿が壊れるのを避けたかっただけです」


「違う」


 俺は言った。


 オルグがこちらを見る。


「あなたは、神殿が壊れるのを避けたかったんじゃない。神殿の白さが壊れるのを避けたかった」


 オルグは唇を震わせる。


「同じことではありませんか」


「違う」


 俺ははっきり言った。


「神殿を守るなら、記録を残すべきだった。誰が何をしたか、正しく残すべきだった。でもあなたは消した。燃やした。ミリィを黙らせた」


 俺は机の紙片を見る。


「守ったのは神殿じゃない。聖女が白く見える物語だ」


 オルグは何も言えなくなった。


 その顔には、怒りも反論もない。


 ただ、言い当てられた者の沈黙があった。


「聖女ミコトは、第二箱の中身を知っていましたか」


 俺は問う。


 ここが重要だった。


 第二箱が湿地へ回されることを知っていた。


 見える穢れをまとめるために使われることを聞いていた。


 では、黒泥が白銀草を阻害することまで知っていたのか。


 オルグは、しばらく黙った。


「……分かりません」


 刃は鳴らない。


 本当に分からない。


 俺は歯を食いしばる。


 まだ足りない。


「ただ」


 オルグが続けた。


 俺は顔を上げる。


「ただ?」


「聖女様は、資料を読んでおられました」


「白銀草の資料か」


「はい。それと、浄化香の反応記録です」


 マーヤが反応した。


「浄化香の反応記録?」


「古い神殿資料です。湿地の泥、浄化香、香油を混ぜた場合の反応について、過去に記録されたものがありました」


「そんな資料、私室にはなかった」


 マーヤが言うと、オルグは俯いた。


「……別に保管されていました」


「どこに」


「記録庫の禁書棚です」


 禁書棚。


 新しい場所。


 俺はエルハルトを見る。


 彼も驚いた顔をしていた。


「禁書棚に、そんな資料が?」


「古い失敗記録です」


 オルグは言った。


「かつて、浄化香と香油を使って穢れを集めようとした試験がありました。結果、白銀草の薬効が落ち、浄化杭の反応も鈍ったため、使用禁止になっています」


 会議室の空気が一気に重くなる。


 それだ。


 黒泥の正体。


 浄化香由来成分。


 香油反応。


 薬効阻害。


 白銀草と浄化杭への影響。


 それと同じ失敗記録が、神殿の禁書棚にあった。


「その資料を、ミコトは読んだのか」


 俺が聞くと、オルグは頷いた。


「はい」


 刃は鳴らない。


 俺の心臓が強く打つ。


「いつ」


「湿地の緊急浄化の前です」


「誰が渡した」


「私です」


 刃は鳴らない。


「なぜ渡した」


「聖女様が、湿地浄化に関する古い失敗記録を見たいと仰ったからです」


 古い失敗記録を見たい。


 ミコトが自分で求めた。


「その資料には、白銀草の薬効阻害について書かれていたのか」


「はい」


 刃は鳴らない。


「浄化杭が弱ることも?」


「はい」


「浄化香と香油と泥の反応も?」


「はい」


 マーヤが低く呟いた。


「黒泥の設計図じゃない……」


 俺は机に手を置いた。


 ついに出た。


 ミコトは知らなかった、では逃げられない。


 少なくとも、湿地浄化前に、彼女は同じ反応を起こす失敗記録を読んでいる。


 そして、その後に第二箱が湿地へ回された。


 白銀草の根の阻害が残った。


 見える黒泥だけが消えた。


 再浄化日程の紙片が出た。


 線が一気に太くなる。


「その資料は今どこにありますか」


 エルハルトが問う。


 オルグは顔を伏せた。


「記録庫に戻しました」


 刃が鳴った。


 オルグの肩が震える。


「戻していない」


 俺が言うと、オルグは目を閉じた。


「……聖女様の私室へ」


 部屋が静まり返る。


「まだ私室にあるのか」


「分かりません」


 刃は鳴らない。


 本当に分からない。


「聖女様は、後で返すと仰いました。私は、そのまま……」


「返却記録は」


「ありません」


「なぜ」


「私が記録しなかったからです」


 記録神官が、記録しなかった。


 その意味は重い。


「聖女様に頼まれたのか」


 俺が問う。


 オルグは首を横に振った。


「いいえ」


 刃は鳴らない。


「では、なぜ」


「聖女様が、悲しそうな顔をされたからです」


 俺は言葉を失った。


 オルグは震える声で続けた。


「『失敗の記録まで借りるなんて、私は疑われているようですね』と仰って……私は、そんなつもりではないと……だから、返却記録を急かしませんでした」


 命じていない。


 頼んでいない。


 ただ、悲しそうな顔をした。


 それだけで、記録神官は記録をしなかった。


 また同じだ。


 ミコトの周りでは、言葉にならない命令が成立する。


「その失敗記録が、今も私室にあるなら」


 マーヤが言った。


「決定的になるわ。少なくとも、ミコト様が薬効阻害の仕組みを知っていた証拠になる」


「すぐ確認する必要があります」


 エルハルトが立ち上がる。


 だが、俺はオルグを見たままだった。


「最後に聞きます」


 俺は言った。


「あなたは、ミコトが第二箱の中身を知っていたと思いますか」


 オルグは、長い沈黙の後で答えた。


「……思います」


 刃は鳴らない。


 嘘ではない。


「なぜ」


「聖女様は、第二箱を見た後に仰いました」


「何と」


 オルグの声は小さかった。


 だが、会議室にははっきり響いた。


「『これは、失敗ではなく、使い方の問題ですね』と」


 その瞬間。


 俺の中で、刃が静かに震えた。


 失敗ではなく、使い方の問題。


 禁書棚の失敗記録。


 浄化香と香油と泥の反応。


 白銀草の薬効阻害。


 浄化杭の弱体化。


 それを知った上で、ミコトはそう言った。


 これはかなり強い。


 まだ、本人の証明成立には一歩足りないかもしれない。


 だが、もう遠くない。


「記録しました」


 エルハルトの声は硬かった。


「記録神官オルグ。あなたの行為についても、監査対象とします。記録隠滅、証言妨害、薬物使用、証人監禁。拘束します」


 オルグは抵抗しなかった。


 ただ、椅子の上で力なく頷いた。


「……はい」


 神殿兵ではなく、ギルド員が彼の両側に立つ。


 オルグは立ち上がる時、俺を見た。


「レン・クゼ殿」


「何ですか」


「聖女様は……本当に民を救いたいと思っておられるのです」


 刃は鳴らなかった。


 オルグは本気でそう思っている。


 俺は静かに答えた。


「救いたいと思っていることと、傷つけていないことは別です」


 オルグは目を伏せた。


 それ以上、何も言わなかった。


 彼が連れて行かれた後、会議室には沈黙が残った。


 禁書棚の失敗記録。


 聖女ミコトがそれを借りたこと。


 返却記録がないこと。


 第二箱を見て、失敗ではなく使い方の問題だと言ったこと。


 これで、ミコトが知らなかったという逃げ道はかなり狭まった。


 バルトが低く言う。


「いよいよだな」


「はい」


 マーヤも頷いた。


「禁書棚の記録が見つかれば、黒泥の仕組みとミコト様の知識が繋がる」


 エルハルトは顔を引き締めた。


「すぐに聖女様の私室を再確認します。今度は、禁書棚資料の所在確認として正式に」


「ミコトは準備しているかもしれません」


 俺が言うと、エルハルトは頷く。


「だから急ぎます」


 俺は机の上の紙片を見た。


 確認者 聖女ミコト。


 そして、オルグの証言。


 第二箱は湿地へ回す。


 見える穢れをまとめる。


 浄化の効果を示しやすくする。


 失敗ではなく、使い方の問題。


 もう、ただの影ではない。


 白い聖女の足元に、黒い線がはっきり見え始めている。


 それでも油断はできない。


 ミコトはまだ白い場所にいる。


 彼女は言うだろう。


 民を救いたかった。


 失敗記録を学ぼうとしただけ。


 第二箱の危険性までは知らなかった。


 サーシャやオルグが過剰に動いた。


 そう言うだろう。


 だが、逃げ道は狭まっている。


 ひとつずつ、狭まっている。


 命じていない。


 でも、確認した。


 知らなかった。


 でも、資料を読んだ。


 救いたかった。


 でも、傷を残す方法を選んだ。


 俺は右手を握った。


 刃はまだ抜かない。


 次に抜く時は、もっと深く届く。


 ミコト。


 白羽美琴。


 お前は、まだ証明できないと思っているかもしれない。


 でも、記録は残った。


 灰にも。


 旧帳にも。


 証人の声にも。


 記録神官の証言にも。


 嘘は、全部を消せない。


 次は、お前が借りた失敗記録を探す。


 その記録が残っているなら。


 お前の白い場所に、刃が届く。






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