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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第35話 消えたミリィ



 補助侍女ミリィは、神殿の中から消えた。


 聖女ミコトの私室周辺に出入りしていた補助侍女。


 サーシャが拘束された後、一時的に私室周辺の管理を任されていた女。


 清め場へ灰を急がせた女。


 そして、灰の中から見つかった燃え残り。


 ――第二箱、花印記録なし。


 ――旧帳より削除。


 ――聖女様確認済。


 その文字に繋がるかもしれない女。


 彼女が、消えた。


 神殿の門は閉ざされた。


 表門も、裏門も、荷運び用の小門も、一時的に封鎖される。


 神殿兵が走り、神官たちが慌ただしく行き交い、侍女たちは怯えた顔で一か所に集められた。


 神殿の中は、まるで白い器の中に黒い染みが広がっていくようだった。


「ミリィの部屋を確認します」


 エルハルト監査官が言った。


 俺たちは、聖女私室のある区画から少し離れた侍女宿舎へ向かった。


 補助侍女の部屋は、リーネの部屋よりもさらに質素だった。


 小さな寝台。


 机。


 衣装箱。


 壁にかけられた予備の前掛け。


 窓辺には、小さな白い花が一輪だけ飾られている。


 花瓶の水はまだ濁っていなかった。


 つまり、今朝までは普通に世話をしていたのだろう。


「逃げた人間の部屋には見えないな」


 バルトが呟いた。


 俺も同じことを思った。


 衣装箱には外套が残っている。


 替えの靴もある。


 小さな財布も机の引き出しに入ったままだ。


 逃亡の準備はない。


 リーネの時と同じだ。


 逃げたように見える。


 けれど、本当に逃げるつもりだった者の部屋ではない。


「机を見ます」


 エルハルトが書記に記録させてから、引き出しを開けた。


 中には、筆記具と小さな祈り札があった。


 祈り札には、綺麗な字でこう書かれている。


 ――聖女様のおそばに仕えられることを誇りとする。


 クララが小さく息を呑んだ。


「ミリィさんも、聖女様を信じてたんですね」


「たぶんな」


 俺は答えた。


 信じていた。


 だから動いた。


 だから利用された。


 この神殿では、聖女を信じる気持ちが、そのまま誰かを動かす鎖になっている。


 サーシャもそうだった。


 リーネもそうだった。


 ミリィも、きっと。


 マーヤが机の上に置かれた杯を手に取った。


 中には、乾きかけた薄い茶色の跡が残っている。


「薬湯ね」


「ミリィは、聖女様への薬湯を取りに行くと言って消えた」


 エルハルトが言う。


 マーヤは杯の匂いを嗅ぎ、眉をひそめた。


「これは聖女様用じゃないわ」


「どういうことだ」


「鎮静草が入ってる。それも強め。眠れない人に使う量じゃない。飲めば、足元がふらつく」


 部屋の空気が変わった。


 クララが青ざめる。


「ミリィさんが飲んだんですか?」


「分からない。でも、この杯はミリィの部屋にある。誰かがここで飲んだか、飲ませた」


 マーヤはさらに杯の縁を調べた。


「口紅はなし。香油の匂いもない。ただ、指の跡がある。小さい手ね。たぶんミリィ本人」


「自分で飲んだ?」


 バルトが言う。


「もしくは、飲まされた後に自分で持った」


 俺は部屋を見回した。


 逃亡準備なし。


 鎮静草入りの薬湯。


 清め場へ灰を急がせた直後に失踪。


 これは逃亡ではない。


 少なくとも、ただの逃亡ではない。


「ミリィは、どこかへ行こうとしていたんじゃない」


 俺は言った。


「行かされたか、動けない状態にされた」


 エルハルトの顔が険しくなる。


「捜索範囲を広げます。薬湯室、洗濯場、物置、地下通路も確認を」


 神殿兵が走っていく。


 俺は机の祈り札をもう一度見た。


 聖女様のおそばに仕えられることを誇りとする。


 その言葉が、妙に痛かった。


 ミリィは聖女に近づきたかったのだろう。


 役に立ちたかったのだろう。


 サーシャが拘束された後、自分が選ばれたと思ったのかもしれない。


 その結果、清め場へ灰を急がせた。


 そして、消えた。


 聖女のそばにいることは、名誉ではない。


 今の俺には、危険な位置にしか見えなかった。


「レン」


 クララが小さく俺を呼ぶ。


「これ……」


 彼女は寝台の下を指していた。


 そこに、白い布切れが落ちている。


 ただの布ではない。


 白い幕の端と同じ生地だった。


 ミコトの祈りの間で使われていた白い幕。


 交換されたはずの布。


 その端切れのように見えた。


 マーヤが拾い上げ、試薬を垂らす。


 薄い紫。


 黒泥と香油の反応。


「当たりね」


 マーヤの声が低くなる。


「祈りの間の幕と同じ反応」


「なぜ、ミリィの部屋にある」


 バルトが言う。


 答えは一つではない。


 ミリィが幕の交換を手伝った。


 ミリィが処分するはずだった。


 あるいは、誰かがミリィの部屋に置いた。


 いずれにせよ、彼女は白い幕に触れている。


 リーネが声を聞いた、あの幕に。


「ミリィを見つける必要がある」


 俺は言った。


「生きているうちに」


 部屋を出ると、神殿兵が戻ってきた。


「監査官殿。薬湯室には来ていませんでした」


「洗濯場は?」


「確認中です。ただ、薬湯室へ向かう途中の廊下で、ミリィらしき補助侍女を見た者がいます」


「どこへ向かっていた」


「薬湯室ではなく、古い洗濯場の方へ」


 古い洗濯場。


 エルハルトが眉を寄せる。


「今は使われていない場所です。昔は神殿の布や祭具を洗っていましたが、今は新しい洗濯棟へ移っています」


「そこへ向かった?」


「はい。ただ……」


「何です」


「目撃した侍女によると、ミリィは一人ではなかったそうです」


 全員が黙る。


「誰と?」


「白い頭巾の侍女が一人。顔は見えなかったと」


 白い頭巾。


 リーネが旧礼拝所へ連れ出された時も、白い頭巾の女がいた。


 顔を隠せる。


 誰かに見せたい姿だけを見せられる。


「その侍女の所属は?」


「分かりません。聖女付きの者に見えたそうですが」


 また、聖女付き。


 俺たちはすぐに古い洗濯場へ向かった。


 神殿の奥、今はほとんど人が通らない区画。


 白い廊下は次第に古い石造りへ変わり、空気が湿っていく。


 壁には古い水路の跡があり、床には薄く苔が生えていた。


 神殿の表側とはまるで別の場所だった。


 清らかな白い建物の裏側。


 使われなくなった水場。


 見えないものを洗い流すための場所。


「嫌な場所ね」


 マーヤが呟いた。


「ああ」


 バルトが剣に手を置く。


「警戒しろ」


 古い洗濯場の扉は閉まっていた。


 外側から閂がかかっている。


 俺はそれを見た瞬間、胸が冷えた。


 中からは出られない。


 つまり、誰かが外から閉じた。


「開けるぞ」


 バルトが閂を外す。


 重い音が廊下に響いた。


 扉を開けると、湿った冷気が流れ出してきた。


 中は暗い。


 天井近くの小さな窓から、わずかに光が入っている。


 古い洗濯桶。


 干し台。


 壊れた棚。


 床には水が残り、ところどころに黒い灰が浮いていた。


「ミリィ!」


 エルハルトが声を上げる。


 返事はない。


 俺たちは中へ入った。


 床が滑る。


 マーヤがすぐにしゃがみ込む。


「香油の反応がある。薄いけど、足元に撒かれてる」


「またか」


 バルトが低く言う。


 リーネの時と同じ。


 薬効阻害。


 治療を妨げるための調合。


 ただし、今回は刃物の跡は見えない。


「奥を確認する」


 俺が進もうとすると、バルトに肩を掴まれた。


「お前が先に行くな」


「でも」


「でもじゃない」


 バルトは短く言い、前へ出た。


 その後ろを俺たちが続く。


 洗濯場の奥。


 壊れた布棚の陰に、何かが倒れていた。


 人だ。


 白い前掛け。


 濡れた袖。


 小柄な体。


「ミリィ!」


 エルハルトが駆け寄る。


 マーヤがすぐに膝をついた。


「息はある!」


 その言葉に、全員が少しだけ息を吐いた。


 ミリィは床に倒れ、手足を震わせていた。


 顔色は悪い。


 唇は青い。


 胸に大きな傷はない。


 だが、指先が黒く汚れている。


 灰だ。


 そして、右手には何かを握りしめていた。


「無理に開かないで」


 マーヤが言う。


「まず状態を見る」


 彼女はミリィの瞼を確認し、匂いを嗅いだ。


「鎮静草。やっぱり飲んでる。それと、少しだけ香油を吸ってるわね。眠らせて、ここに閉じ込めたんだと思う」


「殺すつもりだったのか」


 俺が聞くと、マーヤは首を横に振った。


「分からない。でも、このまま放置すれば危なかった。体温が下がってる」


 クララが自分の外套をミリィにかけた。


「ミリィさん、聞こえますか?」


 ミリィの瞼が震える。


 うっすらと目が開いた。


 若い女だった。


 リーネより少し年上かもしれない。


 だが、今は子供のように怯えた顔をしている。


「……いや……」


 かすれた声。


「燃やしました……燃やしましたから……もう……」


 俺たちは顔を見合わせた。


 ミリィは夢の中でまだ何かに怯えている。


 灰を燃やしたこと。


 それを誰かに責められているのか。


 あるいは、燃やしたから許してほしいと思っているのか。


「ミリィ」


 俺はゆっくり呼びかけた。


「俺はレン・クゼ。証明者だ」


 その言葉に、ミリィの目が大きく開いた。


 恐怖が走る。


「ごめんなさい……!」


 彼女は掠れた声で叫んだ。


「私、言われた通りにしただけなんです! 燃やせば、サーシャ様の罪が増えないって……聖女様が悲しまないって……!」


 エルハルトの顔が険しくなる。


 マーヤがミリィの肩を押さえた。


「落ち着いて。まだ話さなくていい」


「だめ……言わないと……私も……リーネみたいに……」


 ミリィは震える手で、自分の喉を押さえた。


 リーネみたいに。


 つまり、彼女は知っている。


 リーネが消されかけたことを。


 自分も同じになると分かっていた。


「誰に言われた」


 俺は静かに聞いた。


 ミリィは涙を流しながら首を振る。


「命令じゃありません……命令じゃないんです……」


 まただ。


 命令ではない。


 それが、この事件で何度も出てくる。


 ミコトは命じない。


 周囲が動く。


 それが何より厄介だった。


「なら、何と言われた」


 ミリィは震えながら答えた。


「聖女様が……おっしゃったんです……」


 部屋の空気が止まった。


 ミリィは続ける。


「『サーシャは、私のために背負いすぎました。あの子がこれ以上、苦しまないように、残っているものを清めてあげて』って……」


 クララが小さく口元を押さえた。


 エルハルトは記録水晶を持っていない。


 ここは正式な証言場ではない。


 だが、聞いている者はいる。


 俺たちがいる。


「残っているものとは、何のことだ」


 俺は聞いた。


「花印の古い帳面です」


 ミリィは泣きながら答えた。


「サーシャ様が管理していた旧帳です。第二箱の記録も、白い花印の使用記録も、そこにありました」


 心臓が強く打つ。


「それを燃やしたのか」


「はい……清め場で……でも……」


 ミリィは右手を握りしめたまま震えた。


「全部は……燃やしていません」


 俺の視線が、彼女の右手に落ちる。


 灰で黒く汚れた手。


 何かを握っている。


 マーヤが慎重に声をかける。


「ミリィ、その手を開けられる?」


「これを持っていたら、怖くて……でも、捨てられなくて……」


 ミリィは震えながら指を開いた。


 その中にあったのは、焦げた紙片だった。


 灰と汗で濡れている。


 だが、文字は残っていた。


 マーヤがすぐに保全用の布を広げる。


 紙片を受け取り、そっと伸ばす。


 エルハルトが顔を近づけた。


 俺も覗き込む。


 そこには、旧帳の一部と思われる記録が残っていた。


 ――第二箱。


 ――花印使用。


 ――確認者 聖女ミコト。


 息が止まった。


 確認者。


 聖女ミコト。


 今までの「聖女様確認済」より、さらに強い。


 名前がある。


 聖女ミコト。


 だが、まだ落ち着け。


 俺は自分に言い聞かせる。


 筆跡。


 旧帳の真正性。


 誰が記入したのか。


 何を確認したのか。


 まだ必要なものはある。


 それでも、これは大きい。


 今までで一番大きい。


「ミリィ」


 エルハルトの声は震えていた。


「この紙片は、旧花印管理帳のものですか」


「はい……」


「誰が管理していましたか」


「サーシャ様です。でも、聖女様も確認されることがありました」


「この『確認者 聖女ミコト』は、誰が書いたものですか」


 ミリィは涙を拭う。


「サーシャ様の字です」


 俺は奥歯を噛んだ。


 サーシャの字。


 ミコト本人の直筆ではない。


 だが、サーシャが「確認者」としてミコトの名を書いている。


 つまり、サーシャは第二箱の花印使用について、聖女ミコトが確認したものとして記録していた。


 サーシャの証言と照らせば、重要だ。


 サーシャは聖女を守るために罪を背負った。


 だが、旧帳ではミコトの確認が記録されていた。


「聖女ミコト本人が、これを見たのか」


 俺が聞くと、ミリィは頷いた。


「見ました……たぶん」


「たぶん?」


「私は、部屋の外にいたので。でも、サーシャ様が旧帳を持って祈りの間に入りました。そのあと、聖女様の声が聞こえて……」


「何と」


 ミリィは唇を震わせる。


「『第二箱は、もう表に出さない方がいいですね』と」


 頭の奥が冷える。


「続きは」


「サーシャ様が、『では、花印記録は旧帳から外します』と。聖女様は……」


 ミリィは目を閉じた。


「『サーシャ、あなたに任せます』と」


 命じていない。


 だが、任せた。


 いつもの形。


 これだけではまだ逃げる。


 私は不正を命じていない。


 サーシャが勝手に外した。


 私は記録整理を任せただけ。


 そう言える。


 だが、「第二箱は表に出さない方がいい」と言ったなら、意味はかなり重い。


 第二箱を隠す意思があったことになる。


「その会話を聞いたのは、いつだ」


 エルハルトが問う。


「湿地の緊急浄化の後です。サーシャ様がまだ拘束される前……リーネがいなくなった日の前です」


 時系列が繋がる。


 第二箱の記録を旧帳から外す。


 リーネを遠ざける。


 旧礼拝所へ移動。


 サーシャ拘束後、ミリィが旧帳を燃やす。


 灰の中から燃え残り。


 そして、ミリィが隠し持っていた紙片。


 線が、太くなっていく。


「ミリィ」


 俺は言った。


「誰があなたをここに閉じ込めた」


 ミリィの顔が青ざめる。


「分かりません……」


 刃は鳴らない。


 彼女は本当に分からない。


「白い頭巾の侍女と一緒にいたという証言がある」


「それは……」


 ミリィは怯えたように周囲を見た。


「ミリィ」


 俺は少しだけ声を柔らかくした。


「ここには、今あなたを消そうとする人間はいない」


「でも……」


「俺たちは、リーネも守った」


 その言葉に、ミリィの目が揺れた。


 彼女は涙を流しながら、かすかに頷く。


「白い頭巾の人は……聖女様の声で話しました」


 部屋が静かになる。


「声?」


「はい。でも……聖女様ではないと思います」


「なぜ」


「聖女様より、少し低かった。あと、歩き方が違いました。顔は見えませんでした。でも、私に『証明者に捕まれば、サーシャ様も聖女様も傷つきます。あなたは少し休みなさい』と言って……薬湯を渡されました」


「飲んだのか」


 ミリィは頷く。


「怖くて……言う通りにすれば、許されると思って」


 その後、ここに連れて来られた。


 薬が回り、動けなくなった。


 外から閂をかけられた。


 そういうことだろう。


「白い頭巾の正体は分かるか」


 ミリィは首を振った。


「分かりません。でも、手袋が……」


「手袋?」


「聖女付きの侍女が使う白い手袋ではなくて、神官用のものに見えました。指先に青い刺繍がありました」


 エルハルトの顔が変わった。


「青い刺繍……記録神官の手袋です」


「記録神官?」


「神殿内の書類や祈祷記録を管理する者です。花印管理帳の旧記録にも触れられる立場です」


 また新しい線。


 聖女付き侍女だけではない。


 記録神官。


 つまり、書類を整える側の人間も関わっている可能性がある。


「名は」


 俺が聞くと、エルハルトは硬い声で答えた。


「確認が必要ですが、聖女私室周辺の記録整理を担当していた神官が一人います」


「誰です」


「オルグ神官」


 オルグ。


 新しい名前が、また出た。


 ミコト本人に近づくたび、間に人が増える。


 サーシャ。


 ミリィ。


 オルグ。


 白い聖女の周りには、何重にも人の壁がある。


 だが、その壁も少しずつ崩れている。


「ミリィを運ぶ」


 マーヤが言った。


「ここは寒すぎる。薬も抜かないといけない」


「ギルドへ?」


 クララが聞く。


 エルハルトが少し迷う。


 だが、すぐに頷いた。


「ギルドで保護するべきです。神殿内では安全とは言えません」


 神殿監査官が、そう認めた。


 その意味は大きい。


 ミリィは震えながら俺を見た。


「私……捕まるんですか」


「事情は聞かれる」


 俺は答えた。


「でも、全部をあなた一人に背負わせるつもりはない」


 ミリィの顔が歪んだ。


「私、燃やしました……旧帳を……」


「ああ」


「罪ですよね」


「罪だ」


 俺はごまかさなかった。


 ミリィは小さく震える。


「でも」


 俺は続けた。


「燃やせと言われた流れも、あなたが何を守ろうとしていたのかも、記録する。あなたが隠した紙片も、証拠として残す」


「……証拠」


「そうだ」


 俺は彼女の手元を見た。


 灰で汚れた指。


 震えながら、それでも紙片を捨てなかった手。


「あなたは、全部は消さなかった」


 ミリィの目から涙が落ちた。


 その涙に、嘘はなかった。


 俺たちはミリィを神殿の外へ運び出した。


 古い洗濯場の扉を出る時、俺は一度だけ振り返った。


 外から閉められていた閂。


 床に撒かれた香油。


 古い水場。


 捨てられたように倒れていたミリィ。


 ここは、彼女を殺す場所ではなかったかもしれない。


 だが、黙らせる場所だった。


 眠らせて、閉じ込めて、時間を稼ぐ。


 必要なら、後で消す。


 そんな場所。


 白い神殿の奥に、こういう場所がある。


 それが、今の神殿そのものに見えた。


 表は白い。


 奥は湿って暗い。


 見えない場所で、誰かが黙らされる。


 ギルドへ戻る途中、神殿の廊下でミコトとすれ違った。


 彼女は、ミリィが担架で運ばれているのを見て、悲しそうに目を伏せた。


「ミリィまで……」


 声は震えていた。


 聖女として完璧な悲しみだった。


 だが、俺はミリィの握っていた紙片を思い出していた。


 確認者 聖女ミコト。


 第二箱は、もう表に出さない方がいいですね。


 サーシャ、あなたに任せます。


 命令ではない。


 だが、動かすには十分な言葉。


「無事でよかったです」


 ミコトは言った。


 刃は鳴らない。


 本心。


 彼女は、ミリィが無事でよかったと思っている。


 だが、それはミリィという人間の命を思っているからか。


 自分の物語に使える状態で戻ってきたからか。


 それは、まだ分からない。


「ミリィから話を聞きます」


 俺は言った。


 ミコトは静かに頷いた。


「彼女はまだ混乱しているでしょう。どうか、無理はさせないでください」


「無理はさせません」


「ありがとうございます」


「ただし、話せる状態になったら記録します」


 ミコトは微笑んだ。


「真実のために、ですね」


「はい」


 俺は彼女を見た。


「真実のために」


 ミコトの目が、ほんの少しだけ細くなる。


 彼女は、俺が何を見つけたのか完全には知らない。


 だが、何かを見つけたことは分かっている。


 灰の中から。


 ミリィの手の中から。


 白い場所へ繋がる何かを。


 俺たちはそのまま神殿を出た。


 背後で、神殿の白い扉が閉まる。


 ギルドに戻ると、ミリィは隔離室へ運ばれた。


 リーネとは別の部屋。


 証人同士を近づけすぎないためだ。


 マーヤが薬を抜く処置を始め、クララが手伝う。


 バルトは捕らえた男たちの見張りを増やし、エルハルトは神殿へ戻らず、ギルドに残った。


 神殿監査官が神殿に戻らない。


 それだけで、状況の異常さが分かる。


 会議室に、ミリィが握っていた紙片が置かれた。


 旧花印管理帳の断片。


 そこには、はっきりと残っている。


 ――第二箱。


 ――花印使用。


 ――確認者 聖女ミコト。


 俺はその文字を見つめた。


 まだ、刃には少し足りない。


 サーシャの字で書かれた確認者名。


 ミリィの証言。


 白い頭巾の記録神官。


 聖女の言葉。


 すべてを繋げれば、かなり近い。


 だが、ミコトはまだ逃げる。


 私は記録確認をしただけ。


 第二箱の中身は知らなかった。


 記録から外せとは命じていない。


 サーシャに任せたのは、通常の管理の意味だった。


 そう言うだろう。


 だから、もう一つ必要だ。


 ミコトが第二箱の中身を知っていた証拠。


 黒泥が穢れ寄せではなく、白銀草を阻害するものだと知っていた証拠。


 そして、再浄化によって民を繰り返し祈らせる意図があった証拠。


 そこまで揃えば、刃は届く。


「次はオルグ神官ですね」


 クララが言った。


 俺は頷く。


「記録を整える側の人間。白い頭巾でミリィを連れ出した可能性がある」


 エルハルトが硬い声で言う。


「オルグは、聖女関連記録を長く扱ってきた神官です。もし彼が関与しているなら、神殿の記録そのものが相当汚染されています」


「つまり」


 バルトが腕を組む。


「次は、記録神官を落とす番か」


「落とすかどうかは、証拠次第です」


 俺は言った。


「でも、聞く必要はあります」


 俺は紙片を見つめた。


 灰から出た文字。


 ミリィの手から出た文字。


 燃やされても、握りしめられて残った文字。


 聖女様確認済。


 確認者 聖女ミコト。


 ミコト。


 お前はまだ言うだろう。


 命じていない。


 知らなかった。


 周囲が勝手にやった。


 それでも、周囲が残した記録には、お前の名前が出てきた。


 もう完全な白ではない。


 光で飛ばしても、輪郭は残っている。


 嘘は、全部を消せない。


 灰にも。


 布にも。


 恐怖にも。


 そして、震える手の中にも。


 消え残った文字は、必ずある。


 次は、その文字を書いた者に聞く。


 記録神官オルグ。


 彼が何を整え、何を消し、何を聖女の名で残したのか。


 白い聖女の影は、もう紙の上にまで伸びている。


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