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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第33話 白い幕の向こう



 聖女ミコトの私室確認が許可されたのは、その日の昼前だった。


 許可、といっても全面的な捜索ではない。


 神殿上層が認めたのは、あくまで限定確認。


 対象は三つ。


 聖女の私室にある祈りの間。


 白い花の印の管理記録。


 そして、浄化儀式資料の所在。


 それ以外の私物には触れない。


 聖女の祈祷具も、原則として動かさない。


 確認には神殿監査官エルハルトが立ち会う。


 ギルド側からはバルト。


 薬学的な確認のためにマーヤ。


 そして、《証明者》として俺。


 クララも同行を望んだが、今回は外で待つことになった。


 理由は単純だ。


 聖女の私室は、ミコトの領域だ。


 そこでは何が起きるか分からない。


 ミコトが俺を揺さぶりに来る可能性もある。


 サーシャのように、俺の私怨を突いてくる可能性もある。


 だから、必要最低限の人数に絞る。


 クララは最後まで納得しきれない顔をしていたが、最後には小さく頷いた。


「無理しないでください」


「できるだけな」


「またそれです」


「嘘はつきたくない」


「そこは少し嘘でもいいんです」


 クララはそう言って、困ったように笑った。


 その顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。


 だが、神殿へ向かう頃には、胸の奥はまた冷えていた。


 白い幕の向こう。


 リーネが聞いた声。


 見えるものだけ消せば、民は祈る。


 根の傷まで癒やす必要はない。


 後で祈ればいい。


 何度も訪れる奇跡の方が、信仰になる。


 優しい子は黙って祈れるはずです。


 その言葉が、本当にミコトのものなら。


 いや。


 リーネの証言を信じるなら、あれはミコトの声だった。


 だが、証明にはまだ足りない。


 幕の向こう。


 姿の確認なし。


 声だけ。


 それだけでは、彼女は必ず逃げる。


 聞き間違い。


 誰かの声真似。


 リーネの混乱。


 いくらでも白い言葉で包むだろう。


 だから、必要なのは痕跡だ。


 声が残らないなら、資料を探す。


 命令が残らないなら、準備の跡を探す。


 祈りで消したなら、消し残しを探す。


 嘘は、全部を消せない。


 そのはずだ。


 ラトル神殿は、雨に濡れて白く光っていた。


 昨日までなら、その白さを見て民は安心しただろう。


 今の俺には、別のものに見える。


 濡れた白い石の下に、黒いものが染み込んでいるように見えた。


 神殿の奥へ進む。


 案内役は、エルハルトだった。


 普段は聖女の私室近くに入ることのない監査官でさえ、今日は表情が硬い。


 途中の廊下で、何人もの神官や侍女とすれ違った。


 彼らは頭を下げる。


 だが、視線がこちらを避ける。


 マルドゥクが落ちた。


 サーシャが拘束された。


 リーネが正式証言した。


 その噂は、もう神殿内に広がっている。


 それでも、聖女ミコトはまだ聖女だった。


 誰も彼女を直接疑ってはいない。


 いや、疑っていたとしても口にできない。


 白い存在を疑うには、それだけの覚悟がいる。


 疑った瞬間、疑った側が黒く見えるからだ。


「こちらです」


 エルハルトが一つの扉の前で止まった。


 そこは、他の部屋とは明らかに違っていた。


 扉には白い布飾りがかけられ、上部には小さな花の意匠が彫られている。


 白い花。


 指示書に押されていた花印と同じ形。


 扉の前には、神殿兵が二人立っていた。


 だが、彼らは緊張している。


 守っているというより、何かに巻き込まれたくないという顔だった。


 エルハルトが許可札を示す。


「監査確認です。開けてください」


 神殿兵は互いに顔を見合わせた。


 その時、扉の内側から声がした。


「どうぞ」


 聖女ミコトの声だった。


 穏やかで、柔らかく、澄んだ声。


 扉が開く。


 中は、想像していたよりも質素だった。


 白を基調にした部屋。


 小さな机。


 祈祷具を置いた棚。


 窓際には花瓶。


 寝台は薄い布で覆われている。


 余計な装飾は少ない。


 清らかな聖女の私室。


 誰が見ても、そう思うだろう。


 そして、その部屋の中央にミコトがいた。


 白い衣ではなく、薄い灰色の室内着をまとっている。


 それでも、彼女は聖女に見えた。


 むしろ、飾らない姿だからこそ、より清らかに見える。


「皆様、お疲れ様です」


 ミコトは静かに頭を下げた。


「私の部屋が確認対象になるとは、少し驚きましたが……必要なことなのでしょう」


 声に怒りはない。


 拒絶もない。


 ただ、静かな悲しみだけがある。


 完璧だった。


 自分が疑われていることに傷つきながらも、真実のために協力する聖女。


 そう見える。


 俺は黙っていた。


 ここで余計なことを言えば、すぐに彼女の物語に取り込まれる。


 エルハルトが一歩前に出る。


「聖女ミコト様。ご協力に感謝します。確認対象は事前にお伝えした通りです」


「はい」


 ミコトは頷いた。


「祈りの間、花印の管理記録、浄化儀式資料ですね」


「その通りです」


「すべて、確認していただいて構いません」


 あっさりしている。


 あまりにもあっさりしている。


 俺の胸に、嫌な感覚が広がった。


 準備されている。


 そう思った。


 彼女は、この確認が来ることを予想していた。


 そして、見られてもいい形に整えている。


 リーネの部屋と同じだ。


 綺麗すぎる部屋。


 逃げた者の部屋ではなく、逃げたように見せた部屋。


 今度は、疑われた聖女の部屋ではなく、疑われても何も出ない聖女の部屋だ。


「では、まず花印の管理記録から」


 エルハルトが言うと、ミコトは机の引き出しを指した。


「そちらに」


 エルハルトが書記に目配せし、記録を取りながら引き出しを開ける。


 中には、小さな帳面があった。


 白い表紙。


 紐で丁寧に結ばれている。


 表紙には、花印管理と書かれていた。


 エルハルトがページをめくる。


 俺も横から見る。


 日付。


 使用者。


 用途。


 押印対象。


 丁寧に記録されていた。


 だが。


 俺はすぐに違和感を覚えた。


 整いすぎている。


 記録の字が、どれも均一なのだ。


 日付が違うはずなのに、筆圧がほぼ同じ。


 古い記録と新しい記録で、墨の薄さも変わらない。


 まるで、一度に書き写したように。


「マーヤ」


 俺が小さく呼ぶと、彼女も頷いた。


「墨が新しいわね」


 ミコトの表情は変わらない。


 エルハルトが顔を上げる。


「聖女ミコト様。この管理記録は、いつからこの形で?」


「以前からです」


 刃は鳴らない。


 彼女にとっては本当なのか。


 あるいは、以前から似た形の記録はあったのか。


 俺は帳面を見た。


 確かに、記録そのものは以前からあったのかもしれない。


 ただし、これは書き直された可能性がある。


「帳面を新しくしましたか」


 俺が尋ねると、ミコトは俺を見た。


「はい」


 あっさり認めた。


「いつですか」


「湿地の緊急浄化の後です」


 エルハルトの眉が動く。


「なぜ」


「サーシャの件がありましたので、管理記録を整理した方がよいと思いました」


「元の帳面は?」


「サーシャが管理していました。今は所在を確認中です」


 便利だ。


 元の帳面はサーシャ管理。


 サーシャは拘束済み。


 所在不明。


 つまり、この帳面は綺麗に書き直されたもの。


 証拠ではなく、整えられた説明だ。


「書き直しの際、旧記録と照合しましたか」


 エルハルトが問う。


「サーシャの残した控えをもとにしました」


「その控えは」


「この帳面に反映した後、不要な下書きとして処分されたと思います」


 処分。


 また、その言葉だ。


 燃やしたのか。


 捨てたのか。


 消したのか。


 ミコトは、自分で処分したとは言っていない。


 思います、と逃げ道を残している。


 俺の掌は熱を持たない。


 彼女は嘘をついていない。


 いや、正確には。


 嘘にならないように話している。


「この帳面には、旧礼拝所の指示書に押された花印の記録がありません」


 エルハルトが言った。


 ミコトは悲しげに目を伏せる。


「サーシャが無断で押したのかもしれません」


「そう断定しますか」


「断定はできません。ただ、私は押しておりません」


 刃は鳴らない。


 直接押していない。


 それは本当らしい。


 だが、問題はそこではない。


 誰が押したかではない。


 誰の意思として押されたかだ。


「次に、浄化儀式資料を確認します」


 エルハルトが言った。


 ミコトは棚へ視線を向ける。


「そちらです」


 棚には数冊の資料が並んでいた。


 古い神殿文字の本。


 湿地浄化に関する祈祷記録。


 白銀草の簡単な説明書。


 浄化香の調合法。


 マーヤが一冊ずつ確認する。


 最初は無言だった。


 だが、白銀草の資料を開いた時、彼女の目つきが変わった。


「これ……」


「何か?」


 俺が聞くと、マーヤはページを指した。


「白銀草の薬効は葉ではなく根に蓄積される、って書いてある」


 俺の心臓が強く打った。


 根。


 リーネの証言と繋がる。


 根の傷まで癒やす必要はない。


 ミコトがその言葉を言ったのなら、知識の出どころはこの資料かもしれない。


「その資料は、いつからここに?」


 エルハルトが問う。


 ミコトは静かに答える。


「湿地浄化の前からです」


 刃は鳴らない。


「読まれましたか」


「はい。湿地を浄化するために、必要な知識だと思いました」


 刃は鳴らない。


 彼女は読んでいる。


 白銀草の根についても知っていた。


 これで、リーネの証言の一部と繋がった。


 だが、まだ罪ではない。


 聖女が浄化対象の資料を読むのは当然だ。


 むしろ真面目な行動に見える。


「薬効阻害についての記述は?」


 マーヤがページをめくる。


「普通の資料にはないわね。でも……」


 彼女の指が止まった。


 一枚のページの端。


 そこに、薄く折り跡がある。


 そのページだけ、何度も開かれたように癖がついている。


 内容は、浄化後の白銀草の回復期間についてだった。


 マーヤが目を細める。


「ここ、妙ね」


「何が」


「余白に何か書かれていた跡がある」


 確かに、余白が少しこすれている。


 文字は消されている。


 だが、紙の表面に跡が残っていた。


 マーヤは小さな粉を取り出し、慎重に余白へ乗せる。


 細い線が浮かび上がった。


 完全な文字ではない。


 だが、いくつか読める。


 ――根。


 ――残す。


 ――再祈祷。


 部屋の空気が変わった。


 ミコトは表情を変えない。


 だが、俺は彼女の指が、ほんの少しだけ動いたのを見た。


「これは誰が書いたものですか」


 エルハルトが問う。


 ミコトは静かに首を振った。


「分かりません」


 刃は鳴らない。


 本当に分からないのか。


 それとも、自分が書いたと断定されないようにしているのか。


 文字は消されている。


 筆跡も崩れている。


 これだけでは決定打にはならない。


 だが、リーネの証言と繋がる。


 根の傷。


 後で祈ればいい。


 再祈祷。


 民に何度も奇跡を見せる。


 線が伸びていく。


「この資料は保全します」


 エルハルトが言った。


 ミコトは静かに頷く。


「必要であれば、どうぞ」


 あっさり譲る。


 資料を保全されても困らないという態度。


 あるいは、これ以上のものは残していないという自信。


 次に、祈りの間へ向かった。


 私室の奥。


 白い薄布が天井から垂れ、空間を仕切っている。


 リーネが言っていた白い幕。


 その向こうに、祈りの間がある。


 布は柔らかく、光を通す。


 人影はぼんやり見えるが、顔までは分からない。


 確かに、ここで話せば、声だけが外へ届くだろう。


 姿は見えない。


 リーネの証言通りだ。


「入っても?」


 エルハルトが確認する。


 ミコトは頷く。


「はい」


 白い幕をくぐる。


 中は狭い空間だった。


 小さな祈祷台。


 香炉。


 膝をつくための白い敷物。


 壁には聖印。


 空気には、かすかに香の匂いが残っている。


 清らかな祈りの場。


 そう見える。


 だが、マーヤはすぐに香炉へ向かった。


 香炉の灰を確認し、匂いを嗅ぐ。


 そして眉をひそめた。


「浄化香だけじゃない」


「何が混ざっている」


「香油ね。かなり薄いけど、湿地の黒泥と反応したものと似た香りが残ってる」


 ミコトが静かに言った。


「湿地浄化の後ですから、香の匂いが残っていても不思議ではないと思います」


「祈りの間の香炉に?」


 マーヤは振り返った。


「湿地で使った香炉とは別でしょう?」


「浄化後、祈りの報告を捧げる際に同系統の香を焚きました」


 刃は鳴らない。


 嘘ではない。


 だが、説明が早い。


 用意されている。


 マーヤは香炉の底を見た。


「灰が新しい」


「昨日も祈りましたので」


「古い灰は?」


「定期的に清めています」


 また、整えられている。


 古い灰はない。


 香炉は綺麗。


 残っているのは、説明できる程度の香りだけ。


 俺は祈りの間を見回した。


 どこかにあるはずだ。


 リーネが聞いた会話の痕跡。


 サーシャが使った資料。


 ミコトが残した消し忘れ。


 白い幕。


 祈祷台。


 敷物。


 香炉。


 聖印。


 何もないように見える。


 いや。


 何もないように、整えられている。


「この白い幕は、いつから使っていますか」


 俺は尋ねた。


「私がこの部屋を使うようになってからです」


 ミコトが答える。


「交換は?」


「定期的に」


「最近は?」


「湿地浄化の後に一度。香の匂いが強く残っていましたので」


 刃は鳴らない。


 まただ。


 交換済み。


 清め済み。


 整理済み。


 証拠になりそうなものは、清らかな理由で消されている。


 俺は幕の裾を見た。


 新しい布。


 汚れはない。


 だが、留め具は古い。


 幕を吊るすための白い輪。


 その一つだけ、わずかに黒ずんでいる。


「マーヤ」


 俺が呼ぶと、彼女はすぐに近づいた。


「この留め具を」


 マーヤが確認する。


 小さな布で拭い、試薬を垂らす。


 淡い紫。


 黒泥と香油の反応。


 ごく薄い。


 だが、出た。


「反応あり」


 マーヤが言った。


「白い幕は交換されてる。でも留め具に残ってる」


 エルハルトが顔を強張らせる。


「聖女ミコト様。この祈りの間で、黒泥または香油反応を持つものを扱いましたか」


 ミコトは少しだけ目を伏せた。


「湿地浄化のための祈りを捧げました。その際、湿地の穢れを象徴するものを置いたことはあります」


「象徴?」


「湿地の泥を少量。祈りの対象として」


 マーヤが眉をひそめる。


「それは、どこにありますか」


「祈りを終えた後、清めました」


「誰が?」


「サーシャが」


 サーシャ。


 またそこに落ちる。


 ミコト本人の手元から、サーシャへ。


 彼女は死んでいない。


 拘束されている。


 でも、証拠の処分役として名前を使える。


 ミコトはまだ白い場所にいる。


「湿地の泥を祈りの間に持ち込んだ記録は?」


 エルハルトが問う。


「私的な祈りでしたので、正式記録には残していません」


「誰が持ち込みましたか」


「サーシャです」


「あなたは指示しましたか」


「湿地のために祈りたいと伝えました」


 刃は鳴らない。


 命じていない。


 伝えただけ。


 いつもの形だ。


「サーシャが泥を持ち込むと分かっていましたか」


「祈りの対象として、何かを用意してくれるとは思っていました」


「黒泥だとは?」


「浄化すべき穢れの象徴と聞きました」


 刃は鳴らない。


 また逃げられる。


 俺は奥歯を噛みしめた。


 全部、同じだ。


 直接は命じない。


 知らなかったと言える形で受け取る。


 問題になれば、サーシャがやったことになる。


 それでも、痕跡は残った。


 白い幕は交換された。


 香炉は清められた。


 でも留め具に、黒泥と香油の反応が残っていた。


 つまり、リーネが聞いた白い幕の向こうには、ただの祈りだけではなく、湿地の黒泥に関わるものがあった。


 リーネの証言と、場所の反応が繋がった。


「この留め具は保全します」


 エルハルトが言った。


 ミコトは頷いた。


「どうぞ」


 まだ崩れない。


 崩れないどころか、こちらに協力しているように見える。


 俺は祈りの間の床を見た。


 白い敷物。


 清潔に見える。


 だが、端が少しだけ浮いている。


 新しい敷物にしては、下の床との間に粉が溜まっていた。


「敷物を確認しても?」


 俺が言うと、ミコトは少しだけ首を傾げた。


「それも必要ですか」


 初めて、わずかな抵抗。


 俺はその反応を見逃さなかった。


「必要です」


 エルハルトが言った。


 ミコトは少し沈黙した後、頷いた。


「分かりました」


 バルトが慎重に敷物を持ち上げる。


 下の石床には、薄い黒い粉が残っていた。


 そして、床の端に小さな紙片が挟まっている。


 白い紙。


 湿気で少し丸まっている。


 エルハルトが手袋をつけ、そっと取り出した。


 紙片には、文字の一部だけが残っていた。


 ――根部阻害、残存。


 ――再浄化日程。


 ――民衆告知、聖女判断。


 マーヤが息を呑む。


「これ……」


 俺は紙片を見た。


 根部阻害。


 再浄化日程。


 民衆告知。


 聖女判断。


 これは、かなり近い。


 白銀草の根に阻害が残ることを前提に、再浄化の日程と民衆への告知を決める資料。


 つまり、湿地浄化が一度で終わらないことを、事前に想定していた。


 ミコトが言ったとされる言葉と繋がる。


 何度も訪れる奇跡の方が、信仰になる。


「この紙片に覚えはありますか」


 エルハルトが問う。


 ミコトは紙片を見た。


 ほんの一瞬。


 本当に一瞬だけ、目が止まった。


 だが、すぐに悲しそうな顔になる。


「分かりません」


 刃は鳴らない。


 分からない。


 また、それだ。


 自分が書いたとは言わない。


 知らないとも言わない。


 分からない。


 証明しにくい言葉。


「祈りの間の敷物の下にありました」


 エルハルトが言う。


「ここには、あなたとサーシャとリーネ以外も入れますか」


「基本的には入りません」


「では、誰かが置いたとすれば、その三名の可能性が高い」


「そうかもしれません」


「あなたではない?」


 ミコトは静かに俺を見た。


 それから、エルハルトへ視線を戻す。


「私が置いた記憶はありません」


 刃は鳴らない。


 記憶はない。


 便利な言葉だ。


 置いていないとは言わない。


 書いていないとも言わない。


 記憶がない。


 これ以上、ここで切り込むには足りない。


 だが、紙片は大きい。


 リーネの証言。


 白銀草資料の消された余白。


 香炉と留め具の反応。


 敷物の下の紙片。


 すべてが同じ方向を向いている。


 見える黒泥だけを消し、根部の阻害を残し、再浄化の機会を作る。


 民衆に見せるための奇跡。


 まだ証明成立には届かない。


 だが、白い幕の向こうに、確かに黒い痕跡があった。


「確認を終了します」


 エルハルトが言った。


「花印管理帳、白銀草資料、祈りの間の留め具、敷物下の紙片を保全します」


「分かりました」


 ミコトは静かに頷く。


「真実が明らかになることを、私も願っています」


 その言葉に、俺の掌が熱を持たない。


 嘘ではない。


 ミコトは本当に願っている。


 ただし、彼女の言う真実は、俺たちの真実と同じとは限らない。


 彼女にとっての真実は、聖女は民を救ったという物語だ。


 その物語を守るために、不要なものを周囲が処理した。


 そういう形にするつもりなのだろう。


「レン様」


 部屋を出ようとした時、ミコトが俺を呼んだ。


 俺は振り返る。


「何ですか」


「あなたは、私の部屋から何かを見つけられましたか」


「いくつか」


「それで、私の罪は証明できそうですか」


 エルハルトが息を呑んだ。


 バルトの目が鋭くなる。


 マーヤが眉をひそめる。


 ミコトは穏やかな顔のままだ。


 挑発。


 だが、表面はただの質問だ。


 俺は答えた。


「まだです」


 正直に言った。


「今の証拠だけでは、あなた本人の罪は証明できない」


 ミコトは少しだけ目を伏せた。


「そうですか」


 悲しそうに見える。


 だが、俺には違って見えた。


 安堵ではない。


 勝利でもない。


 確認だ。


 やはり、まだ届かない。


 そう確認した顔。


「ですが」


 俺は続けた。


 ミコトの目が俺に戻る。


「あなたの白い幕の向こうに、黒泥と香油の反応は残っていました」


 彼女は黙っている。


「根部阻害と再浄化日程に関する紙片も見つかりました」


 沈黙。


「白銀草の根の知識も、あなたの資料にありました」


 沈黙。


「リーネの証言は、少しずつ物と繋がってきている」


 俺はミコトを見据えた。


「まだ証明成立ではない。でも、近づいています」


 ミコトは、静かに微笑んだ。


「それは、よかったです」


「よかった?」


「はい」


 彼女は胸に手を当てた。


「あなたが真実に近づいていると思えるなら、それはよいことです。人は、信じられるものがなければ苦しいですから」


 刃は鳴らない。


 本心。


 ただし、その言葉は俺を刺しに来ている。


 お前は真実を信じたいだけだ。


 そう言っているように聞こえた。


 真実ではなく、自分の憎しみを支えるものを探しているだけだと。


 サーシャと同じ方向から、俺を揺さぶる。


「俺が信じたいものは一つです」


 俺は言った。


「証拠です」


 ミコトは微笑んだ。


「では、証拠がなければ?」


「言わない」


「証拠が出なければ、私を疑うことをやめますか」


 その質問に、俺は一瞬だけ黙った。


 ミコトの目が、わずかに細くなる。


 ここで「やめない」と言えば、私怨になる。


 「やめる」と言えば、自分の中の怒りに嘘をつく。


 だから、俺はこう答えた。


「証拠が出なければ、証明はしません」


 ミコトは少しだけ笑った。


「正直な方ですね」


「あなたほどではありません」


 その言葉に、初めてミコトの表情がほんの少しだけ止まった。


 本当に一瞬だけ。


 だが、止まった。


 俺はそれを見た。


「失礼します」


 俺たちは部屋を出た。


 扉が閉まる。


 白い私室が背後に消える。


 廊下に出た瞬間、マーヤが大きく息を吐いた。


「……疲れる相手ね」


「ああ」


 バルトが低く答える。


「ずっと刃の上を歩かされているみたいだったな」


 エルハルトは保全した証拠を抱え、深刻な顔をしていた。


「これで、限定確認では済まなくなるかもしれません」


「上層は動きますか」


 俺が聞くと、エルハルトは少し考えた。


「動かざるを得ません。ただし、聖女様を守ろうとする派も強くなります」


「証拠が出たから?」


「はい」


 エルハルトは神殿の奥を見た。


「人は、信じたいものが傷つきそうになると、余計に守ろうとします」


 その言葉は重かった。


 俺は知っている。


 疑いが出たからといって、信じていた人間がすぐに目を覚ますわけではない。


 むしろ逆だ。


 信じたい相手ほど、疑いから守ろうとする。


 美琴の時もそうだった。


 周囲は、彼女を疑うことを拒んだ。


 だから、俺を疑った。


「次はどうする」


 バルトが聞いた。


「紙片の筆跡と、資料の余白の跡を調べます」


 マーヤが言った。


「根部阻害、再浄化日程。これを書いた人間を突き止める必要がある」


「花印管理帳の元記録も」


 俺は言った。


「サーシャが持っていたという旧記録。処分された下書き。灰捨て場を調べれば、残りが出るかもしれません」


「それと、聖女の私室に出入りした者の記録ですね」


 エルハルトが頷く。


「祈りの間に湿地の泥を持ち込んだのがサーシャなら、その時の動線があるはずです」


「リーネの証言とも照合できる」


 少しずつ。


 本当に少しずつだ。


 ミコト本人には、まだ届いていない。


 だが、白い幕の向こうから紙片が出た。


 留め具に反応が残っていた。


 資料に消された書き込みがあった。


 完全に白い場所など、存在しない。


 どれだけ清めても。


 どれだけ幕を交換しても。


 どれだけ記録を書き直しても。


 消し残しはある。


 神殿の廊下を歩きながら、俺は振り返らなかった。


 背後には、聖女ミコトの私室がある。


 白い幕の向こうに立つ女。


 昔、俺を壊した女。


 今、この世界で聖女として祈られている女。


 まだ証明できない。


 まだ届かない。


 それでも、確かに近づいた。


 幕の向こうには、何もなかったわけじゃない。


 黒泥の匂いがあった。


 消された文字があった。


 隠された紙片があった。


 そして、ミコトの小さな揺らぎがあった。


 嘘は、全部を消せない。


 白い幕でも。


 祈りでも。


 清めの香でも。


 消せないものがある。


 俺はそれを拾う。


 一つずつ。


 彼女が立つ白い場所へ、刃が届くまで。


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