第32話 会いたくない聖女
リーネが正式な証言に応じられるようになったのは、翌朝だった。
夜明け前から降っていた細い雨が、ギルドの窓を静かに濡らしている。
空は灰色で、町全体が薄い幕に包まれているようだった。
湿地の黒泥は見える範囲では消えた。
けれど、空気の中にはまだ濁ったものが残っている。
それは湿地だけではない。
ラトル神殿。
聖女ミコト。
第二箱。
白い花の印。
サーシャ。
そして、リーネ。
すべてが、まだ完全には晴れていなかった。
ギルドの隔離室には、記録水晶が二つ置かれていた。
一つは神殿監査用。
もう一つはギルド保管用。
同じ証言を、同時に二つの場所へ残すためだ。
記録を一つにすれば、消される。
改ざんされる。
都合のいい言葉に整えられる。
マルドゥクの件で、俺たちはそれを嫌というほど見た。
だから、今回は最初から二重に残す。
嘘が全部を消せないように。
リーネは寝台の上で上半身を起こしていた。
顔色はまだ悪い。
唇にも血の気が少ない。
胸元の傷には包帯が巻かれている。
マーヤが処置したおかげで命は繋がったが、まだ長く話せる状態ではない。
だから、証言は短く。
必要なことだけ。
それがマーヤの条件だった。
「無理そうなら、すぐ止めるから」
マーヤが念を押す。
リーネは小さく頷いた。
「……はい」
声はかすれている。
けれど、昨日よりははっきりしていた。
部屋には、俺、クララ、バルト、マーヤ。
神殿側からは監査官エルハルトと書記が一人。
リーネの前には水の入った杯が置かれている。
扉の外にはギルド員が二人。
神殿兵は近づけない。
聖女側の人間も入れない。
リーネを守るため。
そして、証言を守るためだ。
「リーネ」
俺は寝台の横に立った。
「これから正式に話を聞く。無理に全部話さなくていい。答えられる範囲でいい」
リーネは俺を見上げた。
その目には、まだ恐怖が残っていた。
けれど、昨日のような混乱はない。
恐怖の向こうに、決意のようなものが見えた。
「……私が話したことは、残りますか」
「ああ」
俺は記録水晶を指した。
「神殿とギルド、両方に残す」
「消されませんか」
「消させない」
リーネは小さく息を吸った。
そして、震える手で杯を持とうとした。
クララがそっと手を添える。
「ゆっくりで大丈夫です」
「……ありがとうございます」
リーネは水を一口飲んだ。
それから、目を閉じる。
何かを思い出すように。
何かを覚悟するように。
エルハルトが記録水晶を起動した。
青い光が淡く広がる。
「それでは、証言を開始します」
エルハルトの声が部屋に響いた。
「証言者、聖女側仕えリーネ。立会人、神殿監査官エルハルト、探索者ギルド所属バルト、証明者レン・クゼ、薬師マーヤ、クララ。証言内容は神殿監査記録およびギルド記録として同時保管します」
リーネはその言葉を聞き、かすかに肩を震わせた。
正式な場。
正式な記録。
それは彼女を守るものでもあり、逃げられないものでもある。
「リーネ」
エルハルトが静かに問う。
「あなたは、自分の意思で証言しますか」
「……はい」
「誰かに強制されていませんか」
「されていません」
俺の掌は熱を持たなかった。
嘘ではない。
「では、第二箱について話してください。あなたは、認定式用物資第二箱を受け取りましたか」
「はい」
リーネは小さく頷いた。
「受け取りました」
「誰の指示ですか」
リーネは一瞬だけ目を伏せる。
その沈黙に、部屋の空気が重くなった。
だが、彼女は逃げなかった。
「侍女長サーシャ様です」
エルハルトの書記が筆を走らせる。
「サーシャ様は、何と言いましたか」
「聖女様のご意向です、と」
その言葉が出た瞬間、俺の拳に力が入った。
聖女様のご意向。
直接命令ではない。
けれど、従わない選択肢を奪う言葉。
リーネのような側仕えにとって、それは命令と同じだったはずだ。
「具体的な指示は」
「第二箱を、表の保管倉庫ではなく、湿地側の準備班へ回すようにと言われました。記録には、聖女側で調整中と書けばいい、と」
「中身は知っていましたか」
リーネは首を横に振る。
「最初は知りませんでした。香炉具材と、浄化補助材だと聞いていました」
「誰から」
「サーシャ様です」
「箱を開けましたか」
「一度だけ」
リーネの声が震えた。
「サーシャ様に、中身の確認を手伝うよう言われました。壺がありました。焦げた浄化香と、香油の瓶もありました。壺の中身は、黒い泥のように見えました」
マーヤが静かに頷く。
第二箱の中身と一致する。
「その黒い泥について、何と説明されましたか」
「穢れ寄せの泥だと」
リーネは言った。
「湿地に広がった穢れを一か所へ集め、聖女様の浄化を届きやすくするものだと説明されました」
「あなたは信じたのですか」
「……はい」
リーネの目に涙が浮かぶ。
「私は、信じました。聖女様のお役に立てるならと……そう思いました」
クララが唇を噛んだ。
リーネは悪意で動いたわけではない。
聖女を信じた。
サーシャを信じた。
神殿の言葉を信じた。
その結果、第二箱を運んだ。
信じたことまで罪にするのは簡単だ。
だが、本当に裁くべきなのは、信じる気持ちを利用した側だ。
「その後、湿地に異常が出たことを知りましたか」
「はい」
「どう思いましたか」
「最初は、穢れが集まったのだと思いました。でも……白銀草が弱って、浄化杭の反応が鈍くなって……変だと思いました」
「誰かに相談しましたか」
リーネは頷いた。
「サーシャ様に」
「何と言われましたか」
「余計な心配はしなくていい、と。聖女様が浄化なさるから、民には不安を与えないように、と」
記録水晶が淡く光る。
言葉が残っていく。
リーネは続けた。
「でも、私は怖くなりました。第二箱の中身が、湿地を助けるものではないのではないかと。だから、箱の荷札の控えを探しました」
「荷札の控え?」
エルハルトが眉を上げる。
「はい。もし何かあった時、私が何を運んだのか分かるようにと思って……でも、神殿内の記録からは第二箱の項目がなくなっていました」
「消されていた?」
「はい」
リーネは小さく頷く。
「私は、それで本当に怖くなりました。記録がないなら、私が勝手に運んだことにされると思いました」
セイルと同じだ。
トビーとも同じだ。
都合の悪いものを動かさせ、記録を消し、最後は動かした人間に罪を被せる。
何度も見た構図。
誰かを捨て札にするやり方。
「リーネ」
俺は口を開いた。
「昨日、あなたはミコトに会いたくないと言った。理由を話せますか」
リーネの肩が震えた。
部屋の空気が変わる。
マーヤが俺を見る。
無理をさせるな、という目だった。
俺も分かっている。
だが、ここは避けて通れない。
リーネは昨日、ミコトに会えなくてよかったと言った。
それは、彼女の中にある恐怖の証拠だ。
なぜ聖女を恐れるのか。
そこを聞かなければ、ミコトの白さには届かない。
「話せるところだけでいい」
俺は言った。
「……はい」
リーネは目を閉じた。
長い沈黙。
それから、かすれた声で話し始めた。
「私は、聖女様が怖いです」
その一言だけで、部屋の空気が凍った。
聖女が怖い。
側仕えが、そう証言した。
それは小さな言葉だ。
だが、重い。
「なぜですか」
エルハルトが静かに問う。
リーネは唇を震わせた。
「聖女様は……いつも優しいです。声も、表情も、言葉も、全部優しいです。怒鳴ったりしません。命令もしません」
命令しない。
その言葉が引っかかった。
「でも……」
リーネの目から涙が落ちる。
「聖女様が少し困った顔をすると、周りが動くんです」
俺は黙って聞いた。
「聖女様が『民が不安ですね』と言うと、サーシャ様が記録を整えます。聖女様が『このままでは祈りが届きませんね』と言うと、浄化香や香油が準備されます。聖女様が『見える形で安心させられたら』と言うと、祈祷台や板道が整えられます」
クララが息を呑む。
ミコトは命じない。
ただ、望みを言う。
困った顔をする。
悲しそうにする。
それだけで、周囲が動く。
「それは、聖女様の影響力とも言えます」
エルハルトが慎重に言った。
「はい」
リーネは頷いた。
「私も最初は、そう思っていました。聖女様が民を思っているから、みんなが支えたいのだと。でも……」
声が揺れる。
「うまくいかなかった時だけ、動いた人が悪いことになるんです」
その言葉に、俺の胸が冷たくなった。
「マルドゥク様も、サーシャ様も、セイルさんも、私も……聖女様のためだと思って動きました。でも、問題になったら、聖女様は何も命じていないことになる」
リーネは両手を握った。
包帯が巻かれた胸元が、痛むのかもしれない。
けれど、彼女は続けた。
「本当に命じていないんです。だから、嘘ではありません。でも、みんな分かっているんです。聖女様が何を望んでいるのか。どうすれば褒められるのか。どうすれば、聖女様のそばにいられるのか」
記録水晶の青い光が、ゆっくり揺れている。
リーネの言葉は、直接命令の証明ではない。
けれど、ミコトの周囲で何が起きているのかを、初めて形にした。
命令しない支配。
望ませる支配。
失敗した時だけ、周囲を切り離せる支配。
「あなたが聖女様を怖いと思った決定的な理由は?」
俺が聞くと、リーネは唇を噛んだ。
「白い幕のことです」
白い幕。
旧礼拝所でも出た言葉だ。
「話してください」
リーネは頷く。
「聖女様の私室には、祈りの間があります。白い薄布で仕切られていて、側仕えは基本的に幕の外で待ちます。聖女様は幕の中で祈ったり、休まれたりします」
「そこで声を聞いた?」
「はい」
リーネの指が震える。
「湿地の緊急浄化の前夜です。私は香炉を整えるために、祈りの間の外にいました。中には、聖女様とサーシャ様がいたと思います」
「見たのですか」
「姿は見ていません。幕の向こうでした。でも、声は聞こえました」
「何と?」
リーネは一度、目を閉じた。
そして、はっきりと言った。
「『見えるものだけ消せば、民は祈る』」
部屋が静まり返る。
その言葉は、すでに一度聞いている。
だが、正式記録として残ると、重さが違った。
「続きがあります」
リーネが言った。
俺は目を細める。
「続き?」
「はい。聖女様は、こうも言いました」
リーネは震える声で続けた。
「『根の傷まで癒やす必要はありません。民は根を見ませんから』」
マーヤの顔色が変わった。
「根の傷……」
「白銀草のことか」
俺が言うと、マーヤはゆっくり頷いた。
「白銀草は、根に薬効成分を溜める。薬効阻害が残るなら、根に影響が出るわ」
リーネは続ける。
「サーシャ様の声も聞こえました。『薬効に影響が残れば、後で問題になります』と」
「ミコトは何と答えた」
俺の声は、自分でも低く聞こえた。
リーネは顔を青くしながら答えた。
「『後で祈ればいいのです。人は、救われ続けることを望みます。一度で終わる奇跡より、何度も訪れる奇跡の方が、信仰になります』」
クララが口元を押さえた。
バルトが拳を握る。
エルハルトは言葉を失っていた。
マーヤは、怒りで頬を震わせている。
俺は、ただ静かに息を吐いた。
見えるものだけ消せば、民は祈る。
根の傷まで癒やす必要はない。
後で祈ればいい。
何度も訪れる奇跡の方が、信仰になる。
それは、救済ではない。
人の不安を利用する言葉だ。
白銀草の被害を完全に治さず、再び聖女の出番を作る。
民が苦しむ時間さえ、信仰を増やすために使う。
ミコト。
白羽美琴。
お前は、そこまで同じなのか。
あの日もそうだった。
自分が怯えた被害者でいるために、俺の人生を使った。
周囲の正義を使った。
人の痛みを、自分の物語のために使った。
この世界でも同じだ。
湿地の痛みを、聖女の奇跡のために使っている。
「リーネ」
エルハルトの声は、さっきより硬かった。
「その声が聖女ミコト様本人のものだと、断言できますか」
重要な質問だった。
ここで断言できなければ、また逃げ道が残る。
リーネは目を伏せた。
「私は……姿を見ていません」
やはり。
「でも」
リーネは顔を上げた。
「私は、聖女様のおそばでずっと仕えてきました。声も、話し方も、言葉の間も知っています。あれは、聖女様の声でした」
俺の掌は熱を持たない。
リーネは嘘をついていない。
彼女は本気でそう認識している。
だが、証明としてはまだ弱い。
幕の向こう。
姿は見ていない。
声だけ。
ミコトなら言うだろう。
聞き間違いです。
誰かが私の声を真似たのかもしれません。
リーネは重圧で混乱していたのでしょう。
逃げ道が、まだある。
「その会話を聞いた後、あなたはどうしましたか」
俺は聞いた。
「怖くなって、祈りの間を離れました。でも、途中でサーシャ様に見つかりました」
「何と言われた」
「聞いていましたね、と」
リーネの呼吸が浅くなる。
マーヤがすぐに声をかける。
「リーネ、無理しないで」
「大丈夫です」
リーネは首を振った。
「ここを話さないと、また消されます」
その言葉で、誰も止められなくなった。
リーネは続ける。
「サーシャ様は、私に言いました。『聖女様は、民を救うために必要なことを考えておられるだけです。あなたが怖がることではありません』と」
「それから?」
「第二箱のことは忘れるように言われました。湿地の記録についても、余計なことは見ないようにと」
「従ったのか」
「最初は……はい」
リーネは泣きそうな顔で頷く。
「でも、トビーさんが疑われていると聞いて、怖くなりました。次は私かもしれないと思いました。だから、第二箱の荷札の切れ端を湿地に残しました」
俺は目を見開いた。
「荷札の切れ端を残したのは、あなたか」
「はい」
リーネは小さく頷いた。
「全部は持ち出せませんでした。でも、少しだけ破って、祈祷台の近くに落としました。誰かが見つけてくれればと思って」
第23話で見つけた、第二箱の荷札切れ端。
あれは偶然ではなかった。
リーネが残したものだった。
消される前に。
誰かが気づくように。
小さな抵抗として。
「なぜ俺たちに直接言わなかった」
俺が聞くと、リーネは怯えたように肩を縮めた。
「言えませんでした。サーシャ様に見張られていたし……それに、聖女様のことを疑うなんて、誰も信じてくれないと思いました」
その言葉が、胸に刺さった。
誰も信じてくれない。
俺も、そうだった。
嘘だと知っていた。
でも、誰も信じなかった。
美琴の涙の方が強かった。
周囲の正義の方が強かった。
だから俺は壊れた。
「でも、レン様が……」
リーネが俺を見た。
「黒泥のことも、トビーさんのことも、マルドゥク様のことも、証明してくれたから……もしかしたら、話してもいいのかもしれないって……」
「遅くなってすまない」
俺は思わず言った。
リーネは首を横に振った。
「いいえ。私が、もっと早く話せばよかったんです」
「それは違う」
俺は言った。
リーネが目を見開く。
「怖くて言えないようにした側が悪い。言えなかったことまで、あなた一人の罪じゃない」
リーネの顔が歪んだ。
涙がぽろぽろと落ちる。
クララがそっと布を渡した。
リーネはそれを受け取り、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます……」
エルハルトが静かに言った。
「今の証言により、第二箱の荷札切れ端が意図的に残されたものであること、また聖女ミコト様の私室付近で疑わしい会話を聞いたことを記録しました」
声が重い。
神殿監査官として、彼も苦しいのだろう。
これはもう、サーシャ一人の問題ではない。
ミコト本人の言葉に近づいている。
だが、まだ足りない。
幕の向こう。
姿の確認なし。
声のみ。
証明者として、俺はそこを無視できない。
「リーネ」
俺は最後に聞いた。
「あなたがミコトに会いたくない理由は、その会話を聞いたからですか」
リーネは首を横に振った。
「それだけではありません」
まだある。
部屋の空気が、また張り詰めた。
「何ですか」
リーネは震える声で言った。
「聖女様は、私が聞いたことを知っていたと思います」
「なぜそう思う」
「翌日、湿地へ向かう前に、聖女様が私に声をかけました」
リーネの手が布を握る。
「『リーネ、あなたは優しい子ですね。見なくていいものまで見てしまう』と」
俺の背筋に冷たいものが走った。
「それから、聖女様は笑って……こう言いました」
リーネの声が細くなる。
「『でも、優しい子は黙って祈れるはずです』」
クララが震えた。
マーヤが低く呟く。
「脅しじゃない……」
エルハルトは表情を失っていた。
聖女の言葉としては、優しい。
だが、意味は違う。
見なくていいものまで見た。
でも黙って祈れ。
それは、沈黙の要求だ。
しかも、優しさという言葉で包んだ脅し。
「その時、周りに誰かいましたか」
俺は聞いた。
「サーシャ様がいました。ほかの側仕えも少し離れていました。でも、聞こえていたかは分かりません」
「ミコトは、あなたが何を見たか具体的に言いましたか」
「いいえ」
やはり。
直接的な言葉は避けている。
見なくていいもの。
黙って祈れるはず。
曖昧だ。
だが、リーネには十分伝わった。
自分が聞いたことを、聖女は知っている。
そして、黙れと言われている。
「それで、会いたくないのか」
俺が聞くと、リーネは涙を流しながら頷いた。
「はい」
声は震えていた。
だが、はっきりしていた。
「聖女様に会えば、私はまた黙ってしまうと思います。優しい顔で、優しい声で、『大丈夫ですよ』と言われたら……自分が悪いのかもしれないって、思ってしまう」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
それは、暴力とは違う。
怒鳴ることでも、殴ることでもない。
けれど、人の言葉を奪う力だ。
優しさで包み、罪悪感を植え付け、黙らせる。
美琴はそれが上手い。
昔から。
「だから……」
リーネは俺を見た。
「私は、聖女様に会いたくありません」
記録水晶が、その言葉を静かに残した。
聖女側仕えリーネ。
聖女ミコトに会いたくない。
その理由は、恐怖。
沈黙を求められた記憶。
自分が悪いと思わされる感覚。
これは、ミコトを断罪する決定打ではない。
だが、白い聖女像に入ったヒビとしては、十分すぎるほど深かった。
「分かりました」
エルハルトが言った。
「リーネ。あなたの意思を記録します。今後、あなたが望まない限り、聖女ミコト様との面会は行いません」
リーネの顔に、初めて少しだけ安堵が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
マーヤがすぐに前へ出る。
「ここまで。今日はもう終わり」
「でも……」
「終わり」
マーヤの声には、有無を言わせない強さがあった。
「命が先。証言は生きていれば続けられる」
リーネは小さく頷いた。
クララが寝台を整え、マーヤが薬を飲ませる。
リーネは疲れ切ったように目を閉じた。
けれど、その表情は昨日より少しだけ軽く見えた。
話した。
記録に残った。
消されなかった。
それだけで、彼女の中の何かが少し緩んだのかもしれない。
俺たちは隔離室を出た。
廊下に出ると、エルハルトが深く息を吐いた。
「これは……重大です」
「ミコト本人には、まだ届きません」
俺は言った。
エルハルトは驚いたように俺を見る。
「今の証言でも?」
「幕の向こうの声。姿は見ていない。『見なくていいもの』という曖昧な言葉。どれも強いが、逃げ道はあります」
俺は悔しさを噛み殺しながら続けた。
「ミコトなら、言い逃れできます。リーネが疲れていた。声を聞き間違えた。見なくていいものというのは、彼女の体調を心配しただけ。いくらでも」
「あなたは、本当に慎重ですね」
「相手がそういう人間だからです」
ミコトは、直接手を汚さない。
命じない。
断定できる言葉を残さない。
それでも周囲を動かす。
そして、問題になれば白いまま立つ。
だから、俺たちはもっと固い証拠が必要だ。
「ただし、今回の証言で方向は見えました」
バルトが言った。
「聖女の私室。白い幕。祈りの間。そこに何かある」
「はい」
マーヤも頷く。
「それに、白銀草の根の話。ミコト様が本当にそう言ったなら、薬効阻害が根に残ることを知っていた可能性がある」
「知識の出どころが必要ですね」
俺は言った。
「聖女様がなぜ、白銀草の根と薬効阻害を知っていたのか」
普通の聖女なら、浄化の力を持っていても薬草の詳しい仕組みまでは知らないかもしれない。
だが、ミコトは言った。
根の傷まで癒やす必要はない。
それは、白銀草の仕組みを理解している者の言葉だ。
あるいは、誰かから説明を受けていた。
その資料があるはずだ。
聖女の私室。
祈りの間。
浄化儀式資料。
サーシャも言っていた。
穢れ寄せの泥について、聖女様の私室に保管されていた浄化儀式資料で見た、と。
「次は、私室の資料ですね」
クララが言った。
「そうなる」
エルハルトは顔を険しくした。
「聖女様の私室の捜索には、神殿上層の許可が必要です」
「出ますか」
「普通なら、難しい」
「今なら?」
エルハルトは少し考えた。
「リーネの正式証言、サーシャの証明成立、第二箱、白い花の印、旧礼拝所の指示書。これらを揃えれば、限定的な確認なら通せる可能性があります」
「限定的な確認」
「祈りの間と、浄化儀式資料の有無。花印の管理記録。そこまでなら」
俺は頷いた。
「十分です」
もちろん、簡単ではない。
ミコトは抵抗するだろう。
あるいは、抵抗しないかもしれない。
聖女らしく、どうぞお調べくださいと微笑むかもしれない。
その時には、すでに証拠は消えている可能性もある。
だから急ぐ必要がある。
「エルハルトさん」
俺は言った。
「すぐに許可を取ってください」
「分かっています」
「それと、リーネの証言内容は、まだ外には出さない方がいい」
バルトが頷く。
「ミコト側に先回りされる」
「はい」
だが、完全に隠すのも危険だ。
隠している間に消されれば終わり。
難しい。
証拠は、出すタイミングも大事だ。
早すぎれば潰される。
遅すぎれば消される。
「ギルド側には、リーネの正式証言を取ったことだけ記録として残す」
バルトが言った。
「内容は封印。神殿監査官と俺、それからレンの立会いなしでは開けないようにする」
「お願いします」
話が決まる。
次に向かう場所は、聖女の私室。
白い幕の向こう。
今まで、ずっと向こう側にいたミコトの空間だ。
そこに踏み込めるかもしれない。
だが、同時に危険でもある。
ミコトの領域に入るということは、彼女の物語の中に入るということだ。
何が待っているか分からない。
「レン」
クララが俺の袖を小さく引いた。
「無理しないでね」
「無理はするかもしれない」
「そこは、しないって言うところだよ」
前にもバルトに似たようなことを言われた気がする。
俺は少しだけ笑った。
「できるだけ、しない」
「それでも心配」
「分かってる」
クララの心配は、ありがたかった。
俺は自分で思うより、ミコトのことになると冷静ではいられない。
だからこそ、周りの声が必要だった。
俺一人なら、怒りで突っ込んでいたかもしれない。
それでは負ける。
美琴は、そういう相手だ。
隔離室の扉の向こうで、リーネは眠っている。
彼女は証言した。
聖女が怖いと。
会いたくないと。
見えるものだけ消せば、民は祈る。
根の傷まで癒やす必要はない。
何度も訪れる奇跡の方が、信仰になる。
優しい子は黙って祈れるはずです。
そのすべてが、記録に残った。
まだ決定打ではない。
でも、もうただの疑いではない。
白い聖女の影は、確かに濃くなっている。
俺は廊下の窓から、遠くの神殿を見た。
雨に濡れた白い建物。
朝の光を受けて、神殿は静かに輝いている。
その奥に、ミコトの私室がある。
白い幕の向こうに。
彼女が本当に隠したものがある。
「待っていろ」
俺は小さく呟いた。
白羽美琴。
お前は命じなかった。
直接は、何もしていないと言うだろう。
でも、望んだ。
周囲を動かした。
失敗した者を切り離した。
黙るように仕向けた。
そして今も、白い場所に立っている。
なら、俺はその白い場所へ行く。
光で飛ばしたはずの汚れを探す。
幕の向こうに残った声を拾う。
嘘は、全部を消せない。
優しい声でも。
祈りでも。
白い幕でも。
消せないものが、必ず残っている。




