第3話 疑われた少女
森の向こうに見えた煙を目印に、俺は歩き続けた。
腕はまだ痛む。
ライアークロウに引っかかれた傷は、ハンカチで縛っただけだ。血は止まりかけているが、動くたびに鈍い痛みが走る。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
この世界のことは何も分からない。
食べ物もない。
水もない。
金もない。
頼れる知り合いもいない。
あるのは、銀色のペンダントと、拾った棒。
そして、職業《証明者》という意味の分からない力だけだった。
「……生き残るだけでも大変そうだな」
自分で言って、少しだけ笑いそうになった。
笑える状況ではない。
けれど、笑わなければ足が止まりそうだった。
木々の隙間から、少しずつ光が強くなる。
森が開ける。
俺は足を止めた。
そこには、小さな村があった。
木の柵に囲まれた、素朴な村。
畑があり、家畜小屋があり、煙突から白い煙が上がっている。遠くでは、鍬を持った男たちが畑仕事をしていた。
現代日本とは何もかも違う。
けれど、人が暮らしている場所だということだけは分かった。
「……人はいる、か」
俺は棒を杖代わりにして、村の入口へ向かった。
入口には、槍を持った男が立っていた。
門番、というには少し頼りない。革の胸当てを着た、三十代くらいの男だ。
男は俺を見るなり、眉をひそめた。
「おい、止まれ。どこから来た?」
言葉が分かった。
いや、耳に入ってきた音は知らない言語のはずなのに、意味だけが頭に届く。
ペンダントが胸元で淡く光った。
これの力か。
俺は一度、息を整えてから答えた。
「森から来た。道に迷って……」
嘘ではない。
ただ、本当のことも言っていない。
異世界から来ました。
白羽美琴という女を追っています。
そんなことを言って信じてもらえるはずがない。
門番の男は俺の服を見た。
現代のスーツは、転移の影響なのか簡素な旅装のような服に変わっていた。だが、それでもこの世界の村人の服とは違うらしい。
男の視線が、俺の腕の血に止まる。
「その傷は?」
「森で魔獣に襲われた」
「魔獣?」
男の目が細くなる。
「何に襲われた」
「ライアークロウって出た。鑑定では、そう表示された」
男の顔色が変わった。
「ライアークロウだと? あの森に出たのか?」
「多分な」
「倒したのか?」
俺は少し迷ってから、腰に下げていた黒い羽を取り出した。
ライアークロウの羽だ。証拠になるかもしれないと思って、数枚だけ抜いておいた。
男は羽を見るなり、表情を険しくした。
「間違いない。ライアークロウの羽だ」
「村の近くにいるとまずいのか?」
「あいつは人の声を真似る。子供や旅人がよく騙されるんだ。最近は出ていなかったんだが……」
男は俺をもう一度見る。
疑いは消えていない。
だが、少なくとも完全な不審者として追い払う気はなくなったようだった。
「名前は?」
「レン。レン・クゼ」
「レンか。俺はダンだ。この村の見張りをしている」
門番――ダンは、俺の腕を見て小さく息を吐いた。
「その傷なら、村の治療所で診てもらえ。金がないなら、後で何か手伝ってもらう」
「助かる」
俺は頭を下げた。
知らない世界で初めて向けられた、普通の言葉だった。
少しだけ、肩の力が抜ける。
だが、村の中へ入った瞬間、その安堵はすぐに消えた。
広場の方から、怒鳴り声が聞こえた。
「だから、この子が盗んだんだ!」
人だかりができている。
村人たちが広場に集まり、何かを取り囲んでいた。
ダンが顔をしかめる。
「またか……」
「何かあったのか?」
「薬草倉庫の盗みだ。今朝、薬草の詰まった麻袋がなくなった」
「薬草?」
「ああ。怪我人や病人に使う大事なものだ。この村じゃ、薬草は命綱みたいなものだからな」
俺は自分の腕を見る。
この村では、薬草が命に関わるものなのだろう。
村人たちの怒り方も、それなら分かる。
けれど、人だかりの中心を見た瞬間、俺は足を止めた。
そこにいたのは、ひとりの少女だった。
十四、五歳くらいだろうか。
茶色の髪を後ろで結び、古びた服を着ている。膝をついたまま、両手を胸の前で握りしめていた。
少女は泣いていた。
「私、盗んでません……本当に、盗んでないんです……」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
やってない。
盗んでない。
信じてほしい。
その響きは、俺が何度も口にした言葉と同じだった。
「嘘をつくな!」
太った男が少女を怒鳴りつける。
村の中でも立場がある人間なのだろう。服は他の村人より少し良く、指には金属の指輪をはめていた。
「薬草の麻袋はお前の家の近くで見つかったんだぞ!」
広場の中央には、大きな麻袋が置かれていた。
大人が両手で抱えるほどの大きさだ。
口は太い縄で縛られていて、中には薬草がぎっしり詰まっているように見える。底には赤い泥がべっとりと付いていた。
軽いものには見えない。
あれを、この少女が一人で運んだのか。
俺は思わず、麻袋と少女を見比べた。
「でも、私は知りません……」
「弟が病気なんだろう? 薬草が欲しかったんじゃないのか?」
村人たちがざわつく。
「そういえば、クララの弟は寝込んでたな」
「薬草があれば楽になるって聞いたぞ」
「だからって盗むのは駄目だろう」
少女の名前は、クララというらしい。
クララは首を振った。
「違います……弟のためでも、盗んだりしません……」
その言葉は、ほとんど誰にも届いていなかった。
村人たちはもう、クララを犯人として見ている。
俺は無意識に拳を握っていた。
ダンが小さく言う。
「クララは貧しい家の子でな。父親を早くに亡くして、母親と弟の面倒を見ている。悪い子じゃないんだが……状況が悪い」
「証拠は?」
「薬草の麻袋が家の近くに置かれていた。それと、昨夜、倉庫の近くでクララを見たって証言がある」
「それだけか?」
俺がそう言うと、ダンは少し驚いた顔をした。
「それだけ、とは言うがな。この村じゃ十分だ。倉庫に近づいて、盗まれた薬草の麻袋が家の近くにあった。動機もある」
動機。
証言。
状況証拠。
俺は嫌というほど知っている。
それだけで、人は犯人にされる。
「私は……倉庫なんて行ってません……」
クララは震える声で言った。
太った男が顔を赤くする。
「まだ言うか!」
男が手を上げた。
殴るつもりだ。
その瞬間、俺の足が動いていた。
「待て」
広場の空気が止まった。
村人たちの視線が、一斉に俺へ向く。
嫌な視線だった。
見知らぬ余所者を見る目。
厄介ごとに首を突っ込んできた男を見る目。
そして、疑う目。
俺の胃が重くなる。
まただ。
視線が集まるだけで、身体が強張る。
満員電車のホーム。
駅員室。
裁判所。
あの時の記憶が、喉を締めつける。
けれど、クララの泣き声が聞こえた。
「私……やってない……」
俺は奥歯を噛んだ。
逃げるな。
ここで黙ったら、俺はあの時の周囲の人間と同じだ。
俺は太った男を見た。
「その子が盗んだって、本当に証明できるのか?」
男の眉が吊り上がる。
「何だ、お前は」
「通りすがりだ」
「なら黙っていろ。これは村の問題だ」
「だったら、村の中で間違った判断をしてもいいのか?」
ざわめきが広がる。
ダンが慌てて俺に近づく。
「レン、やめておけ。まだ来たばかりのお前が口を出すと――」
「分かってる」
俺は小さく答えた。
「でも、あの子は『やってない』って言ってる」
「犯人はみんなそう言う」
太った男が吐き捨てるように言った。
その言葉で、胸の奥が熱くなった。
犯人はみんな否定する。
俺も、そう言われた。
何度否定しても、その言葉で全部潰された。
だから俺は、静かに言った。
「否定したから犯人なんじゃない。証明できないのに犯人にするのが間違いなんだ」
その時、視界の端に文字が浮かんだ。
《矛盾看破》発動
証言内容に不一致を確認。
俺は目を細めた。
広場に置かれた重い麻袋。
底にべっとりと付いた赤い泥。
クララの靴。
太った男の靴。
周囲の村人たち。
全部を見る。
麻袋についている泥は赤い。
けれど、クララの靴についている泥は黒っぽい。
村の畑道の泥だろう。
赤い泥は、別の場所のものだ。
それに、麻袋は乱暴に置かれていた。
隠したというより、見つけさせるために置かれたように見える。
俺はゆっくりとクララを見る。
「名前は?」
クララは怯えながら俺を見上げた。
「……クララ、です」
「クララ。昨夜、薬草倉庫には行ったか?」
「行ってません」
即答だった。
迷いがない。
俺はさらに聞く。
「じゃあ、昨夜はどこにいた?」
「弟の看病をしていました。夜中に熱が上がって……母さんとずっと家に……」
太った男が鼻で笑う。
「家族の証言など当てにならん」
その瞬間、また文字が浮かぶ。
《矛盾看破》発動
発言者の主張と証拠提示に偏りを確認。
発言者。
太った男。
こいつは最初からクララを犯人にしたがっている。
俺は男を見る。
「あなたの名前は?」
「……村の薬草管理を任されているバルドだ。余所者が偉そうに尋ねるな」
「薬草管理をしているなら、倉庫の鍵も持っているのか?」
バルドの表情が、わずかに動いた。
ほんの一瞬。
だが、俺には見えた。
「鍵は村長と私が管理している」
「クララは鍵を持っていない?」
「持っているわけがない」
「なら、鍵のかかった倉庫からどうやって盗んだ?」
村人たちのざわめきが、少し変わった。
バルドは舌打ちするように言う。
「鍵を盗んだんだろう」
「その鍵は見つかったのか?」
「……まだだ」
「薬草の詰まった麻袋は見つかった。でも鍵は見つかっていない。倉庫の近くでクララを見た証言はある。けど、鍵を盗んだ証拠はない」
バルドの顔が赤くなる。
「何が言いたい!」
俺は広場に置かれた麻袋を見た。
「まだ分からない」
正直に言う。
「でも、少なくとも今ある話だけで、この子を犯人だと決めつけるのは早い」
クララが息を呑んだ。
まるで、初めて誰かが自分の言葉を聞いてくれたような顔だった。
その顔を見た瞬間、胸が痛んだ。
俺も欲しかった。
あの時、誰か一人でいいから。
本当にやったのか、と聞いてほしかった。
犯人だと決めつける前に、俺の言葉を聞いてほしかった。
俺はバルドを見る。
「調べさせてくれ」
「何?」
「この子が盗んだのか。誰かが罪を着せたのか。俺が調べる」
「馬鹿を言うな。余所者のお前に何が分かる」
「分からないから調べるんだ」
広場が静まり返った。
自分でも、無茶を言っているのは分かっている。
この村に来たばかりの余所者。
身分もない。
信用もない。
金もない。
そんな俺が、村の問題に口を出している。
普通なら追い出されてもおかしくない。
それでも、引けなかった。
ペンダントが胸元で淡く光った。
視界に文字が浮かぶ。
《証拠記録》発動準備
冤罪の可能性を検出。
俺は静かに息を吐いた。
やっぱりだ。
この事件には、何かがおかしい。
クララが犯人かどうかは、まだ分からない。
けれど、今ここで彼女を罪人にするには、あまりにも足りない。
俺はクララを見た。
「クララ」
「……はい」
「俺はまだ、君が無実だと証明できるわけじゃない」
クララの表情が少しだけ曇る。
だから、俺は続けた。
「でも、君が本当にやっていないなら、俺が調べる。最後まで」
クララの目に、涙が浮かんだ。
「……信じて、くれるんですか?」
俺は少しだけ黙った。
信じる。
その言葉は、重い。
俺はかつて、信じてほしかった。
けれど、ただ信じるだけでは足りなかった。
必要なのは、信じることだけじゃない。
証明することだ。
「信じるだけじゃ足りない」
俺は言った。
「だから、証明する」
クララは唇を噛みしめた。
その時、クララの視線が広場の麻袋へ向いた。
ほんの一瞬。
何かを言いかけたように見えた。
だが、村人たちの視線を受けて、クララはすぐに口を閉ざした。
俺はそれを見逃さなかった。
あの麻袋について、クララは何か気づいているのかもしれない。
バルドが苛立ったように声を荒げる。
「勝手なことを――」
その時、ダンが間に入った。
「待て、バルドさん。半日だけ時間をやってもいいんじゃないか」
「ダン!」
「ライアークロウを倒して村まで来た男だ。まるきり役立たずではない。それに、もし本当にクララじゃなかったら、薬草を盗んだ奴はまだ村の中にいることになる」
その言葉で、村人たちがざわめいた。
誰かが小さく言う。
「確かに……」
「もし別の奴だったら……」
「でも、クララの家の近くに麻袋が……」
空気が揺れている。
さっきまで完全にクララを犯人だと決めつけていた村人たちの中に、ほんのわずかな疑いが生まれていた。
バルドは苦々しい顔で俺を睨んだ。
「半日だ」
低い声だった。
「日が沈むまでに何も見つけられなければ、この娘を盗人として村長に突き出す」
クララの肩が震える。
俺は頷いた。
「分かった」
時間はない。
情報もない。
味方もほとんどいない。
それでも、やるしかない。
俺は麻袋に視線を落とした。
大人が両手で抱えるほどの重さ。
底に擦りついた赤い泥。
鍵の行方。
倉庫の近くでクララを見たという証言。
クララが一瞬だけ見せた、言いかけた表情。
ひとつずつ拾う。
現代で、自分の無実を証明するためにやったように。
俺はもう一度、心の中で呟いた。
やっていないと叫んでも、誰も信じてくれない苦しみを、俺は知っている。
だから今度は、俺が証明する。
この子が本当に罪人なのか。
それとも、誰かに罪を着せられただけなのかを。




