第29話 生きている証人
ギルドの薬室に着いた時、リーネの顔は紙のように白くなっていた。
馬車の中でマーヤが応急処置を続けていたが、傷は浅くなかった。
しかも、刃に塗られていた香油と黒泥由来の成分が厄介だった。
普通の治療薬が効きにくい。
血止めの薬草も、効きが遅い。
マーヤは薬室に入るなり、戸棚を開けて薬瓶を並べた。
「クララ、清水の瓶を三本。そこの青い布も取って」
「はい!」
「バルトさん、外に誰も入れないで。神殿関係者も駄目。エルハルト監査官だけは記録のために残って」
「分かった」
マーヤの声に迷いはなかった。
さっきまでの軽さは消えている。
薬師として、今は目の前の命だけを見ていた。
リーネは寝台に寝かされる。
白い側仕え服は泥と血で汚れていた。
胸元の傷口からは、黒ずんだ血がにじんでいる。
マーヤは傷の周囲を洗い流しながら、顔をしかめた。
「やっぱり薬効阻害が入ってる。これ、ただ殺すだけじゃないわね」
「どういう意味だ」
俺が聞くと、マーヤは手を止めずに答えた。
「傷を治りにくくするための調合よ。普通に刺すより、助かる可能性を下げる。しかも、治療が遅れれば遅れるほど効いてくる」
クララが唇を噛んだ。
「ひどい……」
「あの男たちは、リーネを確実に消すつもりだった」
俺は言った。
口に出すと、怒りが胸の底で重く沈んだ。
口封じ。
証人殺し。
それを、神殿の近くにいる誰かが命じた。
ミコト本人か。
サーシャか。
それとも、また別の誰かか。
まだ断定はできない。
だが、確かなことはある。
リーネは生きている。
だから、まだ証言できる。
だからこそ、危険だ。
「レン」
バルトが薬室の入口から声をかけてきた。
「捕らえた男たちは別室に拘束した。ギルド員二人を見張りにつけている」
「神殿兵は?」
「エルハルト監査官の指示で外に待機だ。こちらの許可なしでは入れない」
俺は頷いた。
ギルドの中なら、少なくとも神殿の手は届きにくい。
だが、完全に安全とは言えない。
マルドゥクは神殿管理官だった。
リーネは聖女側近だった。
サーシャは聖女付き侍女長。
神殿の中にどこまで手が伸びているのか、まだ見えていない。
見えていないものほど怖い。
白羽美琴は、いつも見える場所では綺麗に笑っている。
だから、その影がどこまで伸びているのか分からない。
「リーネは助かるのか」
俺が聞くと、マーヤは一瞬だけ黙った。
その沈黙で、薬室の空気が冷えた。
「助ける」
マーヤは短く言った。
「助かるかじゃない。助けるの」
それ以上は聞かなかった。
聞いても意味がない。
今は、マーヤを信じるしかない。
俺は薬室の隅に移動し、エルハルトと向き合った。
エルハルトは旧礼拝所から持ち帰った証拠を机に並べていた。
第二箱。
割れた壺。
黒泥の乾いた塊。
焦げた浄化香。
香油瓶の破片。
白い花の印が押された指示書。
裏門で拾った封蝋の欠片。
リーネの部屋から出た燃え残り。
ひとつひとつが、小さな証拠だ。
だが、それらが並ぶと、一本の線になる。
湿地から神殿へ。
神殿から聖女側近へ。
聖女側近から侍女長サーシャへ。
そして、その先に。
聖女ミコトの白い影がある。
「記録を作る必要があります」
エルハルトが言った。
「旧礼拝所での出来事、捕縛した男たちの発言、リーネの証言、発見した指示書。すべて正式に残します」
「神殿の記録ですか」
「神殿監査記録です。ただし、ギルドにも写しを残します」
バルトが部屋に入りながら言った。
「当然だ。神殿だけに預けるわけにはいかん」
エルハルトは反論しなかった。
むしろ、少し苦い顔で頷く。
「その判断は妥当です。マルドゥク元管理官の件で、神殿内部の記録が改ざんされていたことは事実ですから」
神殿の監査官が、それを認めた。
それだけで重い。
神殿は絶対ではない。
神殿の記録も、汚される。
民衆の前ではまだ言えないことだろう。
だが、少なくともこの部屋では、それが前提になり始めている。
「リーネの証言は、本人が回復してから正式に取るべきです」
エルハルトが続けた。
「ただ、旧礼拝所での発言はあなた方も聞いている。今のうちに、立会人の証言として記録します」
「分かりました」
俺は頷いた。
リーネが言った言葉。
白い封書。
聖女様の部屋。
侍女長サーシャ。
聖女様のご意向。
白い幕の向こうの声。
見えるものだけ消せば、民は祈る。
一つずつ思い出す。
間違えてはいけない。
盛ってもいけない。
感情で言葉を増やしてもいけない。
俺がやるべきことは、怒ることではない。
証明することだ。
「旧礼拝所で、リーネはこう言いました」
俺は記録水晶の前で話し始めた。
「第二箱について、自分だけの判断ではない。白い封書は聖女ミコトの部屋から来た。侍女長サーシャが、聖女様のご意向だと伝えた」
水晶が薄く光る。
俺の声を記録している。
「それから、リーネは白い幕の向こうで聖女ミコトの声を聞いたと証言しました」
エルハルトの表情が硬くなる。
「言葉は」
俺は少しだけ息を吸った。
「見えるものだけ消せば、民は祈る」
その言葉を口にした瞬間、薬室の空気が変わった。
マーヤの手が一瞬だけ止まる。
クララが顔を歪める。
バルトは目を閉じた。
エルハルトは記録水晶を見つめたまま、何も言わない。
見えるものだけ消せば、民は祈る。
それは、聖女の言葉としてはあまりにも冷たい。
だが、白羽美琴の言葉としては、妙に納得できてしまう。
見える涙。
見える怯え。
見える被害者。
彼女は昔から、見えるものの使い方が上手かった。
そして周囲は、それを信じた。
「ただし」
俺は続けた。
「リーネは白い幕越しに声を聞いたと言っています。姿を直接確認したわけではありません。したがって、現時点で聖女ミコト本人の発言だと証明するには不十分です」
クララが驚いたように俺を見る。
「レン……」
「不十分なものは、不十分だ」
俺は言った。
悔しい。
本当は今すぐ突きつけたい。
あの女の笑顔を剥がしたい。
民衆の前で、あの日と同じように泣いて逃げる姿を暴きたい。
だが、駄目だ。
証明できないものを証明したと言えば、俺も嘘を使う側になる。
それだけはできない。
エルハルトは、俺をじっと見ていた。
「あなたは、ずいぶん慎重ですね」
「慎重じゃなければ、あいつに届かない」
「あいつ?」
俺は少しだけ黙った。
「聖女ミコトです」
エルハルトはそれ以上聞かなかった。
だが、彼の目には疑問が残っていた。
俺とミコトの間に何があるのか。
なぜ俺がここまで彼女にこだわるのか。
いつか話す時が来るかもしれない。
だが、今ではない。
今は、この世界の証拠が先だ。
「私からも確認する」
バルトが記録水晶の前に立った。
「旧礼拝所で、外套の男二名がリーネを殺害しようとした。短剣には薬効阻害反応を持つ香油が塗られていた。男たちはリーネを『使い終わった札』と呼んだ」
水晶が光る。
続いて、クララも証言した。
「リーネさんは、自分は逃げたんじゃないと言いました。箱を運ぶよう命じられたけど、中身までは知らなかったと言っていました」
クララの声は少し震えていた。
だが、最後まで言い切った。
マーヤは治療の手を止めずに、短く証言する。
「傷口から薬効阻害反応あり。旧礼拝所の床の香油と同系統。短剣に塗られていたものも同じ可能性が高い。リーネを助けるのではなく、治療を妨害して死なせる目的の調合と判断します」
エルハルトはすべてを記録した。
書記が写しを取り、ギルド側の記録にも同じ内容が残される。
記録が二つになる。
片方を消しても、もう片方が残る。
嘘は、全部を消せない。
その形を、俺たちは作っている。
しばらくして、マーヤがようやく大きく息を吐いた。
「……出血は止まった」
クララが目を潤ませる。
「助かるんですか?」
「まだ油断はできない。でも、今夜を越えられれば可能性は高い」
俺は力が抜けそうになった。
リーネはまだ意識を失っている。
顔色も悪い。
でも、呼吸はさっきより落ち着いている。
生きている。
証人は、生きている。
「よかった……」
クララが小さく呟いた。
その言葉を聞いて、俺も初めて少しだけ息を吐いた。
証拠としてだけではない。
人として、生きていてよかった。
そんな当たり前のことを、忘れそうになっていた。
「レン」
バルトが俺を呼んだ。
「次はサーシャだ」
「はい」
「エルハルト監査官。サーシャの身柄確認は?」
エルハルトは部下から受け取った小さな通信札を見た。
「神殿に問い合わせています。聖女付き侍女長サーシャは、現在、聖女様の休息対応中とのことです」
「便利な理由ですね」
俺は思わず言った。
エルハルトは苦い顔をする。
「否定はしません。ですが、聖女様の私室周辺は神殿内でも特別扱いです。私でも簡単には踏み込めません」
「その間に証拠を消される」
「だから、先ほど正式に監査命令を出しました。サーシャに対し、今夜中に身柄確認と事情説明を求めています」
「来ますか」
「普通なら来ます」
エルハルトはそこで言葉を切った。
「ですが、今の状況では分かりません」
逃げる可能性もある。
リーネのように消される可能性もある。
あるいは、堂々と来て嘘をつく可能性もある。
サーシャがどのタイプか、まだ分からない。
だが、ミコトの近くにいる以上、簡単な相手ではないはずだ。
「捕らえた男たちは?」
俺は聞いた。
「黙秘を続けています」
バルトが答えた。
「ただし、サーシャの名を出した時の反応は記録してある」
「証拠としては弱いですね」
「ああ。だが、尋問次第では崩せる」
男たちはミコト本人に雇われたわけではないと言った。
リーネでもマルドゥクでもない。
サーシャの名には反応した。
白い花の印を使える人間は、ミコト、リーネ、サーシャ。
リーネは被害者。
ミコト本人にはまだ直接繋がらない。
なら、サーシャだ。
次の壁は、そこにある。
薬室の外が騒がしくなったのは、その時だった。
足音。
誰かが言い争う声。
バルトがすぐに扉へ向かう。
「ここは治療中だ。誰も入れるなと言ったはずだ」
外からギルド員の声が返る。
「バルトさん、神殿から使者です」
「使者?」
「聖女付き侍女長サーシャ様の代理だと」
室内の空気が一気に張り詰めた。
エルハルトが立ち上がる。
「通してください」
扉が開く。
入ってきたのは、若い神官だった。
顔色は悪く、手には白い封筒を持っている。
封には、白い花の印が押されていた。
俺の掌が、わずかに熱を持つ。
同じ印。
旧礼拝所の指示書に押されていた印と、よく似ている。
神官は薬室の空気に圧倒されながら、深く頭を下げた。
「サーシャ様より、監査官エルハルト様へ書状です」
エルハルトは封筒を受け取らなかった。
「その場で読み上げなさい」
神官が目を見開く。
「こ、ここでですか」
「ここでです。記録水晶の前で」
「ですが、聖女様の私的な内容が」
「今は監査案件です」
エルハルトの声は硬かった。
神官は迷った末、封を開けた。
白い花の封蝋が割れる。
その音が、やけに大きく聞こえた。
神官は紙を広げ、震える声で読み上げる。
「侍女長サーシャより、監査官エルハルト様へ。現在、聖女ミコト様は湿地浄化後の消耗により休息中です。聖女様の身辺に関わる者への過度な聴取は、聖女様のご回復を妨げる恐れがあります」
クララが小さく眉を寄せる。
俺は黙って聞く。
「側仕えリーネにつきましては、近頃精神的な不安定さが見られ、言動に混乱がありました。彼女の発言を正式な証言として扱うことは、慎重になさるべきかと存じます」
薬室の空気が冷えた。
リーネの証言を潰しに来た。
やはり、そう来る。
彼女は精神的に不安定だった。
だから証言は信用できない。
痴漢冤罪の時にも似たような言葉を聞いたことがある。
男は動揺している。
被害者を責めている。
反省がない。
都合の悪い証言は、相手の人格を壊して無効にする。
そのやり方は、世界が違っても変わらない。
神官は続けた。
「また、リーネは聖女様の私的情報に触れる立場にあった者です。保護および情報管理の観点から、身柄は速やかに神殿へ返還されるべきです」
「返還……?」
クララが怒りを含んだ声で呟く。
リーネは物ではない。
使い終わった札でもない。
返還される荷物でもない。
マーヤも露骨に顔を歪めた。
「治療中の患者を返せって言ってるの?」
神官はびくりと肩を震わせる。
「わ、私は読み上げているだけで……」
「続けなさい」
エルハルトが言った。
声は低い。
神官は喉を鳴らし、最後の文を読んだ。
「なお、聖女様は此度の混乱に深く心を痛めておられます。神殿内の秩序回復のためにも、根拠の薄い疑念が外部に広がらぬよう、関係者各位には慎重な対応をお願い申し上げます」
読み終えると、神官は紙を下ろした。
薬室は静まり返っていた。
根拠の薄い疑念。
リーネの精神的不安定。
神殿へ返還。
聖女様は心を痛めている。
あまりにも綺麗に整った文章だった。
表面だけを見れば、穏当で丁寧だ。
聖女を守るため。
神殿の秩序を守るため。
患者を保護するため。
けれど、その下にあるものは見える。
リーネを渡せ。
証言を弱めろ。
疑いを広げるな。
聖女には触れるな。
白い紙の上に、黒い筋が走っているようだった。
「レン」
クララが小さく呼ぶ。
俺は右手を見た。
掌が熱い。
まだ刃は出していない。
だが、反応している。
この書状の中に、嘘がある。
「エルハルトさん」
俺は言った。
「その書状、記録として保全してください」
「もちろんです」
「それから、一つ確認したい」
俺は神官を見た。
彼は怯えた顔で俺を見る。
「この書状は、サーシャ本人が書いたものですか」
「は、はい。少なくとも、私はサーシャ様から直接渡されました」
刃は鳴らない。
本当だ。
「サーシャはどこにいましたか」
「聖女様の私室前です」
これも鳴らない。
「ミコトは?」
「聖女様は休息中で、私はお姿を拝見しておりません」
鳴らない。
つまり、この神官は本当に見ていない。
「サーシャは、この書状を渡す時、何と言いましたか」
神官は迷った。
「そのまま言え」
バルトが低く促す。
神官は青い顔で答えた。
「リーネは混乱している。聖女様のためにも、早くこちらへ戻さなければならない、と」
刃が、微かに鳴った。
全員がその音を聞いた。
神官の顔から血の気が引く。
「い、今のは、私が言ったのではなく、サーシャ様が」
「分かっている」
俺は言った。
「嘘に反応したのは、お前じゃない。その言葉だ」
リーネは混乱している。
早く戻さなければならない。
その中に、嘘がある。
リーネが混乱しているという部分か。
聖女のためという部分か。
保護のためという部分か。
まだ切り分ける必要がある。
だが、反応した。
サーシャの言葉に。
「サーシャに伝えてください」
俺は神官に言った。
「リーネは神殿へ返しません」
神官が震える。
「ですが」
「彼女は殺されかけた。短剣には薬効阻害反応があった。旧礼拝所では第二箱と指示書が見つかった。捕らえた男たちは、彼女を消しに来た」
俺は一歩近づいた。
「今のリーネは、神殿関係者ではなく、保護対象の証人です」
神官は何も言えなくなった。
「それから、もう一つ」
俺は続けた。
「サーシャ本人に、事情聴取へ来るよう伝えてください」
「それは……」
「拒むなら、拒んだ事実を記録します」
エルハルトが続けた。
「監査官として正式に命じます。聖女付き侍女長サーシャには、今夜中にギルドへ出頭し、リーネ、第二箱、白い花の印、旧礼拝所の件について説明を求めます」
神官は深く頭を下げた。
「つ、伝えます」
彼は逃げるように薬室を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく誰も話さなかった。
マーヤがぽつりと言う。
「リーネを神殿に返せって、すごいわね」
「ああ」
バルトが低く答える。
「保護じゃない。回収だ」
「証人を回収するってこと?」
クララが言う。
その言葉は、ひどく正確だった。
リーネは証人だ。
だから、彼女たちは返せと言う。
証言される前に。
正式記録になる前に。
あるいは、二度と話せなくなる場所へ。
「レン」
クララが不安そうに言った。
「サーシャ、来るかな」
「来ると思う」
「どうして?」
「リーネを渡さないと分かった。なら、次は自分で確認しに来る」
サーシャが本当に賢いなら、逃げるかもしれない。
だが、逃げれば疑いは濃くなる。
侍女長という立場にいる以上、簡単には姿を消せない。
それに、彼女はまだこちらを甘く見ている可能性がある。
リーネは混乱している。
証人として弱い。
レンは疑いに囚われた危険人物。
神殿の監査官も、聖女の名を出せば止まる。
そう考えているなら、堂々と来る。
そして、言葉で場を整えようとする。
マルドゥクのように。
ミコトのように。
「来るなら、準備が必要ね」
マーヤが言った。
「リーネを別室に移す。薬室の場所を知られたくない」
「今から動かせるのか」
「短い距離なら。奥の隔離室を使うわ。ギルド員以外は入れない場所」
「頼む」
バルトがすぐに手配する。
リーネは慎重に運ばれた。
眠ったままだった。
だが、呼吸は安定している。
クララが付き添い、マーヤは薬を持って移動する。
俺はその背中を見送った。
リーネを守る。
言葉にするのは簡単だ。
だが、守るというのは、証拠を守ることだけではない。
眠っている間も。
弱っている間も。
証言できない時も。
彼女の存在を消させないことだ。
俺はそれを、あの日できなかった。
自分自身の声さえ守れなかった。
だから今、せめて他人の声は守りたい。
それが正義なのか、復讐なのかは分からない。
でも、今はそれでいい。
夜が深くなる。
ギルドの会議室に、証拠品が並べられた。
第二箱。
指示書。
封蝋。
燃え残り。
記録水晶。
捕らえた男たちの供述記録。
リーネの暫定証言。
そのすべてを前に、俺たちはサーシャを待った。
時間が過ぎる。
外の廊下を歩く音がするたび、全員が顔を上げる。
だが、来ない。
逃げたのか。
証拠を消しているのか。
ミコトと口裏を合わせているのか。
苛立ちが胸の奥に溜まる。
焦るな。
俺は自分に言い聞かせた。
焦れば、相手の思うつぼだ。
証明は、怒りで急がせるものではない。
その時、ギルドの入口の方から静かな足音が聞こえた。
騒がしさはない。
むしろ、不自然なほど整った歩調だった。
バルトが立ち上がる。
エルハルトも背筋を伸ばした。
扉が叩かれる。
「入れ」
バルトが言った。
扉が開いた。
入ってきたのは、三十代ほどの女だった。
深い紺色の侍女服。
白い手袋。
きっちりと結い上げた髪。
背筋はまっすぐで、表情に隙がない。
目元は穏やかだが、その奥は冷たい。
彼女は部屋に入ると、誰よりも先に証拠品を見た。
第二箱。
指示書。
白い花の印。
それから、俺を見た。
「聖女付き侍女長、サーシャと申します」
声は落ち着いていた。
リーネが殺されかけたことも。
第二箱が見つかったことも。
自分が疑われていることも。
すべて知った上で、揺れていない。
サーシャは丁寧に頭を下げた。
「此度は、聖女様の周辺で混乱が生じ、ご迷惑をおかけしております」
綺麗な謝罪だった。
だが、謝っている対象がぼやけている。
誰に。
何を。
なぜ。
それを曖昧にしたまま、形だけを整えている。
俺は、その喋り方を知っている。
美琴の周囲にいた大人たちも、よく同じことを言った。
ご心配をおかけしました。
誤解を招きました。
混乱がありました。
でも、誰が何をしたのかは言わない。
「サーシャ様」
エルハルトが口を開く。
「あなたには、第二箱、リーネ、白い花の印、旧礼拝所で発見された指示書について説明を求めます」
「承知しております」
サーシャは静かに答えた。
「ただ、その前に一つ確認させてください」
「何でしょう」
「側仕えリーネは、こちらに保護されていると伺いました」
「はい」
「無事なのですか」
その声には心配する響きがあった。
だが、俺の掌がわずかに熱を持つ。
演技だ。
少なくとも、その心配は綺麗すぎる。
「生きています」
俺が答えた。
サーシャの目が、ほんの一瞬だけ動いた。
安堵ではない。
計算が狂った者の目。
すぐに彼女は表情を戻した。
「それは何よりです」
刃が小さく鳴った。
室内に、澄んだ音が落ちる。
サーシャの視線が、俺の右手へ向いた。
初めて、彼女の顔からわずかに温度が消えた。
俺は言った。
「今の言葉、嘘ですね」
会議室の空気が凍った。
サーシャは微笑みを崩さない。
だが、目だけは笑っていなかった。
「証明者レン・クゼ様」
彼女は静かに言った。
「人の心配まで、嘘と断じるのですか」
「断じていません」
俺は右手を上げる。
透明な刃が、淡く浮かんだ。
「反応しただけです」
サーシャは黙った。
エルハルトが息を呑む。
バルトが剣に手を置く。
マーヤとクララは別室にいる。
リーネは生きている。
証拠は目の前にある。
そして、サーシャはここに来た。
ミコト本人には、まだ届かない。
だが、その影の輪郭は、今、俺の目の前に立っている。
俺はサーシャを見据えた。
「では、始めましょう」
《反証の刃》が、静かに光った。
「聖女付き侍女長サーシャ。あなたが何を知っているのか、証明します」




