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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第28話 証人保護



 旧礼拝所の入口に、外套を着た男が二人立っていた。


 顔は深い布で隠している。


 神殿兵ではない。


 探索者にも見えない。


 だが、立ち方に隙がなかった。


 護衛。


 いや、違う。


 護衛なら、倒れているリーネを見て駆け寄る。


 この男たちは、リーネを見ても眉ひとつ動かさなかった。


 それどころか、短剣を抜いている。


 刃には黒い油のようなものが塗られていた。


 香油。


 黒泥。


 薬効阻害。


 湿地で見たものと同じ匂いがする。


「その女は置いていってもらう」


 男の一人が言った。


 低い声。


 感情のない声。


 俺はリーネの前に立った。


 背後では、マーヤがリーネの傷口を押さえている。


 クララは杖を構え、エルハルトは白い花の印が押された指示書を守るように胸に抱えていた。


 バルトはすでに剣を抜いている。


 ギルドの探索者二人も左右に散っていた。


 逃げ道は狭い。


 礼拝所の中は古く、足場も悪い。


 床には香油が撒かれている。


 踏み方を間違えれば滑る。


 傷口に入れば、マーヤの薬も効きにくくなる。


 相手はそれを分かっている。


 ここは、リーネを殺すために用意された場所だ。


「誰の命令だ」


 俺が尋ねると、男は笑った。


「命令?」


「ああ」


「俺たちは、神殿の不始末を処理しているだけだ」


 神殿。


 また、その言葉だ。


 誰かが罪を押し付ける時。


 誰かが人を黙らせる時。


 いつも大きな名前を使う。


 神殿。


 聖女。


 正義。


 秩序。


 大きな言葉は、人を踏み潰す時に便利だ。


「その処理に、リーネの命も含まれるのか」


「余計な証言を残す者は、火種になる」


 男の声は変わらない。


「火種は早めに消す」


 クララが息を呑んだ。


 マーヤの手に力が入る。


 リーネは薄く目を開けたまま、声も出せずに震えていた。


 彼女は、この男たちを知っているのかもしれない。


 あるいは、知らないからこそ恐ろしいのかもしれない。


「火種か」


 俺は右手を上げた。


 透明な刃が、掌の中に浮かぶ。


 《反証の刃》。


 それは、人を斬るための刃ではない。


 嘘を斬るための刃だ。


 けれど、嘘で誰かを殺そうとするなら。


 俺はその嘘ごと、前に出る。


「違うな」


 俺は言った。


「リーネは火種じゃない。証人だ」


 刃が淡く光る。


 男たちの目が、布の奥で細くなった。


「証人?」


「第二箱。白い封蝋。見える穢れを優先。聖女の部屋から出た封書。お前たちは、それを消しに来た」


「知らんな」


 男が短く答えた。


 その瞬間。


 刃が鳴った。


 澄んだ音が、礼拝所の中に響く。


 男の肩がわずかに揺れた。


 嘘に反応した。


 今の言葉は、嘘だ。


「知らない、は嘘だ」


 俺が告げると、男の雰囲気が変わった。


 笑みが消える。


 かわりに、明確な殺意が出た。


「面倒な職業だな」


「よく言われる」


 次の瞬間、男が踏み込んだ。


 速い。


 床の香油を避け、乾いた石の部分だけを選んで走ってくる。


 短剣の狙いは、俺ではない。


 俺の背後。


 リーネだ。


「させるか!」


 バルトが横から割り込んだ。


 剣と短剣がぶつかる。


 硬い音が礼拝所に響いた。


 男は力で押し切ろうとはしない。


 すぐに体を沈め、バルトの剣を受け流す。


 もう一人の男が、壁際を回り込んでくる。


 クララが杖を向けた。


「風よ!」


 短い詠唱とともに、礼拝所の床を風が走る。


 香油の上に浮いた黒い粉が舞い上がり、男の足元を乱した。


 男が舌打ちする。


「小娘が」


 短剣がクララへ向いた。


 俺は反射的に前へ出た。


「クララ!」


 刃を振る。


 《反証の刃》が短剣に触れた。


 金属を斬った感触はない。


 だが、刃に塗られていた黒い油が、淡い光に焼かれるように弾けた。


 男が目を見開く。


「何をした」


「その刃の正体を証明しただけだ」


 黒い油が床に落ちる。


 じゅ、と嫌な音を立てて、石の上に染みた。


 マーヤが叫ぶ。


「やっぱり薬効阻害反応! 傷に入れられたら治療が遅れる!」


「殺す気だったってことか」


 バルトの声が低くなる。


 男は答えない。


 答えないが、それで十分だった。


 沈黙は、時々言葉より分かりやすい。


 バルトが踏み込む。


 今度は鋭い一撃だった。


 男は短剣で受けようとしたが、力負けして後ろへ下がる。


 その足が香油に滑った。


 わずかな隙。


 ギルド探索者の一人が横から体当たりし、男を壁に叩きつけた。


「ぐっ……!」


 男の手から短剣が落ちる。


 しかし、もう一人はまだ動いていた。


 そいつは俺を無視し、クララの横を抜けてリーネへ向かう。


 マーヤは治療中で動けない。


 リーネは逃げられない。


 エルハルトは指示書を抱えたまま、剣も持っていない。


 俺は前に出た。


 怖くないわけじゃない。


 相手は殺しに来ている。


 俺は剣士ではない。


 バルトほど強くもない。


 でも、後ろにいるのは証人だ。


 ここでリーネが殺されれば、また証言は消える。


 また、誰かが都合のいい物語を作る。


 リーネは逃亡した。


 証拠品を持ち出した。


 罪を恐れて自害した。


 いくらでも嘘を作れる。


 そんなことは、もう許さない。


「どけ」


 男が短剣を振る。


 俺は刃を合わせた。


 重い。


 腕が痺れる。


 透明な《反証の刃》は、普通の武器とは違う。


 だが、相手の殺意まで軽くしてくれるわけではない。


 短剣が押し込まれる。


 目の前に、布で隠された男の顔。


 その奥の目だけが、冷たく光っている。


「証明者」


 男が低く言った。


「お前も消える側だ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。


 消える側。


 あの日、俺もそうだった。


 誰かの都合のいい話の中で、俺は消された。


 声を聞かれず。


 名前を汚され。


 人生を壊され。


 社会の中から、最初からいなかったみたいに押し出された。


 消える側。


 もう、嫌というほど知っている。


「違う」


 俺は歯を食いしばった。


「俺は、消えなかった」


 刃に力を込める。


 透明な光が強くなる。


「消されたままでは、終わらなかった」


 短剣に塗られた黒い油が、光に触れて崩れる。


 男の手元がわずかに滑った。


 俺はその瞬間、刃を横に払う。


 短剣そのものは折れない。


 だが、その短剣にまとわりついていた黒い反応だけが斬れた。


 男がたたらを踏む。


「バルトさん!」


「分かってる!」


 バルトが横から入り、男の腕を剣の柄で打った。


 鈍い音。


 短剣が床に落ちる。


 ギルド探索者がすかさず男を押さえつけた。


 もう一人も壁際で拘束されている。


 礼拝所の中に、荒い息だけが残った。


 俺は肩で息をしながら、刃を下ろした。


 掌が熱い。


 腕が重い。


 でも、リーネは生きている。


 それだけで十分だった。


「リーネは?」


 俺が振り返ると、マーヤが必死に処置を続けていた。


「まだ大丈夫。でも長くはもたない。薬効阻害が邪魔してる。普通の治療薬が効きにくい」


「どうすれば」


「黒泥成分を洗い流す必要がある。ここじゃ無理。神殿の治療室か、ギルドの薬室へ運ぶ」


「神殿は危険じゃない?」


 クララが言った。


 当然の不安だった。


 神殿内でリーネは消された。


 聖女側の通行札が使われた。


 神殿へ戻すことが安全とは限らない。


 エルハルトの顔が険しくなる。


「本来なら神殿の治療室ですが……今はギルドの方が安全でしょう」


 その判断は早かった。


 神殿監査官でありながら、彼は神殿の安全を信用しきれなくなっている。


「ギルドへ運ぶ」


 バルトが決めた。


「馬車を使う。だが、あの馬車は証拠品も積んでいる」


「箱は?」


「別の者に保全させる。エルハルト監査官、記録を」


「分かっています」


 エルハルトは指示書と第二箱を見た。


 手がわずかに震えている。


 彼にとっても、この証拠は重すぎるのだろう。


 白い花の印。


 聖女の部屋から出た封書。


 見える穢れを優先。


 リーネを退かせること。


 その言葉は、マルドゥク一人の罪では説明できない。


 だが、まだミコト本人にも届かない。


 届きそうで、届かない。


 その距離が、気持ち悪いほど計算されている。


 俺は拘束された男たちに近づいた。


 二人とも黙っている。


 布を外すと、どちらも知らない顔だった。


 神殿兵ではない。


 町の者にも見えない。


 首元には、小さな黒い紐が巻かれている。


 その先に、煤けた金属片。


「これは?」


 俺が聞くと、マーヤが一瞬だけ見た。


「傭兵符ね。正規じゃない雇われの護衛や荒事屋が使うやつ」


「誰に雇われた」


 男は黙っている。


「答えろ」


 バルトが低く言う。


 男は口元だけで笑った。


「知らない」


 刃が鳴った。


 嘘だ。


 俺はため息をついた。


「今さらその嘘は無理だ」


 男の顔が歪む。


「名前は」


 俺が問う。


「知らない」


 また刃が鳴る。


 クララが小さく呟いた。


「嘘、下手……」


 状況が状況でなければ笑えたかもしれない。


 だが、今は笑えない。


 相手はリーネを殺そうとした。


 証人を消そうとした。


「誰に雇われた」


 俺はもう一度聞いた。


 男は黙った。


 刃は鳴らない。


 黙秘は嘘ではない。


 厄介だ。


「なら、質問を変える」


 俺は男の目を見た。


「お前たちは、リーネを護衛するために来たのか」


「……そうだ」


 刃が鳴る。


 嘘。


「リーネを殺すために来たのか」


 男は黙った。


 刃は鳴らない。


 沈黙。


 だが、それだけで十分だった。


 エルハルトの顔が青くなる。


「神殿関係者を殺害しようとした疑いがある。拘束を強めなさい」


 神殿兵が男たちの腕を縛る。


 男の一人が舌打ちした。


「神殿関係者? よく言うぜ」


 俺は反応した。


「どういう意味だ」


 男は口を閉じる。


「リーネは神殿関係者じゃないのか」


「……」


「お前たちは、リーネを何だと思っている」


 男は黙ったままだ。


 だが、もう一人の男が小さく笑った。


「使い終わった札だろ」


 その言葉に、リーネの目が震えた。


 使い終わった札。


 駒。


 捨て札。


 マルドゥクも、セイルも、トビーも。


 そしてリーネも。


 誰かの都合で置かれ、動かされ、用が済めば捨てられる。


 俺は男の胸ぐらを掴みそうになった。


 その前に、バルトの手が俺の肩に置かれる。


「レン」


「……分かってます」


 感情で動けば、相手の思うつぼだ。


 俺は息を吐き、手を下ろした。


「雇い主は、聖女ミコトか」


 男は笑った。


「聖女様が俺たちみたいなのを雇うかよ」


 刃は鳴らない。


 嘘ではない。


 少なくとも、男はミコト本人から直接雇われてはいない。


 やはり、間に誰かがいる。


「リーネか」


「違う」


 刃は鳴らない。


 リーネでもない。


「マルドゥクか」


「違う」


 刃は鳴らない。


 マルドゥクでもない。


 じゃあ誰だ。


 聖女側の近くにいて、荒事屋を使える人物。


 神殿兵ではない男たちに通行札を渡し、リーネを旧礼拝所へ運ばせ、第二箱を置かせた者。


 ミコト本人ではない。


 マルドゥクでもない。


 リーネでもない。


 なら、もう一段、別の人間がいる。


「白い花の印を使える者か」


 俺が問うと、男の表情がわずかに変わった。


 刃は鳴らない。


 答えはない。


 だが、反応はあった。


 そこだ。


「その印を使える者に雇われたのか」


 男は口を閉じる。


 黙秘。


 また、逃げた。


 だが、逃げ方が同じなら、道は見える。


「エルハルトさん」


 俺は振り返った。


「白い花の印を使える人間は、何人いますか」


 エルハルトは指示書の印を見た。


 顔が硬い。


「確認が必要です。ただ……」


「ただ?」


「この印は、聖女ミコト様の個人印に似ています」


 クララが息を呑む。


「似ている?」


「正式な神殿印ではありません。聖女様の私的な封に使われる花印です。ですが、側仕えや侍女長が代理で押すこともあります」


「つまり、本人しか使えないわけではない」


「はい」


 やはり。


 逃げ道がある。


 ミコトは言える。


 私は押していない。


 側仕えが勝手に使った。


 侍女長が管理していた。


 誰かが盗んだ。


 また、白いまま逃げる。


「代理で押せる者は?」


 俺が聞くと、エルハルトは少し迷ってから答えた。


「リーネ。それから、聖女付き侍女長のサーシャ。あとは、聖女様本人です」


 サーシャ。


 新しい名前。


 男たちの一人の目が、ほんの少しだけ動いた。


 俺は見逃さなかった。


「サーシャ」


 俺が名前を口にすると、男の喉が動いた。


 刃は鳴らない。


 何も言っていないからだ。


 だが、反応はあった。


 サーシャ。


 聖女付き侍女長。


 白い花の印を代理で押せる人物。


 ミコト本人とリーネの間にいる、もう一人の女。


「サーシャに雇われたのか」


 男は黙った。


 もう一人の男が、わずかに視線を逸らす。


 これ以上は、ここで引き出すのは難しい。


 だが、十分だった。


 リーネ。


 第二箱。


 白い花の印。


 そして、侍女長サーシャ。


 線がまた一つ伸びた。


「リーネを運ぶ」


 マーヤが言った。


「これ以上待てない」


 バルトが頷く。


「馬車を使う。男たちは縛って別便だ。証拠品はエルハルト監査官とギルドで封印」


「分かりました」


 エルハルトは神殿兵に指示を出す。


 旧礼拝所の中が慌ただしくなる。


 俺はリーネのそばに膝をついた。


 彼女は意識を保とうとしているのか、薄く目を開けたままだった。


「リーネ」


 俺が呼ぶと、彼女の視線が動いた。


「……わたし……」


「無理に話すな」


「わたし……逃げたんじゃ……ありません……」


「分かってる」


 リーネの目から涙がこぼれた。


「違うんです……わたし……箱を……運ぶように……言われて……でも……中身までは……」


「誰に言われた」


 マーヤが止めようとした。


 だが、リーネはかすかに首を振った。


 言いたいのだ。


 今、言わなければ消されると思っている。


 それなら、聞くしかない。


「白い……封書……」


「ああ」


「聖女様の……お部屋から……侍女長サーシャ様が……」


 サーシャ。


 やはり。


 クララが小さく息を呑む。


 エルハルトの顔がさらに険しくなる。


「サーシャが直接命じたのか」


 リーネは小さく頷いた。


「聖女様の……ご意向だと……」


 その言葉で、胸が冷える。


 聖女様のご意向。


 直接命令ではない。


 だが、命令として機能する言葉。


 ミコト本人が口を開かなくても、周囲が動く。


 後で問題になれば、本人は言える。


 私はそんなことを命じていない。


 周囲が勝手に忖度した。


 便利な逃げ道だ。


「ミコト本人から聞いたのか」


 俺は尋ねた。


 リーネは涙を流しながら、首を横に振った。


 刃は鳴らない。


 本当だ。


 彼女はミコト本人から直接聞いていない。


 また一歩、届かない。


「でも……」


 リーネが震える声で続ける。


「でも……一度だけ……」


「何だ」


「聖女様の……声を……聞きました……」


 俺の心臓が強く打った。


「どこで」


「白い幕の……向こうで……」


 白い幕。


 聖女の私室か。


 控え室か。


「何と言っていた」


 リーネの呼吸が乱れる。


 マーヤが焦った声を出す。


「レンさん、これ以上は危険!」


「最後だ」


 俺はリーネを見た。


「リーネ。何と言っていた」


 リーネは唇を震わせた。


 声にならないほど弱い声。


 でも、確かに言った。


「見えるものだけ……消せば……民は……祈る……」


 その瞬間。


 俺の中で、何かが静かに燃えた。


 見えるものだけ消せば、民は祈る。


 それは、浄化の言葉ではない。


 救済の言葉でもない。


 人の信仰を利用する者の言葉だった。


「それは、ミコトの声だったのか」


 リーネはすぐには答えなかった。


 だが、やがて小さく頷く。


「……はい」


 刃は、鳴らなかった。


 嘘ではない。


 リーネは、そう聞いた。


 ただし、まだ完璧ではない。


 白い幕の向こう。


 声だけ。


 本人確認は声に頼っている。


 ミコトなら、声を真似た者がいたと言える。


 リーネの意識が混濁していたと言える。


 まだ逃げ道はある。


 だが、今までで一番深いところまで来た。


「もういい」


 俺は言った。


「今は生きろ」


 リーネの目がわずかに揺れた。


「わたし……証言……できますか……」


「ああ」


 俺は頷いた。


「生きていれば、できる」


「……消されませんか……」


「消させない」


 その言葉に、リーネはようやく目を閉じた。


 気を失っただけだ。


 マーヤがすぐに状態を確認する。


「まだ大丈夫。急ぐわよ!」


 リーネは馬車へ運ばれた。


 第二箱は別に封印され、エルハルトとギルドの探索者が共同で保管する。


 白い花の印が押された指示書も、記録水晶の前で封をされた。


 男たちは縛られ、神殿兵とギルド員に挟まれて外へ出される。


 旧礼拝所を出る頃には、空はほとんど夜になっていた。


 紫色の空の下で、古い礼拝所だけが黒く沈んでいる。


 俺は一度だけ振り返った。


 この場所は、証拠を捨てるための場所だった。


 第二箱を置き、リーネを消し、すべてを終わらせるはずだった場所。


 だが、終わらなかった。


 箱は見つかった。


 指示書は残った。


 リーネは生きている。


 男たちも捕らえた。


 嘘は、全部を消せない。


 それでも、俺は分かっていた。


 まだ届かない。


 ミコト本人には、まだ届かない。


 リーネの証言は強い。


 だが、白い幕の向こうの声だ。


 指示書の印も強い。


 だが、代理で押せる。


 男たちの雇い主も見えた。


 だが、サーシャで止まっている。


 ミコトはまた笑うだろう。


 私は知らなかった。


 側近たちが勝手に動いた。


 私の言葉が誤解された。


 聖女の顔で、そう言うだろう。


「レン」


 クララが隣に来た。


「悔しそうな顔してる」


「悔しいからな」


「でも、今日はリーネさんを助けたよ」


「まだ助かったわけじゃない」


「でも、生きてる」


 俺は馬車の中で処置されているリーネを見た。


 確かに、彼女は生きている。


 証言も残した。


 それは大きい。


 俺一人なら、証拠ばかり見て、そのことを忘れていたかもしれない。


「そうだな」


 俺は小さく息を吐いた。


「今日は、それでいい」


 クララは少しだけ笑った。


 その時、バルトが近づいてきた。


「レン。戻ったら忙しくなるぞ」


「サーシャですね」


「ああ。聖女付き侍女長。簡単には話を聞かせてもらえんだろう」


 エルハルトもこちらへ来た。


 表情は重い。


「サーシャ様は、聖女ミコト様の身辺管理を任されている人物です。神殿内でも立場が強い。彼女を聴取するには、上層部の許可が必要になります」


「その間に逃げられる」


「分かっています。だから、私の権限で身柄の確認だけは行います」


「確認だけ?」


「現時点で、正式な拘束までは難しい」


 また、手続き。


 また、権威。


 けれど、エルハルトの声には迷いも苛立ちもあった。


 彼自身も、この遅さに苦しんでいるのだろう。


「分かりました」


 俺は言った。


「ただ、サーシャに伝えてください」


「何をです」


「リーネは生きている、と」


 エルハルトが目を見開いた。


 バルトが少しだけ口元を歪める。


「挑発か」


「確認です」


 俺は答えた。


「リーネが生きていると知った時、サーシャがどう動くか見たい」


 逃げるか。


 証拠を消すか。


 ミコトに報告するか。


 それとも、リーネをもう一度消しに来るか。


 どれを選んでも、跡が残る。


 嘘は、動けば動くほど形になる。


「分かりました」


 エルハルトは頷いた。


「ただし、危険です」


「今さらです」


 俺はそう答えた。


 旧礼拝所を離れ、馬車が動き出す。


 車輪がぬかるみを踏み、湿った音を立てる。


 馬車の中では、マーヤがリーネの処置を続けている。


 クララはその手伝いをしている。


 バルトは周囲を警戒し、エルハルトは指示書の封印を何度も確認していた。


 俺は歩きながら、夜の湿地を見た。


 黒泥は見えない。


 聖女の浄化で、表面は綺麗になった。


 だが、見えないところには傷が残っている。


 白銀草。


 浄化杭。


 人々の信頼。


 トビーの心。


 セイルの恐怖。


 リーネの傷。


 そして、俺の中に残るあの日の記憶。


 見えるものだけ消せば、民は祈る。


 ミコト。


 お前は、そう思っているのか。


 見える涙だけ流せば、周囲は信じる。


 見える恐怖だけ演じれば、誰かを罪人にできる。


 見える黒泥だけ消せば、救済になる。


 見える聖女でいれば、何をしても許される。


 違う。


 俺は知っている。


 見えない傷こそ、人を長く苦しめる。


 そして、見えない傷にも証拠は残る。


 言葉に。


 沈黙に。


 灰に。


 印に。


 生き残った証人の声に。


 馬車が進む。


 夜風が頬を撫でる。


 俺は右手を握った。


 まだ刃は届かない。


 けれど、近づいている。


 リーネは生きている。


 第二箱は見つかった。


 白い花の印も残った。


 そして、新しい名前が出た。


 聖女付き侍女長、サーシャ。


 次に証明するべき相手は、そこだ。


 白い聖女の影は、少しずつ形を持ち始めている。


 なら、俺はその影の輪郭をなぞる。


 一つずつ。


 逃げ道を塞ぎながら。


 嘘は、全部を消せない。


 証人も、証拠も、消させない。


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