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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第27話 消えた側仕え

第四章 白い聖女の影




 マルドゥクは落ちた。


 湿地汚染工作。


 神殿記録改ざん。


 冤罪誘導。


 証言者脅迫。


 《証明成立》によって、その罪は民衆の前に晒された。


 トビーの無実は証明された。


 セイルの証言も守られた。


 黒泥の正体も、神殿の不正も、完全ではないにせよ形になった。


 ラトル神殿編は、そこで一区切りついた。


 そう思ってもよかった。


 だが。


 聴取室を出た俺たちの前に残っていたのは、終わりではなかった。


 第二箱。


 聖女側近リーネ。


 白い封蝋。


 そして、燃え残った紙片に書かれていた言葉。


 ――見える穢れを優先。


 その言葉が、俺の頭から離れなかった。


 見える穢れ。


 つまり、民衆に分かる汚れ。


 黒泥。


 濁った水。


 湿地の悪臭。


 聖女ミコトの浄化は、それらを消した。


 だが、白銀草の薬効阻害は残った。


 祈祷台の下に染み込んだ黒い筋も残った。


 見えない被害は、残されたままだった。


 それが偶然なのか。


 それとも、狙ってそうしたのか。


 まだ証明はできない。


 だが、方向は見えた。


 ミコトは本物の力を持っている。


 そして、その本物の力を、見せるために使った可能性がある。


「リーネの部屋はこちらです」


 神殿兵の案内で、俺たちは神殿の奥へ進んでいた。


 同行しているのは、俺、クララ、バルト、マーヤ。


 神殿側からは監査官エルハルトと書記が一人。


 廊下は静かだった。


 いや、静かにしようとしているだけだった。


 角を曲がるたびに、神官や下働きの者たちがこちらを見て、すぐに目を逸らす。


 マルドゥクが拘束された。


 聖女側近のリーネが消えた。


 聖女側控え室の封蝋が、第二箱に繋がった。


 噂はもう神殿内を走っているのだろう。


 信仰の場であるはずの廊下に、今は不安の匂いが漂っていた。


「妙ね」


 マーヤが小さく呟いた。


「何が?」


 クララが聞く。


「静かすぎる」


「静かすぎる?」


「本当に側仕えが逃げたなら、もっと混乱しててもいいはずよ。なのに、皆、騒がないようにしてる」


 俺も同じことを感じていた。


 混乱ではない。


 統制されている。


 誰かが、静かにしろと命じたような空気。


 問題は、その誰かが誰かだ。


 エルハルトも無言で廊下の先を見ている。


 神殿監査官として、彼も気づいているのだろう。


 これはマルドゥク一人の騒動では終わらない。


 もっと奥に、何かがある。


「こちらです」


 神殿兵が一つの扉の前で止まった。


 飾り気のない木の扉だった。


 聖女側近とはいえ、部屋そのものは質素だ。


 神殿兵が鍵を差し込み、扉を開ける。


 中に入った瞬間、俺は眉をひそめた。


 部屋は整いすぎていた。


 寝台。


 机。


 小さな衣装棚。


 手入れされた靴。


 壁にかかった予備の白い肩掛け。


 どれもきちんと配置されている。


 生活の痕跡はある。


 だが、逃げた者の部屋にしては乱れがない。


 慌てて荷物を持ち出した様子もない。


 机の上も片づいている。


 引き出しは閉じられている。


 床に落ちた紙一枚ない。


「……綺麗すぎるな」


 バルトが低く言った。


「はい」


 エルハルトも頷く。


「逃亡直後の部屋とは思えません」


 マーヤはまっすぐ暖炉へ向かった。


 そこには、先ほど神殿兵が見つけた燃え残りの灰がまだ残っていた。


 大半は保全用に回収されたらしいが、炉の縁や隙間には、わずかに黒い粉が残っている。


 マーヤは小さな金属棒で灰をすくい、小瓶に入れた。


 その動きに迷いはない。


 調査している時の彼女は、普段よりずっと鋭い。


「燃やした量にしては、灰が少ないわね」


「どういう意味だ」


 俺が尋ねると、マーヤは暖炉の中を指した。


「封書一枚なら、このくらいでもおかしくない。でも、さっき見つかった燃え残り以外にも何か燃やした跡がある。紙の灰と封蝋の灰が混ざってるのに、残っている量が少なすぎる」


「灰を捨てた?」


「たぶんね」


 マーヤは暖炉の横に置かれた小さな灰かきを見た。


「急いで処分した。けど、全部は取りきれなかった」


 クララが部屋を見回す。


「じゃあ、リーネさん本人が逃げる前に燃やしたんでしょうか」


「それなら変だ」


 俺は言った。


「何が?」


「部屋が整いすぎている。逃げる直前に証拠を燃やしたなら、もっと乱れる。机の引き出し、衣装棚、靴、寝台。どこかに焦りが出るはずだ」


 俺は寝台に近づいた。


 布団は綺麗に整えられている。


 枕の位置もまっすぐだ。


 その上に、白い髪紐が一本置かれていた。


 いや、置かれていたというより、見えるように残されている。


「これは?」


 クララが覗き込む。


「側仕え用の髪紐です」


 エルハルトが答えた。


「聖女様付きの者が身につけるものですね」


「逃げる人間が、わざわざ身分を示す髪紐を置いていくか?」


 俺が聞くと、エルハルトは黙った。


 髪紐。


 整えられた寝台。


 少ない灰。


 綺麗すぎる机。


 逃げた者の部屋ではない。


 逃げたように見せた部屋だ。


「リーネは、自分の意思で逃げたのか」


 俺は呟いた。


 クララが不安そうにこちらを見る。


「それって……」


「連れ出された可能性がある」


 部屋の空気が重くなった。


 リーネが黒幕側として逃げたのか。


 それとも、口封じのために消されたのか。


 それによって、次に起きることは大きく変わる。


 俺たちは、彼女を追っている。


 だが、誰かもまた、彼女を追っているかもしれない。


 あるいは、もう追いついているのかもしれない。


「衣装棚を確認します」


 エルハルトが神殿兵に命じる。


 扉が開かれる。


 白い側仕え服が二着。


 普段用の灰色の外套が一着。


 予備の靴。


 小さな鞄。


 旅支度に必要なものは、ほとんど残っていた。


「逃亡にしては不自然ですね」


 エルハルトが言う。


「外套も靴も残っている。荷もない」


「じゃあ、部屋を出た時は逃げるつもりじゃなかった?」


 クララが言った。


「その可能性が高い」


 俺は机の引き出しを見た。


 エルハルトが頷き、書記に記録させてから引き出しを開ける。


 中には筆記具、白紙、聖女付きの予定表、香油の小瓶があった。


 予定表には、細かな字で本日の流れが書かれている。


 認定式準備。


 聖女控え室確認。


 香炉点検。


 湿地移動。


 緊急浄化。


 聖女休息。


 そこまでは普通だ。


 だが、一番下。


 小さく、別の筆跡で一行だけ書き足されていた。


 ――裏門、夕刻前。


「……裏門」


 俺が読むと、クララが息を呑んだ。


「待ち合わせ?」


「だろうな」


 エルハルトが予定表を確認する。


「この筆跡は、リーネ本人のものではありません」


「分かるのか」


「側仕えの書類は何度か見ています。リーネの字はもっと細い。これは少し角ばっています」


 マーヤが横から覗き込む。


「誰かが書き足したってこと?」


「おそらく」


 裏門、夕刻前。


 逃亡の指示にしては、ずいぶん雑だ。


 だが、口頭で伝えた内容を忘れないように書き留めた可能性はある。


 問題は、それがリーネ自身の字ではないことだ。


 誰かが予定表に書いた。


 リーネに見せるためか。


 それとも、俺たちに見つけさせるためか。


「誘導かもしれないな」


 バルトが言った。


「裏門に行け、という?」


「ああ」


「でも、行かないわけにもいかない」


 マーヤが予定表を見たまま言う。


「罠でも、何かはあるでしょうね」


 その時、廊下の方から足音が聞こえた。


 神殿兵が顔を出す。


「監査官殿。裏門の確認が取れました」


「話しなさい」


「夕刻前、聖女側仕えらしき女性が裏門を通ったとの証言があります」


 全員の視線が集まる。


「一人か?」


 バルトが問う。


「いえ。馬車が一台。御者と、護衛らしき男が二人。女性は白い頭巾で顔を隠していたそうです」


「止めなかったのか」


「通行札がありました」


 エルハルトの顔が険しくなる。


「誰の発行です」


「聖女側の臨時札です」


 聖女側。


 またそこだ。


 マルドゥクではない。


 神殿管理部でもない。


 聖女の近くから出ている。


 だが、ミコト本人の名はまだない。


「リーネ本人か確認は」


「門番は顔を見ていません。ですが、背格好は似ていたと」


「馬車の行き先は?」


「北の旧礼拝所方面です」


 旧礼拝所。


 聞き覚えのない場所だった。


 俺がエルハルトを見ると、彼はすぐに説明した。


「ラトル神殿の古い分院です。今はほとんど使われていません。湿地整備が始まる前は、浄化杭や香炉の保管場所として使われていました」


 浄化杭。


 香炉。


 湿地。


 偶然にしては、繋がりすぎている。


「そこへ向かう」


 俺が言うと、エルハルトは一瞬迷った。


「正式な捜索隊を組みます。準備に少し時間が」


「時間をかければ逃げられる」


「しかし、神殿外での強制捜索には手続きが必要です」


 出た。


 手続き。


 もちろん必要だ。


 正しい手順を踏むことは大事だ。


 だが、相手は証拠を燃やし、側仕えを消し、馬車で移動している。


 こちらが手続きをしている間に、いくらでも痕跡を消せる。


 バルトが一歩前に出た。


「ギルドからも人を出す。旧礼拝所は神殿管轄かもしれんが、周辺道は町の外縁だ。逃亡者の追跡として動ける」


 エルハルトは考え込んだ。


 神殿監査官としては、神殿の権限を守りたい。


 だが、今の状況で神殿だけに任せろとは言えない。


 マルドゥクの件で、神殿内部の信用は落ちている。


 そして、リーネの通行札は聖女側から出ている。


 エルハルトは短く息を吐いた。


「分かりました。ギルドとの合同確認とします。ただし、記録を残します」


「当然だ」


 バルトが頷く。


「レン・クゼ殿」


 エルハルトが俺を見る。


「あなたにも同行をお願いします」


「そのつもりです」


「ただし、旧礼拝所で何か見つかっても、即座に聖女様の罪と断じることは避けてください」


「証明できないことは言いません」


 俺は答えた。


「でも、証明できるものを見つけたら止まりません」


 エルハルトは目を閉じた。


「……承知しました」


 リーネの部屋を出る直前、俺はもう一度だけ室内を振り返った。


 整えられた寝台。


 置かれた髪紐。


 少なすぎる灰。


 予定表に書き足された裏門の文字。


 これは逃亡の跡か。


 それとも、誰かが作った逃亡の形か。


 分からない。


 だが、一つだけ確かだった。


 リーネは今、危険な位置にいる。


 証人としても。


 罪人としても。


 そして、口封じの対象としても。


 神殿の裏門へ向かう頃には、空は薄く赤くなり始めていた。


 夕刻前。


 予定表に書かれていた時刻と重なる。


 裏門は、表の荘厳な門とは違い、荷運びや職員の出入りに使われる小さな門だった。


 門の脇には、荷車の車輪跡がいくつも残っている。


 門番は二人。


 どちらも青ざめていた。


 エルハルトが前に立つと、二人は慌てて頭を下げた。


「通行記録を」


「は、はい!」


 門番が木札の束を差し出す。


 そこには、出入りした荷車や人員の記録が残されていた。


 ただし、問題の馬車の欄だけ、妙に簡素だった。


 ――聖女側臨時用。


 人数、三。


 荷、なし。


 行先、北。


「荷なし?」


 マーヤが眉を上げた。


「馬車で荷なしって、不自然じゃない?」


「人を運ぶためだけならあり得ます」


 エルハルトが言う。


 だが、彼の声にも疑いが混ざっていた。


 バルトが地面にしゃがみ込む。


 車輪跡を見て、指で泥を触る。


「荷なしにしては沈みが深いな」


「重かったってこと?」


 クララが聞く。


「ああ。人三人だけの馬車じゃない。何か積んでいた」


「記録には荷なし」


 俺は木札を見た。


「また記録が整えられているな」


 マルドゥクの時と同じだ。


 記録を消す。


 言葉を整える。


 見える形だけを整える。


 だが、車輪跡は消えていない。


 嘘は、全部を消せない。


「門番」


 俺は声をかけた。


 二人の門番が肩を震わせる。


「この馬車に荷はなかったのか」


「そ、それは……」


「記録には荷なしとある」


「はい。そのように書けと……」


 門番は言いかけて、口を閉じた。


 俺の掌が熱を持つ。


 《反証の刃》が反応しかけている。


「誰に書けと言われた」


 門番はエルハルトを見る。


 エルハルトが静かに言った。


「答えなさい。これは監査記録に残ります」


 門番は青い顔で答えた。


「リーネ様です」


「リーネ本人が?」


「はい。馬車を通す時、荷はないと記録するようにと」


「顔は見たのか」


 門番は首を横に振る。


「頭巾を深くかぶっていました。ただ、声はリーネ様に似ていました」


「似ていた?」


「はい。ですが……」


 門番は迷う。


「何だ」


 バルトが促す。


「いつものリーネ様より、声が硬かったというか……短く命じる感じで。リーネ様は普段、もっと丁寧に話されるので」


 リーネ本人か。


 リーネに似せた誰かか。


 あるいは、リーネが恐怖で変わっていたのか。


 まだ分からない。


「護衛の男二人は?」


「見たことのない者でした。神殿兵ではありません」


 エルハルトの顔が変わった。


「神殿兵ではない?」


「はい。外套を着ていましたが、立ち方が……」


 門番は言葉を探す。


「用心棒みたいでした」


 用心棒。


 つまり、神殿の正規人員ではない。


 聖女側臨時札を使い、見知らぬ男二人を連れて、重い荷を積んだ馬車が裏門を出た。


 荷なしと記録させて。


 行先は北の旧礼拝所。


「決まりだな」


 バルトが立ち上がる。


「急いだ方がいい」


 その時、マーヤが車輪跡の横で何かを拾った。


 小さな白い欠片。


 俺はそれを見た瞬間、息を止めた。


「封蝋?」


「ええ」


 マーヤは小瓶に入れた欠片を光に透かす。


「白い封蝋。リーネの部屋で見つかったものと、たぶん同じ」


「馬車の積荷に封書があった?」


「もしくは、封を切った何かをここで落とした」


 エルハルトが顔をしかめる。


「聖女側近用の封蝋が、裏門の車輪跡の横に……」


「これで、リーネの部屋、裏門、馬車が繋がった」


 俺は言った。


 証拠はまだ細い。


 だが、確実に伸びている。


 リーネの部屋の燃え残り。


 予定表の裏門。


 臨時通行札。


 荷なしと偽った記録。


 重い車輪跡。


 白い封蝋。


 次は、旧礼拝所だ。


 神殿の外へ出る準備はすぐに進められた。


 バルトがギルドへ連絡を飛ばし、二人の探索者を合流させる。


 エルハルトは神殿側の最低限の人員だけを選んだ。


 数を増やせば、情報が漏れる。


 それを分かっているのだろう。


 俺たちは馬に乗るわけではない。


 北の旧礼拝所までは、歩いてもそれほど遠くないらしい。


 ただし、湿地の外縁を抜けるため、道は悪い。


 日が落ちれば危険も増える。


 クララが俺の横を歩きながら、小さく言った。


「リーネさん、生きてるかな」


「分からない」


 俺は正直に答えた。


「でも、証人なら生きていてほしい」


「証人だから?」


「それもある」


 俺は前を見たまま言った。


「でも、それだけじゃない」


 リーネが何をしたのかは分からない。


 第二箱を受け取った。


 封書を持っていた。


 馬車で消えた。


 それだけ見れば、彼女も黒泥工作に関わっている。


 だが、部屋の様子は妙だった。


 逃げた者の部屋ではない。


 消された者の部屋にも見える。


 もし彼女もまた、利用されている側なら。


 セイルのように命じられ、脅され、切り捨てられた者なら。


 証言する機会は必要だ。


 俺は、罪をなかったことにしたいわけではない。


 ただ、誰かに全部を押し付けるやり方が嫌いだった。


 それは、俺が一番よく知っている痛みだからだ。


「レンはさ」


 クララが言った。


「証明する時、すごく怖い顔をするけど」


「そうか?」


「うん。でも、誰かを助けたい時も同じ顔をする」


 俺は返事に困った。


 クララは少しだけ笑う。


「だから、リーネさんのことも、ただ捕まえたいだけじゃないんだね」


「……話を聞きたいだけだ」


「うん」


 クララはそれ以上言わなかった。


 旧礼拝所へ向かう道は、町の北側から湿地の外縁を回り込むように続いていた。


 空は赤から紫へ変わり始めている。


 地面はぬかるみ、ところどころに古い石畳が顔を出していた。


 昔は人が通っていた道なのだろう。


 今は草に覆われ、馬車の車輪跡だけが新しく残っている。


「この跡だな」


 バルトが道を確認しながら言う。


「裏門の跡と幅が一致する」


「急いでる?」


 マーヤが聞く。


「そこまで速くはない。重い荷を積んでるせいだろう」


「荷は何でしょう」


 クララが不安そうに言う。


 誰もすぐには答えなかった。


 証拠品。


 黒泥。


 香油。


 封書。


 あるいは。


 人。


 考えたくない可能性が、頭をよぎる。


 リーネが自分の意思で乗ったのならまだいい。


 だが、無理やり乗せられたなら。


 重い荷とは、彼女自身かもしれない。


 道の先に、古い建物の影が見え始めた。


 石造りの小さな礼拝所。


 屋根の一部は崩れ、壁には蔦が絡んでいる。


 正面の扉は半開きだった。


 その手前に、馬車が一台止まっている。


 裏門を通った馬車だろう。


 馬はいない。


 御者もいない。


 護衛の男たちの姿もない。


 ただ、馬車の荷台だけが、静かにそこにあった。


「警戒しろ」


 バルトが低く言った。


 ギルドの探索者二人が左右に散る。


 神殿兵も武器に手をかける。


 俺は礼拝所を見た。


 胸の奥で、嫌な感覚が広がる。


 これは、追いついたというより。


 追いつかされた。


 そんな気がした。


「馬車を確認する」


 バルトが荷台に近づく。


 俺も続いた。


 荷台には大きな布がかけられている。


 バルトが慎重に布をめくった。


 中にあったのは、木箱だった。


 白い札が貼られている。


 泥で汚れてはいるが、文字は読めた。


 ――認定式用物資 第二箱。


 クララが口元を押さえた。


 マーヤが目を見開く。


 エルハルトが息を呑む。


 第二箱。


 湿地で荷札の切れ端だけが見つかった、あの箱。


 消えたはずの箱が、ここにある。


 だが、俺は喜べなかった。


 あまりにも分かりやすい。


 見つけろと言わんばかりに置かれている。


「罠か」


 バルトが呟く。


「たぶん」


 俺は箱を見た。


 蓋は少し開いていた。


 中から、かすかに香油の匂いがする。


 それに混じって、黒泥の湿った臭い。


 マーヤが布を口元に当てる。


「開けるなら慎重に。反応性の成分が残ってるかもしれない」


 バルトが頷き、蓋を少しずつ持ち上げる。


 中には、割れた壺。


 黒泥の乾いた塊。


 焦げた浄化香。


 香油瓶の破片。


 そして、白い封蝋のついた封書の残骸。


 マルドゥクの第三箱と似ている。


 だが、こちらの方が古い。


 湿地に先に持ち込まれたもの。


 黒泥工作の始まりに近い箱。


「これが第二箱……」


 クララが呟く。


 その時だった。


 礼拝所の中から、かすかな音がした。


 何かが倒れるような、小さな音。


 全員が振り返る。


 バルトが剣に手をかけた。


「中に誰かいる」


 俺の掌が熱を持つ。


 《反証の刃》ではない。


 もっと嫌な感覚だった。


 証拠が見つかった時の熱ではない。


 証言が消えそうな時の、焦りに近い熱。


 俺たちは礼拝所へ入った。


 中は暗い。


 崩れた天井の隙間から、夕暮れの光が細く差し込んでいる。


 古い祈祷台。


 埃をかぶった香炉。


 壁際に並ぶ壊れた浄化杭。


 そして、その奥。


 床に、白い服の女が倒れていた。


「リーネ!」


 エルハルトが叫んだ。


 リーネ。


 聖女側近。


 ミコトの近くにいた女。


 彼女は床に横たわり、片手で胸元を押さえていた。


 白い側仕え服は泥で汚れ、袖は破れている。


 顔は青白い。


 だが、まだ息はある。


「生きてる!」


 クララが駆け寄ろうとする。


「待って」


 マーヤが止めた。


「周囲に香油が撒かれてる」


 床を見ると、薄く光る液体が広がっていた。


 香油だ。


 その上に黒泥の粉が混じっている。


 踏めば反応するかもしれない。


 マーヤは素早く小瓶を取り出し、液体を調べる。


「強い毒性はない。でも、薬効阻害の反応がある。傷口に入ったらまずい」


 リーネの胸元。


 押さえた手の隙間から、赤黒いものがにじんでいた。


 刺されたのか。


 切られたのか。


 俺は奥歯を噛んだ。


 やはり、口封じだ。


 リーネは逃げたのではない。


 ここへ連れて来られた。


 そして、捨てられた。


 証拠と一緒に。


「リーネ、聞こえますか」


 エルハルトが膝をつく。


 マーヤが香油を避ける道を指示し、クララがリーネの横に回った。


 リーネの瞼が震える。


 薄く開いた目が、俺たちを見た。


「……だれ……」


「監査官エルハルトです。分かりますか」


「かん……さ……」


 声が弱い。


 今にも途切れそうだった。


 俺は一歩近づいた。


「リーネ。第二箱のことを聞きたい」


 クララが俺を見る。


 こんな時に、と言いたげな顔だった。


 分かっている。


 だが、時間がない。


 彼女が証言できるうちに聞かなければ、また全部が消える。


「誰が第二箱を用意した」


 リーネの唇が震える。


「わたし……じゃ……」


「分かっている。誰に命じられた」


 リーネの目に、恐怖が浮かんだ。


 マルドゥクと同じ恐怖。


 言いたい。


 でも言えない。


 言えば、もっと恐ろしいものが来る。


 そういう目だった。


「聖女ミコトか」


 俺が問うと、リーネは小さく首を横に振った。


 俺の掌は鳴らない。


 否定は、嘘ではない。


 少なくとも、彼女はそう認識している。


「では、誰だ」


 リーネの目が礼拝所の天井を見た。


 いや、天井ではない。


 その奥にある何かを見ているようだった。


「……白い……封……」


「封書か」


 小さく頷く。


「誰からの封書だ」


「聖女……様の……部屋……から……」


 エルハルトの顔が強張る。


 聖女の部屋。


 側近の部屋ではない。


 聖女本人の部屋。


 だが、それでもまだ本人の指示とは限らない。


 ミコトはまた逃げるだろう。


 誰かが勝手に持ち出した。


 部屋に入れる者は多い。


 私は知らなかった。


 そう言える。


「封書には何と書いてあった」


 リーネは苦しそうに息を吸った。


 マーヤが応急処置をしながら叫ぶ。


「長く話させるのは危険よ!」


「一つだけでいい」


 俺はリーネを見た。


「一つだけ、証明に必要な言葉をくれ」


 リーネの目から涙が落ちた。


「……見える……穢れを……優先……」


 燃え残りと同じ言葉。


 俺は拳を握る。


「誰の字だ」


 リーネの唇が動く。


 だが、声が出ない。


「リーネ」


 俺は身を乗り出した。


「誰の字だ」


 彼女は震える指を上げた。


 胸元ではない。


 聖女の方向でもない。


 礼拝所の古い祈祷台。


 その下を指していた。


「そこ……」


 バルトがすぐに動いた。


 祈祷台の下に手を入れ、何かを引き出す。


 小さな筒だった。


 祈祷用の巻物を入れるための筒。


 封は破られている。


 中には、折りたたまれた紙が一枚。


 バルトが慎重に広げる。


 そこには、短い文が書かれていた。


 ――第二箱は予定通り旧礼拝所へ。


 ――湿地で不要な証言が出た場合、側仕えリーネを退かせること。


 ――見える穢れを優先。民の不安を残さないこと。


 署名はない。


 だが、最後に小さな印が押されていた。


 白い花の印。


 聖女ミコトの衣に刺繍されていたものと、同じ形。


 室内の空気が凍った。


「これ……」


 クララが震える声で言う。


 エルハルトは言葉を失っていた。


 マーヤはリーネの傷を押さえながら、歯を食いしばっている。


 俺は紙を見た。


 署名はない。


 だが、印がある。


 聖女本人の印か。


 側近が使える印か。


 まだ確認が必要だ。


 証明には、まだ一歩足りない。


 けれど。


 これまでで一番近い。


 ミコトの白い衣の裾に、初めて黒い染みが触れた。


「レン……」


 クララが俺を見た。


 俺は頷く。


「ああ」


 刃はまだ抜かない。


 今斬れば、逃げ道が残る。


 この印が本物かどうか。


 誰が使えたのか。


 リーネがなぜここに倒れていたのか。


 護衛の男たちは誰なのか。


 まだ調べることがある。


 だが、もう遠くない。


「リーネを助ける」


 俺は言った。


「彼女はまだ証言できる」


 マーヤが頷く。


「急いで運ぶわ。薬効阻害が邪魔してるけど、応急処置ならできる」


「馬車を使え」


 バルトが指示を飛ばす。


「周囲を警戒しろ。護衛の男たちが戻る可能性がある」


 その瞬間。


 礼拝所の外で、枝が折れる音がした。


 全員が動きを止める。


 次いで、低い声。


「……まだ息があったか」


 知らない男の声だった。


 バルトが剣を抜く。


 俺の掌に、《反証の刃》の熱が戻る。


 礼拝所の入口に、外套を着た男が二人立っていた。


 門番が言っていた護衛。


 いや、護衛ではない。


 口封じ役だ。


「悪いが、その女は置いていってもらう」


 男の一人が短剣を抜いた。


 その刃には、黒い油のようなものが塗られている。


 香油。


 黒泥。


 薬効阻害。


 同じ臭いがした。


 俺はリーネの前に立った。


 男たちを見る。


 背後には、第二箱。


 床には香油。


 手元には、白い花の印が押された指示書。


 そして、倒れた証人。


 今までの嘘は、記録の中にあった。


 泥の中にあった。


 灰の中にあった。


 だが今は違う。


 嘘が、人を殺しに来ている。


「レン・クゼ」


 バルトが低く言う。


「下がれ」


「嫌です」


 俺は即答した。


 バルトが舌打ちする。


 クララが杖を握る。


 マーヤはリーネを庇うように身を低くした。


 エルハルトは青い顔で指示書を抱えている。


 男たちは、こちらを見て笑った。


「証明者だか何だか知らないが、死人は証言できない」


 その言葉で、胸の奥が冷えた。


 そうだ。


 死人は証言できない。


 だから、俺はあの日、殺されなかったのに終わった。


 社会的に死んだ。


 声を聞かれず、証言する場所も奪われた。


 でも、リーネはまだ生きている。


 なら、終わらせない。


「死人にする前に来たのが失敗だったな」


 俺は右手を上げた。


 透明な刃が、夕暮れの光を受けて浮かび上がる。


 《反証の刃》。


 嘘を斬る刃。


 押し付けられた罪を断つ刃。


 そして今は。


 証言を消そうとする手を止めるための刃。


「ここから先は、証人保護だ」


 男たちの笑みが消えた。


 俺は刃を構える。


 旧礼拝所の中に、白い花の印が押された指示書が揺れていた。


 ミコト本人には、まだ届かない。


 だが、その影はもう目の前にある。


 白い聖女の影。


 その中から伸びた手が、今、リーネの喉を塞ごうとしている。


 俺は、その手を斬る。


 嘘は、全部を消せない。


 証人も、消させない。


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