第26話 供述の穴
湿地から戻った後、マルドゥクは神殿の奥にある聴取室へ連れて行かれた。
聴取室。
そう呼ばれてはいるが、部屋の造りはほとんど牢に近かった。
石造りの壁。
小さな窓。
外から鍵をかけられる重い扉。
中央には古い木の机があり、その上には記録用の水晶が置かれている。
水晶は薄く青い光を放ち、室内の声を記録するらしい。
俺たちは、その部屋の隅に立っていた。
俺。
クララ。
バルト。
マーヤ。
そして、神殿側からは監査官と書記が二人。
マルドゥクは机の向こうに座らされていた。
ついさっきまで豪奢な法衣をまとい、民衆の前で声を張っていた男とは思えない姿だった。
肩の飾りは外されている。
神殿の管理権限を示す金章もない。
両手には拘束具こそつけられていないが、左右には神殿兵が立っている。
逃げ場はない。
いや、正確には。
逃げるために使っていたものを、ひとつずつ奪われている最中だった。
神殿の権威。
聖女の名。
民衆の信頼。
部下への命令権。
それらを失ったマルドゥクは、ただの一人の男だった。
顔色の悪い、中年の男。
だが、俺は油断しなかった。
追い詰められた人間は、最後に本当のことを話すとは限らない。
むしろ逆だ。
自分が助かるためなら、もっと大きな嘘をつく。
誰かを売る。
誰かを庇うふりをする。
誰かの名前を出して、誰かの名前を隠す。
嘘は、追い詰められてからの方が厄介になる。
「では、聴取を始めます」
神殿監査官が硬い声で言った。
名はエルハルト。
灰色の髪を後ろで結んだ、痩せた男だった。
神殿の人間ではあるが、少なくとも今のところマルドゥクを庇う様子はない。
ただし、神殿そのものを守ろうとする空気はある。
それは当然だろう。
マルドゥクの罪が神殿全体に広がれば、ラトル神殿は終わる。
だから、この聴取には二つの目的がある。
真実を調べること。
そして、神殿の傷口を最小限に抑えること。
その二つは、同じではない。
「マルドゥク元管理官」
エルハルトが言った。
「湿地汚染工作、神殿記録改ざん、冤罪誘導、証言者脅迫。これらについて、あなたは現場で《証明成立》を受けました。まず確認します。あなたは罪を認めますか」
マルドゥクは俯いたまま、しばらく答えなかった。
部屋の中に、水晶の小さな駆動音だけが響く。
やがて、彼は乾いた声で言った。
「……一部については、認めます」
「一部?」
バルトが低く呟いた。
エルハルトも眉を動かす。
「どの部分を認めるのです」
「記録を整えたことです」
「整えた?」
「湿地異常に関する記録に、混乱を招く表現がありました。聖女様の認定式を目前にして、町に不安を広げるわけにはいかなかった。ですから、表現を修正したのです」
俺は黙って聞いていた。
整えた。
修正した。
便利な言葉だ。
改ざんと言えば罪になる。
整えたと言えば仕事に見える。
人は、言葉で罪の形を変えようとする。
「神殿管理金窃盗の疑いをトビーに向けた件は」
エルハルトが問う。
マルドゥクは唇を湿らせた。
「あれは……状況証拠がありました」
「状況証拠?」
「管理金の近くに出入りできた。湿地関連の倉庫にも近かった。年若く、金に困っていたという話もあった」
その瞬間、クララが一歩前に出そうになった。
俺は手で制した。
ここで感情を出せば、マルドゥクに利用される。
あいつはまだ、トビーを疑わせる言葉を捨てていない。
無罪が証明された後でも、汚れだけを残そうとしている。
「トビーの無実は証明済みだ」
俺は言った。
マルドゥクは、ゆっくりとこちらを見た。
「君の力で、だろう」
「そうだ」
「ならば、私には分からない。私は神殿の管理官として、疑わしい点を調べただけだ」
「冤罪誘導も証明成立している」
「誘導などしていない。疑いを持っただけです」
マルドゥクは、俺ではなくエルハルトを見た。
「監査官殿。私は確かに、判断を誤りました。ですが、すべては神殿と町を守るためです。悪意があったわけではありません」
悪意がなければ許される。
そう言いたいのだろう。
だが、悪意がなかったという言葉ほど、悪意を隠すのに便利なものはない。
人を傷つけた後で、誰もがそれを使う。
そんなつもりじゃなかった。
良かれと思ってやった。
みんなのためだった。
あの日、俺を追い詰めた連中も同じだった。
正義のため。
被害者を守るため。
痴漢を許さない社会のため。
そういう綺麗な言葉の下で、俺の人生は潰された。
「湿地汚染工作については?」
エルハルトがさらに問う。
マルドゥクは、初めて大きく息を吐いた。
「それは、私ではありません」
室内の空気が変わった。
マーヤが目を細める。
バルトの腕に力が入る。
「では、誰が?」
エルハルトが問う。
「私は、湿地を汚せとは命じていません」
「黒泥入り壺、焦げた浄化香、香油。第三箱の中身を隠すようセイルに命じたのは、あなたですね」
「第三箱については、処理を命じました」
「処理?」
「不適切な物資が混入していたためです」
マルドゥクは顔を上げた。
少しだけ、声に力が戻っている。
自分の逃げ道を見つけた顔だった。
「私は、あの箱の中身を見て驚いた。黒泥など、本来の認定式用物資ではありません。だから混乱を避けるため、一時的に記録から外したのです」
「記録から外した?」
「そうです。調査のためです」
マーヤが鼻で笑った。
「調査のために、運搬したセイルさんを切り捨てようとしたの?」
「彼は勝手な証言で神殿を混乱させた」
「脅したじゃない」
「厳しく問いただしただけです」
マーヤの眉間に皺が寄る。
だが、マルドゥクは止まらなかった。
喋れば喋るほど、自分を守れると思っているのだろう。
「そもそも、黒泥の成分がどうであれ、それが私の指示で湿地に撒かれたという証拠はない。私は現場対応を任されていただけです」
「第二箱は?」
俺は口を挟んだ。
マルドゥクの声が止まる。
ほんの一瞬。
だが、止まった。
「……第二箱?」
「湿地で見つかった荷札の切れ端だ。認定式用物資、第二箱。セイルは第三箱しか運んでいない。だが第二箱は、緊急浄化の発表前に湿地へ運ばれていた」
「知らない」
即答だった。
これも早い。
「本当に?」
「知らないと言っている」
俺は机の上に、泥のついた荷札の切れ端を置いた。
白札。
端に神殿印。
文字は一部しか残っていない。
だが、十分だった。
認定式用物資。
第二箱。
エルハルトが書記に目配せする。
書記の一人が荷札を確認し、記録水晶の近くに置いた。
「マルドゥク元管理官」
エルハルトが言う。
「第二箱について、神殿内の記録には該当する搬出記録がありません」
「ならば、偽造ではないのですか」
マルドゥクはすぐに言った。
「神殿の印に似せた偽の荷札など、作ろうと思えば作れるでしょう」
「外部の荷札控えには、第一箱、第二箱、第三箱の記録が残っています」
バルトが低い声で言った。
「運搬組合にも照合済みだ。偽造で押し切るのは無理がある」
マルドゥクはバルトを睨んだ。
「ギルドが神殿の内部に口を出すのですか」
「人に濡れ衣を着せた時点で、神殿だけの問題じゃない」
バルトは静かに返した。
「まして湿地は町の資源だ。白銀草に被害が出ている。ギルドにも関係がある」
マルドゥクは歯を食いしばった。
自分の言葉が通じない相手が増えていく。
そのことに苛立っているようだった。
「第二箱の受取人は、記録上は空欄です」
エルハルトが書類をめくりながら言った。
「しかし、運搬組合の控えには受取確認の印があります」
マルドゥクの目が動いた。
ほんのわずかに、右へ。
記録を読むエルハルトではなく。
その横の書記でもなく。
部屋の扉の方へ。
逃げ道を探した目だった。
「印の名は、リーネ」
エルハルトが告げた。
その名前が出た瞬間、マルドゥクの喉が動いた。
リーネ。
俺はその名を覚えた。
「リーネとは誰です」
俺が問う。
エルハルトが答える前に、クララが小さく言った。
「聖女様の側仕え……だったと思う。祈祷台の近くにいた、若い女の人」
思い出す。
白い衣の後ろ。
ミコトに香炉を渡していた女。
祈祷台の上ではなく、少し下がった場所に控えていた。
目立たない。
だが、常にミコトの近くにいた。
「側仕えが第二箱を受け取っている」
俺は言った。
マルドゥクがすぐに口を開く。
「側仕えは聖女様の身の回りを整える者です。認定式用物資を受け取ること自体はおかしくありません」
「緊急浄化の発表前に、湿地へ運ぶ物資を?」
「認定式の準備と重なっていたのでしょう」
「便利な偶然だな」
「君は何でも疑うのだな」
マルドゥクは俺を睨んだ。
その目には敵意がある。
だが、それ以上に怯えがあった。
第二箱。
リーネ。
聖女側仕え。
この線に触れられたくない。
そう顔に書いてある。
「リーネに確認を」
エルハルトが神殿兵に指示した。
神殿兵の一人が部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
マルドゥクは唇を噛んでいた。
俺はその顔を見ながら考える。
マルドゥクはミコトを庇っているのか。
それとも、ミコトに切られることを恐れているのか。
たぶん両方だ。
権力者の下で動く人間は、時々奇妙な忠誠を見せる。
自分を切り捨てた相手でも、まだ縋る。
なぜなら、その相手の価値を否定すれば、今まで尽くしてきた自分まで空っぽになるからだ。
マルドゥクは、聖女のためにやったと思いたい。
神殿のためにやったと思いたい。
自分はただの小悪党ではなく、大きな目的のために汚れ役を引き受けたのだと信じたい。
だから、ミコトの名前を出せない。
出した瞬間、自分の信じていた物語まで崩れる。
「マルドゥク」
俺は静かに言った。
「お前はさっき、湿地で言ったな。私は命じられただけだ、と」
マルドゥクの顔が強張る。
「言っていない」
「記録している者は多い」
「混乱していた。言葉の綾だ」
「誰に命じられた」
「誰にも」
「なら、なぜあんなことを言った」
「覚えていない」
俺は机の上に手を置いた。
《反証の刃》は抜かない。
今ここで大きく斬るには、まだ足りない。
だが、小さな嘘なら分かる。
俺の職業《証明者》は、確定した罪だけを裁く力ではない。
矛盾を拾う。
言葉の穴を探す。
証拠と証言のズレを、刃の形に変える。
「じゃあ、確認する」
俺はマルドゥクを見据えた。
「第二箱の管理は、お前一人の判断だったのか」
マルドゥクは沈黙した。
エルハルトがこちらを見る。
「レン・クゼ殿。何を」
「確認です」
俺はマルドゥクから目を離さない。
「答えろ。第二箱の管理は、お前一人の判断だったのか」
「……そうだ」
「聖女側仕えリーネは関係ない?」
「関係ない」
「ミコトも関係ない?」
マルドゥクの顔がわずかに歪んだ。
「聖女様を呼び捨てにするな」
「関係ないのか」
「関係ない!」
その声が響いた瞬間。
俺の掌の奥で、刃が鳴った。
小さな音だった。
だが、室内の全員が気づいた。
空気が震え、記録水晶の青い光が一瞬だけ白く揺れる。
エルハルトが息を呑んだ。
俺は手を上げた。
透明な刃が、指先に浮かぶ。
完全な《反証の刃》ではない。
けれど、嘘に反応している。
「今の発言」
俺は告げた。
「反証可能」
マルドゥクの顔から血の気が引いた。
「な……」
「第二箱の管理は、お前一人ではない」
「違う!」
刃がさらに鳴った。
今度は、誰の耳にもはっきり届いた。
澄んだ音。
嘘の表面にヒビが入る音。
「やめろ……」
マルドゥクが呻いた。
「やめろ、レン・クゼ……!」
「なら、本当のことを言え」
「言えるか!」
叫んだ瞬間、マルドゥク自身が口を押さえた。
遅い。
言えるか。
それは、知らない人間の言葉ではない。
知っていて、言えない人間の言葉だ。
エルハルトの目が鋭くなった。
「マルドゥク元管理官。今の発言は、重要です」
「違う……私は……」
「あなたは、第二箱に関して他者の関与を知っているのですね」
「知らない!」
また刃が鳴る。
今度は強かった。
記録水晶が白く光り、机の上に小さな文字が浮かぶ。
――供述不一致。
書記の一人が慌てて記録を取る。
エルハルトは、じっとその文字を見つめていた。
神殿側の人間にとっても、これは無視できない。
完全な罪の証明ではない。
だが、供述に嘘があることは示された。
「マルドゥク元管理官」
エルハルトの声が低くなる。
「神殿監査の名において命じます。第二箱に関与した者を述べなさい」
マルドゥクは震えていた。
怒りではない。
恐怖で。
椅子に座っているのに、今にも崩れ落ちそうだった。
「私は……」
「述べなさい」
「……リーネは」
その名が出た。
クララが息を止める。
「リーネは、受け取っただけだ」
「誰の指示で」
「私が……」
刃が鳴る。
マルドゥクは目を閉じた。
「違う。違うんだ。私は……私は、正式な流れだと思った」
「正式な流れ?」
俺が問う。
「聖女様の認定式に必要な物資だと。祈祷台の安定と浄化香の調整に使うと。私はそう説明を受けた」
「誰から」
マルドゥクは答えない。
「リーネか」
沈黙。
刃は鳴らなかった。
つまり、今の問いにはまだ答えがない。
肯定も否定もしていない。
「リーネから説明を受けたのか」
「……書面だ」
「書面?」
「聖女側の控え室から、封書が届いた。認定式用物資の調整指示だ」
エルハルトが身を乗り出した。
「その封書はどこにあります」
「処分した」
「なぜ」
「認定式関連の一時指示書だったからだ。保存義務はない」
「内容は」
マルドゥクは苦しげに息を吐いた。
「第二箱を、湿地側の祈祷準備に回せと。香油と浄化香の残滓を使い、祈祷台周辺の穢れを引き寄せやすくすると書かれていた」
マーヤが顔を上げた。
「穢れを引き寄せやすくする?」
「そう書かれていた」
「そんな方法、聞いたことないわ」
マーヤははっきりと言った。
「浄化香と香油を混ぜて、黒泥と反応させたら、穢れを引き寄せるどころか白銀草の薬効を邪魔する。私が調べた反応そのものよ」
マルドゥクは唇を震わせた。
「私は専門家ではない」
「でも記録を消した」
「混乱を避けるためだ!」
「違うでしょ」
マーヤの声が鋭くなる。
「あなたは途中で気づいた。これがただの祈祷準備じゃなくて、湿地を悪化させるものだって。だから第三箱を隠し、セイルさんを黙らせ、トビーくんに疑いを向けた」
マルドゥクは答えなかった。
だが、沈黙は時に肯定より重い。
「その封書には、署名があったのですか」
エルハルトが問う。
マルドゥクは迷った。
「……署名はない」
「封は」
「白い封蝋」
その言葉に、エルハルトの眉が動いた。
「聖女付きの封蝋ですか」
「分からない」
刃が鳴る。
マルドゥクは顔を歪めた。
「……聖女側近用の封蝋だった」
部屋の空気が一気に重くなった。
聖女本人ではない。
だが、聖女側近。
リーネ。
第二箱。
白い封蝋。
線が一本、伸びた。
まだ細い。
今にも切れそうな線だ。
けれど、確かに湿地から祈祷台へ、祈祷台から側仕えへ繋がった。
「聖女ミコト様の指示だと書かれていたのか」
俺は問う。
マルドゥクは、こちらを見た。
その目には、奇妙な光があった。
憎しみ。
恐怖。
そして、少しだけ勝ち誇ったような色。
「書かれていない」
刃は鳴らなかった。
つまり、それは本当。
ミコト本人の名前はない。
やはり、届かない。
マルドゥクはかすかに笑った。
「残念だったな、レン・クゼ」
その声は弱い。
だが、そこには嫌な粘りがあった。
「聖女様の名は、どこにもない」
「そうか」
俺は静かに答えた。
「なら、次はリーネだ」
マルドゥクの笑みが消えた。
「何?」
「聖女側近の封蝋。第二箱の受取印。緊急浄化前の湿地搬入。祈祷台周辺の黒い筋。白銀草の薬効阻害。全部、リーネに繋がる」
「リーネは関係ない!」
刃が鳴る。
マルドゥクは顔を歪めた。
俺は一歩近づいた。
「また嘘だ」
「違う……!」
「お前はリーネを庇っているんじゃない。リーネの先にいる誰かを庇っている」
マルドゥクの目が大きく見開かれた。
エルハルトが俺を見る。
クララも、マーヤも、バルトも黙っている。
「だが、今はそれでいい」
俺は刃を下ろした。
「リーネを調べる。封蝋を調べる。第二箱を運んだ者を調べる。封書を処分した灰も探す」
マルドゥクの顔色がさらに悪くなった。
「灰など残っているはずがない」
「そうか?」
マーヤが口元を歪めた。
「浄化香の灰と封蝋の燃え残りは、混ざると独特の臭いが残るのよ。あなたがどこで燃やしたか知らないけど、灰捨て場を調べれば何か出るかもね」
マルドゥクは黙った。
この沈黙は、かなり濃い。
「灰捨て場も確認してください」
エルハルトが書記に命じた。
書記が頷く。
ちょうどその時、扉が叩かれた。
神殿兵が戻ってくる。
「失礼します」
「リーネは?」
エルハルトが問う。
神殿兵は硬い顔で答えた。
「聖女様の控え室にはおりません」
「どこへ」
「湿地浄化後、聖女様の休息準備を終えた後、姿が見えなくなったとのことです」
室内が静まり返った。
逃げた。
そう思ったのは、俺だけではないはずだ。
「捜索を」
エルハルトが即座に命じる。
「神殿内、宿舎、倉庫、裏門、馬車置き場。すべて確認しなさい」
「はい」
神殿兵が再び出ていく。
マルドゥクは呆然としていた。
リーネが消えた。
それは彼にとっても予想外だったらしい。
「……そんな」
マルドゥクが呟く。
「リーネまで……」
「まで?」
俺は聞き逃さなかった。
マルドゥクは口を閉じる。
「今、までと言ったな」
「言っていない」
刃が小さく鳴る。
もう、室内の誰も驚かなかった。
むしろ、マルドゥクの嘘に慣れ始めている。
「マルドゥク元管理官」
エルハルトの声は冷たかった。
「これ以上の虚偽供述は、あなた自身の立場を悪くします」
「私の立場?」
マルドゥクは笑った。
乾いた、壊れかけた笑いだった。
「まだ悪くなる立場があるとでも?」
「あります」
エルハルトは即答した。
「単独犯として裁かれるか、組織的関与の一部として証言協力するか。差は大きい」
マルドゥクの笑いが止まる。
現実的な言葉だった。
償い。
正義。
信仰。
そういう言葉より、今のマルドゥクには届いたらしい。
「……私に、何を話せと」
「知っていることをすべてです」
エルハルトが言う。
「第二箱。リーネ。白い封蝋。聖女側控え室からの封書。湿地異常記録の修正指示。冤罪誘導の経緯」
マルドゥクは俯いた。
長い沈黙。
誰も急かさなかった。
急かせば、また嘘を作る。
待つ時間も、時には尋問の一部だ。
やがて、マルドゥクは低い声で言った。
「最初は、本当に湿地異常の報告だった」
俺たちは黙って聞く。
「白銀草の生育が落ちている。浄化杭の反応が鈍い。水に異臭がある。そういう報告が上がった」
「それを握り潰した?」
「違う。最初は対応するつもりだった」
刃は鳴らない。
そこは本当らしい。
「だが、認定式の日程と重なった。聖女様の初めての大きな浄化披露になる予定だった。湿地異常が広がれば、認定式どころではなくなる」
「だから汚染を悪化させた?」
「違う!」
刃は鳴らない。
少なくとも、本人の認識では違うのかもしれない。
「私は、異常を一度抑え、認定式で聖女様に浄化していただけばよいと思った。そうすれば民も安心する。神殿の威信も高まる。湿地も救われる。全部、丸く収まるはずだった」
「そのために、黒泥を使ったのか」
「黒泥だとは知らなかった」
刃が小さく揺れる。
鳴りきらない。
完全な嘘ではない。
だが、完全な本当でもない。
たぶん、最初は知らなかった。
途中で気づいた。
そういうことだ。
「いつ気づいた」
俺が問う。
マルドゥクは目を閉じた。
「第三箱だ」
セイルが運ばされた箱。
黒泥入り壺。
焦げた浄化香。
香油。
「第三箱を確認した時、ただの祈祷資材ではないと気づいた。匂いが違った。泥が……湿地の泥と同じ匂いをしていた」
「その時点で報告すべきだった」
バルトが言う。
「分かっている!」
マルドゥクは声を荒げた。
「だが、もう遅かった! 第二箱は湿地へ運ばれ、祈祷台の準備は進み、認定式の告知も出ていた! ここで止めれば、すべて私の管理責任になる!」
「だからトビーに罪を着せた」
俺が言うと、マルドゥクは黙った。
刃は鳴らない。
沈黙は、もう十分だった。
「トビーは倉庫に出入りしていた。疑わせるには都合がよかった」
俺は続ける。
「セイルは荷を運んだ。切り捨てるには都合がよかった」
マルドゥクは机を握りしめる。
「俺にも疑いを向けた。外から来た余所者で、神殿に逆らう危険人物にするには都合がよかった」
「……君が邪魔をするからだ」
マルドゥクが低く言った。
初めて、本音に近い声だった。
「君が来なければ、湿地は浄化され、民は聖女様を讃え、神殿は安定した。トビーには気の毒だが、後で処分を軽くすることもできた。セイルも黙っていれば生き残れた」
クララが震える声で言った。
「そんなの……勝手すぎる」
「政治とはそういうものだ」
マルドゥクは吐き捨てた。
「誰かが泥を被らねば、場は収まらない」
「だから子供に泥を被せたのか」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
マルドゥクは俺を見た。
「大きな秩序のためだ」
「違う」
俺は言った。
「お前が守ろうとしたのは秩序じゃない。自分の立場だ」
マルドゥクは反論しなかった。
水晶の青い光だけが、静かに揺れている。
その時、部屋の外が騒がしくなった。
足音。
誰かの声。
神殿兵が慌てて扉を開ける。
「監査官殿」
「何です」
「リーネの部屋を確認しました。本人はいません。荷物の一部も消えています」
「逃亡か」
「その可能性が高いです。ただ……」
神殿兵は一枚の布を差し出した。
「暖炉に燃え残りがありました」
マーヤが素早く近づく。
布の上には、小さな白い塊と、黒く焦げた紙片が乗っていた。
白い塊。
封蝋の燃え残り。
紙片には、文字の一部が残っている。
完全には読めない。
だが、一か所だけ、はっきり見えた。
――見える穢れを優先。
マーヤの顔が変わった。
「……やっぱり」
俺は紙片を見つめた。
見える穢れを優先。
それは、浄化のための指示ではない。
見せるための指示だ。
白銀草の薬効阻害が残ったこと。
祈祷台の黒い筋が消えなかったこと。
民衆に分かる黒泥だけが消えたこと。
すべてが、この言葉と繋がる。
「これは聖女様の指示ではない!」
マルドゥクが叫んだ。
誰もまだ、そう言っていない。
それなのに彼は否定した。
部屋に沈黙が落ちる。
マルドゥク自身も、自分の失言に気づいた。
俺は、ゆっくりと彼を見た。
「なぜ、そう思った」
「……」
「俺たちはまだ、聖女ミコトの指示だとは言っていない」
マルドゥクは答えない。
刃は鳴らない。
嘘ではないからだ。
これは、問いに対する沈黙。
だが、沈黙にも種類がある。
知らない沈黙。
考える沈黙。
そして、知っているからこそ言えない沈黙。
今のマルドゥクは、三つ目だった。
「紙片の保全を」
エルハルトが言った。
声がわずかに震えていた。
彼も気づいている。
これは危険な証拠だ。
マルドゥク個人の罪で終わらせるには、少し深すぎる。
だが、ミコト本人に届くには、まだ足りない。
紙片に署名はない。
リーネは消えた。
封蝋は聖女側近用。
あくまで側近までだ。
白羽美琴は、まだ白い場所に立っている。
「レン」
クララが小さく俺を呼んだ。
「これで、ミコトに届く?」
「まだだ」
俺は答えた。
悔しいが、まだ届かない。
ここで無理に斬れば、反証は成立しない。
美琴は笑うだろう。
リーネが勝手にやった。
マルドゥクが誤解した。
聖女側近の封蝋は管理が甘かった。
見える穢れを優先という言葉も、民を安心させるためだった。
いくらでも逃げ道がある。
だから今は、逃げ道を覚える。
どこへ逃げたか。
誰を使ったか。
何を隠したか。
そのすべてを記録する。
「リーネを探す」
俺は言った。
「第二箱を受け取り、封書を持ち、浄化前に消えた女。彼女が次の証人だ」
マルドゥクがかすれた声で笑った。
「見つかるものか」
「どうしてそう思う」
「……知らん」
刃が鳴る。
もう驚きもしない。
マルドゥクは力なく椅子にもたれた。
その顔には、諦めと恐怖が混ざっていた。
リーネが逃げた。
マルドゥクが切られた。
次は誰が切られるのか。
きっと彼は、それを考えている。
そして、その答えを知っている。
「聴取は一時中断します」
エルハルトが告げた。
「マルドゥク元管理官は拘束を継続。リーネの捜索、灰捨て場および側仕え部屋の保全を最優先。記録水晶の複製を作成し、ギルド立会いのもと封印します」
バルトが頷いた。
「ギルドも確認する」
「お願いします」
エルハルトの表情は硬い。
神殿の傷口を小さくするどころではなくなってきた。
傷は、奥へ伸びている。
どこまで深いかはまだ分からない。
マルドゥクが神殿兵に立たされる。
彼は抵抗しなかった。
ただ、部屋を出る直前、俺の方を見た。
「レン・クゼ」
「何だ」
「君は、何をそこまで憎んでいる」
俺は答えなかった。
マルドゥクは薄く笑う。
「君の目は、湿地のために怒っている目ではない。トビーのためでも、セイルのためでもない。もっと古い何かを見ている」
クララが息を呑んだ。
バルトがマルドゥクを睨む。
俺は、動かなかった。
確かにそうだ。
俺は湿地のために怒っている。
トビーのために怒っている。
セイルのためにも怒っている。
だが、それだけではない。
もっと古い。
もっと深い。
駅のホーム。
周囲の視線。
知らない男たちの手。
怒号。
スマホのカメラ。
白羽美琴の涙。
俺は、あの日の証明できなかった嘘を見ている。
「何を憎んでいるか、か」
俺は静かに言った。
「嘘で誰かの人生を壊しておいて、綺麗な顔で逃げる奴だ」
マルドゥクの笑みが消えた。
神殿兵に連れられ、彼は部屋を出ていく。
扉が閉まった。
重い音が響く。
その後も、しばらく誰も話さなかった。
マーヤが燃え残りの紙片を慎重に瓶へ入れる。
クララは不安そうに俺を見ている。
バルトは腕を組み、何かを考えていた。
エルハルトは記録水晶を見つめている。
それぞれが、今出た証拠の意味を測っていた。
やがて、エルハルトが俺に向き直る。
「レン・クゼ殿」
「はい」
「あなたは、聖女ミコト様を疑っているのですね」
部屋の空気が張り詰めた。
クララが俺を見る。
マーヤも手を止める。
俺は少しだけ考え、答えた。
「疑っているだけなら、口にしません」
「では?」
「証明できるところまで行きます」
エルハルトは目を細めた。
「聖女様は、この町にとって大きな存在です」
「だからです」
「だから?」
「大きな存在なら、嘘だった時に壊れる人間も多い」
俺は燃え残りの紙片を見た。
――見える穢れを優先。
この短い言葉の奥に、どれだけの嘘が詰まっているのか。
まだ分からない。
でも、一つだけ分かる。
これは終わりじゃない。
始まりだ。
「俺は、聖女を落としたいわけじゃない」
俺は言った。
「嘘を証明したいだけです」
エルハルトは黙った。
その沈黙が、肯定なのか警戒なのかは分からない。
だが、少なくとも彼は俺を止めなかった。
聴取室を出ると、神殿の廊下は慌ただしかった。
神殿兵が走り、書記が書類を抱え、神官たちが不安そうに囁き合っている。
その中で、遠くから白い姿が見えた。
聖女ミコト。
白羽美琴。
彼女は廊下の奥で、数人の神官に囲まれていた。
民衆に向けていた時と同じ、穏やかな顔。
だが、俺と目が合った瞬間。
ほんのわずかに、笑った。
リーネが消えたことを、もう知っているのか。
マルドゥクがどこまで話したか、探っているのか。
それとも。
まだ自分には届かないと、分かっているのか。
俺はその笑みを見返した。
美琴。
お前はまだ、白い衣の中にいる。
けれど、今日ひとつ分かった。
お前の近くにいた者は、もう逃げ始めている。
嘘の周りにいた者たちが、少しずつ動き出している。
動けば、跡が残る。
逃げれば、道が残る。
燃やせば、灰が残る。
消せば、消した痕が残る。
俺は歩き出した。
今はまだ、お前を斬れない。
けれど、刃は近づいている。
第二箱。
リーネ。
白い封蝋。
見える穢れを優先。
そのすべてが、次の証明へ繋がっている。
嘘は、全部を消せない。
そして俺は、その消し残しを拾うためにいる。
【あとかぎ】
レン「ここまで読んでくれて、ありがとうございます」
クララ「ありがとうございます!」
レン「面白かったというなら、証明してください」
クララ「何をですか?」
レン「★、♡、フォローで」
クララ「証明者の悪用です!」
レン「悪用ではない。応援の有無を確認しているだけだ」
クララ「それを圧って言うんです!」




