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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第25話 切り捨てられる者

 ――証明成立。


 その文字が湿地の空に浮かんだ瞬間、誰も声を出せなくなった。


 さっきまで聖女を讃えていた民衆も。


 マルドゥクを守るように立っていた神殿兵も。


 濡れ衣を着せられていたトビーも。


 命じられるままに荷を運ばされ、切り捨てられかけたセイルも。


 全員が、ただ光の文字を見上げていた。


 湿地汚染工作。


 神殿記録改ざん。


 冤罪誘導。


 証言者脅迫。


 並んだ罪名は、あまりにも重かった。


 ひとつだけなら、まだ言い逃れできたかもしれない。


 事務の不備。


 現場の混乱。


 部下の独断。


 運搬時の間違い。


 そういう言葉で、上から押し潰せたかもしれない。


 だが、四つ並べば違う。


 それはもう、偶然ではない。


 意図だ。


 計画だ。


 誰かを踏み台にして、自分だけが逃げるための道筋だ。


「違う……」


 マルドゥクが泥の上で呟いた。


「違う、違う、違う……!」


 その声は、祈りではなかった。


 言い訳ですらなかった。


 ただ、自分に言い聞かせているだけの声だった。


 俺は《反証の刃》を下ろした。


 掌に残っていた熱が、ゆっくりと引いていく。


 証明は成立した。


 だが、胸の奥は少しも晴れなかった。


 目の前で一人の男が崩れている。


 それは確かに、当然の報いだ。


 でも、俺が本当に斬りたい嘘はまだ祈祷台の上に立っている。


 白い衣をまとい、清らかな顔で、まるで自分も被害者であるかのように。


 聖女ミコト。


 白羽美琴。


 俺の人生を壊した女。


 彼女は、マルドゥクを見ていなかった。


 民衆を見ていた。


 自分がどう映るかだけを、見ていた。


「な、何かの間違いです!」


 マルドゥクが急に顔を上げた。


 膝をついたまま、彼は神殿兵へ向かって叫ぶ。


「私はラトル神殿のために動いた! 湿地を救うために必要な措置を取っただけだ! この男の力は危険だ! 異端です! 神殿を貶めるための偽りの術です!」


 神殿兵たちは動かなかった。


 さっきまでなら、マルドゥクの一言で俺を取り囲んでいただろう。


 剣を抜き、民衆の前で罪人扱いし、押さえつけようとしたはずだ。


 だが今は違う。


 彼らも見てしまった。


 証明成立の文字を。


 民衆の視線を。


 そして何より、聖女ミコトがマルドゥクを庇わなかったことを。


「何をしている!」


 マルドゥクが叫ぶ。


「早くそいつを捕らえろ! 神殿に逆らう者だぞ!」


 神殿兵の一人が、困ったように隣を見た。


 その隣も動かない。


 命令を待っている。


 しかし、その命令に従えば、自分たちも疑惑の中に入る。


 それが分かっているのだ。


「……マルドゥク様」


 やがて、一人の神殿兵が低い声で言った。


「現在、証明成立により重大な疑いが確定しております。これ以上の指示には、従えません」


 その言葉で、マルドゥクの顔が歪んだ。


「従えない、だと?」


「はい」


「私が誰か分かっているのか! 私は神殿の管理権限を――」


「その権限についても、確認が必要です」


 神殿兵の声は硬かった。


 敬意は残っている。


 だが、服従は消えていた。


 その瞬間、マルドゥクは初めて理解したようだった。


 自分の足元から、神殿という床が抜け始めていることに。


 民衆のざわめきが広がる。


「トビーは盗んでなかったんだろ?」


「じゃあ、あの子を犯人にしようとしたのか?」


「セイルも脅されてたんじゃないか」


「湿地を汚したのが神殿側なら、俺たちは何を信じればいいんだ」


 その声はまだ小さい。


 けれど、一度生まれた疑いは消えない。


 見える黒泥は消えても。


 民の中に落ちた黒い染みは、もう簡単には拭えない。


「違う!」


 マルドゥクは民衆へ向き直った。


「皆さん、騙されてはいけません! 私は皆さんのために――」


「じゃあ、なんでトビーを疑ったんだ!」


 誰かが叫んだ。


 マルドゥクが固まる。


 声を上げたのは、湿地の作業着を着た中年の男だった。


 泥で汚れた手を握りしめ、怒りで肩を震わせている。


「トビーはいつも湿地の道具を直してくれてた! 神殿の金を盗むような子じゃないって、俺たちは知ってた! でも神殿が言うから……神殿が犯人だって言うから……!」


 男の声が詰まる。


「俺たちは、あの子を疑ったんだぞ」


 その言葉で、トビーが小さく肩を震わせた。


 彼は俯いたまま、何も言わない。


 怒ってもいい。


 泣いてもいい。


 叫んでもいい。


 けれど、彼はただ唇を噛んでいた。


 疑われた痛みは、証明されたからといってすぐには消えない。


 俺はそれを知っている。


 やっていない罪を着せられた時。


 人が向けてくる目。


 距離を取る態度。


 善人ぶった沈黙。


 それらは、後から謝られても消えない。


「トビー」


 クララがそっと彼の背中に手を置いた。


「もう、大丈夫だから」


 トビーは小さく頷いた。


 だが、その目にはまだ涙が溜まっている。


 セイルも同じだった。


 彼は神殿兵の横で、力なく立っている。


 マルドゥクの命令で動き。


 いざとなれば切り捨てられ。


 それでも証言した。


 その結果、今度は自分が神殿からどう扱われるか分からない。


 彼の恐怖は、まだ終わっていない。


「私は……」


 マルドゥクが喘ぐように言った。


「私は、ラトル神殿を守ろうとしただけです。聖女様の認定式を成功させるために……町の不安を鎮めるために……多少の調整は必要だった」


「多少の調整?」


 俺は思わず聞き返した。


 マルドゥクは、はっとした顔をした。


 だが、もう遅い。


 民衆の空気がまた変わった。


 多少の調整。


 それは、湿地を汚された者たちに言っていい言葉ではなかった。


「白銀草が駄目になったんだぞ!」


 今度は別の女が叫んだ。


「うちの子の薬に使う分もあった! 見た目が戻ったからって、薬効がなければ意味がない!」


「浄化されたって言ったじゃないか!」


「救われたって言ったじゃないか!」


「何が多少だ!」


 声が増えていく。


 それは暴動のような激しさではなかった。


 もっと重い。


 信じていたものが、足元から崩れた時の声だった。


「静まりなさい!」


 マルドゥクが叫んだ。


「聖女様の御前です! 不敬ですよ!」


 その一言が、とどめになった。


 民衆の目が冷えた。


 聖女の名を盾にする。


 神殿の名を盾にする。


 今までなら、それで黙らせることができたのだろう。


 だが、もう遅い。


 その盾の裏に何が隠されているのか、民衆は見てしまった。


「不敬なのはどっちだ」


 湿地の男が低く言った。


「聖女様の名を使って、俺たちを騙したのは誰だ」


 マルドゥクは言葉を失った。


 その時だった。


 祈祷台の上から、澄んだ声が落ちた。


「皆さん」


 聖女ミコトだった。


 たった一言で、場の空気が変わる。


 民衆の視線が、怒りから戸惑いへ変わった。


 やはり強い。


 彼女はまだ、聖女としての重さを持っている。


 ミコトはゆっくりと祈祷台を降りた。


 白い衣の裾が板道を撫でる。


 汚れひとつない。


 湿地の泥の上に立っているのに、そこだけが別の世界のようだった。


「私は、皆さんの苦しみを軽く見たことはありません」


 ミコトは静かに言った。


「湿地に起きた異常を知り、少しでも早く穢れを祓いたいと願いました」


 民衆が聞き入る。


 マルドゥクも、縋るように彼女を見た。


 だが、俺には分かる。


 これは救いの言葉ではない。


 切断の前置きだ。


「けれど、物資の手配、記録管理、現場の整備については、私は神殿の担当者に任せていました」


 ミコトの視線が、初めてマルドゥクへ向いた。


「マルドゥク様」


 その呼び方は丁寧だった。


 けれど、温度がなかった。


「あなたは、私に説明しましたね。湿地の異常は自然発生したものだと。神殿は正しい手続きで対応していると」


「聖女様……」


 マルドゥクの声が震える。


「私は、あなたを信じました」


 ミコトは悲しそうに目を伏せた。


 完璧だった。


 責めているのに、責めていないように見せる。


 自分は騙された側だと示す。


 聖女でありながら、被害者にもなる。


 そして、その言葉は民衆に刺さる。


「聖女様も騙されていたのか……?」


「じゃあ悪いのはマルドゥクだけなのか?」


「聖女様は浄化してくれたんだし……」


 ざわめきが変わっていく。


 ミコトへ向かいかけた疑いが、マルドゥクへ戻される。


 その流れを見て、俺の胸の奥が冷たくなった。


 美琴。


 お前は、本当に変わらない。


 誰かの人生を壊しても、自分だけは傷つかない場所に立つ。


 周囲の視線を操り、自分に都合のいい物語を作る。


 そして、その物語の中で泣く。


 あの時もそうだった。


 俺は悪者にされ、彼女は怯える被害者になった。


 誰も、彼女の言葉を疑わなかった。


 今回も同じことをしている。


 ただし、今回は俺がいる。


「聖女様……違うのです……!」


 マルドゥクは祈祷台の下で膝をついたまま、ミコトに手を伸ばした。


「私は、あなたのために! 認定式を成功させるために! 神殿の威信を守るために!」


 ミコトの表情が、ほんの少しだけ変わった。


 それは民衆には分からないほど小さな変化だった。


 だが、俺には見えた。


 余計なことを言うな。


 その目が、そう言っていた。


「私のため?」


 ミコトは悲しそうに首を振った。


「私は、そのようなことを望んでいません」


「で、ですが……!」


「民の苦しみを利用してまで、認定式を飾る必要などありません」


 美しい言葉だった。


 正しすぎる言葉だった。


 だからこそ、気味が悪かった。


 その言葉を言える立場を、彼女は確保している。


 直接の命令をした証拠はない。


 物資を運んだのはセイル。


 記録を整えたのはマルドゥク。


 湿地の準備をしたのは神殿職員。


 ミコトは祈っただけ。


 そういう形にしてある。


「マルドゥク様」


 ミコトは、彼に向けて静かに告げた。


「真実を話してください。あなたが本当に神殿を思うなら、これ以上、民を苦しめないでください」


 マルドゥクの顔が崩れた。


 それは、怒りとも絶望ともつかない表情だった。


 自分が守ろうとしたもの。


 自分が利用した権威。


 自分が縋っていた聖女。


 そのすべてから、今、切り捨てられたのだ。


「……私だけが悪いと?」


 マルドゥクが低く呟いた。


「私だけが……全部、背負えと……?」


 ミコトは答えなかった。


 ただ、悲しそうな顔をした。


 その沈黙が、何よりも雄弁だった。


 マルドゥクは笑った。


 乾いた笑いだった。


「は、はは……」


 彼は泥の上に手をつき、肩を震わせる。


「そうか……そういうことか……」


 神殿兵が近づく。


「マルドゥク様。同行をお願いします」


「触るな!」


 マルドゥクが叫んだ。


 だが、その叫びに力はなかった。


 神殿兵は彼の両腕を押さえる。


 以前なら誰もそんなことはできなかっただろう。


 マルドゥクは神殿の名を背負い、人々を裁く側にいた。


 だが今は、違う。


 裁かれる側だ。


「私は……私は命じられただけだ……!」


 彼は呻いた。


 俺は一歩前に出た。


「誰にだ」


 マルドゥクは俺を睨んだ。


 目は血走り、唇は震えている。


 言いたい。


 言えば、自分だけが落ちるのは避けられるかもしれない。


 だが言えない。


 言えば、もっと深い場所から切られる。


 そういう恐怖が、彼の喉を塞いでいる。


「誰に命じられた」


 俺はもう一度聞いた。


 ミコトは黙っている。


 けれど、その沈黙には圧があった。


 マルドゥクはミコトを見た。


 助けを求めるように。


 あるいは、最後の確認をするように。


 ミコトは穏やかに目を伏せた。


 それだけだった。


 マルドゥクの口元が歪む。


「……私の判断だ」


 彼は絞り出すように言った。


「すべて、私の判断だ」


 民衆の中から怒号が上がる。


 神殿兵が彼を立たせる。


 マルドゥクは抵抗しなかった。


 もう、抵抗する相手さえ分からなくなっているようだった。


 トビーが、その姿を見ていた。


 小さな拳を握っている。


 俺はトビーの横に立った。


「言いたいことがあるなら、言っていい」


 トビーは俺を見上げた。


「……いいんですか」


「お前には、その権利がある」


 トビーは迷った。


 唇を何度も開きかけ、閉じる。


 それから、神殿兵に連れて行かれようとするマルドゥクへ向かって叫んだ。


「僕は、盗んでません!」


 マルドゥクの足が止まる。


 トビーの声は震えていた。


 でも、湿地にしっかり響いた。


「僕は……神殿のお金なんて盗んでません! 何度も言ったのに、誰も聞いてくれなかった! 母さんにも、みんなにも、泥棒だと思われた!」


 トビーの目から涙が落ちた。


「僕は、盗んでません!」


 同じ言葉だった。


 けれど、一度目より強かった。


 マルドゥクは振り返らなかった。


 その代わり、民衆の中から声が上がった。


「すまなかった、トビー」


 湿地の男だった。


 続いて、女が言った。


「疑ってごめんね」


「悪かった」


「本当に、悪かった」


 謝罪の声が少しずつ広がっていく。


 トビーは泣きながら首を振った。


 許したのか。


 許せないのか。


 きっと、本人にもまだ分からない。


 でも、少なくとも彼は今、罪人ではなくなった。


 自分の口で、やっていないと言えた。


 それは小さくても、確かな一歩だった。


 セイルもまた、黙ってその場に立っていた。


 彼に向けられる視線は複雑だった。


 彼は荷を運んだ。


 黒泥入りの壺を運んだ。


 けれど、命じられ、脅され、利用された側でもある。


 責任が消えるわけではない。


 だが、全部を押し付けられるべきでもない。


「セイル」


 バルトが声をかけた。


「お前にも事情聴取はある。逃げるな」


「……はい」


「だが、証言したことは無駄にはしない。ギルド側でも記録を残す」


 セイルは目を見開いた。


「俺は……助かるんですか」


「それは分からん」


 バルトは正直に言った。


「だが、全部をお前一人に背負わせるつもりはない」


 セイルの顔が歪んだ。


 彼は深く頭を下げた。


「ありがとうございます……」


 マルドゥクは神殿兵に連れられていく。


 その背中に、かつての威厳はなかった。


 民衆は道を空けた。


 敬意からではない。


 触れたくないものを避けるように。


 昨日までなら、人々は彼に頭を下げていただろう。


 今日は誰も頭を下げない。


 それが、彼への判決のように見えた。


 マルドゥクが板道の端まで来た時、ふいに立ち止まった。


 そして、こちらを振り返る。


 正確には、俺ではない。


 ミコトを見ていた。


「聖女様……」


 声はかすれていた。


「私は……あなたに……」


 ミコトは静かに手を合わせた。


「マルドゥク様。罪を認め、償ってください」


 それだけだった。


 救いも。


 弁護も。


 感謝も。


 何もなかった。


 マルドゥクの顔から、最後の何かが抜け落ちた。


 神殿兵に引かれ、彼は湿地を去っていく。


 その足跡が、板道の上に黒く残った。


 誰かが小さく言った。


「聖女様は悪くないよな」


 別の誰かが答える。


「浄化してくれたのは本当だし」


「騙されてたなら、聖女様も被害者だ」


 その声を聞いて、クララが悔しそうに拳を握った。


「……違うかもしれないのに」


「今は、そう見せられた」


 俺は言った。


「でも、完全には逃げきれていない」


「そうなの?」


「ああ」


 俺はミコトを見た。


 彼女は民衆に向かって、優しく頭を下げている。


 その姿は美しい。


 だが、さっき一瞬だけ表情を崩した。


 マルドゥクが「命じられただけ」と言った時。


 彼女は警戒した。


 つまり、命令系統はある。


 少なくとも、マルドゥクが勝手にやっただけではない何かがある。


 今はまだ証明できない。


 だが、証明できないことと、存在しないことは違う。


「レンさん」


 マーヤが近づいてきた。


 手には採取した小瓶が数本ある。


「祈祷台の黒い筋、白銀草、浄化後の水。全部、保管しておくわ」


「頼む」


「それと、気になることがある」


「何だ」


 マーヤは声を落とした。


「ミコト様の浄化、黒泥には効いた。でも薬効阻害にはほとんど効いてない。これ、単に力不足って感じじゃないの」


「どういう意味だ」


「浄化対象を選んでいるみたいだった」


 俺は眉を寄せた。


「選んでいる?」


「見える汚れ、臭い、濁り。民衆が分かりやすく“浄化された”と思う部分には強く効いてる。でも白銀草の内部に残った阻害や、祈祷台の下の染みには弱い」


「偶然じゃないのか」


「その可能性もある。でも、もし意図的にそういう浄化をしたなら……」


 マーヤは祈祷台を見た。


「見せるための浄化よ」


 見せるための浄化。


 その言葉が、胸に刺さった。


 ミコトの力は本物。


 だが、本物の力をどう使うかは本人次第だ。


 救うために使うこともできる。


 飾るために使うこともできる。


 罪を隠すために使うことも。


「証拠になるか」


「今の段階では弱いわ。浄化の仕組み自体が不明な部分も多いし、聖女の力となると、神殿側がいくらでも神秘だ奇跡だって言い逃れできる」


「だろうな」


「でも、記録は残せる」


 マーヤは小瓶を軽く振った。


「今日の浄化で何が消えて、何が残ったのか。それは後で効いてくると思う」


「十分だ」


 俺は頷いた。


 証拠は、すぐに刃になるとは限らない。


 だが、積めばいつか形になる。


 俺はそれを、この湿地で学んだ。


 ひとつの証言では弱い。


 ひとつの荷札では弱い。


 ひとつの黒い筋では弱い。


 だが、それらが線で繋がった時、嘘は逃げ場を失う。


「レン・クゼ様」


 ふいに、ミコトがこちらへ歩いてきた。


 クララが身構える。


 バルトもわずかに目を細めた。


 ミコトはそれに気づいているはずなのに、柔らかく微笑んだままだった。


「このたびは、真実を明らかにしてくださり、ありがとうございました」


 吐き気がするほど綺麗な声だった。


 俺は答えない。


 ミコトは続ける。


「トビーさんの無実が証明され、セイルさんの証言も守られました。湿地の皆さんも、これで少しは安心できると思います」


「安心?」


 俺は聞き返した。


「白銀草の薬効阻害は残っている。湿地が本当に戻ったわけじゃない」


「ええ。ですから、今後も神殿として支援を続けます」


「神殿として?」


「はい」


 ミコトは胸に手を当てた。


「マルドゥク様の罪は重いものです。ですが、神殿そのものが民を見捨てることはありません」


 上手い。


 マルドゥク個人の罪にして、神殿と聖女の価値を守る。


 民衆にとっても、その方が受け入れやすい。


 神殿全体が腐っていると思うより、一人の悪人がいたと思う方が楽だからだ。


「あなたは、知らなかったのか」


 俺は言った。


 ミコトの微笑みは崩れない。


「何をでしょう」


「第二箱のことだ」


「詳しい物資管理は担当外です」


「祈祷台の準備は」


「現場担当の方々が整えてくださいました」


「白銀草の薬効阻害が残ることは」


「浄化後に詳しく調べなければ、分かりませんでした」


 即答。


 淀みがない。


 あらかじめ用意していた答えのように。


 俺は彼女を見た。


 ミコトも俺を見る。


 その目は、周囲から見れば清らかで穏やかだっただろう。


 だが、俺だけには分かった。


 その奥に、冷たいものがある。


 勝ったと思っている目ではない。


 負けていないと思っている目だ。


「レン・クゼ様」


 ミコトは少しだけ声を落とした。


「あなたの力は、本当に素晴らしいですね」


 俺は黙った。


「無実を証明し、嘘を暴く。とても尊い力だと思います」


「そうか」


「ええ」


 ミコトは微笑む。


「けれど、力は使い方を誤れば人を傷つけます。どうか、疑うことだけに囚われないでください」


 クララが息を呑んだ。


 バルトの眉が動く。


 マーヤが露骨に嫌そうな顔をした。


 俺は、笑いそうになった。


 疑うことだけに囚われるな。


 あの時。


 誰も疑わなかったせいで、俺は終わった。


 美琴の言葉を疑わず。


 俺の言葉を疑い。


 周囲は正義の顔で俺を壊した。


 その女が、今、俺に言う。


 疑うな、と。


「俺は疑っているんじゃない」


 俺は静かに言った。


「証明しているだけだ」


 ミコトの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。


「そうですか」


「ああ」


「では、いつか私の潔白も証明していただけると嬉しいです」


 周囲には、冗談のように聞こえただろう。


 聖女が柔らかく言った、軽い言葉。


 だが、俺には挑発に聞こえた。


 証明できるものならしてみろ。


 そう言われた気がした。


「必要になればな」


 俺は答えた。


 ミコトは微笑んだ。


「期待しています」


 それだけ言って、彼女は民衆の方へ戻っていった。


 白い背中。


 汚れない衣。


 人々が自然と道を空ける。


 彼女はまだ聖女だった。


 マルドゥクが泥に沈んでも。


 トビーが泣いても。


 セイルが怯えても。


 白銀草が傷んだままでも。


 彼女だけは、白いままだ。


 少なくとも、今は。


「レン」


 クララが心配そうに俺を見た。


「大丈夫?」


「大丈夫だ」


 俺は答えた。


 声は思ったよりも冷静だった。


「でも、悔しいね」


「悔しいさ」


 俺はミコトの背中を見たまま言った。


「けど、焦らない」


 焦れば負ける。


 あいつは、人の感情を利用するのが上手い。


 怒り。


 同情。


 信仰。


 不安。


 その全部を、自分の物語へ引き込む。


 だからこそ、俺は証拠で進む。


 感情ではなく。


 声の大きさでもなく。


 涙でもなく。


 証明で。


「マルドゥクは落ちた」


 バルトが隣に立った。


「だが、これで終わりではなさそうだな」


「はい」


「神殿上層がどう動くか分からん。ミコト様も、簡単には尻尾を出さんだろう」


「分かっています」


 バルトは俺を見た。


「無茶はするな」


「できるだけ」


「そこは、しないと言え」


 俺は少しだけ笑った。


 バルトもため息をついた。


 そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が緩む。


 だが、湿地に残った問題は消えていない。


 白銀草。


 汚染記録。


 神殿の帳簿。


 第二箱。


 そして、ミコト。


 マーヤが採取した小瓶を鞄にしまった。


「とりあえず、戻って分析ね。今日の分だけでも相当な証拠になるわ」


「頼む」


「任せて。こうなったら、こっちも意地よ」


 クララがトビーの肩を支え、セイルは神殿兵に付き添われて別の道へ連れていかれる。


 マルドゥクの姿は、もう見えなかった。


 湿地にはまだ民衆が残っている。


 彼らは聖女を見て、湿地を見て、互いに不安そうに話していた。


 信じたい。


 でも、疑いが残る。


 救われたい。


 でも、被害は残っている。


 その中途半端な空気こそが、今日の結果だった。


 完全な勝利ではない。


 だが、負けでもない。


 嘘の壁に、確かにひびを入れた。


 俺は湿地の水面を見た。


 黒泥は消えている。


 けれど、水底にはまだ、薄い濁りが残っていた。


 まるで、この町そのもののようだった。


 表面は浄化されたように見える。


 だが、底にはまだ何かが沈んでいる。


 俺は拳を握った。


 あの日の俺は、証明できなかった。


 だから全部を失った。


 でも今は違う。


 トビーの無実を証明した。


 セイルの証言を守った。


 マルドゥクの罪を証明した。


 まだ届かない場所にいる女がいる。


 けれど、届かないなら近づけばいい。


 一つずつ。


 証拠を集めて。


 嘘の逃げ道を塞いで。


 いつか必ず、あの白い衣の下に隠れた黒い染みを暴く。


 俺は湿地を背にして歩き出した。


 その時、背後からミコトの声が聞こえた。


「皆さん、ご安心ください。神殿は必ず、この湿地を救います」


 民衆の一部が、弱々しく拍手した。


 俺は振り返らなかった。


 今はまだ、彼女の言葉の方が強い。


 だが、言葉だけでは残らない。


 証拠は残る。


 泥は消えても、染みは残る。


 嘘は、全部を消せない。


 そして俺は、その残ったものを証明するためにいる。


 白羽美琴。


 お前がどれだけ綺麗な顔で逃げても。


 どれだけ聖女の光をまとっても。


 俺は、忘れない。


 俺の人生を壊したあの日の嘘を。


 そして、この世界で積み上げた新しい嘘を。


 次に刃が届く時。


 その笑顔ごと、証明してやる。





【作者より】


ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


少しでも読みやすく、皆様に愛していただける物語になるよう、一話ずつ大切に執筆しています。


ただ、書き続けていると、作者自身でも「この物語は面白いのだろうか」「続きを読みたいと思ってもらえているのだろうか」と、不安になることがあります。


それでも、こうして読んでくださる方がいることを、とても嬉しく、光栄に思っています。


少し厚かましいお願いになりますが、面白い、続きが気になると思っていただけましたら、♡や★、作品フォローなどで応援していただけると嬉しいです。


皆様からいただく反応の一つひとつが、続きを書く大きな励みになります。

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