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痴漢冤罪で人生を壊された男は、異世界で《証明者》となり、嘘で人々を支配する聖女を断罪する  作者: 月瀬 リュカ


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第24話 浄化のあとに残るもの


 歓声が上がっていた。


 湿地の上に張られた板道。


 その先に設けられた祈祷台。


 白い衣をまとった聖女ミコトが、祈りを終えて静かに手を下ろす。


 さっきまで湿地を覆っていた黒い泥は、目に見える範囲では消えていた。


 濁っていた水面は、薄く光を返している。


 黒ずんでいた土も、表面だけを見れば元に戻ったように見えた。


 だから、民は声を上げる。


「聖女様……!」


「やっぱり本物だ!」


「湿地が救われた!」


 誰かが膝をついた。


 誰かが涙を流した。


 誰かが祈った。


 その光景だけを見れば、たしかに救済だった。


 奇跡。


 浄化。


 聖女。


 人が信じたい言葉が、そこにはきれいに並んでいた。


 けれど。


 俺は、歓声の中で黙って湿地を見ていた。


 黒泥は消えた。


 それは事実だ。


 ミコトの力は本物だった。


 それも事実だ。


 だが、事実は一つだけではない。


 黒泥が消えたこと。


 湿地が元に戻ったこと。


 この二つは、同じ意味ではない。


「レン」


 隣でクララが小さく声をかけてきた。


「……何か、変なの?」


「ああ」


 俺は湿地の奥を見たまま答えた。


「終わったように見える。だから変だ」


「終わったように見えるから?」


「本当に終わったなら、こんなに都合よく終わらない」


 俺の言葉に、クララは眉を寄せた。


 少し離れた場所では、バルトが腕を組んで周囲を見ている。


 マーヤはすでにしゃがみ込み、浄化後の泥と水を小瓶に採取していた。


 トビーは人混みの後ろで縮こまり、セイルは神殿兵に見張られながら顔を青くしている。


 そして、マルドゥクは祈祷台のそばに立っていた。


 満足そうな顔だった。


 勝利を確信した者の顔。


 いや、違う。


 勝利を確信したふりをしている顔だ。


「ご覧ください!」


 マルドゥクが民衆に向かって声を張った。


「聖女ミコト様の御力により、湿地の穢れは祓われました! 根拠のない疑いも、悪意ある詮索も、これで終わりです!」


 歓声がまた大きくなる。


 マルドゥクは続けた。


「神殿は湿地を救った! 聖女様は民を救った! これ以上、何を疑う必要がありましょうか!」


 上手い言い方だ。


 湿地の浄化を、疑惑の浄化にすり替えている。


 黒泥が消えた。


 だから不正も消えた。


 そう思わせようとしている。


 俺は、その言葉を聞きながら祈祷台の足元へ視線を落とした。


 台の下。


 板の隙間。


 そこに、黒い筋が残っていた。


 水に溶けきらず、木目に染み込むようにこびりついた細い線。


 浄化の光を浴びたはずなのに、消え残っている。


 俺は一歩近づいた。


 すぐに神殿兵が前に出る。


「近づくな。聖女様の祈祷台だ」


「証拠保全のためだ」


「証拠だと?」


 神殿兵が鼻で笑う。


「浄化は終わった。見て分からないのか」


「見えるものだけで判断した結果、何人も冤罪にされたんだろ」


 神殿兵の顔が強張った。


 俺はそれ以上相手にせず、バルトに視線を向けた。


「バルトさん。あの台の下、見てもらえますか」


「分かった」


 バルトが歩いてくると、神殿兵は一瞬迷った。


 探索者ギルドの男。


 しかも、この場にはギルド側の関係者もいる。


 神殿だけで押し切れる空気ではなくなっていた。


 バルトはしゃがみ込み、祈祷台の足元を覗いた。


 そして、低く唸る。


「……黒い筋があるな」


 民衆の一部がざわついた。


 マルドゥクの眉がわずかに動く。


「浄化の残滓でしょう」


 即答だった。


 早すぎる。


 用意していた言葉のようだった。


「強い穢れを祓えば、痕跡くらい残ります。何も不思議ではありません」


「そうか」


 俺は短く返した。


「じゃあ、祈祷台の上ではなく、台の下に濃く残っている理由は?」


 マルドゥクの目が細くなった。


「……何が言いたいのです」


「浄化の残滓なら、ミコトが祈った中心部に強く残るはずだ。けれど黒い筋は、台の下。しかも板を支える脚の内側に沿っている」


 俺は指で示した。


「上から降ったものじゃない。下から持ち込まれたものだ」


 クララが息を呑む。


 バルトが台の脚をさらに調べた。


「たしかに妙だな。板を置く前に付いた汚れみたいに見える」


「あり得ません」


 マルドゥクが声を強めた。


「この祈祷台は緊急浄化のために急ぎ設けたものです。事前に汚れが付くはずがない」


「急ぎ?」


 俺は周囲を見た。


 湿地に渡された板道。


 滑り止めの縄。


 祈祷台の支柱。


 白布。


 香炉。


 民衆を区切るための杭。


 神殿兵の配置。


 祈りを見るための空間。


 どれも、急ごしらえにしては整いすぎている。


「この板道、何本あると思いますか」


 俺が言うと、マルドゥクは黙った。


「湿地に沈まないよう幅を合わせて、足元には滑り止めまで巻いてある。祈祷台も水平に組まれている。香炉の位置も、見物人の立ち位置も決まっている。これを、湿地異常が発覚してから慌てて作った?」


「神殿には優秀な者が揃っています」


「便利な言葉だな」


 俺は祈祷台の横に回った。


 木材の端に、乾いた泥がこびりついている。


 さっき降った泥ではない。


 湿っていない。


 泥の上に、さらに白い粉のようなものが薄くかぶっていた。


 香の灰だ。


「マーヤ」


「はいはい、分かってる」


 マーヤが小瓶と細い金属棒を持って近づいてきた。


 神殿兵がまた遮ろうとしたが、バルトが無言で前に立つ。


 それだけで神殿兵は下がった。


 マーヤは黒い筋を少量削り取り、別の小瓶へ入れた。


 透明な液を一滴垂らす。


 じわり、と黒が鈍い紫に変わった。


「……出たわね」


「何が?」


 クララが尋ねる。


「浄化香由来成分。しかも、さっきの黒泥と同じ反応」


 周囲がざわめく。


 マルドゥクがすぐに口を開いた。


「湿地全体が汚染されていたのです。当然、祈祷台にも付着するでしょう」


「順番が違うのよ」


 マーヤが顔を上げた。


「これは浄化後に付いたものじゃない。上から流れたものでもない。木材の下側に染みて、乾いた後で香灰が乗ってる」


「それが何だと言うのです」


「つまり、この祈祷台は黒泥のある場所に後から置かれたんじゃない」


 マーヤは瓶を掲げた。


「黒泥が付いた状態の部材を、ここに持ち込んだ可能性がある」


 民衆の声が一段下がった。


 信仰の歓声ではない。


 疑いのざわめきだった。


 マルドゥクの表情が固くなる。


 俺はその変化を見逃さなかった。


 人は嘘をつく。


 言葉で取り繕う。


 表情を作る。


 けれど、予想していなかった方向から事実を突きつけられた時。


 一瞬だけ、素が出る。


 あの顔だ。


 あの時と同じだ。


 俺を痴漢だと決めつけた連中も、そうだった。


 都合のいい物語が崩れそうになった瞬間。


 怒る。


 焦る。


 そして、もっと大きな声で押し潰そうとする。


「くだらない!」


 マルドゥクが叫んだ。


「聖女様が湿地を浄化された! それがすべてです! 細かな泥の位置など、何の意味もない!」


「意味ならある」


 俺は言った。


「黒泥は自然発生じゃない。加工泥だ。白銀草を弱らせ、浄化杭の効果を落とし、湿地異常を悪化させるために作られていた」


「証明されていません!」


「第三区画の泥から、浄化香由来成分、香油反応、薬効阻害反応が出た。第三箱の中身は黒泥入り壺、焦げた浄化香、香油。セイルが証言している」


「その男の証言など信用できない!」


 セイルの肩が跳ねた。


 神殿兵の後ろで、彼は唇を震わせている。


 マルドゥクはセイルを睨んだ。


 あれは目だ。


 黙れ、という目。


 証言するな、という目。


 生き残りたければこちらを見ろ、という目。


 だから俺は、セイルに向かって言った。


「セイル」


「は、はい……」


「今、見えるか」


 俺は祈祷台の横に落ちていた荷札の切れ端を取り出した。


 前回、湿地現場で見つけたもの。


 泥に汚れ、端は千切れている。


 けれど、文字は残っていた。


 ――認定式用物資 第二箱。


 セイルはそれを見た瞬間、顔色を変えた。


「……それは」


「知っているな」


「第二箱……」


 セイルは喉を鳴らした。


「俺が運んだのは、第三箱です。でも、荷札の形は同じです。白札で、端に神殿印。認定式用物資と書かれていた」


「第二箱の中身は?」


「見ていません。俺は第三箱だけを裏へ運べと言われました。ただ……第二箱は先に湿地へ運ばれたと聞きました」


「誰から?」


 セイルは言葉に詰まった。


 マルドゥクが口を開きかける。


 その前に、俺は言った。


「答えろ。今黙れば、お前はまた利用される」


 セイルの目が揺れた。


 恐怖。


 迷い。


 諦め。


 それから、わずかな怒り。


「……マルドゥク様の側仕えです」


 湿地に、重い沈黙が落ちた。


「第二箱は、聖女様の緊急浄化に必要な道具だと。祈祷台の準備に使うから、湿地側へ回せと」


「いつだ」


「緊急浄化が発表される前です」


 その一言で、民衆のざわめきが変わった。


 緊急浄化。


 その言葉の意味が崩れたからだ。


 緊急のはずなのに、発表前に準備が進んでいた。


 異常発覚後に対応したのではない。


 異常が起こることを知っていた者がいる。


 少なくとも、そう疑うには十分だった。


「嘘です!」


 マルドゥクが叫んだ。


「その男は罪を逃れるために神殿を貶めている!」


「そう言うと思った」


 俺は静かに返した。


 セイル一人の証言なら、切り捨てられる。


 トビーの証言も、マーヤの調査も、外部記録も、それぞれ一つなら潰される。


 だから積む。


 一つずつ。


 嘘が逃げられないように。


 俺はマーヤを見た。


「白銀草は?」


「見た目は少し戻ってる。でも、薬効は戻ってないわ」


 マーヤは湿地の端に生えている白銀草を一本、慎重に採取した。


 葉は白く光っている。


 遠目には回復したように見える。


 けれど、彼女が試薬を垂らすと、葉の縁が灰色にくすんだ。


「薬効阻害反応が残ってる」


 マーヤははっきりと言った。


「黒泥は見えなくなった。でも、白銀草の中に入り込んだ阻害は消えてない。これでは薬草として使えない」


「そんな……」


 民衆の中から声が漏れる。


「じゃあ、浄化されたんじゃないのか?」


「聖女様の力で戻ったんじゃ……」


「薬に使えないなら、湿地は救われてないじゃないか」


 ミコトは祈祷台の上で黙っていた。


 白い衣。


 整った顔。


 清らかな雰囲気。


 その姿だけなら、本当に聖女だった。


 いや、力は本物なのだ。


 彼女が祈れば、黒泥は消える。


 濁りは薄れる。


 人々は救われたように感じる。


 だから厄介だった。


 本物の力を持つ者の嘘は、ただの嘘より強い。


 全部が偽物なら崩しやすい。


 けれど本物が混じると、人はそこに縋る。


 美琴。


 俺の人生を壊した女。


 あの時もそうだった。


 涙は本物に見えた。


 怯えた声も本物に聞こえた。


 周囲は信じた。


 俺だけが嘘だと知っていた。


 でも、証明できなかった。


 だから俺は終わった。


 今は違う。


 俺には証明する力がある。


 そして、証拠を集める仲間がいる。


「マルドゥク」


 俺は祈祷台の下を指した。


「黒い筋」


 次に、荷札を掲げた。


「第二箱の荷札」


 それから、マーヤの持つ白銀草を示す。


「残った薬効阻害反応」


 最後に、板道と祈祷台を見渡した。


「緊急浄化にしては整いすぎた準備」


 俺は一つずつ言葉にした。


「この四つは、同じ方向を向いている」


「勝手な推測です」


「推測じゃない。順番の問題だ」


「順番?」


「ああ」


 俺はマルドゥクを見た。


「湿地が汚染された。だから緊急浄化を準備した。これが神殿の説明だ」


「その通りです」


「だが実際には、緊急浄化の発表前に第二箱が湿地へ運ばれている。祈祷台の部材には黒泥由来の成分が残っている。浄化後も白銀草の薬効阻害は残った。つまり、神殿は湿地を完全に救うためではなく、見える黒泥だけを消すための場を用意していた」


「違う!」


「なら、なぜ第二箱の記録がない」


 マルドゥクが止まった。


「第一箱でも第三箱でもない。第二箱だ。第三箱は外部記録で追えた。荷札控えもあった。だが神殿内部の帳簿からは削除痕が見つかっている」


「事務の不備です」


「便利な言葉が二つ目だな」


 俺は少しだけ笑った。


「優秀な神殿職員は、緊急浄化のための祈祷台を完璧に整えられる。でも、認定式用物資の箱だけは管理できないのか」


 民衆の視線がマルドゥクへ集まる。


 信仰の視線ではない。


 疑いの視線だ。


 マルドゥクの額に汗が浮かんだ。


 それを見て、俺は確信した。


 まだ終わりじゃない。


 でも、崩れ始めている。


「聖女様」


 マルドゥクが突然、ミコトへ向き直った。


「どうか民にお言葉を。聖女様の浄化は確かに行われました。そうですよね?」


 ミコトは少しだけ目を伏せた。


 そして、柔らかく微笑む。


 その笑顔を見た瞬間、背筋が冷えた。


 知っている。


 その顔を、俺は知っている。


 自分に都合の悪いことを、他人のせいにする時の顔だ。


「はい」


 ミコトは澄んだ声で言った。


「私は、湿地に満ちていた穢れを祓いました」


 民衆が息を呑む。


 マルドゥクの表情に安堵が浮かぶ。


 だが、それは一瞬だけだった。


 ミコトは続けた。


「ただし、私は事前準備の詳細までは知りません。物資の管理や祈祷台の手配は、神殿職員の皆様が整えてくださったものです」


 マルドゥクの顔から血の気が引いた。


 切った。


 今、ミコトはマルドゥクを切った。


 俺は奥歯を噛んだ。


 逃げる気だ。


 やはり、ここでは落ちない。


 彼女は自分の力が本物であることを盾にする。


 そして、不正の部分だけをマルドゥクへ押し付ける。


「私は、ただ祈りました」


 ミコトは胸に手を当てた。


「もし準備の過程で何か不正があったのなら、それは私の知らないところで行われたことです」


 完璧な逃げ方だった。


 自分の浄化は否定しない。


 湿地異常への関与は認めない。


 マルドゥクを庇わない。


 けれど、完全には突き放しすぎない。


 聖女としての清らかさを保ちながら、責任だけを横へ流す。


 白羽美琴。


 やはり、お前はそういう女だ。


「聖女様……?」


 マルドゥクが呆然と呟く。


 ミコトは彼を見なかった。


 ただ民衆へ向けて、静かな声で言う。


「私も真実を望みます。湿地の民が本当に救われるために」


 その瞬間、民衆の心はミコトへ戻った。


 なんて言い方だ。


 自分は真実の側に立つ。


 自分は民の味方だ。


 そう見せた。


 その裏で、マルドゥクだけが取り残されている。


 神殿に切られ。


 聖女にも切られ。


 民の疑いを一身に浴びる位置へ、立たされた。


 だが、同情はしない。


 切り捨てられる側に回っただけだ。


 今まで、トビーやセイルや俺に押し付けようとしていた場所に。


 自分が立っただけだ。


「レン」


 クララが小さく言った。


「今の……」


「ああ」


 俺は答えた。


「ミコトは逃げた」


「追わないの?」


「今はまだだ」


 追えば、逃げられる。


 証拠が足りない。


 ミコト本人が黒泥工作を命じた証明は、まだない。


 だが、マルドゥクは違う。


 湿地異常記録を整えろと命じた。


 セイルを脅した。


 第三箱を隠した。


 帳簿に削除痕がある。


 祈祷台周辺には黒泥の筋が残っている。


 第二箱の荷札が出た。


 十分だ。


 まずは、こいつを落とす。


 足場を崩す。


 美琴が立っている台座を、一段ずつ削る。


「マルドゥク」


 俺は名前を呼んだ。


 彼は俺を睨んだ。


 さっきまでの余裕は消えていた。


「貴様……」


「終わりにしよう」


「何を……」


「湿地汚染工作。神殿記録改ざん。冤罪誘導。証言者脅迫」


 俺は一つずつ告げる。


 言葉にするたび、胸の奥で何かが熱を持った。


 怒りではない。


 復讐心だけでもない。


 これは、積み上げた証拠が形になる感覚だ。


 あの日、俺には何もなかった。


 違うと言っても届かなかった。


 やっていないと叫んでも、誰も聞かなかった。


 だから、今回は叫ばない。


 証明する。


「お前は、誰かに罪を着せれば逃げられると思っていた」


 俺は右手を上げた。


 空気が震える。


 見えない刃が、掌の中に生まれる。


 淡い光を帯びた、透明な刃。


 《反証の刃》。


 嘘を斬るための刃。


 押し付けられた罪を断つための刃。


「トビーに罪を着せた」


 刃がわずかに光る。


「セイルを切り捨てようとした」


 光が強くなる。


「俺にも疑いを向けた」


 指先が熱い。


 けれど、不思議と心は冷えていた。


「でも、証拠は残る」


 俺は祈祷台の黒い筋を見た。


「泥は消えても、染みは残る」


 第二箱の荷札を握る。


「荷は運ばれれば、跡が残る」


 マーヤの持つ白銀草を見る。


「見た目を戻しても、傷んだ薬効は戻らない」


 セイルを見た。


「脅された人間にも、記憶は残る」


 そして、マルドゥクを見据えた。


「嘘は、全部を消せない」


 刃が鳴った。


 金属音ではない。


 けれど、確かに何かが鳴った。


 その音に、マルドゥクが一歩下がる。


「やめろ……」


 小さな声だった。


 初めて聞く声だった。


 命令ではない。


 罵倒でもない。


 恐怖の声。


「やめろ、レン・クゼ……!」


「やめない」


 俺は刃を構えた。


「俺は、証明者だ」


 湿地の風が止まった。


 民衆も、神官も、探索者も、誰も声を出さない。


 ミコトだけが、祈祷台の上で静かにこちらを見ていた。


 その目の奥に、ほんのわずかな警戒が浮かんでいる。


 いい。


 見ていろ。


 今回はまだ、お前じゃない。


 でも、必ず届く。


「反証開始」


 俺の声に、刃が光を増した。


「対象、マルドゥク」


 空気に文字が浮かぶ。


 湿地の上に、淡い証明陣が広がっていく。


 黒い筋。


 白い荷札。


 灰色にくすんだ白銀草。


 削除痕のある帳簿。


 セイルの震える証言。


 トビーの涙。


 すべてが一本の線で結ばれていく。


 マルドゥクは叫んだ。


「違う! 私は神殿のために――!」


「神殿のためなら、民の湿地を汚していいのか」


「私は命じられただけだ!」


 その言葉に、ミコトの目が細くなった。


 マルドゥクはしまったという顔をした。


 遅い。


 今の一言は、逃げではない。


 自白に近い。


「誰に命じられた」


 俺が問う。


 マルドゥクは口を閉じた。


 言えない。


 言えば終わる。


 言わなくても終わる。


 そういう場所まで、ようやく来た。


 証明陣の光が強くなる。


 俺は刃を振り下ろした。


「証明しろ」


 刃が、空間を斬った。


 マルドゥクの身体を斬ったわけではない。


 けれど、彼の周囲に張り巡らされていた言い訳が、音を立てて裂けた。


 湿地に、冷たい文字が浮かび上がる。


 ――湿地汚染工作。


 ――神殿記録改ざん。


 ――冤罪誘導。


 ――証言者脅迫。


 四つの罪名が、光の中に並んだ。


 そして、その下に。


 短く、重い言葉が刻まれる。


 ――証明成立。


 民衆の中から、悲鳴のような声が上がった。


「本当に……」


「マルドゥク様が……?」


「湿地を……汚したのか……?」


 マルドゥクは膝をついた。


 さっきまで人々を見下ろしていた男が、泥の上に手をついた。


 その手に、黒い筋が触れる。


 まるで、自分が消し損ねた罪を掴んだように。


「違う……私は……私は……!」


 誰も近づかなかった。


 神殿兵でさえ、動けなかった。


 民に見捨てられ。


 神殿に切られ。


 聖女にも捨てられた男。


 それが、今のマルドゥクだった。


 俺は刃を下ろした。


 証明は成立した。


 だが、終わったとは思わなかった。


 むしろ、ここからだ。


 ミコトはまだ祈祷台の上にいる。


 清らかな顔で。


 自分は関係ないという顔で。


 民衆の視線を受け止めながら、聖女として立っている。


 俺と目が合った。


 ほんの一瞬。


 彼女は微笑んだ。


 あの時と同じように。


 誰もが騙された、あの笑顔で。


 俺はその笑顔を見返した。


 今はまだ斬れない。


 だが、証拠は残る。


 泥は消えても、染みは残る。


 嘘は、全部を消せない。


 俺は心の中で、静かに呟いた。


 次は、お前だ。


 白羽美琴。


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