第20話 黒い泥の正体
トビーの無実は証明された。
だが、それで終わりではなかった。
ギルドの小部屋に残った空気は、安堵だけではない。
盗人にされた青年は救われた。
けれど、その青年を盗人にしてまで隠したかったものがある。
湿地の黒い泥。
折れた浄化杭。
神殿の裏倉庫。
聖女ミコト認定式用物資。
その言葉が机の上に並ぶたび、部屋の空気は重くなっていった。
ミレイユは書類板を閉じ、静かに息を吐いた。
「ここからは、盗難疑惑ではなく湿地異常の調査になります」
トビーは母親の隣で、まだ少し震えていた。
だが、さっきまでとは違う。
怯えているだけではない。
自分の言葉が証拠になると分かった顔だった。
「俺も……何かできますか」
トビーが言った。
母親が心配そうに息子の袖を掴む。
「トビー、無理しなくていいんだよ」
「でも、母さん」
トビーは母親を見る。
「俺、逃げるしかなかった。でも、レンさんたちが証明してくれた。だったら、俺も……ちゃんと話したい」
その声は弱い。
けれど、確かだった。
俺はトビーを見る。
「無理はするな。けど、お前が見たことは大事だ」
「はい」
「思い出したことがあれば、順番に話してくれ。焦らなくていい」
トビーは小さく頷いた。
マーヤが腕を組んだまま、机の上のメモを見下ろしていた。
「黒い泥か」
低い声だった。
「湿地で見た泥と、裏倉庫で見た泥。もし同じものなら、ただの泥じゃないね」
「調べられますか?」
俺が聞くと、マーヤは鼻で笑った。
「薬師を何だと思ってるんだい。泥を見るのは本業じゃないけど、瘴気に触れた薬草なら嫌というほど見てきたよ」
ミレイユがすぐに言う。
「ギルドで保管している湿地の泥と、白銀草の一部があります。裏倉庫で確認した物品そのものは神殿内保全ですが、こちらで採取済みの資料と照合することは可能です」
「それを店に持ってきな。ここじゃ匂いも火も使えない」
「分かりました。ただし、記録係として私も同行します」
「勝手にしな」
マーヤはそう言って、トビーをちらりと見た。
「トビー、あんたは母親と一緒に店に戻ったら休みな。奥の部屋を使わせてやる」
「でも……」
「でもじゃない。あんたは証言者だ。倒れたら困るんだよ」
トビーは言葉に詰まった。
マーヤは少し声を和らげる。
「必要になったら呼ぶ。だから、今は休むことも仕事だと思いな」
「……はい」
トビーは悔しそうに頷いた。
その顔を見て、俺は少しだけ安心した。
悔しいと思えるなら、まだ折れていない。
俺たちはギルドから必要な資料を受け取り、マーヤの店へ移動した。
外は昼を過ぎていた。
通りには人が多い。
聖女ミコトの加護の証を売る露店。
認定式の話をする旅人。
神殿の白い旗。
町のあちこちに、聖女の名があった。
「もうすぐ認定式だってさ」
「聖女様が正式に選ばれれば、この町ももっと安全になる」
「湿地の瘴気も、聖女様ならすぐ浄化してくださるだろう」
そんな声が聞こえてくる。
俺は足を止めそうになった。
湿地の瘴気。
聖女の浄化。
安全になるという期待。
その流れが、あまりにきれいすぎた。
きれいすぎるものほど、疑いたくなる。
だが、俺はすぐに自分を戒める。
疑うんじゃない。
決めつけないために、確認する。
バルトが隣で低く言った。
「顔に出てるぞ」
「何がですか」
「神殿を殴りてえ顔だ」
「殴りませんよ」
「今は、だろ」
否定できなかった。
バルトは小さく笑う。
「まあ、殴るより面倒なことやってるけどな。証拠で追い詰めるってやつは、殴るより嫌がられる」
「そうでしょうね」
「だから気をつけろ。相手は、次はもっと面倒な手を使う」
俺は頷いた。
マルドゥクはまだ逃げ道を残している。
セイルを切り捨てることもできる。
証拠を神殿内で処理することも考えているはずだ。
だからこそ、今ある手がかりを早く形にする必要があった。
マーヤの店に着くと、彼女はすぐに奥の作業台を空けた。
店の奥は、表の薬棚とは違って雑然としている。
乾燥させた薬草。
小さな瓶。
秤。
すり鉢。
火にかけるための小さな器具。
薬の匂いと、少し苦い煙の匂いが混ざっていた。
トビーと母親は、マーヤに言われて奥の部屋へ入った。
戸が閉まる直前、トビーは一度だけこちらを振り返った。
俺が頷くと、トビーも小さく頷き返した。
マーヤは手袋をはめ、ミレイユが持ってきた小さな封包を作業台に並べる。
「まずは湿地の泥」
封包の一つを開く。
黒く乾いた泥が少量入っていた。
次に、別の封包。
「白銀草の根元についていた泥」
さらに別の封包。
「トビーの靴についていた泥の削り取り」
最後に、俺たちが湿地で持ち帰った白銀草の一部。
さらに、比較用として湿地の入口付近で採取した普通の泥も並べられた。
マーヤはそれらを順番に見た。
「匂いが似てるね」
彼女は顔を近づけ、わずかに眉を寄せる。
「湿った土の匂い。瘴気の臭み。それと……焦げた浄化香みたいな匂いが混じってる」
「浄化香?」
クララが反応した。
「神殿の裏倉庫でも、そんな匂いがしました。焦げたような、湿った土みたいな匂い……」
「だろうね」
マーヤは小皿に泥を少し取り、別の皿に普通の湿地泥を置いた。
「普通の瘴気泥は、もっと腐った水みたいな臭いが強い。こっちは違う。人の手が入ってる」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
「人の手が入っている?」
ミレイユが確認する。
「断定はまだ早いよ」
マーヤは言った。
「でも、ただ湿地に溜まった泥って感じじゃない。混ぜ物がある」
ミレイユがすぐに記録する。
「湿地泥に混入物の可能性あり、と」
「可能性じゃ弱いね。検査する」
マーヤは乾いた白銀草の葉を一枚取り、小皿の泥に近づけた。
葉先が、わずかに灰色へ変わる。
クララが息を呑んだ。
「白銀草が……」
「瘴気に当てられた時の反応だよ。ただし、普通の瘴気泥より早い」
「早い?」
「ああ」
マーヤは別の皿の普通の泥に、白銀草を近づけた。
変色はする。
だが、ゆっくりだった。
黒い泥に近づけた葉は、それより明らかに早く灰色へ沈んでいく。
「同じ瘴気でも、こっちは薬効を抜くのが速い。白銀草を弱らせるようにできてる」
「これが広がったら……弟の薬に使う白銀草も、駄目になってしまうんですね」
クララの声が震えた。
ただの調査ではない。
この泥は、誰かの命に届くはずだった薬まで奪うものだった。
胸元のペンダントが、かすかに熱を帯びた。
《鑑定》反応
名称:黒泥
状態:乾燥
性質:瘴気を含む泥
追加反応:浄化香由来成分/香油反応/薬効阻害反応
備考:自然発生した瘴気泥とは成分が一部不一致
俺は視界に浮かんだ文字を読む。
浄化香由来成分。
香油反応。
薬効阻害反応。
自然発生した瘴気泥とは成分が一部不一致。
「自然の泥じゃない」
俺は呟いた。
マーヤがこちらを見る。
「何か見えたのかい」
「鑑定で、自然発生した瘴気泥とは成分が一部違うと出ました。浄化香由来成分、香油反応、薬効阻害反応」
ミレイユのペンが走る。
「鑑定結果、記録します」
マーヤは目を細めた。
「浄化香と香油ね。やっぱり神殿絡みか」
「浄化香は、普通なら瘴気を抑えるものですよね?」
クララが聞いた。
「普通ならね」
マーヤはすり鉢に黒泥を少し入れた。
「ただし、浄化香は使い方を間違えると、瘴気を消すどころか、変に固めることがある。薬と同じさ。飲めば助かるものでも、量と混ぜ方を間違えれば毒になる」
マーヤはすり鉢の中へ数滴の水を落とす。
黒泥がじわりと広がった。
普通の泥のようには溶けない。
粘る。
黒い筋を引きながら、水の上を薄く伸びていく。
「見な」
マーヤが皿を指した。
「泥なのに、水に沈みにくい。表面を広がる。これは香油が入ってるからだ」
「湿地で黒い泥が水流と合わない広がり方をしていた理由……」
俺は思い出す。
湿地の入口。
黒い泥は、水の流れに逆らうように広がっていた。
あの時は違和感だけだった。
今、その理由が見え始めている。
「香油で水面に広がるようにした泥」
俺は言った。
「それなら、水流と違う広がり方をする」
胸元のペンダントが熱を帯びる。
《矛盾看破》反応
対象:湿地の黒泥拡大
過去記録:水流と一致しない拡散方向
新規情報:香油反応/水面拡散性
判定:拡散方向の矛盾が一部解消
備考:黒泥は自然流下ではなく、加工成分により拡散した可能性あり
点が、また一つつながった。
ミレイユが記録する。
「黒泥は香油成分により、水面へ広がりやすい性質を持つ可能性あり」
バルトが腕を組む。
「つまり、誰かが湿地に撒いたってことか」
「そこまではまだ断定できません」
ミレイユがすぐに言った。
「ですが、自然に広がったものではない可能性が高まりました」
バルトは肩をすくめる。
「はいはい。断定はまだ、だろ」
「大事なことです」
「分かってるよ」
そのやりとりに、少しだけ空気が緩む。
だが、マーヤの顔は険しいままだった。
「問題は、これが何のために作られたかだね」
マーヤは今度、浄化杭の欠片を取り出した。
湿地で見つけた、折れた杭の小さな破片だ。
神殿の裏倉庫にあった大きな破片とは別に、俺たちが湿地で回収したものだった。
白い木肌の一部が黒ずんでいる。
マーヤは黒泥をほんの少し、欠片の黒ずんでいない部分に近づけた。
すぐに反応は出なかった。
だが、しばらくすると、白い木肌の表面に細い黒い筋が浮かび始めた。
クララが小さく声を出す。
「浄化杭が……汚れていく」
「こいつは、浄化の力を食う泥だね」
マーヤの声が低くなる。
「白銀草の薬効を抜くだけじゃない。浄化杭の力も弱らせる」
「浄化杭を壊すための泥……?」
俺が言うと、マーヤは首を横に振った。
「壊すというより、弱らせる。最初に力を鈍らせて、そこへ物理的な力を加えれば折れやすくなる。逆に言えば、この泥だけで杭が勝手に折れるわけじゃない」
その言葉は重要だった。
黒泥は原因の一つ。
だが、浄化杭が折れたことには、別の行為が必要になる。
誰かが、弱った杭を折った。
あるいは、折った杭にこの泥を使った。
どちらにせよ、自然発生ではない。
俺は息を吸う。
「ミレイユさん、記録してください」
「はい」
「黒泥には、白銀草の薬効低下と、浄化杭の機能低下を引き起こす反応がある。自然発生の瘴気泥とは異なり、香油と浄化香由来成分が含まれている可能性が高い」
ミレイユが記録する。
「そのままでは断定調になります。ギルド記録としては、マーヤさんの検査所見およびレンさんの鑑定結果として併記します」
「お願いします」
マーヤは小さく鼻を鳴らした。
「慎重だね」
「証拠は慎重に扱うべきです」
「まあ、そういう奴が一人くらいいた方がいい」
マーヤはそう言って、さらに別の小瓶を手に取った。
「今度は浄化香と比べる」
店の棚から古い浄化香の束を取り出す。
神殿で一般に売られているものではなく、薬師が治療用に仕入れたものらしい。
「普通の浄化香は、こういう匂いだ」
マーヤが小さく削って皿に置く。
乾いた草木の匂い。
少し甘く、少し苦い。
神殿裏倉庫で感じた焦げた湿った匂いとは違う。
「問題の黒泥は、これが焦げて、湿気を吸って、香油と混ざったような匂いがする」
「浄化香をわざと焦がして使った?」
クララが言った。
「あり得るね」
マーヤは頷く。
「浄化香は本来、煙で瘴気を抑える。でも、燃え残りの灰や失敗した香は、扱いが悪いと汚染を吸う。そこに香油を混ぜれば、瘴気を閉じ込めた泥を作れるかもしれない」
「かもしれない?」
「私は神殿の秘術師じゃないからね。全部は分からない。でも、これは薬師の範囲で見ても、不自然だ」
ミレイユが記録しながら聞く。
「神殿でなければ作れないものですか?」
「材料だけなら、市場でも少しは揃う」
マーヤは答えた。
「ただし、浄化杭に反応するほどの濃さにするなら、普通の薬師や商人じゃ難しい。浄化香を大量に扱える場所か、失敗品をまとめて出せる場所。あるいは、神殿の管理品に触れられる誰かだ」
神殿の管理品。
浄化香。
香油。
裏倉庫。
聖女ミコト認定式用物資。
嫌な線が、また太くなる。
だが、まだ足りない。
マルドゥクがやった証明にはならない。
聖女ミコトが関わった証明にもならない。
ここで焦れば、またあいつに言われるだろう。
可能性ですね、と。
俺は歯を噛みしめた。
ミレイユが静かに言う。
「現時点で証明できることを整理しましょう」
俺は頷いた。
「一つ。湿地の黒泥は、自然発生した瘴気泥とは成分が違う」
「二つ。香油反応があり、水面に広がりやすい性質がある」
クララが続けた。
「三つ。白銀草の薬効を弱らせる反応がある」
マーヤが言う。
「四つ。浄化杭の機能を弱める反応がある。ただし、泥だけで杭が折れるわけじゃない」
バルトが壁際から低く言う。
「五つ。そんな泥に関係する箱が、神殿の裏倉庫にあった」
ミレイユが記録する。
「六つ。その箱には、トビーさんの証言によれば聖女ミコト認定式用物資の白札が貼られていた」
部屋が静かになった。
並べれば並べるほど、普通の事故ではなくなっていく。
だが、証明はまだ途中だ。
「この黒泥は、湿地を悪化させるためのものかもしれません」
クララが小さく言った。
彼女の声は震えていた。
「白銀草を弱らせて、浄化杭も弱らせて……そうしたら、湿地の瘴気は広がります」
「そして、人は不安になる」
俺は言った。
「その不安を、誰かが浄化すれば」
ミレイユの手が止まった。
バルトが低く呟く。
「聖女様すげえ、ってわけか」
誰も笑わなかった。
それは、あまりに嫌な仮説だった。
瘴気を広げる。
民を不安にする。
聖女が救う。
信仰が高まる。
救いのために、先に苦しみを作る。
そんなものは、救いじゃない。
だが、俺は声に出さなかった。
まだ証明できていない。
ミレイユも同じ判断だったのだろう。
彼女は慎重に言った。
「現時点では、聖女ミコト様の認定式用物資と黒泥の関連が示唆された段階です。意図的に湿地を悪化させたと断定するには、搬入記録、物資の管理者、使用予定、そして実際に湿地へ持ち出した人物の確認が必要です」
「つまり、次は記録か」
バルトが言う。
「はい」
ミレイユは頷いた。
「神殿の搬入記録。倉庫の管理記録。認定式用物資の一覧。浄化香と香油の使用量。浄化杭の交換予定。これらを確認する必要があります」
「神殿が見せると思うか?」
バルトの問いに、ミレイユは少し黙った。
「普通には難しいでしょう」
「だろうな」
「ですが、ギルドには湿地異常の調査権があります。さらに、トビーさんの盗難疑惑が崩れたことで、神殿管理記録に不備がある可能性が出ました。照会状を出す理由はあります」
「マルドゥクが握りつぶす可能性は?」
「あります」
ミレイユは即答した。
「だから、複数方向から確認します」
「複数方向?」
俺が聞くと、ミレイユは書類板を閉じた。
「神殿だけに聞くと、神殿が答えを選べます。ですが、物資を納入した商人、浄化香を作る工房、運搬を請け負った荷運び人、門番の記録。外側から確認すれば、神殿内の記録と照合できます」
俺は思わず感心した。
「なるほど」
「嘘をつく時、関係者全員の記録を完全に揃えるのは難しいです」
ミレイユは淡々と言った。
「特に、急いで隠したものほど、外側に跡が残ります」
胸元のペンダントが、かすかに反応した。
《証拠記録》更新
対象:黒泥調査
物証一:湿地黒泥は自然発生泥と成分不一致。
物証二:香油反応により水面拡散性あり。
物証三:白銀草の薬効低下反応を確認。
物証四:浄化杭の機能低下反応を確認。
証言五:トビー証言により黒泥付着箱と聖女ミコト認定式用物資の関連候補あり。
次回確認推奨:搬入記録/倉庫管理記録/浄化香使用量/香油購入記録/運搬担当者
記録が増えていく。
ただの疑いではない。
証明に向かう材料が、確かに積み上がっている。
その時、店の奥から小さな咳が聞こえた。
トビーの母親だ。
クララがすぐに振り返る。
「大丈夫でしょうか」
マーヤが顔をしかめる。
「あの人の咳は前からだよ。でも、今日は疲れただろうね」
俺は奥の扉を見た。
トビーは今、母親と一緒にいる。
無実は証明された。
だが、あの親子が本当に安心できるかどうかは、まだ分からない。
神殿が黙っているとは思えない。
マルドゥクがこのまま引き下がるとは思えない。
「トビーたちは、しばらくここで保護できますか?」
俺が聞くと、マーヤは当然のように答えた。
「そのつもりだよ。あの状態で家に帰せるわけないだろう」
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、あの馬鹿息子にちゃんと寝ろって言っときな。母親の前では強がるだろうからね」
「分かりました」
ミレイユも頷いた。
「ギルドとしても、トビーさんは重要証言者です。保護対象として扱います」
バルトが壁から体を離した。
「俺も今日はこの辺うろついとく。神殿の白いのが来たら、道に迷わせてやる」
「暴力沙汰は避けてください」
「道を聞かれたら、反対方向を教えるだけだ」
「それも問題です」
ミレイユが即答した。
バルトは不満そうに鼻を鳴らす。
少しだけ、重い空気が和らいだ。
だが、俺の胸の奥にあるものは軽くならなかった。
黒泥の正体は見えてきた。
自然発生ではない。
誰かが作った。
誰かが運んだ。
誰かが隠した。
そして、その先に聖女ミコトの名がある。
俺は作業台の上の黒泥を見る。
乾いているのに、嫌な光を帯びているように見えた。
泥は喋らない。
だが、痕跡は残す。
人が嘘をついても、物は嘘をつかない。
問題は、それをどう証明するかだ。
「ミレイユさん」
「はい」
「次は、搬入記録ですね」
「はい。神殿に正式照会を出します。同時に、外部の納入業者にも確認を取ります」
「俺も同行できますか」
ミレイユは少し考えた。
「神殿への正式照会には、あなたが同行すると相手を刺激する可能性があります」
「でしょうね」
「ですが、外部確認には同行していただいた方がいいかもしれません。《証明者》として、証言の矛盾を拾える可能性があります」
「分かりました」
マーヤが黒泥の入った小皿を封じながら言う。
「私はこの泥をもう少し調べる。もし同じ成分の香油や浄化香が町に出回ってるなら、店の仕入れ記録で分かるかもしれない」
「お願いします」
「ただし、期待しすぎるんじゃないよ。こういう悪さをする奴は、表の帳簿に名前なんか残さない」
「はい」
「でもね」
マーヤは鋭い目で黒泥を見た。
「材料を動かせば、必ずどこかに穴が開く。薬も毒も、勝手には湧かないからね」
その言葉に、俺は頷いた。
証拠も同じだ。
罪は勝手には生まれない。
誰かが作る。
誰かが押しつける。
なら、そこには必ず手の跡が残る。
俺は胸元のペンダントに触れた。
温度はもう落ち着いている。
だが、その奥に、静かな熱が残っていた。
黒い泥の正体は分かり始めた。
これは自然の災害ではない。
人の手で作られた、湿地を弱らせるための泥だ。
だが、まだ証明するべきことがある。
誰が作ったのか。
誰が運んだのか。
誰が湿地に撒いたのか。
そして、誰のためにそれをしたのか。
聖女ミコトの名は、まだ遠い。
けれど、もう見えない場所にはいない。
黒泥の向こう側に、その影は確かにある。
俺は静かに息を吐いた。
トビーの無実は証明した。
次は、湿地を汚した嘘を証明する番だ。
黒い泥は、まだすべてを語ってはいない。
だが、沈黙した証拠ほど、正しく扱えば雄弁になる。
俺は作業台に残った黒い跡を見つめた。
この泥が示す先に、必ず真実がある。
そしてその真実は、神殿の帳簿の中に眠っている。
【作者より】
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