第16話 神殿の裏倉庫
翌朝、俺たちは冒険者ギルドに集まっていた。
受付の奥では、ミレイユが依頼書を確認している。机の上には、神殿から出された荷運び補助の依頼書と、昨日トビーから聞き取った証言の記録が並んでいた。
認定式準備に関する荷運び補助。
表向きは、ただの雑用依頼だ。
聖女ミコトの認定式に向けて、神殿に届いた加護の証や儀式道具を整理する。その手伝いとして、冒険者を数名派遣する。
だが、俺たちの目的は別にある。
神殿の裏倉庫にあるという、黒い泥のついた木箱。
トビーが見たものが本当にそこにあるのか。
それを確かめることだった。
「念のため、もう一度確認します」
ミレイユが静かな声で言った。
「今回の依頼は、あくまで荷運び補助です。勝手に倉庫を荒らしたり、箱を開けたりすれば、こちらが不利になります」
「分かっています」
「確認できるのは、仕事の中で自然に目に入る範囲だけです。ですが、黒い泥の付着、破損した浄化杭に似た木材、破れた法衣など、不自然なものがあれば記録してください」
ミレイユはそこで少しだけ視線を強めた。
「ただし、断定はしないでください」
「証拠が足りないうちは、言いません」
「あなたなら、そう言うと思っていました」
ミレイユは小さく頷く。
隣ではクララが緊張した顔で鞄の紐を握っていた。
「クララさんは、浄化用の香や薬草らしきものがあれば確認してください。無理に近づく必要はありません」
「はい」
「バルトさんは護衛兼監視です」
壁にもたれていたバルトが、面倒そうに片手を上げる。
「分かってる。新人二人が余計なことをしないように見張ればいいんだろ」
「新人二人というより、主にレンさんです」
「でしょうね」
クララが小さく笑いかけて、すぐに顔を引き締めた。
笑える状況ではない。
それでも、少しだけ空気が軽くなった。
俺は胸元のペンダントに触れる。
トビーはマーヤの店の奥で休んでいる。母親も一緒だ。ミレイユがギルドの名で守ってくれたことで、少なくとも今すぐ神殿に連れていかれることはない。
けれど、安全とは言えない。
神殿が本気で口封じをしようとすれば、どこまで動くか分からない。
だから、急ぐ必要がある。
トビーの言葉が、ただの怯えた証言ではないと証明するために。
「行きましょう」
ミレイユに見送られ、俺たちはギルドを出た。
中央通りは朝から人が多かった。
露店の布には、聖女ミコトの名が書かれた木札が並んでいる。白い紐を通した聖女の加護の証。小さな聖印入りの飾り。旅の安全、病除け、魔除けをうたう声が、あちこちから聞こえてくる。
「聖女ミコト様の認定式まで、あと少しだよ!」
「今のうちに加護の証を買っておきな!」
「聖女様が正式に認められれば、この町にもさらなる祝福がある!」
祝福。
加護。
救い。
どれも綺麗な言葉だった。
けれど、その言葉の裏で、トビーは殴られ、盗人にされた。
クララが小さく呟く。
「昨日より、もっと増えている気がします」
「聖女の名前か」
「はい。どこに行っても聞こえます」
「名前が広がるほど、疑う声は出しにくくなる」
俺がそう言うと、クララは少しだけ表情を曇らせた。
「信じている人たちは、救われたいだけなのかもしれません」
「ああ」
俺は頷いた。
「信じること自体が悪いとは思わない」
問題は、その信仰を利用する者がいることだ。
罪を作り、疑いを押しつけ、証拠を不浄と呼ぶ者がいることだ。
神殿へ近づくにつれて、白い石壁が視界に入ってくる。
昨日見た時と同じように、神殿は清らかだった。大きな柱。白い布。聖印。祈る人々。
その奥に、裏倉庫がある。
表からは見えない場所。
俺たちがまだ見ていない場所。
神殿の門前では、若い神官が待っていた。
背が高く、細い目をしている。
昨日、裏道で見かけた男。
トビーが「湿地の途中で戻った神官」と言った人物だった。
男はこちらを見ると、ほんの一瞬だけ目を細めた。
すぐに丁寧な表情を作る。
「冒険者ギルドからの方々ですね」
「はい」
俺は依頼書を差し出した。
「認定式準備の荷運び補助として参りました」
「確認しました。こちらへどうぞ」
若い神官の視線が俺の上で止まった。
「あなたは……昨日の」
「レン・クゼです」
「神殿に熱心な方ですね」
言葉は丁寧だった。
だが、目は笑っていない。
「依頼ですので」
俺はそれだけ返した。
若い神官は薄く笑い、神殿の脇道へ案内する。
正面の礼拝堂から離れ、白い壁沿いを進んでいく。やがて、参拝者の姿が見えなくなった。
神殿の裏側は、表とは空気が違っていた。
石畳には荷車の跡があり、木箱や布袋が積まれている。壁際には空の樽が並び、香油の匂いと湿った木の匂いが混ざっていた。
若い神官が大きな扉の前で立ち止まる。
「こちらが裏倉庫です。認定式用の物資が多く運び込まれていますので、壊さないよう気をつけてください」
扉が開く。
中は広かった。
木箱が何列も積まれ、棚には白い布、儀式用の杯、香炉、聖女の加護の証が束になって置かれている。
奥の方には、細長い木材が布で覆われていた。
俺はすぐに視線を走らせる。
黒い泥。
折れた杭。
破れた法衣。
何か、トビーの証言につながるもの。
「そこの木箱を、こちらの壁際へ運んでください」
若い神官が指示する。
「中身は加護の証です。乱暴に扱わないように」
バルトが木箱を軽く持ち上げた。
「軽いな」
「木札ですから」
若い神官が答える。
俺も別の木箱を持つ。
確かに軽い。
木札が詰められているのなら、この重さでもおかしくない。
クララは棚の近くで、浄化用の香や薬草が置かれている箱を確認していた。
「これは、触ってもいいですか?」
「香の束です。落とさないようにしてください」
若い神官は少し警戒した様子で答えた。
クララは慎重に布をめくる。
中には、白っぽい香が束になって入っていた。
クララは顔を近づけ、眉を寄せる。
「……少し、匂いが変です」
小さな声だった。
俺は木箱を運びながら、クララのそばへ近づく。
「どう変なんだ?」
「普通の浄化香は、もっとすっきりした匂いがします。でも、これは少し焦げたような、湿った土みたいな匂いが混ざっています」
「湿った土……」
若い神官がこちらを見る。
「何か?」
「いえ。香の種類を確認していただけです」
クララは慌てて布を戻した。
俺は心の中で呟く。
「鑑定」
名称:浄化香の束
状態:一部劣化
用途:儀式用浄化香
備考:瘴気に似た微量の汚染反応あり
瘴気に似た微量の汚染反応。
普通ではない。
だが、まだ何も証明できない。
俺は視線だけで倉庫内を確認する。
奥に積まれた木箱。
布で覆われた長い木材。
その下に、黒っぽい染みが見えた。
湿った泥が乾いたような跡。
トビーの言っていた箱か。
「レン」
バルトが低い声で呼んだ。
見ると、彼は別の木箱を運ぶふりをしながら、奥の床を見ていた。
「足元」
小さく言われ、俺は視線を落とす。
床に、黒い泥が薄く擦れた跡があった。
倉庫の入口からではない。
奥の箱の方から、さらに壁際へ向かって伸びている。
荷物を引きずった跡にも見える。
俺は木箱を置き、膝をつくふりをして泥を見る。
「鑑定」
名称:乾いた黒泥
状態:乾燥
特徴:瘴気を含んだ泥の可能性あり
備考:湿地で確認された黒泥と類似
心臓が一度、大きく鳴った。
湿地で確認された黒泥と類似。
これだけでは同一とは言えない。
だが、つながった。
トビーの証言は、少なくとも一部は正しい。
視界の端に文字が浮かぶ。
《証拠記録》更新
物証四:神殿裏倉庫の床に黒泥の付着跡を確認。
鑑定結果:湿地で確認された黒泥と類似。
関連候補:湿地/浄化杭/神殿裏倉庫
「おい、そこの新人」
若い神官の声が飛んだ。
俺はすぐに立ち上がる。
「何をしているのですか」
「荷箱を置く位置を確認していました。床が汚れていたので、滑らないかと」
若い神官の目が細くなる。
「床の汚れなど、あなたが気にすることではありません」
「荷物を落とすと困るので」
それ以上は言わなかった。
若い神官はしばらく俺を見ていたが、やがて別の箱を指した。
「では、そちらを運んでください」
「分かりました」
俺は指示された箱へ向かう。
その時、倉庫の奥にある布が少しずれているのが見えた。
白い布の下から、折れた木材の端が覗いている。
ただの木材ではない。
表面に薄く聖印のような焼き印が見えた。
浄化杭。
少なくとも、それに似ている。
俺はすぐに近づきたかったが、若い神官の視線がある。
代わりに、バルトがわざと大きな箱を持ち上げた。
「おい、こいつはどこだ?」
若い神官がそちらを見る。
「それは奥ではなく、右の棚へ」
「右ってどっちだよ。箱だらけで分かりにくいな」
「こちらです」
若い神官が数歩離れる。
その隙に、俺は布で覆われた木材のそばを通った。
ほんの一瞬。
視線を落とす。
折れた木片。
黒い泥。
そして、白い布の端。
破れている。
俺は布片を見た瞬間、湿地で拾った白い布切れを思い出した。
神殿の法衣の一部かもしれないと言っていた、あの布。
色も織り目も、よく似ている。
「鑑定」
名称:破れた白布
状態:汚染
特徴:神殿法衣に用いられる布地と類似
備考:黒泥の付着あり
続けて木材を見る。
名称:破損した浄化杭の一部
状態:破損
用途:瘴気抑制
備考:切断後に移動された可能性あり
喉の奥が乾いた。
あった。
裏倉庫に、破損した浄化杭の一部がある。
湿地で見た杭とつながる可能性がある。
《証拠記録》更新
物証五:神殿裏倉庫に破損した浄化杭の一部を確認。
物証六:破れた白布を確認。
鑑定結果:神殿法衣に用いられる布地と類似。
備考:黒泥の付着あり。
まだ、神殿が壊した証明にはならない。
だが、神殿の裏倉庫に、湿地の証拠とつながるものがある。
これだけで十分に大きい。
「レンさん」
クララが小さく声をかけてきた。
顔色が悪い。
「どうした?」
「香の箱の下に、白銀草がありました」
「白銀草?」
「はい。でも、普通の保存状態ではありません。根元が黒ずんでいて……湿地で見たものと似ています」
俺はクララの示す棚を見る。
布袋の下に、乾燥しかけた白銀草が数本隠れるように置かれていた。
薬草として保存しているにしては、扱いが雑だ。
「鑑定」
名称:白銀草
状態:汚染
特徴:瘴気により薬効低下
用途:瘴気抜き薬の材料としての価値低下
備考:湿地由来の可能性あり
まただ。
湿地。
黒泥。
浄化杭。
裏倉庫。
点が、線になりかけている。
だが、若い神官は俺たちの動きに気づいたのか、こちらへ近づいてきた。
「先ほどから、ずいぶん熱心に見ていますね」
「荷物を壊さないように確認しているだけです」
「そうですか」
若い神官は薄く笑う。
「それにしては、荷物以外のものにばかり興味があるように見えます」
空気が少し冷えた。
バルトが木箱を肩に担いだまま、若い神官を見下ろす。
「おい、神官さんよ。あんまり横から口を出されると仕事が進まねえんだが」
「これは失礼。ですが、神殿の管理物ですので」
「なら、最初から分かりやすく並べとけ」
若い神官の眉がわずかに動いた。
その袖口に、黒い汚れが見えた。
乾いた泥。
ほんの少しだけだが、白い袖には目立つ。
俺はそれを見逃さなかった。
《証拠記録》更新
対象:若い神官
確認事項:袖口に黒泥と思われる汚れ。
関連候補:湿地巡回/神殿裏倉庫/黒泥
若い神官は俺の視線に気づいたのか、すぐに袖を引いた。
隠すような動きだった。
疑いは濃くなる。
だが、まだ足りない。
俺は箱を運びながら、倉庫の配置を頭に入れていく。
入口から見て左に加護の証。
右に儀式道具。
奥に浄化香。
さらに奥の布の下に破損した浄化杭。
壁際に黒泥の跡。
若い神官は、俺たちを奥へ近づけたがらない。
その時、クララが棚の前で小さく咳き込んだ。
「クララ?」
「すみません。少し、匂いが……」
浄化香の匂いだろう。
焦げた土のような、湿った泥のような匂い。
バルトがすぐに近づく。
「無理するな。外に出ろ」
「でも……」
「調査より体だ」
バルトの声は乱暴だが、言っていることは正しい。
俺も頷いた。
「クララ、一度入口の方へ」
「はい……」
クララが倉庫の入口付近へ退く。
若い神官はそれを見て、どこか安心したように息を吐いた。
その反応も、俺は記録する。
クララに見られたくないものがあるのか。
薬草や香に詳しいクララがいると困るのか。
そう考えた時だった。
倉庫の奥から、別の声が聞こえた。
「おや」
柔らかい声。
耳に残る、丁寧な声。
マルドゥクだった。
白い法衣を乱すことなく、彼は倉庫の奥の扉から姿を現した。
指には聖印の指輪。
髪はきっちり撫でつけられ、顔には薄い笑みが浮かんでいる。
目だけが笑っていなかった。
「これはこれは。ギルドの皆様」
マルドゥクの視線が、俺に止まる。
「昨日の今日で、今度は裏倉庫ですか。レンさんは本当に、神殿の奥がお好きなのですね」
若い神官がすぐに頭を下げた。
「マルドゥク様。ギルドからの荷運び補助です」
「ええ、聞いていますよ」
マルドゥクはゆっくりと歩いてきた。
その足音は静かだった。
だが、近づくたびに倉庫の空気が重くなる。
「認定式の準備で人手が足りない。ですから、冒険者の方々に手伝っていただく。それ自体は何も問題ありません」
彼はそこで、床の黒泥の跡を見る。
次に、布で覆われた浄化杭の方を見る。
そして、最後に俺を見た。
「ですが」
声は変わらず穏やかだった。
「荷運び補助にしては、ずいぶん観察熱心ですね」
俺は答えない。
答えれば、こちらが何かを探していると認めることになる。
マルドゥクは薄く微笑んだ。
「レンさん。あなたは本当に、どこへ行っても証拠を探してしまう方なのですね」
「仕事中に気になったものを見ていただけです」
「気になったもの、ですか」
マルドゥクは白い布のかかった木材へ近づく。
指先で布を整え、破れた部分を隠すように重ねた。
その動作は自然だった。
だが、俺には隠したように見えた。
「ここにあるものは、すべて神殿の管理物です」
「はい」
「勝手に触れられては困ります」
「触れていません」
「では、見ていただけだと?」
「はい」
マルドゥクは困ったように笑った。
「おやおや。見るだけなら何を見てもよい、という考えですか。なるほど。証拠を探す方は、神殿の礼節よりもご自身の疑いを優先なさるのですね」
バルトが低く言う。
「依頼で来た冒険者に荷物の場所を確認するなってのか」
「いいえ。必要な範囲であれば構いません」
マルドゥクはバルトに笑みを向けた。
「ですが、必要以上に神殿の管理物を探る行為は、誤解を招きます。特に、神殿に不信を抱いている方がなさると」
「不信?」
俺は聞き返した。
「ええ」
マルドゥクは俺を見た。
「あなたは昨日から、神殿を疑うような言葉ばかり口にしている。証拠、記録、確認……まるで神殿が何かを隠していると決めつけているようだ」
「決めつけてはいません」
「そうでしょうか」
マルドゥクはわずかに首を傾けた。
「決めつけていない方は、ここまで疑い深い目で物を見ませんよ。ご自身では冷静なつもりでも、周囲からは違って見えるものです」
倉庫の入口付近にいたクララの顔が強張る。
マルドゥクの視線が、今度はクララへ向いた。
「クララさん、と言いましたね」
「……はい」
「あなたも大変ですね。病のご家族を抱え、不安なお気持ちは分かります。人は不安になると、疑う相手を探したくなるものです」
「私は……」
「ですが、神殿を疑うことが救いになるとは限りませんよ」
マルドゥクは穏やかに言った。
「聖女ミコト様の認定式を前に、不確かな疑念を広げることは、町の人々の心を乱します。病人や弱い者ほど、その不安に傷つくのです」
クララは何も言えなくなった。
俺の胸の奥が冷える。
怒鳴らない。
責めているようにも見せない。
それなのに、相手が悪いと思わせる言い方だった。
バルトが舌打ちする。
「ずいぶん回りくどい言い方をするな」
「回りくどい?」
マルドゥクは悲しそうに眉を下げた。
「私はただ、民を不安にさせる言葉は慎むべきだと言っているだけです。冒険者の皆様には分かりにくいかもしれませんが、人の心を守るのも神殿の務めです」
「都合の悪いもんを隠すこともか?」
バルトが言うと、若い神官の顔色が変わった。
だが、マルドゥクは笑みを崩さない。
「隠す、ですか。嫌な言葉ですね」
彼は俺を見る。
「レンさんの影響でしょうか。証拠を探す方の周りには、どうしても疑いの言葉が増える」
「疑いではなく、確認です」
「確認」
マルドゥクはその言葉をゆっくり繰り返した。
「便利な言葉ですね。相手を信じないことを、確認と呼べば正しく聞こえる」
俺は黙った。
ここで言い返せば、向こうの話に乗せられる。
マルドゥクはさらに続ける。
「あなたは、証拠なしに決めつけないと言う。立派な姿勢です。ですが、その言葉を盾にして、誰かの善意や信仰を傷つけている自覚はありますか?」
「善意や信仰を傷つけたいわけではありません」
「では、何をしたいのです?」
マルドゥクの笑みが深くなる。
「神殿の不備を探したいのですか。聖女ミコト様の名を傷つけたいのですか。それとも、罪人とされた者を守ることで、ご自身の傷を慰めたいのですか」
一瞬、息が止まった。
こいつは、分かって言っている。
俺の過去までは知らないはずだ。
それでも、人が一番触れられたくない場所を探るように言葉を選んでいる。
マルドゥクは優しい声のまま言った。
「救いを知らない方ほど、真実という刃を振り回したがる。困ったことです」
倉庫の中が静まり返る。
若い神官だけが、薄く笑っていた。
俺は奥歯を噛んだ。
だが、感情は飲み込む。
ここで怒れば、俺が悪者に見える。
それを狙っている。
「妨害するつもりはありません」
俺は短く答えた。
「そうですか。それなら安心しました」
マルドゥクは満足そうに微笑む。
「では、荷運びに戻ってください。余計な場所には近づかないように。神殿の清らかな物資に、不必要な疑いを持ち込まれては困りますから」
俺は黙って箱の方へ戻ろうとした。
その直前、若い神官が俺の運んでいた木箱のそばを通った。
ほんの一瞬、白い袖が箱の陰に隠れる。
その時は、ただ通り過ぎただけに見えた。
だが、次の瞬間だった。
倉庫の入口付近で、何かが倒れる音がした。
木箱が床に落ちる乾いた音。
全員の視線がそちらへ向く。
若い神官が慌てたように声を上げた。
「何をしている!」
見ると、俺がさっき運んでいた木箱の近くで、小さな金袋が床に転がっていた。
いつの間にか、箱の隙間から落ちたように見える位置だった。
袋の口は少し開いている。
中から、銀貨が数枚こぼれていた。
倉庫の空気が凍る。
マルドゥクがゆっくりと金袋を見る。
そして、俺を見る。
「おや」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「困りましたね」
若い神官が金袋を拾い上げる。
「これは……神殿の管理金です」
クララが息を呑んだ。
バルトの目が鋭くなる。
俺は金袋を見つめた。
触れていない。
見覚えもない。
だが、その袋は、俺が運んでいた箱の近くから出てきた。
そう見える位置に、落ちていた。
周囲の視線が、少しずつ俺に集まる。
マルドゥクは薄く笑ったまま言った。
「レンさん」
丁寧な声。
優しい声。
それなのに、刃のように冷たい声。
「これは、どういうことでしょうか」
俺は答えなかった。
「先ほど、あなたは触れていないと言いましたね」
マルドゥクはゆっくりと続ける。
「ですが、管理金はあなたが運んでいた箱の近くから出てきた。あなたは神殿の管理物を熱心に見ていた。余計な場所にも近づいていた」
彼は困ったように息を吐いた。
「証拠、証拠とおっしゃるあなたの周りで、こうも分かりやすいものが出てくるとは」
「俺は触れていません」
「それを、証明できますか?」
マルドゥクは即座に返した。
まるで、その言葉を待っていたかのように。
「あなたは証明を大切にする方なのでしょう?」
彼は微笑んだ。
「ならば、ご自身の潔白も、証明していただかなければ」
若い神官が金袋を握ったまま言う。
「マルドゥク様、この者はやはり……」
「決めつけてはいけませんよ」
マルドゥクは優しくたしなめた。
だが、その声には笑みが混じっていた。
「レンさんは、決めつけを嫌う方です。ですから、私たちも決めつけてはいけません」
そして、俺に向き直る。
「ただ、疑いは生まれてしまいました。悲しいことに、一度生まれた疑いは、簡単には消えません」
クララが震える声で言った。
「レンさんは、そんなことしません」
「クララさん」
マルドゥクは柔らかく言った。
「人を信じる気持ちは尊いものです。ですが、あなたはつい先日、罪を着せられたばかりなのでしょう? だからこそ、誰かを信じたい気持ちが強くなっているのかもしれません」
「違います……!」
「落ち着いてください」
マルドゥクは微笑んだ。
「感情は、証拠にはなりません」
クララの顔が悔しさで歪む。
バルトが一歩前に出た。
「おい、言い方に気をつけろ」
「これは失礼」
マルドゥクは少しも悪びれずに頭を下げた。
「ただ、事実を整理しているだけです」
事実。
その言葉が、ひどく汚く聞こえた。
現代の記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
満員電車。
向けられた視線。
この人、痴漢です。
あの時と同じだ。
周囲が、先に疑いの形を作る。
そこに俺を押し込めようとする。
けれど、今は違う。
俺は息を吸った。
胸元のペンダントが、微かに熱を帯びる。
視界の端に、文字が浮かんだ。
《無罪結界》反応
不当な疑惑の形成を確認。
周囲認識の偏向を検知。
証拠確認を推奨します。
俺は金袋を見る。
床を見る。
若い神官の袖を見る。
黒い泥。
銀貨。
木箱。
そして、マルドゥクの笑み。
まだ、証明は始まっていない。
だが、仕掛けられたことだけは分かった。
俺はゆっくりと顔を上げる。
「俺を罪人にしたいなら」
倉庫の中が静まり返る。
俺はマルドゥクを見据えた。
「証明してください」
マルドゥクは、ほんのわずかに目を細めた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「ええ」
優しい声だった。
「もちろんです。あなたがお好きな証明を、始めましょう」




