第17話 罪人にされた証明者
「もちろんです。あなたがお好きな証明を、始めましょう」
マルドゥクは優しい声でそう言った。
その言葉だけを聞けば、公平な人物のように見える。
だが、違う。
あの笑みは、真実を明らかにするためのものではない。
人を罪人の形に押し込めるための笑みだ。
倉庫の中の空気が変わっていた。
さっきまで荷運びをしていた神官たちが、手を止めてこちらを見ている。倉庫の入口付近にいたクララは、息を詰めるように俺を見つめていた。
バルトは俺の横へ一歩近づき、低く唸る。
「おい。妙な真似をするなよ」
「妙な真似?」
マルドゥクは困ったように眉を下げた。
「私はただ、状況を確認しようとしているだけです。レンさんがいつもおっしゃる、証拠と確認ですよ」
嫌な言い方だった。
俺の言葉を、そのまま俺に向けてくる。
「まずは、その金袋をこちらへ」
マルドゥクが若い神官に言った。
若い神官は頷き、金袋を両手で持つ。袋の口からこぼれた銀貨を拾い集めようとした。
「待ってください」
俺は言った。
若い神官の手が止まる。
マルドゥクが俺を見る。
「何でしょう」
「そのままにしてください。拾えば、状態が変わります」
「状態が変わる?」
「証拠として見るなら、落ちた時の状態を残すべきです」
俺がそう言うと、マルドゥクは薄く笑った。
「なるほど。ご自身に不利なものでも、証拠として大切に扱う。立派ですね」
言葉は褒めている。
だが、周囲にはこう聞こえる。
不利なもの。
俺にとって不利な証拠。
クララが悔しそうに唇を噛む。
バルトは舌打ちした。
「言い方がいちいち嫌味だな」
「これは失礼」
マルドゥクは少しも反省していない声で言った。
「では、そのまま布の上へ置きなさい。直接床に置いたままでは、神殿の管理金が汚れてしまいます」
若い神官が白い布を取り出し、金袋と銀貨をその上へ移した。
その時点で、落ちた時の状態は崩れた。
仕方ない。
いや、仕方ないと思わせるために、わざと動かしたのかもしれない。
俺は目で追った。
若い神官の手。
袋の底。
銀貨の散らばり方。
床の黒泥。
神殿の白い布。
全部を見る。
見落とすな。
今度は、見落とすわけにはいかない。
「さて」
マルドゥクは倉庫の中をゆっくり見渡した。
「状況を整理しましょう」
嫌な言葉だった。
整理。
事実。
確認。
そういう正しい言葉で、人を追い詰める。
「神殿の管理金が、レンさんの運んでいた木箱の近くから見つかりました」
「俺が運んでいた箱の近くに、そう見える位置で落ちていました」
俺が言い直すと、マルドゥクは微笑んだ。
「細かい言い回しを大切になさるのですね」
「事実を正確にしたいだけです」
「ええ。大切なことです」
マルドゥクは頷いた。
「では、正確に言いましょう。神殿の管理金が、レンさんが直前まで扱っていた木箱の近くに落ちていました」
倉庫の中に、小さなざわめきが生まれる。
直前まで扱っていた。
その言葉だけで、俺が怪しく見える。
マルドゥクは続けた。
「そしてレンさんは、先ほどから神殿の管理物を熱心に見ていた。床の汚れ、布で覆われた木材、香の箱、白銀草。荷運び補助にしては、ずいぶん多くのものに関心を示していた」
「仕事中に見えたものを確認していただけです」
「確認、ですか」
マルドゥクはまたその言葉を繰り返した。
「本当に便利な言葉です」
若い神官がそこで声を上げた。
「マルドゥク様、やはりこの者は神殿を探っていたのではありませんか。先ほども床の汚れを見ていましたし、奥の管理物にも近づいていました」
「決めつけてはいけませんよ」
マルドゥクは優しく言った。
だが、その声には少しだけ楽しげな響きがあった。
「レンさんは決めつけを嫌う方です。ならば、我々も慎重でなければ」
若い神官は頭を下げる。
「申し訳ありません」
「ただし」
マルドゥクは俺を見る。
「疑いが生まれた以上、確認は必要です」
俺は何も言わなかった。
ここで反発すれば、確認を拒んだと取られる。
マルドゥクは最初からそれを狙っている。
疑いを作る。
確認の名で囲む。
反論すれば、やましいから拒むのだと言う。
黙れば、疑いを認めたように見せる。
よくできた檻だった。
「レンさん」
マルドゥクが穏やかに言う。
「あなたの荷物を確認してもよろしいですか」
クララが顔を上げた。
「そんな……!」
「クララさん」
マルドゥクは優しくたしなめる。
「彼の潔白を証明するためですよ。あなたも、レンさんを信じているのでしょう?」
「それは……」
「ならば、確認を恐れる必要はありません」
クララは言葉を失った。
信じているなら確認させろ。
拒めば怪しい。
ひどく単純で、ひどく汚い理屈だった。
バルトが前に出た。
「荷物を調べるなら、ギルドの立ち会いが必要だ」
「ここにはあなたがいます」
「俺は受付嬢じゃねえ。正式な記録係でもねえ」
「では、後ほどギルドにも説明いたしましょう」
「後ほど、じゃねえんだよ」
バルトの声が低くなる。
「今ここで勝手に調べて、あとから好きに報告するつもりじゃねえだろうな」
若い神官が一歩前へ出る。
「神殿に対して無礼な!」
「黙ってろ」
バルトが睨むと、若い神官は一瞬だけ怯んだ。
だが、マルドゥクは微笑んだままだった。
「荒々しいですね。ですが、バルトさんの言い分にも一理あります」
彼はわざとらしく考える仕草をした。
「では、荷物の確認は後ほどギルド立ち会いのもとで行うことにしましょう。私たちは公平でありたいですから」
公平。
その言葉が、白々しく響いた。
マルドゥクは金袋へ視線を戻す。
「では、先にこの管理金について確認しましょう」
彼は若い神官へ顔を向ける。
「これは何の金ですか」
「認定式準備のために一時保管していた管理金です。加護の証の追加作成や、香、布、儀式道具の整理に使うためのものです」
「本来はどこに?」
「倉庫奥の管理机です」
「最後に確認したのは?」
若い神官は一瞬だけ黙った。
ほんのわずかな間。
だが、俺の目には引っかかった。
「……今朝です」
「今朝」
「はい。朝の点検では、管理机の上にありました」
視界の端で、何かが揺れた。
《矛盾看破》反応
対象発言:朝の点検では、管理机の上にありました
関連情報:若い神官/管理金/裏倉庫
判定:詳細不足
備考:確認時刻の曖昧さあり
詳細不足。
まだ矛盾ではない。
だが、曖昧だ。
俺は口を開く。
「今朝とは、具体的にいつですか」
若い神官の顔がわずかに強張る。
「朝は朝です」
「俺たちが来る前ですか」
「当然です」
「誰と確認しましたか」
「私が確認しました」
「一人で?」
若い神官の眉が動いた。
マルドゥクが静かに口を挟む。
「レンさん」
「はい」
「質問は構いませんが、尋問のような口調は控えていただけますか。彼はあなたを疑っている側ではなく、神殿の管理を任されている者です」
若い神官はほっとしたように息を吐いた。
俺は短く頷く。
「では、確認します。朝、管理金を一人で確認した。そういうことでいいですか」
「……はい」
「その後、管理金を見た人は?」
「知りません」
「倉庫には誰が出入りしましたか」
「神官が数名と、荷運びの者です」
「俺たちが来る前にも?」
「当然です。認定式の準備がありますから」
つまり、出入りは多い。
管理金がいつ動いたかは、まだ分からない。
俺が運んだ箱の近くで見つかったことだけで、俺が盗んだとは言えない。
だが、マルドゥクはそこを使ってくる。
「なるほど」
マルドゥクは頷いた。
「管理金は朝にはあり、その後、レンさんが荷運び補助として入った。そして、レンさんが扱っていた箱の近くから見つかった」
「間に、他の出入りもあります」
「ええ。だから決めつけてはいません」
マルドゥクは微笑んだ。
「ただ、疑いがあるだけです」
疑い。
その言葉だけが、倉庫の中に広がっていく。
俺は金袋を見た。
白い布の上に置かれた袋。
中身は銀貨。
袋の底には、黒い汚れがついている。
さっき床で見た黒泥と似ている。
だが、床に落ちた時についたのか。
それとも、落ちる前からついていたのか。
そこが重要だ。
「金袋を見てもいいですか」
俺が言うと、若い神官がすぐに首を振った。
「触らせるわけにはいきません」
「触りません。見るだけです」
「また見るだけですか」
若い神官が嫌味を言う。
マルドゥクは微笑んだ。
「見せて差し上げなさい。ただし、触れないように」
若い神官は不満そうだったが、金袋を白い布ごと俺の前へ出した。
俺は屈み込む。
袋の口。
紐。
結び目。
底の泥。
銀貨の散らばり方。
すべてを目に入れる。
「鑑定」
名称:神殿管理金袋
状態:開封
内容:銀貨複数
付着物:黒泥/香油
備考:袋底部の泥は乾燥済み。床に落ちた際の付着ではない可能性あり。
床に落ちた際の付着ではない可能性。
つまり、この袋は落ちる前から黒泥に触れていた可能性がある。
俺はさらに見る。
袋の紐には、微かに香油の匂いがある。
神殿の倉庫全体に漂っている匂いと似ている。
そして、結び目。
妙に綺麗だった。
一度開けた袋を慌てて結び直したというより、普段から神殿の者が使っているような整った結び方だ。
「何か分かりましたか」
マルドゥクが尋ねる。
俺はすぐには答えない。
ここで言えば、向こうに修正する時間を与える。
まだ早い。
「黒泥がついていますね」
俺はそれだけ言った。
「倉庫の床にも汚れがありますからね」
マルドゥクは即座に返す。
「床に落ちた時についたのでしょう」
「乾いています」
マルドゥクの笑みが、ほんの少しだけ止まった。
「乾いている?」
「はい」
俺は袋の底を指す。
「床に落ちた時についたなら、こすれ方が違うはずです。これは、落ちる前からついていた可能性があります」
若い神官の顔が強張る。
だが、マルドゥクはすぐに笑みを戻した。
「可能性、ですか」
「はい」
「可能性だけなら、いくらでも言えますね」
そう返されることは分かっていた。
だから、俺はそれ以上言わない。
まだ足りない。
今は、材料を集める場面だ。
マルドゥクは倉庫内の神官たちへ向き直る。
「他に、この金袋について何か見た者はいますか」
数人が顔を見合わせる。
一人の下働きらしき男が、おずおずと手を上げた。
「私は……朝、管理机の上に袋があるのを見ました」
「時刻は?」
「礼拝の鐘のあとです」
「その後は?」
「すみません。荷運びで外に出ていたので……」
つまり、朝には見た。
だが、その後は分からない。
別の若い神官が言った。
「私は、レンさんがあの箱の近くにいるのを見ました」
マルドゥクが頷く。
「なるほど」
「でも」
クララが震える声で言った。
「それだけでは、レンさんが金袋を持っていた証拠にはなりません」
マルドゥクはゆっくりクララを見る。
「ええ。その通りです」
優しい声だった。
「あなたも、証拠という言葉を覚えたのですね」
クララの顔が赤くなる。
怒りと悔しさの色だった。
「ただし、クララさん」
マルドゥクは続けた。
「証拠にならないことと、疑いが消えることは違います」
その言葉が、胸に刺さった。
証拠にならない。
だから無罪。
そう簡単にいかないのが、冤罪の怖さだ。
疑いは残る。
人の目に残る。
記憶に残る。
無罪でも、疑われた事実だけが残る。
現代で、俺はそれを嫌というほど知った。
「疑いを消すには、説明が必要です」
マルドゥクは俺を見る。
「レンさん。あなたはこの金袋に触れていない。そう主張するのですね」
「はい」
「では、なぜあなたが扱った箱の近くから出てきたのでしょう」
「誰かが置いたからです」
倉庫内がざわついた。
若い神官が顔を赤くする。
「神殿の者が仕込んだと言うのか!」
「まだ誰とは言っていません」
「同じことだ!」
「決めつけないでください」
俺がそう言うと、若い神官は言葉に詰まった。
マルドゥクは小さく笑った。
「なるほど。今度は神殿側に疑いを向けるわけですね」
「可能性の話です」
「可能性」
マルドゥクはまた繰り返す。
「都合のよい言葉ですね」
俺は黙る。
向こうは、俺が言う言葉を全部ねじ曲げる。
確認は疑い。
可能性は責任逃れ。
証拠は信仰への攻撃。
そう見せようとしている。
だから、言葉だけで押し返すのは無理だ。
物を見るしかない。
証拠を見るしかない。
バルトが金袋を見下ろしながら言った。
「そもそも、こいつが盗む理由がねえだろ」
「理由がない犯罪は存在しない、と?」
マルドゥクが返す。
「人は時に、衝動で罪を犯します。あるいは、疑いを向けるために、わざと物を動かすこともある」
「何が言いたい」
「レンさんが神殿の不備を証明したいあまり、自ら騒ぎを作った可能性も、完全には否定できません」
クララが息を呑んだ。
バルトの顔が険しくなる。
「てめえ」
「可能性の話です」
マルドゥクは穏やかに言った。
俺がさっき使った言葉を、そのまま返してきた。
「もちろん、私は決めつけません。レンさんが大切にしている姿勢ですから」
マルドゥクは本当に嫌な男だった。
こっちの言葉を奪い、ねじり、別の刃にして返してくる。
怒りで視界が赤くなりそうになる。
だが、飲み込む。
怒れば負けだ。
俺は、あの電車の中で何度も後悔した。
声を荒らげれば、やっぱり怪しいと言われる。
黙れば、認めたと思われる。
なら、残るのは一つしかない。
証拠だ。
「俺からも確認させてください」
俺は言った。
マルドゥクの目が細くなる。
「どうぞ」
「若い神官さん」
俺は細い目の神官を見る。
「あなたはさっき、俺の運んでいた木箱のそばを通りましたね」
若い神官の表情が固まる。
「通りました。それが何か?」
「その時、袖が箱の陰に隠れました」
「荷物の間を通れば、そう見えることもあるでしょう」
「あなたはその直後に、金袋が落ちたことへ反応しました」
「音がしたからです」
「音がする前、何か落ちる気配に気づいていましたか」
「気づいていません」
早い。
答えが早すぎる。
まるで、用意していたように。
《矛盾看破》反応
対象:若い神官
発言:気づいていません
状況:金袋落下直後、最初に声を上げた人物
判定:違和感あり
備考:反応速度が状況と不一致
違和感あり。
まだ証明にはならない。
だが、糸口だ。
俺は若い神官の袖を見る。
さっき見えた黒い汚れ。
彼はもう袖を引き、手首を隠している。
「袖を見せてもらえますか」
「なぜです」
「黒泥がついていたように見えたので」
若い神官の顔色が変わった。
マルドゥクが静かに割って入る。
「レンさん」
「はい」
「神官の法衣を、疑いの目で見るのですか」
「確認です」
「また確認ですか」
マルドゥクは悲しそうに微笑んだ。
「神殿の者の袖を調べたい。次は懐ですか。部屋ですか。祈りの道具ですか。あなたの確認に、どこまで付き合えばよいのでしょう」
「俺の荷物を確認しようとしたのは、そちらです」
「あなたに疑いが生まれたからです」
「なら、その神官にも疑いが生まれています」
倉庫の中が静まった。
若い神官が俺を睨む。
マルドゥクは、少しだけ目を細めた。
「証拠は?」
「袖の黒泥。金袋が落ちる直前に箱のそばを通ったこと。金袋が落ちた直後に誰より早く反応したこと」
「どれも偶然で説明できますね」
「俺への疑いも、偶然で説明できます」
初めて、マルドゥクの笑みが薄くなった。
だが、すぐに戻る。
「面白い」
彼は優しい声で言った。
「では、こうしましょう。若い神官の袖も、レンさんの荷物も、どちらも確認する。それなら公平です」
若い神官が驚いた顔をした。
「マルドゥク様」
「公平であることは大切です」
マルドゥクは穏やかに言う。
「ただし、確認はギルド立ち会いのもとで行うべきでしょう。バルトさんが先ほどそうおっしゃいましたからね」
逃げた。
今すぐ袖を見せることを避けた。
時間を作るつもりだ。
汚れを落とす時間。
話を整える時間。
証拠を消す時間。
俺はすぐに言った。
「今、見せてください」
「急ぎますね」
「黒泥は落とせます」
「神官が証拠を消すと?」
「可能性です」
マルドゥクは微笑んだ。
「便利な言葉ですね」
空気が張り詰める。
バルトが若い神官の前に立った。
「袖を見せるだけだろ。やましくねえなら見せろ」
若い神官は一歩下がる。
「無礼な……!」
マルドゥクが手を上げた。
「落ち着きなさい」
そして、若い神官へ柔らかく言う。
「袖を見せなさい。疑いを晴らすためです」
「……はい」
若い神官はゆっくり袖を出した。
白い布の端に、黒い汚れが残っている。
さっきより薄い。
だが、完全には消えていない。
俺はその汚れを見る。
「鑑定」
名称:法衣の袖
状態:汚染
付着物:黒泥/香油
備考:神殿裏倉庫の床に付着した黒泥と類似
つながった。
若い神官の袖。
金袋。
倉庫の床。
全部に黒泥と香油。
だが、まだ決定打ではない。
神殿の裏倉庫にいた以上、袖に泥がつく可能性はある。
マルドゥクはそこを見逃さない。
「袖に汚れがある。それが何か?」
彼は言った。
「ここは倉庫です。床にも汚れがある。荷物にも汚れがある。神官が働いていれば、袖が汚れることもあるでしょう」
「金袋にも同じような汚れがあります」
「だからといって、彼が仕込んだ証明にはなりません」
「はい」
俺は認めた。
「まだ証明にはなりません」
若い神官が勝ち誇ったように笑う。
マルドゥクも静かに微笑む。
だが、俺は金袋の紐を見ていた。
結び目。
向き。
締まり方。
さっきから引っかかっている。
「クララ」
俺は小さく呼んだ。
「はい」
「この結び方、分かるか?」
クララは入口付近から恐る恐る近づき、金袋の紐を見る。
マルドゥクが視線を細める。
「クララさんに何を確認させるのですか」
「結び方です」
クララは金袋に触れず、じっと見る。
「これ……神殿の寄付袋や、加護の証をまとめる時に使う結び方だと思います」
「神殿の?」
「はい。ほどけにくくて、片側を引くとすぐ開く形です。村の祠に届いた加護の証も、同じように結ばれていました」
俺は頷く。
つまり、この袋は神殿の者が扱いやすい形で結ばれている。
俺のような外部の人間が、短時間で盗んで、開けて、戻して、同じ結び方にするのは難しい。
まだ証明にはならない。
でも、反証の糸口になる。
マルドゥクはすぐに言った。
「神殿の管理金なのですから、神殿の結び方で結ばれていて当然でしょう」
「はい」
「それが何か?」
「今はまだ、確認しただけです」
「また確認」
マルドゥクは笑った。
だが、その笑みはさっきより少し硬かった。
俺は金袋から視線を外さない。
黒泥。
香油。
袖。
反応速度。
結び目。
管理金が朝にあったという曖昧な証言。
出入りの多い裏倉庫。
そして、俺の箱のそばを通った若い神官。
まだ一つ一つは弱い。
だが、つながり始めている。
俺は胸元のペンダントが微かに熱を帯びているのを感じた。
《証拠記録》更新
物証七:神殿管理金袋に黒泥と香油の付着を確認。
物証八:袋底部の泥は乾燥済み。床落下時の付着ではない可能性あり。
物証九:若い神官の袖に黒泥と香油の付着を確認。
証言十:管理金は朝の点検時、管理机にあったと若い神官が証言。
備考:確認時刻および確認者に曖昧さあり。
関連候補:若い神官/神殿管理金/黒泥/香油/結び目
情報は揃い始めている。
けれど、まだ足りない。
今ここで無理に断罪すれば、マルドゥクに潰される。
だから、俺は言った。
「ミレイユさんを呼んでください」
マルドゥクが目を細める。
「ギルドの受付嬢を?」
「はい。正式な記録係として、ここから先の確認に立ち会ってもらいます」
「神殿内のことに、そこまでギルドを入れると?」
「これはギルドが受けた依頼中に起きた疑いです。冒険者が神殿の管理金を盗んだ疑いがあるなら、ギルドにも関係があります」
バルトがニヤリと笑った。
「その通りだな。俺が呼んでくるか?」
「お願いします」
若い神官が慌てて言う。
「待て! 勝手に外へ出るな!」
バルトが肩を回した。
「依頼中の冒険者が疑われてるんだ。ギルドに報告するのは当然だろ」
マルドゥクは笑みを浮かべたまま、わずかに沈黙した。
嫌なのだろう。
ミレイユが来れば、勝手に話をまとめられない。
記録される。
ギルド側の証人が増える。
それでも、表向きは拒めない。
「……よろしいでしょう」
マルドゥクは静かに言った。
「公平な確認のためです。ギルドの立ち会いを認めます」
そして、俺を見た。
「ですが、レンさん」
優しい声。
静かな目。
逃がさないと言っているような笑み。
「それまで、この倉庫からは出ないでください。疑いを持たれた方が勝手に動けば、さらに誤解が深まりますから」
「分かりました」
「もちろん、私たちも動きません」
マルドゥクはそう言った。
だが、俺は若い神官の袖を見る。
黒泥の汚れ。
香油の匂い。
あれが消されれば、証拠は一つ減る。
「若い神官さん」
俺は言った。
「袖には触らないでください」
若い神官が顔を歪める。
「何だと」
「証拠かもしれないので」
「無礼な!」
マルドゥクが手を上げた。
「触らないように」
「マルドゥク様!」
「疑いを晴らすためです」
マルドゥクは穏やかに言う。
だが、その目は若い神官に余計なことをするなと命じていた。
若い神官は悔しそうに黙った。
バルトが倉庫を出ていく。
重い足音が遠ざかる。
残された倉庫の中で、俺とマルドゥクは向かい合った。
金袋。
黒泥。
香油。
袖。
結び目。
状況はまだ俺に不利だ。
周囲の神官たちは、俺を疑う目で見ている。
クララは不安そうに俺を見ている。
マルドゥクは、相変わらず薄く笑っている。
「レンさん」
彼は静かに言った。
「証明とは、厳しいものですね」
「そうですね」
「ご自身が疑われる側になると、少しは分かりましたか?」
俺は答えなかった。
分かっている。
嫌というほど知っている。
だからこそ、負けるわけにはいかない。
疑いが生まれる怖さ。
疑いが消えない苦しさ。
無実なのに、説明を求められる理不尽さ。
全部、知っている。
けれど、今回は違う。
今回は、証拠がある。
今回は、俺一人じゃない。
そして何より、俺はもう、何もできずに押し潰されるだけの男じゃない。
俺は白い布の上の金袋を見た。
袋の底には黒泥。
紐には神殿の結び目。
袖には同じ汚れ。
若い神官は、金袋が落ちる前に箱のそばを通った。
点は揃っている。
あとは、それを線にするだけだ。
俺は静かに息を吐いた。
証明は、まだ終わっていない。
ここからだ。
【あとかぎ】
レン「ここまで読んだという記録は残りました」
クララ「残ってません」
レン「心に残ったはずだ」
クララ「急に詩人みたいにならないでください」
レン「なら、その心証を★で示してほしい」
クララ「結局そこに戻るんですね」




