第13話 神殿の記録
神殿へ向かう前に、俺とクララは冒険者ギルドへ寄った。
湿地から持ち帰った証拠は、すでにギルドで保管されている。折れた浄化杭の欠片。汚染された泥。神殿のものらしい布片。軽度汚染された白銀草。
どれも、まだ誰かの罪を証明するには足りない。
けれど、無視していいものでもない。
受付には、ミレイユがいた。
彼女は俺たちを見ると、すぐに一枚の封書を取り出した。白い紙にギルドの印が押されている。
「こちらが、ラトル神殿への照会状です」
ミレイユは封書を俺に差し出した。
「湿地の浄化杭について、管理記録の確認を求める内容になっています。最後に巡回した日時、担当者、破損報告の有無、瘴気漏れへの対応状況。そのあたりを確認してください」
「分かりました」
俺は封書を受け取った。
ただの紙なのに、妙に重く感じる。
神殿。
聖女ミコト。
マルドゥク。
その名前が頭の中で並ぶ。
昨日のマルドゥクの言葉を思い出した。
不確かな真実より、確かな安心の方が民には必要なのです。
嫌な言葉だった。
けれど、あの男は本気でそう思っているようにも見えた。
だからこそ厄介だ。
自分は正しいと信じている人間は、嘘をついている自覚がないことがある。
「レンさん」
ミレイユが静かに言った。
「神殿内では、言葉に気をつけてください」
「はい」
「疑っている、という言い方は避けてください。確認させてください。記録を見せてください。そういう形で進めてください」
「証明できないことは、言いません」
俺が答えると、ミレイユは少しだけ頷いた。
「あなたなら、そう言うと思っていました」
クララは緊張した顔で照会状を見る。
「私も、一緒に行って大丈夫なんでしょうか」
「クララさんは、白銀草と瘴気の件で関係者です。それに、薬草の状態を見た人でもあります。無理に話す必要はありませんが、聞かれたら見たことだけを答えてください」
「はい」
クララは小さく頷いた。
ミレイユは最後に、俺をまっすぐ見る。
「神殿は、ギルドとは違います。冒険者相手なら通る言い方でも、神殿では通らないことがあります」
「分かっています」
「それと、マルドゥク様は簡単に本音を出す方ではありません」
その言葉に、昨日の笑顔が浮かんだ。
柔らかい声。
丁寧な言葉。
そして、こちらを下に見る目。
「怒鳴る相手より面倒ですね」
「ええ」
ミレイユは珍しく、少しだけ苦笑した。
「かなり面倒です」
俺は照会状を懐にしまった。
「行ってきます」
「お願いします。無理はしないでください」
ギルドを出ると、外の空気は少し冷たかった。
ラトルの中央通りは、今日も人で賑わっている。
商人の声。荷馬車の車輪の音。道端で走る子どもたち。パンを焼く匂い。革や香辛料の匂い。そういう生活の音と匂いに混じって、あちこちから聖女ミコトの名前が聞こえてきた。
「聖女ミコト様の加護の証だよ!」
「認定式まであと少しだってな」
「王都ではもう準備が始まってるらしいぞ」
「病除けなら、神殿印入りがいいって聞いたよ」
クララが少し不安そうに周囲を見る。
「本当に、どこでも聖女様の名前を聞きますね」
「ああ」
「町の人たちは、みんな信じているんですね」
「信じること自体は悪くない」
俺は通りの先に見える白い建物を見た。
「でも、信じているから疑わない、は危ない」
クララは黙って頷いた。
神殿は、町の中心に近い場所に建っていた。
白い石造りの大きな建物で、入口には二本の柱が立っている。柱には聖印が刻まれ、白い布が風に揺れていた。
階段の脇には、小さな木札がいくつも結ばれている。
聖女の加護の証。
旅の安全。病除け。魔除け。罪なき者を守る証。
同じような言葉が、いくつも並んでいた。
入口の前では、子どもを抱いた母親が祈っていた。商人らしい男は、旅の安全を願って木札を買っている。老人たちは、聖女ミコトの認定式について話していた。
「聖女様なら、瘴気も祓ってくださる」
「この町も加護を受けられるようになるといいねえ」
「王都の神殿が認める方だ。間違いないさ」
間違いない。
その言葉が、耳に残った。
間違いないと誰かが言うだけで、人は安心する。
その安心が、本当に誰かを救うこともあるのだろう。
けれど、間違いないという言葉の裏に嘘が隠れていたら。
その時、疑わなかった人間は、簡単に誰かを踏みつける側になる。
「行きましょう」
クララの声で、俺は意識を戻した。
「ああ」
俺たちは神殿の中へ入った。
中は静かだった。
石の床は磨かれ、壁には聖印の模様が刻まれている。奥には祈りを捧げるための祭壇があり、その周囲には白い花が飾られていた。
空気には、薄い香の匂いが混じっている。
清らかで、整っていて、白い。
けれど俺には、その白さが少し息苦しく感じられた。
「おや」
横から、柔らかな声がした。
マルドゥクだった。
白い法衣に、聖印の指輪。髪は今日もきっちり撫でつけられている。顔には穏やかな笑みがあった。
だが、目だけは笑っていない。
「昨日の今日で神殿へ来られるとは。ずいぶん熱心ですね」
「冒険者ギルドからの正式な照会です」
俺は懐から封書を取り出した。
「湿地の浄化杭の管理記録を確認させてください」
マルドゥクは封書を受け取った。
封を確認し、ギルドの印を見る。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「記録、記録……あなたは本当に、紙と泥がお好きなようだ」
「事実を確認したいだけです」
「事実」
マルドゥクは微笑んだ。
「人は時に、知らなくてもよい事実に触れたがるものです。そして、それを正義だと思い込む」
クララが少しだけ身を固くした。
マルドゥクの視線がクララへ移る。
「クララさん、でしたか」
「……はい」
「あなたも、あまり不安な言葉に耳を貸さない方がよろしいですよ。病人の家族は、心が弱りやすいものですから」
クララの顔がわずかに曇る。
俺は一歩だけ前に出た。
「記録の確認をお願いします」
余計な言い返しはしない。
クララを傷つける言葉に反応すれば、マルドゥクはそこを突いてくる。
この男は、相手が感情的になるのを待っている。
俺はそう感じた。
マルドゥクは小さく息を吐く。
「よろしい。ギルドからの正式な照会であれば、必要な範囲でお見せしましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、神殿の内部記録です。すべてを自由に見られると思わないでください」
「必要な範囲で構いません」
「本当に、物分かりがよろしいのか、悪いのか分からない方ですね」
マルドゥクは背を向け、俺たちを神殿の奥へ案内した。
通されたのは、小さな記録室だった。
壁際には木製の棚があり、帳簿や巻物がいくつも並んでいる。部屋の中央には古い机が一つ置かれていた。
マルドゥクは棚から一冊の帳簿を取り出す。
表紙には、浄化杭管理簿と書かれていた。
「湿地周辺の管理記録です」
彼は帳簿を開き、机の上に置く。
「確認はこのページだけで十分でしょう」
俺は帳簿に目を落とした。
記録は整っていた。
日付。
巡回場所。
担当者名。
状態。
確認印。
湿地入口浄化杭の欄には、こう記されていた。
巡回日、三日前。
状態、異常なし。
担当、トビー。
確認印、あり。
「三日前に異常なし……」
俺は小さく呟いた。
その言葉に、マルドゥクが反応する。
「何か?」
「確認しています」
「そこに書かれている通りです。三日前の巡回では、異常はありませんでした」
「担当者は、トビーという方ですね」
「ええ」
マルドゥクは微笑んだまま答えた。
俺は記録をさらに見る。
文字は綺麗だ。
だが、一部だけ違和感がある。
担当者名の部分。トビーという文字だけ、少し滲んでいる。
確認印も、他の欄より薄い。
それに、巡回ルートの記載がおかしい。
湿地入口の浄化杭を確認したなら、白銀草の群生地の近くを通るはずだ。
もし三日前に異常がなかったのなら、その後に何かが起きたことになる。
だが、杭の断面は新しかった。
バルトは、自然に折れた感じではないと言っていた。
そして、汚染は一晩で広がっていた。
視界の端に文字が浮かぶ。
《矛盾看破》発動
対象:浄化杭管理記録
記録内容と現地状況に不一致を確認。
記録:湿地入口浄化杭、異常なし
現地:浄化杭破損、瘴気泥拡大
備考:記録改変の可能性あり
ただし、改変者は不明
記録改変。
その文字が、胸の奥に冷たく落ちた。
やはり、何かがおかしい。
だが、まだ足りない。
この記録が書き換えられたとして、誰がやったのか。なぜやったのか。トビーが関わっているのか。それとも、利用されただけなのか。
何も分からない。
「どうしました?」
マルドゥクが穏やかに聞いてくる。
「顔色が少し悪いようですが」
「記録と現地の状況に、少し合わない部分があります」
「合わない?」
マルドゥクは眉を上げた。
「三日前には異常なしとあります。ですが、現地では浄化杭が折れていて、瘴気泥が広がっていました。白銀草も汚染されています」
「三日もあれば、状況は変わるでしょう」
「それはあり得ます」
俺は頷いた。
「ただ、杭の断面は新しく見えました。同行したバルトさんも、自然に折れた感じではないと言っていました」
「冒険者の目と、神殿の記録。どちらを信じるかは難しいところですね」
「だから確認しています」
「確認、ですか」
マルドゥクは困ったように笑った。
「あなたは本当に、疑いを綺麗な言葉で包むのが上手い」
「疑うことと、決めつけることは違います」
「その言い方も、昨日聞きましたね」
マルドゥクは帳簿を閉じようとした。
俺はその前に聞いた。
「このトビーという人は、今どこにいますか?」
ほんの一瞬。
マルドゥクの指が止まった。
だが、それはすぐに元へ戻った。
「ああ、彼ですか」
穏やかな笑み。
けれど、その目は少しだけ冷たくなっていた。
「困ったものです」
「何かあったんですか?」
「神殿の金を持ち出し、姿を消しました」
クララが小さく息を呑む。
「盗んだんですか?」
マルドゥクは、哀れむように目を伏せた。
「残念ながら。人は弱いものですから」
「いつですか」
俺は聞いた。
「三日前の巡回の後です」
三日前。
記録では、トビーが湿地入口の浄化杭を確認し、異常なしと記している。
その後、金を盗んで姿を消した。
あまりにも都合がいい。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
だが、まだ言わない。
証拠がない。
「トビーさんは、神殿でどんな仕事をしていたんですか」
「下働きです。掃除、荷運び、巡回補助。誰にでもできる仕事です」
誰にでもできる。
その言い方に、わずかな棘があった。
「真面目な方だったんですか」
「真面目そうには見えました」
マルドゥクは微笑んだ。
「ですが、真面目そうに見える者ほど、追い詰められると醜い本性を見せることがあります」
クララの手が震えた。
俺は帳簿の上に視線を落としたまま、ゆっくりと息を吸う。
現代でも、似たような言葉を聞いたことがある。
あの人がそんなことをするなんて。
いや、真面目そうな人ほど分からない。
普段おとなしい人ほど、裏では何をしているか分からない。
人は、罪人だと言われた相手に対して、あとから理由を作る。
あいつならやりそうだ。
前から怪しかった。
そういう空気が、真実より先に広がる。
「盗んだ証拠はあるんですか」
俺は聞いた。
マルドゥクの笑みが、少しだけ薄くなった。
「神殿の金がなくなり、彼が姿を消した。それで十分でしょう」
「十分かどうかを確認したいんです」
「あなたは、罪人にまで肩入れするのですか」
「罪人だと証明されていないなら、まだ罪人ではありません」
部屋の空気が冷えた気がした。
クララが俺を見る。
マルドゥクはしばらく黙っていた。
やがて、静かに笑った。
「本当に、面倒な方だ」
「よく言われます」
「でしょうね」
マルドゥクは帳簿を閉じた。
「確認は以上でよろしいでしょう。これ以上は神殿内部の問題です」
「トビーさんの家は分かりますか」
「調べる必要はありません」
即答だった。
「なぜですか」
「罪を犯した者を掘り返しても、誰も救われません。残された家族も、そっとしておくべきです」
残された家族。
その言葉に、クララが反応した。
「家族がいるんですか?」
マルドゥクはクララを見た。
優しい顔をしているのに、その声には温度がなかった。
「病気の母親がいると聞いています」
「病気の……」
クララが小さく呟く。
自分の弟と重なったのだろう。
マルドゥクはさらに続ける。
「だからこそ、これ以上騒がない方がよろしい。息子が盗人だと広まれば、母親はさらに苦しむでしょう」
言葉だけを聞けば、優しさにも聞こえる。
けれど、本当にそうだろうか。
トビーが盗んでいないなら。
罪を着せられただけなら。
黙ることは、母親を守ることにならない。
むしろ、真実を奪うことになる。
「盗人だと決まっていないなら、その母親のためにも確認が必要です」
俺は言った。
マルドゥクの目が細くなる。
「あなたは本当に、救いというものを分かっていない」
「そうかもしれません」
俺は静かに返した。
「でも、やっていない罪を背負わせることが救いだとは思いません」
沈黙。
マルドゥクは、ゆっくりと帳簿を棚へ戻した。
「本日の確認はここまでです」
その声は穏やかだった。
だが、明確に拒絶していた。
「ギルドには、神殿から正式に返答いたします」
「分かりました」
「それと」
マルドゥクは俺を見た。
「トビーのことまで調べる必要はありませんよ」
「なぜですか」
「罪人を追いかける時間があるなら、今を生きる者を救うべきです。神殿はそうしています」
「罪人かどうかも、まだ分かりません」
「あなたは、すべてを疑わなければ生きられないのですか」
「違います」
俺は首を横に振った。
「決めつけないだけです」
マルドゥクは笑った。
穏やかな笑みだった。
けれど、目はやはり笑っていない。
「あなたのような方は、いつか自分の疑いで身を滅ぼします」
「その時は、その理由も確認します」
クララが一瞬だけ驚いた顔をした。
マルドゥクは何も言わなかった。
俺たちは記録室を出た。
神殿の広間へ戻ると、祈りの声が聞こえてきた。誰かが聖女ミコトの名を呼んでいる。
聖女様、どうか病を祓ってください。
聖女様、どうか旅を守ってください。
聖女様、どうか罪なき者を守ってください。
罪なき者。
その言葉が、やけに重く響いた。
神殿を出ると、外の光が少しまぶしかった。
階段を降りたところで、クララが小さく言った。
「トビーさんのこと、少し聞いたことがあります」
「知っているのか?」
「名前だけです。マーヤさんのお店で、お客さんが話していました。神殿で下働きをしていて、病気のお母さんがいるって。真面目な人だって」
「真面目な人」
「はい。薬代を稼ぐために、神殿で働いているって聞きました」
病気の母。
薬代。
神殿の下働き。
湿地の巡回補助。
そして、金を盗んで逃げたとされた青年。
点が増えていく。
だが、まだ線にはならない。
「逃げるなら、母親を置いていくでしょうか」
クララが不安そうに聞いた。
「分からない」
俺は答えた。
「本当に追い詰められていたなら、あり得ないとは言えない」
「でも……」
「ああ」
俺は頷いた。
「不自然ではある」
罪人だと言われると、人は納得する理由を探し始める。
真面目そうに見えたけど、本当は違ったのかもしれない。
病気の母がいるから、金に困っていたのかもしれない。
逃げたのなら、盗んだに違いない。
そうやって、証拠ではなく想像で罪が固まっていく。
俺はそれを知っている。
痛いほど知っている。
「また、誰かが罪を着せられているんでしょうか」
クララが言った。
「それも、まだ分からない」
俺は神殿の白い壁を振り返った。
「でも、確かめる必要はある」
神殿の記録には、湿地の浄化杭は異常なしと書かれていた。
だが、現地には折れた杭があった。
黒く広がる泥があった。
汚染された白銀草があった。
そして、その記録を書いたことになっている青年は、金を盗んで逃げたことにされている。
トビー。
まだ会ったこともない名前。
けれど、その名前はもう、ただの記録上の担当者ではなくなっていた。
逃げたのか。
それとも、逃げたことにされたのか。
俺は神殿から視線を外し、クララを見る。
「次はトビーを調べる」
「はい」
クララは緊張した顔で頷いた。
神殿の白い壁の向こうには、まだ何かが隠されている。
なら、次に調べるべきは決まった。
消えた下働き、トビー。
彼が本当に罪人なのかを。




