第12話 折れた浄化杭
ラトルへ戻る道のりは、行きよりも長く感じた。
革袋の中には、汚染された泥。折れた浄化杭の欠片。神殿のものらしい布片。そして、軽度汚染された白銀草が入っている。
どれも小さなものだ。
泥はただの泥に見えるし、杭の欠片は折れた木片にしか見えない。布片だって、知らない人間が見ればただの破れ布だろう。
それでも、俺には軽く扱えなかった。
これらは、湿地で起きている異変の証拠だ。
誰かが何かを壊した。
その結果、瘴気が広がり、白銀草が汚染され、魔獣が浅い場所まで出てきている。
まだ犯人は分からない。
神殿が関わっているとも言えない。
聖女ミコトと繋がっている証拠もない。
けれど、何もなかったことにはできない。
「重そうな顔してんな」
前を歩いていたバルトが、肩越しに言った。
「証拠が軽くないので」
「泥と木片だろ」
「そう見えるだけです」
バルトは鼻を鳴らした。
「本当に変な新人だな」
そう言いながらも、馬鹿にする響きは少し薄れていた。
クララは採取袋を抱え、黙って歩いている。
汚染された白銀草を見つけてから、ずっと表情が硬い。弟の病気と瘴気が関係しているかもしれない。それを考えれば、無理もなかった。
「クララ」
「はい」
「まだ、弟さんの病気と湿地の瘴気が繋がっていると決まったわけじゃない」
「……分かっています」
クララは小さく頷いた。
「でも、関係ないとも言えないんですよね」
「ああ」
俺は嘘をつかなかった。
「だから、調べる」
「はい」
クララは採取袋を抱く手に、少しだけ力を込めた。
ラトルの北門を抜ける頃には、昼を少し過ぎていた。
昨日より早い帰還だが、気持ちは軽くない。町の中はいつも通り賑やかで、露店の声も、荷馬車の音も、子どもたちの笑い声もあった。
その普通の景色が、少しだけ遠く感じた。
冒険者ギルドに入ると、昼間だからか人は少なめだった。
酒場側の席には数人の冒険者が座り、掲示板の前には依頼を眺める者がいる。受付にはミレイユがいた。
彼女は俺たちを見るなり、すぐに表情を引き締めた。
「戻りましたね」
視線が、俺の持つ革袋に落ちる。
「……その様子だと、何か見つけたようですね」
「見つけました」
俺はカウンターの前に立った。
「ただ、まだ何も断定はできません」
ミレイユはわずかに頷いた。
「聞きます。奥の作業台を使いましょう」
俺たちは受付の横にある、少し広めの作業台へ移動した。
そこは依頼品や採取物を調べるための場所らしく、上には厚手の布が敷かれている。ミレイユは記録用紙と羽ペンを用意した。
バルトは腕を組んで壁際に立つ。
クララは俺の隣に立ち、汚染された白銀草をそっと取り出した。
俺は革袋を開けた。
まず、黒く濁った泥を入れた小袋。
次に、軽度汚染された白銀草。
折れた浄化杭の欠片。
そして、白い布片。
それらを一つずつ作業台に並べる。
ただの物が並んだだけのはずなのに、周囲の空気が少し重くなった。
「順番に説明します」
俺は言った。
「前回、白銀草を採取した群生地を再確認しました。そこにあった黒い泥は、前より範囲が広がっていました」
ミレイユは黙って記録する。
「ただ、泥の広がり方が水の流れと合っていませんでした。自然に流れたなら別の方向へ広がるはずなのに、汚染は白銀草の方へ伸びていました」
「水の流れと、泥の広がり方が噛み合わない、ということですね」
「はい」
俺は頷いた。
「その黒い泥の跡を追うと、折れた浄化杭がありました。杭には神殿の印らしきものがありました」
ミレイユの手が止まる。
「浄化杭……」
「知っていますか?」
「瘴気を抑えるために、神殿が設置する杭です。湿地や森、古い戦場跡などに使われます。管理は神殿の管轄です」
「やっぱりな」
バルトが低く言った。
「俺も見た。あれは自然に折れた感じじゃなかった。断面も新しい。腐って折れたんじゃねえ」
ミレイユはバルトを見る。
「バルトさんの判断でも、人為的な破損の可能性があると?」
「ああ。誰がやったかは知らねえが、簡単にぽっきり折れる代物じゃねえ」
俺は続けた。
「杭の近くには、人が通ったような跡がありました。ただ、泥で崩れていて、誰の足跡かは分かりません。それと、神殿の法衣の一部らしい布片も見つけました」
白い布片を指差す。
ミレイユはそれを慎重に確認した。
布の端に刺繍された聖印を見て、表情を硬くする。
「神殿のものに見えますね」
「見えるだけです」
俺はすぐに言った。
「これだけで神殿の人間が杭を壊したとは言えません。神殿の巡回者が落とした可能性もあります。誰かが神殿の服を着ていた可能性もあります。古い布が流れ着いただけかもしれません」
「そこを分けて考えられるのは、あなたの強みですね」
ミレイユは静かに言った。
「神殿の管理物が壊れていたことと、神殿が壊したことは別です」
「はい」
俺は頷いた。
「でも、記録しない理由にはなりません」
「もちろんです」
ミレイユは布片も記録用紙に書き込んだ。
それから、近くの職員に声をかける。
「マーヤさんを呼んできてください。薬草の状態を確認していただきます」
職員は頷き、ギルドを出ていった。
しばらくして、ギルドの入り口が開いた。
外から入ってきたのは、薬師のマーヤだった。
いつものように腰の曲がった歩き方だが、目だけは鋭い。片手には小さな薬箱を持っている。
「ミレイユに呼ばれて来てみりゃ、また面倒な匂いがするね」
「お手数をおかけします、マーヤさん」
ミレイユが頭を下げる。
「汚染された白銀草を確認していただきたいんです」
「見せてみな」
クララが白銀草を差し出した。
マーヤは葉を裏返し、根元を指でこすり、匂いを嗅ぐ。
その顔が少しずつ険しくなった。
「瘴気に当てられてるね」
クララの肩が揺れる。
「やっぱり……」
「しかも、傷み方が早い。普通、湿地の入口近くで一晩やそこらでここまで根元に黒い筋は出にくい。近くに濃い瘴気の漏れ口があったか、意図的に汚されたか」
「意図的に……」
クララの声が震えた。
マーヤはすぐに首を横に振る。
「決めつけるんじゃないよ。可能性の話だ」
クララははっとして、頷いた。
「はい」
マーヤは俺を見た。
「この泥も湿地のものかい?」
「はい。浄化杭の近くで採取しました」
「ふん」
マーヤは小袋の泥を少しだけ取り、匂いを確認する。
「瘴気が混じってる。強くはないが、薬草を傷めるには十分だね。人が長く触れるのもよくない」
ミレイユが記録を取る手を速めた。
「では、湿地の異変は正式に危険案件として扱うべきですね」
「あたしならそうする」
マーヤは白銀草を布の上に戻した。
「それと、クララの弟の病気にも関係している可能性はある。もちろん、これだけじゃ断定できない。でも瘴気抜き薬は早めに用意した方がいい」
クララは唇を噛んだ。
「薬代……」
「焦るな。熱下げ薬は送ったんだ。今すぐ命がどうこうって段階じゃないはずだよ」
マーヤは少しだけ声を柔らかくした。
「ただ、根治には瘴気抜き薬と浄化薬が必要になる。材料が汚染されてるなら、余計に厄介だね」
「稼ぎます」
クララは小さく言った。
「私も、できることをします」
マーヤはその顔を見て、少しだけ口元を緩めた。
「その意気だ」
その瞬間、ギルドの扉が再び開いた。
今度は、空気が変わった。
白い法衣。
きっちり撫でつけられた髪。
指には聖印の指輪。
柔らかな笑みを浮かべているのに、目だけがまるで笑っていない男。
マルドゥクだった。
彼が一歩入ってきただけで、近くにいた冒険者たちの話し声が少し小さくなった。
マルドゥクは作業台に並んだ泥や杭の欠片を見ると、眉をわずかに上げた。
「おや、困りましたね」
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、逆に嫌な感じがした。
「人目のある場所に、そのような不浄なものを並べているとは」
ミレイユが表情を変えずに答える。
「湿地調査の提出物です。現在、確認と記録を行っています」
「湿地調査」
マルドゥクはゆっくりと繰り返した。
そして、折れた浄化杭の欠片へ視線を落とす。
「これは神殿の管理物ですね」
「その可能性が高いです」
「では、こちらで預かりましょう」
当然のように言った。
俺は一歩前に出た。
「待ってください」
マルドゥクの目が、初めて俺を見た。
その笑みは崩れない。
「あなたは、昨日の新人冒険者ですね。レン・クゼさんでしたか」
「はい」
「覚えていますよ。聖女様のお名前を疑うような、少し困った方でしたから」
クララが不快そうに眉を寄せる。
バルトも目を細めた。
俺は息を整えた。
挑発に乗るな。
この男は、怒鳴る相手よりずっと面倒だ。
丁寧な言葉で、人を下に置く。
善意の顔で、証拠を消そうとする。
「証拠を確認する前に、持ち去るんですか」
「証拠?」
マルドゥクは小さく笑った。
「不浄な泥と、折れた木片に、そこまで大きな意味がありますか?」
「あります」
俺は言った。
「誰かが隠したがるなら、なおさら」
マルドゥクの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「隠すとは、人聞きの悪い。神殿は民を不安にさせないために、不要な混乱を避けているだけです」
「不安を避けることと、記録を残さないことは別です」
「あなたは少し、物事を疑いすぎる」
マルドゥクは困ったように首を傾げた。
「証拠、証拠……まるで神の慈悲を信じられない方のようだ」
「信じるためにも、疑うためにも、記録が必要です」
「民には、知らない方が幸せなこともあるのですよ」
その言葉に、胸の奥がざらついた。
知らない方が幸せ。
聞いたことのある形だ。
騒ぐな。
黙っていろ。
余計なことをするな。
組織のためだ。
みんなのためだ。
現代で、何度も聞いた空気と同じだった。
俺の人生が壊れた時も、誰かはきっとそう思っていたのだろう。
面倒だから黙れ。
波風を立てるな。
無罪だとしても、もう関わりたくない。
それと同じ匂いが、この男からする。
「知らされないまま傷つく人間もいます」
俺は言った。
「誰かを安心させるために、別の誰かを罪人にしていい理由にはなりません」
マルドゥクの目が細くなった。
「あなたは本当に、救いというものを分かっていない」
「分からなくて結構です」
俺は静かに返した。
「俺が知りたいのは、真実です」
その場の空気が張り詰めた。
ミレイユが一歩前に出る。
「マルドゥク様。提出された物品は、冒険者ギルドで記録を取った上で、必要に応じて神殿へ共有します」
「ギルドが神殿の管理物を留め置くと?」
「留め置くのではありません。記録を取るのです」
ミレイユの声は落ち着いていた。
「湿地で危険に遭遇したのは冒険者です。ギルドにも確認する責任があります」
バルトが壁際から口を挟む。
「俺も見てる。杭は自然に折れた感じじゃなかった。なかったことにはできねえぞ」
マルドゥクはバルトに視線を向けた。
「バルトさん。あなたほどの冒険者なら、軽率な発言が民に与える影響をご理解いただけると思っていましたが」
「俺は見たことを言ってるだけだ」
「それが軽率なのです」
マルドゥクは笑顔のまま言った。
「不確かな真実より、確かな安心の方が民には必要なのです」
嫌な言葉だった。
けれど、この男は本気でそう思っているようにも見えた。
都合の悪い事実を消すことを、救いだと思っている。
真実より、神殿への信頼。
証拠より、聖女の名誉。
その価値観そのものが、俺とは相容れない。
「聖女ミコト様の認定式を前に、不確かな噂を広めるわけにはいきません」
マルドゥクは言った。
その瞬間、胸元のペンダントが熱を持つ。
視界の端に文字が浮かんだ。
《矛盾反応を確認》
対象発言:聖女ミコト様の認定式を前に、不確かな噂を広めるわけにはいきません
関連語:認定式/瘴気被害/浄化杭
判定:直接的矛盾は未確定
備考:情報不足
情報不足。
また、それだ。
まだ足りない。
何もかも足りない。
マルドゥクの発言は怪しい。
聖女ミコトの認定式と、湿地の浄化杭の破損。
その二つをなぜ結びつけるのか。
なぜ、ただの調査報告をそこまで抑えようとするのか。
違和感はある。
だが、証明はできない。
だからこそ、証拠を奪われるわけにはいかない。
「不確かだからこそ、記録します」
俺は言った。
「記録があれば、後で確認できます。記録がなければ、誰かの都合のいい話だけが残る」
マルドゥクは黙った。
笑顔は残っている。
けれど、目の奥に冷たいものが浮かんでいた。
「……あなたの言葉は、民に不安を撒く毒です」
「毒かどうかも、証拠で判断してください」
言い返した瞬間、バルトが小さく笑った。
「お前、ほんと嫌な新人だな」
「褒めてますか」
「半分な」
マルドゥクは、もう笑っていなかった。
だが、すぐにまた穏やかな表情を作る。
「よろしい。ギルドの記録が終わり次第、速やかに神殿へ共有してください。勝手な解釈を添えずに、事実だけを」
「正式な手順で共有します」
ミレイユが答えた。
マルドゥクは俺を見る。
「レン・クゼさん」
「何でしょうか」
「聖女ミコト様の光を疑う者は、いずれ自分自身の影に足を取られます」
穏やかな声だった。
だが、警告にしか聞こえなかった。
「お気をつけください」
そう言い残し、マルドゥクはギルドを出ていった。
扉が閉まる。
その音が消えるまで、誰もすぐには話さなかった。
最初に息を吐いたのは、マーヤだった。
「嫌な男だね」
その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
クララが小さく頷いた。
「笑っているのに、怖かったです」
「怒鳴る奴より面倒だ」
バルトが言った。
「自分は正しいと思ってやがる顔だ」
ミレイユは記録用紙をまとめる。
「湿地の件は、冒険者ギルドの正式調査案件とします」
「いいんですか?」
俺が聞くと、ミレイユは真っ直ぐに頷いた。
「浄化杭の破損、瘴気泥、白銀草の汚染、マッドリーチの異常発生。これだけ揃っているなら、放置はできません」
彼女は俺へ銀貨一枚と銅貨を差し出した。
「調査補助の基本報酬、銀貨一枚。危険区域確認と証拠提出の追加報酬として銅貨二十枚です」
銀貨一枚と銅貨二十枚。
ずしりとした重みが掌に乗る。
クララの弟の薬代に、確かに近づいている。
けれど、まだ足りない。
マーヤがクララを見る。
「これだけあれば、瘴気抜き薬の材料の一部は押さえられる。全部じゃないが、前進だよ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、浄化薬の分まではまだ足りない。だから無理はせず、稼げる時に稼ぎな」
「はい」
クララの顔に、小さな希望が戻った。
ミレイユは俺へ視線を戻す。
「次に確認すべきは、浄化杭の管理記録です」
「神殿の記録ですか」
「はい。どの杭を、誰が、いつ見回ったのか。そこに矛盾があれば、次の手がかりになります」
「神殿は見せてくれるでしょうか」
「簡単にはいかないでしょうね」
ミレイユは少しだけ苦い顔をした。
「マルドゥク様は、かなり警戒しているようです」
「警戒されるようなことはしたつもりです」
「そこは否定しないんですね」
「はい」
ミレイユは困ったように笑った。
「ただ、正式調査案件になった以上、ギルドから照会を出せます。冒険者が勝手に調べるよりは、ずっと安全です」
バルトが腕を組んだまま言う。
「それでも神殿相手だ。面倒になるぞ」
「分かっています」
俺は作業台の上の証拠を見る。
折れた浄化杭。
汚染された白銀草。
神殿のものらしい布片。
それらはまだ、誰かの罪を証明するには足りない。
けれど、何もなかったことにはできない。
無実の人間を罪人にするのも、都合の悪い証拠を消すのも、根は同じだ。
真実を見ないこと。
真実を見せないこと。
なら、俺が見る。
俺が記録する。
俺が証明する。
「次は神殿ですね」
俺が言うと、ミレイユは静かに頷いた。
「慎重にお願いします。神殿は、ギルドよりずっと面倒です」
分かっている。
それでも、進むしかない。
聖女ミコトの名。
壊れた浄化杭。
瘴気に汚染された湿地。
そして、証拠を不浄と呼んだマルドゥク。
まだ線にはならない。
けれど、点は増えている。
なら、次にやることは決まっている。
点と点をつなぐ証拠を探す。
次に向かう場所は、神殿だった。




