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第9話 出立

出発の日が、来た。


 俺は夜明け前の通路を歩いていた。

 息を殺し、足音を消し、影のように壁に沿って進む。

 右手には、護符が二つ。栞から受け取った経路図。乾燥食料と水筒の入った背嚢。

 全てが、この日のために揃えたものだ。


 椿との合流地点は、塔の南西区画にある使われなくなった倉庫。

 そこから壁の裏門へ——統制官の監視が最も手薄な時間帯に、抜ける。


 足が、自然と速くなる。

 奈々の声は、二日前から途絶えていた。

 あの夜以来、何度呼びかけても——返事がない。

 繋がりだけが、かすかに残っている。糸のように細く、今にも切れそうに。


 生きてるのか。

 まだ間に合うのか。

 答えは、行かなければ分からない。


 だから、行く。


 通路の角を曲がった瞬間——。


 足が、止まった。


 目の前に、人影があった。

 薄暗い通路の中央に、黒い影が立っている。

 その姿勢、その威圧感。

 見間違えるはずがなかった。


 「——黒藩」


 名を呼ぶと、統制官がゆっくりと振り返った。

 老いた顔。深く刻まれた皺。だがその目だけが——鋭く、冷たく、俺を射抜いている。


 「やはり、来たか」


 黒藩の声は、静かだった。

 怒りでも軽蔑でもない。ただ、予想通りだったとでも言いたげな——諦めと、何か別の感情が同居していた。


 「……止めに来たのか」


 「止められると思うか」


 黒藩が、一歩近づいた。

 俺は、その場に立ち尽くした。

 逃げることはできる。だが——逃げたくなかった。


 「俺は行く。止める権利は、誰にもない」


 「知っている」


 黒藩の声が、かすかに掠れた。

 老いた統制官の右手が——一瞬だけ、俺の方へ伸びかけて、止まった。

 その指先が、空を掴むように曲がり、ゆっくりと下ろされる。


 「お前を止める手段は、いくらでもある。衛兵を呼べば、お前は拘束される。外征どころか、二度と陽の目を見ることはない」


 「それでも——」


 「だが、私は呼ばない」


 言葉が、途切れた。

 俺は、黒藩の顔を見た。

 老いた統制官の目が——かすかに翳っていた。


 「なぜだ」


 「さあな」


 黒藩が、視線を逸らした。

 その横顔が——一瞬だけ、人間らしく見えた。


 「五十年前、私の父も——同じ目をしていた」


 声が、低くなった。


 「希望に燃えた目だ。壁の向こうに何かがある、誰かを救える、世界を変えられる——そう信じる馬鹿の目だ」


 「……」


 「父は死んだ。希望を抱いたまま、死んだ。そして私は——この塔から希望を取り除くことを選んだ」


 黒藩の目が、再び俺を見た。

 その瞳の奥で、何かが——痛みのように、ちらついていた。


 「お前は、私の選択が間違っていたと証明するつもりか」


 俺は、答えた。


 「分からない」


 隠すつもりもなかった。


 「俺は、正しいかどうかなんて分からない。ただ——待ってる奴がいる。声が聞こえる。だから、行く」


 「それだけか」


 「それだけだ」


 黒藩が、長い息を吐いた。

 それから——ゆっくりと、道を空けた。


 「行け」


 俺は、呼吸が止まった。


 「……いいのか」


 「次に会う時は、秩序の敵として扱う。今夜だけだ。——今夜だけ、私はお前を見なかったことにする」


 黒藩の声には、苦さがあった。

 恐怖で塔を統べてきた男の——最後の矜持のようなものが。

 握りしめていた拳が、ゆっくりと開いていくのが見えた。


 「死ぬなよ、馬鹿者」


 それが、黒藩の最後の言葉だった。

 老いた統制官は、俺に背を向けると、来た道を戻っていった。

 一度だけ——ほんの一瞬だけ、足を止めたように見えた。

 だが、振り返りはしなかった。


 俺は、しばらくその背を見送っていた。

 それから——走り出した。




      ◇




 倉庫には、椿が先に着いていた。


 「遅い」


 硬い声が、俺を迎えた。

 だが——その目には、安堵の色があった。


 「悪い。少し、引き止められた」


 「引き止められた?」


 「黒藩だ」


 椿の眉が、跳ね上がった。


 「統制官に見つかったのか。どうやって——」


 「見逃された」


 「……は?」


 椿が、信じられないという顔をした。

 俺も、うまく説明できないでいた。


 「今夜だけ、見なかったことにする——そう言われた」


 「あの黒藩が?」


 「ああ」


 椿は、しばらく絶句していた。

 それから——小さく首を振った。


 「分からん男だ。恐怖で塔を支配しておきながら、最後にそんなことを」


 「俺も分からない。だが——今は、ありがたく受け取っておく」


 「……そうだな」


 椿が、装備を確認した。

 長剣を腰に佩き、背嚢を背負っている。髪はいつも以上にきつく結い上げられ、頬には戦士の覚悟が浮かんでいた。


 「準備は整っている。経路図は頭に入れた。最初の難所は、壁を出て半日歩いた先の『視るもの』の領域だ」


 「ああ。目を合わせず、走り抜ける」


 「護符は?」


 「二つある」


 「十分だ」


 椿の視線が、俺を捉えた。

 その目が——一瞬だけ、何かを言いかけるように動いた。

 だが、すぐに引き締められる。


 「行くぞ、真。門まで、走るぞ」


 「ああ」


 俺たちは、倉庫を出た。

 まだ暗い通路を、二人で駆け抜けていく。

 足音を殺し、息を詰め、影から影へ。


 塔の壁が近づいてくる。

 あの向こうに——夜の国がある。




      ◇




 裏門は、錆びた鉄の扉だった。


 百年前の外征以来、使われていない。

 栞の調べた記録では、ここだけが監視の死角になっている。

 地脈の護りも、この一点だけは薄い。


 椿が、扉に手をかけた。

 重い金属の軋みが、闇に響く。


 「開くか」


 「……開く。だが、音が出る。急げ」


 錆びついた蝶番が悲鳴を上げた。

 俺と椿は、細い隙間から外へ滑り出た。


 そして——。


 息が、凍った。


 壁の外の世界が、目の前に広がっていた。


 闇。

 永遠の、闇。

 空には星も月もなく、ただ黒い虚無が果てしなく続いている。

 地面は灰色の砂と岩で覆われ、生き物の気配は——何もない。


 いや、違う。

 気配がないのではない。

 あまりにも異質すぎて、俺の感覚が拒絶しているのだ。


 音がなかった。

 風の音も、虫の声も、何もない。

 静寂が、圧力のように肌を押してくる。

 空気が冷たい。肺に入ると、喉の奥が焼けるような冷たさだった。

 微かに——何かが腐ったような、甘い匂いがする。生き物が朽ちた匂い。


 夜の国。

 人類が決して出ない壁の外。

 化け物だらけの、死の世界。


 椿が、隣で息を止めていた。


 「これが……」


 声が裏返った。

 あの凛々しい椿の声が。


 俺は、右手を握りしめた。

 光の刃を呼び起こす準備。

 だが——今は、まだ使わない。力は温存しなければ。


 「行くぞ」


 声に出した。

 自分に言い聞かせるように。椿に呼びかけるように。


 「ここからが、本当の始まりだ」


 椿が、深く息を吸った。

 それから——頷いた。


 「ああ。……行こう」


 俺たちは、扉を閉めた。

 振り返れば、塔の壁がそびえている。

 あの向こうには、黙老がいる。栞がいる。塔の人々がいる。


 そして——その先のさらに向こう、夜の国の只中に。

 奈々がいる。


 俺は、前を向いた。

 足を踏み出した。


 闇の中へ。

 一歩。

 また一歩。


 壁から離れるごとに、空気が変わっていく。

 重い。冷たい。生きていることを、拒むような。


 それでも、歩く。

 走る。

 止まらない。


 どれくらい進んだのか。

 空に変化はない。永遠の夜だ。時間の感覚が狂っていく。


 椿が、俺の隣を走っている。

 息が荒い。だが、足は止まらない。


 「真」


 椿の声が、俺を呼んだ。


 「……何だ」


 「少し、休もう。このままでは保たない」


 視線を巡らせた。

 少し先に、岩の陰がある。身を隠せそうな窪み。


 「……分かった。あそこで」


 俺たちは、岩陰に滑り込んだ。

 背を岩に預け、荒い呼吸を整える。


 水筒から一口。乾いた喉に、水が染みる。

 椿も同じように水を含み、それから——俺の方を見た。


 「真」


 「何だ」


 「……聞いていいか」


 椿の声が、いつもと違った。

 硬さが取れて——どこか、脆い。


 「何を」


 「その——あの声の主。お前が助けに行く相手」


 「奈々のことか」


 「……ああ」


 椿が、岩肌に視線を落とした。

 言葉を探すように間を置いた。


 「お前にとって、どういう存在なんだ」


 俺は、少し考えた。

 どう答えるべきか。いや——素直に言うしかない。


 「分からない」


 「分からない?」


 「会ったこともない。声しか知らない。でも——」


 言葉が詰まった。

 どう説明すればいいのか、自分でも分からない感情だ。


 「俺には、奈々の声が聞こえた。この塔で——俺だけに。なぜか分からない。でも、聞こえた以上——応えなきゃいけないと思った」


 「……」


 「前世で、俺は——守れなかった。誰かを。顔も思い出せない誰かを。だから今度こそ——そう思ってる」


 椿の視線が、俺を捉えた。

 その目に——複雑な感情が渦巻いていた。


 「お前は、救いようのない奴だな」


 「否定はしないよ」


 「声しか知らない相手のために、命を懸けるなんて」


 「そうだな」


 「私は——」


 椿が、言葉を切った。

 俺を見つめたまま、何かを飲み込むように喉が動いた。


 「私も、懲りない奴だな」


 「……え?」


 「お前と一緒にここにいるということは——私も、同じくらい懲りないということだ」


 椿の口元が、かすかに緩んだ。

 笑っている——のか?

 いや、泣きそうな顔にも見える。


 「椿」


 「何だ」


 「なんで——俺と一緒に来た」


 「あの時、覚悟は決めた。もう迷わないと」


 「それだけか」


 椿の耳が、赤くなった。

 暗がりの中でも分かるほど、はっきりと。


 「……それ以上は、聞くな」


 「聞きたい」


 「聞くなと言っている」


 椿の声に、力がこもらなかった。

 強がりで覆い隠そうとして——隠しきれていない。


 俺は、黙った。

 椿も、黙った。

 岩陰に、沈黙が落ちた。


 しばらくして——椿が、口を開いた。


 「……幼い頃、家族を失った」


 「え」


 「外征ではない。塔の中だ。病で——父と母が。私だけが、残った」


 椿の目が、遠くを見ていた。

 闇の向こうの、どこか。


 「それから、私は強くなろうとした。もう誰も失わないために。武を磨き、隊に入り——それでも」


 声が、わずかに途切れた。


 「それでも、仲間は死んだ。外征で。私の目の前で。私は——また、守れなかった」


 「……椿」


 「だから、お前を見た時——思ったんだ」


 椿の視線が、俺を射抜いた。

 その目が、濡れていた。


 「こいつは、私と同じだって」


 「同じ?」


 「守れなかった過去を持っている。それでも——守ろうとしている。自分を削ってでも、誰かのために前に出ようとしている」


 椿の声が、途切れた。


 「私は——そういう奴を、放っておけないんだ」


 俺は、言葉を失った。

 椿の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。

 武人の鎧が、少しだけ——緩んでいた。


 「椿」


 「何だ」


 俺は、手を伸ばした。

 椿の手を、握った。


 椿の喉の奥が詰まった。

 俺の手を見て——それから、俺の顔を見て。

 視線が泳いでいた。


 「な——何をして」


 「ありがとう」


 「は?」


 「一緒に来てくれて。俺に付き合ってくれて」


 椿の目が、大きく見開かれた。

 それから——視線が、逸れた。


 「べ、別に。礼を言われるようなことは——」


 「俺一人じゃ、ここまで来れなかった」


 「そんなことは——」


 「怖かったんだ」


 椿の言葉が、止まった。


 「一人で行くのが、怖かった。手が震えてる。……でも、お前がいるから——」


 俺は、椿の手を強く握った。


 「——俺は、ここにいる」


 椿が、俺を見つめていた。

 その瞳に——熱が、宿っていた。

 戸惑い? 動揺? いや、違う。


 もっと——熱い、何か。


 「……真」


 椿の声が、小さくなった。


 「お前は——本当に——」


 言葉が、途切れた。

 俺たちの間の距離が——いつの間にか、縮まっていた。


 椿の顔が、近い。

 吐息が、触れる距離。

 岩陰の闇の中で——椿の瞳だけが、光っていた。


 俺は、動けなかった。

 椿も、動かなかった。

 時間が、止まったように——。


 「……真」


 椿が、囁いた。

 それから——。


 椿の唇が、俺の唇に触れた。


 一瞬だった。

 かすかな、触れるだけの——。

 でも、確かに。

 椿の唇が、微かに震えていた。


 椿がすぐに離れた。

 だが——顔を背けなかった。

 俺の目を見たまま、荒い息を吐いている。

 耳だけでなく、首筋まで赤みが広がっていた。


 「……忘れろ」


 絞り出すような声。


 「今のは——その——勢いで——」


 「椿」


 「忘れろと言っている!」


 椿が、立ち上がろうとした。

 俺は、その手を——離さなかった。


 「離せ、真——」


 「離さない」


 椿の動きが、止まった。


 「俺も——同じだ」


 椿が、振り返った。

 その目が——驚きで、見開かれていた。


 「お前が一緒にいてくれて——嬉しかった。ずっと」


 「……」


 「奈々のことは——分からない。会ったこともない。運命とか、前世とか——そんなの、正直よく分からない」


 俺は、椿の手を握ったまま、言った。


 「でも——お前のことは、分かる」


 椿の呼吸が、止まった。


 「お前が強いこと。お前が優しいこと。お前が——俺のために、ここにいてくれること」


 「真——」


 「だから——忘れない」


 俺は、椿の手を引いた。

 椿が、俺の胸に——倒れ込んできた。


 抱きしめた。

 強く。

 鎧越しに、椿の心臓の音が伝わってきた。

 速い。俺と、同じくらい速い。

 椿の体が、小さく身を竦めていた。


 「……真」


 椿の声が、俺の胸に吸い込まれた。


 「……嘘だろ」


 かすれた声が、繰り返された。

 俺は、椿の背を撫でた。

 何も言わなかった。


 しばらく、そうしていた。

 岩陰の闇の中で——二人で。


 椿の体温が、伝わってくる。

 鎧の隙間から、熱が滲んでいる。

 髪が俺の顎に触れて、かすかに揺れていた。

 吐息が、首筋にかかる。


 やがて、椿が顔を上げた。

 涙の跡が、頬に残っている。

 でも——もう、泣いてはいなかった。


 「……行こう」


 椿が、言った。

 その目には——覚悟があった。

 背中を任せられる目だった。


 「夜の国へ——奈々を、迎えに」


 俺は、頷いた。


 「ああ」


 俺たちは、立ち上がった。

 岩陰を出て、再び闇の中へ。


 椿の手が——まだ、俺の手を握っていた。

 離さなかった。

 俺も、離さなかった。


 夜の国の闇は、どこまでも続いている。

 だが——もう、一人じゃない。




      ◇




 どれほど歩いただろう。


 空は変わらず暗い。

 時間の感覚が、溶けていく。


 地形が変わり始めた。

 平坦な荒野から、起伏のある岩場へ。

 栞の経路図によれば——この先に、最初の難所がある。


 「視るもの」の領域。


 俺たちは、足を緩めた。


 遠くに——何かがある。

 巨大な、何か。

 山のような影が、闇の中に佇んでいる。


 動いていない。

 音もない。

 ただ——そこに、在る。


 だが、近づくべきではない。

 本能が、そう告げている。

 あれに近づいてはいけない。

 見つめてはいけない。


 「……あれが」


 椿が、息を詰めていた。


 「視るもの——か」


 「まだ遠い。迂回する」


 俺は、低く言った。


 「経路図では、西側に抜け道がある。そこを通れば、あの領域を避けられる」


 「分かった」


 椿の返事は、揺るぎなかった。

 怖い。俺も椿も、怖い。

 でも、足は止まらない。


 俺たちは、進路を変えた。

 巨大な影を遠くに見ながら、西へ。

 視線を合わせないように。目を伏せて。


 闇は果てしなく続いている。

 その先に——何が待っているのか、分からない。

 恐怖は、消えない。


 でも、足は止まらない。


 奈々が、待っている。

 声は途絶えても——俺には、分かる。

 あの子は、まだ生きている。


 俺が——行くまで。


 闇の中を、歩き続ける。

 椿の手が、俺の手を握っている。

 二人の足音だけが、静寂を破っていた。


 夜の国の闇は、どこまでも深い。

 だが——その奥に、奈々がいる。

 俺たちは、止まらない。



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(第09話 了)

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