第8話 消えゆく声
椿と握手を交わしたあの夜から、三日が経った。
その間——奈々の声が、弱まっていた。
毎夜の交信を重ねるうちに、俺はそれを確信せざるを得なくなった。
最初は気のせいだと思った。疲れているだけだ、と。
だが、日を追うごとに——その予感は、確信に変わった。
——真さん。
声が、遠い。
昨夜より、さらに遠い。
壁一枚隔てた場所から呼びかけられているはずなのに、その声は——何百里も離れた場所から、風に乗って届くかすかな囁きのようだった。
——奈々。
俺は寝台に横たわったまま、必死に念じた。
意識を集中する。右手に、かすかな熱。
テレパシーの繋がりが、細く——細く——引き伸ばされている。
——聞こえてるか。
返事がない。
繋がりだけが、頼りなく揺れている。
心臓が跳ねた。
——……聞こえて、います。
声が届いた。
だが——ほとんど、消えかかっている。
——声が、弱い。
——……ごめん、なさい。
奈々の声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
——灯ノ塔の、地脈が……もう、ほとんど……
言葉が途切れた。
俺は、歯を食いしばった。
——何があった。
——……壁が、破られました。
呼吸が止まった。
——昨夜、夜の住人の群れが……結界の隙間から。三人、死にました。わたしたちは、もう……二十人を切っています。
声が震えていた。
健気に振る舞おうとしている。それが分かるから——余計に、胸の奥が軋む。
——奈々。
——はい。
——俺は、行く。
繋がりが揺れた。
それから——。
——……分かって、います。
囁きが頭の中を通り過ぎていく。
——でも、真さん。無理は——
——無理をしなきゃ、間に合わないんだ。
俺は、強く念じた。
——黒藩が何と言おうが、俺は行く。椿と一緒に、出発の準備を進めてる。もう少し待ってくれ。
——……はい。
——俺が行くまで、生きてろ。
声が、震えた。
自分の声が——情けないほど、震えていた。
——約束しろ。
繋がりが、薄れていく。
——……約束、します。
その声は、夢の底から立ち昇るように——かすかで、儚かった。
——真さん。
——なんだ。
——あなたの声が、聞こえている間は……わたしは、大丈夫です。
繋がりが、途切れた。
◇
翌日。
俺は黙老の部屋を訪れた。
塔の最深部。
誰も近寄らない、記録庫のさらに奥。
黙老は、その薄暗い部屋の中央に座していた。
「来たか、真よ」
俺の気配を察したように、黙老が口を開いた。
視力の衰えた目が、それでも俺を正確に捉えている。
「……話がある」
「分かっておる」
黙老は、ゆっくりと頷いた。
「灯ノ塔の声が、途絶えかけておるのじゃろう」
俺は、息を呑んだ。
「……分かるのか」
「儂にも、かつては聞こえた」
黙老の声が、囁きに近づいた。
「遠く、遠くから届く心の声。地脈を通じて響く、魂の囁き。——お主が聴いておる声は、儂にも覚えがある」
「黙老も——」
「昔のことじゃ」
黙老が、小さく首を振った。
「今は——聞こえぬ。儂の耳には、もう届かぬ。だが、お主には届いておる。それが、予言の証じゃ」
「予言」
俺は、一歩近づいた。
「黙老。あの予言のことを、もっと教えてくれ。『要塞に生まれし異なる魂が、夜を殺す』——俺が、その異なる魂だって言うんなら、俺は何をすればいい」
黙老は、しばらく沈黙した。
それから——ゆっくりと、口を開いた。
「真よ。お主は、なぜ自分だけが夜の国の怪物を殺せるのか、考えたことはあるか」
「……考えた」
「答えは出たか」
「……出ていない」
正直に答えた。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
俺は転生者だ。前世の記憶がある。だが——それだけで、なぜ怪物を殺せる力が宿るのか。説明がつかない。
知りたい。
同時に——知るのが怖い。
だが、聞かずにはいられなかった。
黙老が、かすかに笑った。
「それでよい。答えが出ぬのは、まだ——お主が見るべきものを見ておらぬからじゃ」
「見るべきもの?」
「夜の国じゃ」
黙老の声が、重みを増した。
「お主は、壁の外を知らぬ。壁の外に何があるのか、何が待っているのか——まだ、見ておらぬ」
「……そうだ」
「見れば、分かる」
黙老が、ゆっくりと手を挙げた。
痩せた指が、俺の方を指す。
「お主がなぜ転生したのか。なぜこの塔に生まれたのか。なぜお主だけが戦えるのか。——その答えは、夜の国の奥にある」
「夜の国の、奥」
「沈黙の国じゃ」
黙老が、息を詰めるように間を置いた。
「世界が——なぜ、壁に閉ざされたか。お主は、知りたくはないか」
背筋が、冷えた。
世界が、閉ざされた。
その言葉が——なぜか、胸の奥を抉った。
「……知りたい」
「ならば、行け」
黙老の声には、悲しみと希望が——同時に滲んでいた。
「灯ノ塔へ行け。その先に、答えがある」
黙老は、それ以上は言わなかった。
ただ、老いた目が——遠くを見るように、細められた。
壁が守っているのは——本当に、人類なのか。
そんな問いが、頭の片隅を掠めた。だが、今は——答えを追うより、先にやることがある。
◇
記録庫に向かった。
栞は、いつもの場所にいた。
古い文献に囲まれた、薄暗い部屋の奥。
灰銀の髪が、燭台の灯に照らされて揺れている。
「……栞」
声をかけると、栞がゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、俺を捉える。
「あなた」
短い声。
けれど——そこに、拒絶はなかった。
「灯ノ塔への経路を、調べてくれたんだろう」
「……はい」
栞が、机の上の紙束を手に取った。
「南西。片道十日以上。途中に——『視るもの』の領域を越えなければなりません」
「視るもの」
「巨大な、静止した怪物です」
栞が、声を落とした。
「人を見つめ続ける。それだけ。攻撃はしない。けれど——見つめられた者は、戻ってこない。記録によれば、精神を奪われるそうです」
「精神を——」
「見つめ返してはいけません。目を伏せ、走り抜けるしかない」
栞が、紙束を俺に差し出した。
「これが、経路図です。古い記録から、再現しました。正確かどうかは——分かりません。百年前の外征隊の報告を元にしています」
俺は、その紙束を受け取った。
手書きの地図。地形の説明。怪物の分布予測。水場の位置。
「……ここまで調べてくれたのか」
「あなたが、行くと言ったから」
栞の声が、静かだった。
「わたしには、戦う力はありません。剣も振れない。走ることもできない。——でも、知識なら、あります」
「栞」
「これが、わたしにできる全てです」
栞が、俺の目を見た。
その瞳には——信頼が、あった。
「怪物の弱点も、調べました。視るものは、光に弱い。地脈の余熱を使えば——数秒だけ、隙ができます。その間に、走り抜けてください」
「地脈の余熱?」
「護符です」
栞が、机の引き出しから——小さな護符を取り出した。
黙老から授かったものと、似ている。
「黙老さまから預かりました。あなたに渡すようにと」
「黙老が——」
「黙老さまは、あなたが行くことを——ずっと前から、知っていたのかもしれません」
栞の声には、どこか諦めと希望が入り混じっていた。
「無事を、見届けさせてください」
俺は、護符を受け取った。
黙老からの護符と合わせて——二つ。
右のポケットに、重みが増えた。
「……必ず、帰ってくる」
「はい」
栞が、小さく微笑んだ。
その笑顔は——控えめで、けれど温かかった。
「あなたなら、できると思います」
◇
夕刻。
訓練場で、椿が待っていた。
「遅かったな」
硬い声。
けれど——その目には、俺を責める色はなかった。
「黙老と栞に会ってきた」
「そうか」
椿が、剣を構えた。
「情報は得られたか」
「経路図と、怪物の弱点。護符も——二つになった」
「上出来だ」
椿の口元が、ふっと緩んだ。
「私も、準備を進めている。食料、水、装備。最低限の荷物で——十日分」
「十日か」
「片道だ」
椿の声が、鋭くなった。
「帰りは——生きて戻れたら、考える」
俺は、木刀を構えた。
「……覚悟は、できてるんだな」
「できている」
椿が、一歩踏み込んだ。
剣が、俺の首筋に迫る——寸前で止まった。
「私は、もう待っているだけは嫌だと言っただろう」
「そうだな」
「今度は——私も、行く」
剣が下がった。
椿の目が、俺を捉えた。
「真。お前に聞きたいことがある」
「何だ」
「黙老は——何と言った」
俺は、少し迷った。
一拍置いて、正直に答えた。
「世界が閉じた理由……その答えは、夜の国の奥にあると」
椿の眉が、かすかに動いた。
「夜の国の、奥?」
「沈黙の国だと、黙老は言っていた。壁が——何のために築かれたのか。その真実が、そこにあるらしい」
間が空いた。
椿は、しばらく黙っていた。
「……私も、聞いたことがある」
押し殺した声。
「幼い頃——古参の兵士から、言われたことがある。『壁の向こうには、知ってはいけないものがある』と」
「知っては、いけないもの」
「分からない。それ以上は、教えてもらえなかった」
椿が、剣を鞘に収めた。
「だが——私たちは、見に行く」
「ああ」
「知ってはいけないものを——知りに行く」
椿の目が、俺を見た。
その瞳には——覚悟があった。
「怖くないのか」
「怖い」
俺は、正直に答えた。
「怖いに決まってる。でも——行かなきゃ、奈々が死ぬ。俺は、それが耐えられない」
椿が、小さく息を吐いた。
それから——ほんの少し、笑った。
「……無茶な奴だ」
「自覚はある」
「だが——悪くない」
椿が、背を向けた。
「明日、黙老に最後の確認をする。栞にも、追加の情報がないか聞いておく」
「頼む」
「準備は——明後日には整う」
椿が、肩越しに振り返った。
その耳が——赤みを帯びている。
「……真」
「何だ」
「生きて、帰るぞ」
短い言葉だった。
けれど——その声には、祈りのような響きがあった。
そこへ——廊下から足音が響いた。
栞だった。
手に、追加の紙束を抱えている。
「追加の情報が見つかりました。大斜面の地形と、視るものが複数出現した過去の記録です。今夜中に纏めます」
「……助かる」
俺と椿は、顔を見合わせた。
黙老。栞。椿。
統制官の禁を破ろうとしている俺に——味方が、三人。
少しずつ、何かが動き始めている。
◇
その夜。
俺は再び、奈々を呼んだ。
——奈々。
返事が来るまでの間が——昨夜より、さらに長かった。
——……しん、さん。
声が、途切れ途切れだった。
嵐の中で交わされる叫びのように——かすかで、不安定で、今にも消えそうだった。
——聞こえるか。
——……きこえ、て……
繋がりが、揺れている。
細い糸のように——張り詰めて、今にも切れそうだった。
——奈々。俺は、行く。明後日には出発する。
何も聞こえない。
繋がりだけが、頼りなく震えている。
——……ほん、とう?
——仲間もいる。椿っていう、強い戦士だ。二人で行く。
——……よかった。
奈々の声に——安堵が滲んでいた。
けれど、その安堵が——儚すぎて、喉の奥が詰まる。
——奈々。
——はい。
——生きてろ。
繋がりが、さらに薄れていく。
奈々の声が——消えていく。
——……むり、は……しない、で……
それが、最後だった。
声が——途絶えた。
俺は、寝台に横たわったまま、天井を見上げた。
胸の奥が、鈍く疼いている。
奈々の声が、消えていく。
灯ノ塔が、滅びていく。
時間が——ない。
俺は、体を起こした。
部屋の隅に置いてある装備を、確認した。
栞から受け取った経路図。護符。水筒。乾燥食料。予備の刃。
明後日。
統制官に見つからないよう、壁を越える。
椿と二人で——夜の国へ。
俺は、右手を見た。
光の刃。
制御できない力。暴走する力。数回で枯渇する力。
それでも——俺だけが、怪物を殺せる。
「……行くしかない」
声に出して、言った。
自分に——言い聞かせた。
窓のない壁を見つめる。
その向こうの闇に——奈々がいる。
声が届かなくなっても、俺は行く。
装備を纏め直して、寝台に戻った。
明後日のために——今夜は、眠らなければ。
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(第08話 了)
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