第7話 外征の禁
黒藩の執務室に立った瞬間、息が詰まった。
灰色の壁に囲まれた、窓のない部屋。
空気そのものが重い。呼吸するたび、肺の底に鉄錆が溜まっていく気がした。
この部屋に来る前、黙老に相談した。
答えはひとつ——「まずは正面から当たれ。それで相手の出方が分かる」
だから俺は、統制官の前に立っている。
「用件は聞いた」
黒藩は机の向こうで、書類から顔も上げなかった。
乾いた声が、壁に反響する。
「外征の許可を求める、と」
「……ああ」
俺は立ったまま、黒藩を見下ろした。
いや——姿勢だけの話だ。この男の前にいると、自分がひどく小さくなる。見下ろしているはずなのに、見上げられている気がした。
「灯ノ塔の地脈が急激に弱まっている。観測班の報告は、統制官も——」
「却下する」
言葉が切り落とされた。
壁に当たって、そのまま床に落ちる音がした気がした。
黒藩がようやく顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、俺を捉える。感情を凍らせた目だ。氷よりも、もっと冷たい。
「滅びかけた小要塞のために、この塔で唯一夜の国の怪物を殺せる者を、危険に晒す?」
「灯ノ塔には三十人近い人間が——」
「では聞こう」
黒藩が立ち上がった。
長身の影が、俺に覆いかぶさる。
「先月の外征隊。十五人で出て、何人が戻った」
「……三人」
「一昨年の調査隊。三十人で出て、何人が戻った」
喉が詰まった。
記録庫で見た数字が、頭の中で蘇る。
「……七人」
「五年前の大外征。百人規模の決死隊だ。何人が帰還した」
「……十三人」
「十三人だ」
黒藩の声には、怒りすらなかった。
ただ、冷たく事実を並べている。
「壁の外へ出た者は、死ぬ。数字が証明している。そしてお前は、その数字の外にいる唯一の例外だ」
「だったら、俺が行けば——」
「例外が消えれば、この塔は終わる」
黒藩が一歩、近づいた。
「お前は壁の護りの最後の砦だ。地脈が枯れ、結界が薄れた時、怪物を殺せる者がいなければ——終ノ塔の百万は、灯ノ塔の三十人より先に滅ぶ」
論理だ。
冷徹な、正しい論理だ。
言葉の意味は、理解できる。
だが——。
「俺は、あの声を聞いたんだ」
「声?」
「灯ノ塔から。毎夜——テレパシーで」
黒藩の眉が、僅かに動いた。
「彼女は——奈々という少女は、滅びの中で、それでも諦めないでいる。みんなを励まし続けている。最後の最後まで、希望を捨てないでいる」
声が震えた。
止められなかった。
「そんな奴を、見捨てろって言うのか。このまま壁の中で怯えていれば、いつか助けが来る? 来ない。誰も行かなければ、彼女たちは——」
「黙れ」
黒藩の声が、俺の言葉を遮った。
静かだった。
怒っているのではない。冷徹に、事実を述べているだけの声だった。
「お前は分かっていない」
「何を——」
「なぜこの塔が今日まで生き延びたか、だ」
黒藩が俺の目を見た。
「希望を抱いた者から、死んでいった」
言葉が、胸に突き刺さった。
「外へ出れば何かが変わる。壁の向こうには救いがある。そう信じた者たちが、隊を組み、壁を越え——一人また一人と、闇に呑まれた」
黒藩の声に、何かが滲んでいた。
怒りでも嘲りでもない。
もっと——古い何か。
「五十年前、私の父がそうだった」
背筋が、こわばった。
「外征隊の隊長として出発し、二度と戻らなかった。私は十二の時、父の遺品すら受け取れなかった。体は、闇の奥で消えた」
「……」
「希望は、人を殺す」
黒藩の目が、俺を射抜いた。
「だから私は、この塔から希望を取り除いた。外への夢を断ち、恐怖で人々を壁の内に留めた。それが——唯一、この塔を生かし続ける方法だからだ」
何も言い返せなかった。
反論の糸口さえ、掴めなかった。
黒藩は、父親を亡くしている。
希望を抱いて壁の外へ出た父を。
その痛みが——この男の、冷たい論理を支えている。
「……それでも」
声を絞り出した。
「俺は行く。灯ノ塔には、時間がない」
「ならば、私がお前を止める」
黒藩の声に、揺らぎはなかった。
「お前が無断で壁を越えようとすれば、私は衛兵を動かし、お前を拘束する。必要とあれば、力ずくで」
「……できるのか」
「やってみるか?」
黒藩の目が、細まった。
「救世主の力がどれほどのものか、私は把握している。暴走する。枯渇する。制御できない。塔の人間を二、三人傷つけることは可能だろうが——その後、お前は孤立する」
言葉が、喉に詰まった。
「異端児が衛兵を傷つけた。それだけで、お前は塔の敵になる。黙老も栞も、お前を庇いきれなくなる。そうなれば——」
「……分かった」
俺は、奥歯を噛みしめた。
「この場では、引き下がる」
「賢明だ」
「だが——」
俺は、黒藩の目を見た。
「俺は諦めない。どんな手を使っても、灯ノ塔へ行く方法を見つける」
「脅しのつもりか」
「事実だ」
黒藩の目が、僅かに揺れた。
それは——嘲りではなかった。
もっと複雑な何かが、奥に潜んでいる気がした。
「……面白い」
その声は、低かった。
「お前は、父に似ているな」
言葉の意味を問い返す間もなく、黒藩は背を向けた。
「行け。話は終わりだ」
俺は扉へ向かった。
背後で、扉が閉まる音がした。
◇
廊下を歩いた。
黒藩の声が、頭の中で反響している。
——希望は、人を殺す。
——お前は、父に似ている。
拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。じくじくと、痛む。
分かっていた。
黒藩を説得するのが、簡単ではないことくらい。
けれど——父親を失った男の、あの目。
俺を見ていたのは、憎しみだけじゃなかった。
もっと——複雑な何かだった。
壁にもたれかかった。
呼吸が荒い。視界が滲む。
怒りなのか、悔しさなのか、分からない。
廊下を歩く人々が、俺を避けていく。
視線を逸らす者。囁き合う者。足早に通り過ぎる者。
「……救世主だって」
「異端児でしょ。化け物と同じなんじゃないの」
「近寄らない方がいいわよ」
声が、耳に入る。
俺は——この塔の中で、孤立している。
奈々が、待っている。
灯ノ塔が、滅びかけている。
なのに——俺は、何もできない。
◇
どのくらい、そうしていただろう。
足音が聞こえた。
顔を上げると、一人の女が歩いてくるのが見えた。
黒髪を結い上げ、背筋を伸ばした長身の女。
終ノ塔の防衛隊の制式装備を纏い、腰には細身の剣を佩いている。
凛とした、切れ長の目。
姿勢が良く、立ち姿が美しい。
だが——どこか、近寄りがたい雰囲気がある。
同期だ。
椿。
防衛隊の訓練で、何度か顔を合わせたことがある。
言葉を交わしたことは、ほとんどない。
俺は異端児で、彼女は隊の中でも指折りの武の名手。
接点など、あるはずもなかった。
椿は俺の前で足を止めた。
「……壁にもたれて、廊下を塞いでいる」
声は、素っ気なかった。
「通行の邪魔だ、真」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
この塔で、俺を名前で呼ぶ者は少ない。
「……悪い」
俺は体を起こした。
椿は、俺の顔をじっと見た。
「統制官に会ってきたな」
「……分かるのか」
「顔に書いてある」
椿の口元が、僅かに歪んだ。
笑みには見えない。ただ、何かを確認するような表情だった。
「断られたんだろう。外征の許可」
「……ああ」
否定する理由もなかった。
「噂になっている。救世主が、外の小要塞を助けに行こうとしていると」
「救世主、か」
俺は苦く笑った。
「その救世主は、外に出る許可すらもらえないらしいけどな」
椿は何も言わなかった。
ただ、俺の顔を見ている。
居心地が悪くなって、視線を逸らそうとした——その時だった。
「私も、出たいと思っていた」
言葉が、俺の口を塞いだ。
「……何?」
「外だ。壁の外」
椿の声には、感情が滲んでいなかった。
ただ、事実を述べているだけのような、平坦な声。
「この塔にいると、息が詰まる。壁の内側で怯えて、恐怖に縛られて、それが当たり前になっている」
椿が、窓のない壁の方へ視線を向けた。
窓がないのに——その向こうを、見ている目だった。
「私には、それが耐えられない」
俺は、椿を見た。
「……お前も、外に出たいのか」
「出たい、というより——確かめたいと言うべきか」
椿の声が、低くなった。
「守れなかった人間がいる」
言葉が、静かに落ちた。
「外征に出た者たちだ。私がもっと強ければ——もっと早く、壁の外で戦えていれば——あの人たちは死なずに済んだかもしれない」
「……椿」
「だから私は、強くなるために訓練してきた。いつか壁の外で戦えるようになるために」
椿が、俺を見た。
その目には——共感のような光があった。
「真。お前も、そうなのではないか」
俺は、何も言えなかった。
肯定も否定も、できなかった。
椿は、俺から目を逸らした。
「お前のことは、聞いている。怪物を傷つけた。光の刃を持っている。異端児と呼ばれ、救世主とも呼ばれている」
「……ああ」
「お前は——どちらだと思う」
「どちらでもない」
答えは、勝手に口から出た。
「俺は、ただ——守りたい人がいるだけだ」
椿が、ふいにこちらを見た。
一瞬、その目が揺れた気がした。
「……そうか」
短く言って、椿は視線を逸らした。
その耳が——僅かに、赤くなっているように見えた。
「お前の覚悟は、本物のようだな」
「覚悟?」
「許可が出なくても、行くつもりなのだろう。壁の外へ」
俺は、否定しなかった。
椿の表情が、僅かに緩んだ。
今度は——笑みに見えた。
「馬鹿なやつだ」
「……自覚はある」
「けれど——嫌いではない」
椿が、踵を返した。
「私は、訓練場へ行く。お前も、来るか」
「……訓練?」
「壁の外へ出るつもりなら、鍛えておいて損はない。お前の力——光の刃、だったか。制御が難しいと聞いている」
俺は、椿の背中を見た。
「なぜ、俺に」
椿が、肩越しに振り返った。
その耳は、まだ赤い。
「……さあな」
そう言って、椿は歩き出した。
俺は——少し迷って、その後を追った。
◇
訓練場は、いつものように静かだった。
椿は、訓練場の隅に立ち、腰の剣を抜いた。
「見せてみろ。お前の力」
俺は、木刀を手に取った。
「……暴走するかもしれない」
「構わない。私が止める」
椿の声には、自信があった。
虚勢ではない。実力に裏打ちされた、静かな確信。
俺は、木刀を構えた。
意識を集中する。
右手に——熱を。光を。
「——っ」
光が、木刀の先端から弾けた。
白い刃が、宙に伸びる。
——やはり、安定しない。
光が明滅し、形が歪む。
「制御が難しそうだな」
椿の声が、冷静に響いた。
「力を出すことはできる。けれど、維持ができない——そういうことか」
「……ああ」
俺は光を消した。
膝が、僅かに震えている。
情けない。この程度で、限界が来る。
「数回で、力が尽きる。それに、暴走すると——周りを傷つける」
「厄介だな」
椿が、剣を構えた。
「けれど、使い物にならないわけではない。要は——一撃で決めればいい」
「一撃?」
「お前の力は、瞬発力に特化している。だったら、その瞬発力を活かせばいい。長く戦うのではなく、一瞬で敵を仕留める」
椿が、一歩踏み込んだ。
剣が、俺の喉元を捉える——寸前で止まった。
「こういう風に、だ」
反応が、できなかった。
見えなかった。踏み込みも、斬撃も、何も。
これが——椿の実力。
俺とは、次元が違う。
「お前は——強いな」
「強くならなければ、守れないからな」
椿が、剣を下ろした。
「私が、基本を教える。お前の力を、どう活かすか。一撃で決めるための、剣の振り方。体の動かし方」
「……なぜ、そこまで」
言いかけて、やめた。
同じことを聞いても、きっと答えは返ってこない。
椿は、少し黙った。
それから、低い声で言った。
「昔、私は見ているしかできなかった」
俺を見ずに、椿は続けた。
「外征に出た仲間たちが、壁の向こうで死んでいった。私は——塔の中で、ただ待っていた。強くなりたいと思いながら、何もできなかった」
「……」
「お前は、一人で行こうとしている。許可もなく、仲間もなく」
椿が、俺へ視線を移した。
その目には——痛みがあった。
「馬鹿だと思う。無謀だと思う」
「……ああ」
「それでも——お前の覚悟を、頭ごなしに否定する気にはなれない」
俺は、椿を見返した。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
椿が、剣を構えた。
「まずは、基本からだ。お前の体の動きは、素人丸出しだ。そのままでは、壁の外で三歩も歩けない」
「……手厳しいな」
「事実だ」
椿の口元が、僅かに緩んだ。
その瞬間——凛々しい武人の顔が、少しだけ幼く見えた。
「生き残りたいなら、私の言うことを聞け。いいな、真」
俺は、木刀を構え直した。
「分かった。教えてくれ」
◇
訓練は、地獄だった。
椿の指導は、容赦がなかった。
構えが崩れれば、即座に指摘される。
足の運びが遅ければ、木刀で叩かれる。
呼吸が乱れれば、やり直し。
「足が止まっている。動け」
「右肩が上がっている。力を抜け」
「目線が下がっている。相手を見ろ」
汗が、全身から噴き出した。
呼吸が荒い。視界が霞む。
それでも——止まるわけにはいかない。
椿の動きを目で追うたび、自分の弱さを思い知らされる。
彼女は、いくらでも俺を倒せる。いくらでも、傷つけられる。
その実力差を見せつけられながら——それでも、手を抜かずに教えてくれている。
「……っ」
木刀を振った。
渾身の一撃。
椿が、軽く体を傾けた。
俺の斬撃が、空を切る。
「遅い。そして——読みやすい」
椿の剣が、俺の胸を打った。
軽い一撃。それでも足がもつれて、俺は尻餅をついた。
「……くそ」
椿が、剣を下ろした。
「今日はここまでだ。明日も来い」
「……ああ」
俺は、立ち上がった。
全身が痛い。息が上がっている。
それでも——。
「椿」
「何だ」
「ありがとう」
椿は、少し黙った。
それから、背を向けた。
「……明日。同じ時間に」
その声は、素っ気なかった。
けれど——どこか、柔らかかった。
「分かった」
俺は、椿の背中を見送った。
◇
その夜。
俺は、寝台に横たわり、奈々を呼んだ。
——奈々。
返事が来るまでの間が、いつもより長く感じた。
——真さん。
声が届いた。
いつもより——少し、弱い気がする。
——今日は、どうでしたか。
俺は、少し迷った。
——外征の許可を、求めに行った。
——……そうですか。
——断られた。統制官に。
沈黙が落ちた。
奈々の気配が、僅かに揺れた気がした。
——……そう、ですか。
——でも、諦めてない。
俺は、強く念じた。
——どんな手を使っても、お前のところへ行く。許可が出なくても、行く。
——真さん……。
——今日、同期の戦士と話した。椿という女だ。
——椿さん?
——訓練を手伝ってくれることになった。俺の力の使い方を、教えてくれるらしい。
——……良かったです。
奈々の声に、温かさが戻った。
——真さんに、味方ができて。
——ああ。栞と黙老に加えて、もう一人増えた。
——少しずつ、前に進んでいるのですね。
——ああ。少しずつだけど——必ず、お前のところへ行く。
沈黙が落ちた。
奈々の気配が、穏やかに揺れている。
——真さん。
——なんだ。
——わたしも、頑張ります。
声が、静かに響いた。
——あなたが来てくれるまで、ここで、みんなと一緒に。
俺は、目を閉じた。
——ああ。お前なら、大丈夫だ。
——……はい。
——……待ってるからな。
——……はい。待っています。
繋がりが、静かに薄れていった。
奈々の気配が、遠くなる。
俺は、天井を見上げた。
許可など、待っていたら奈々が死ぬ。
そう思った瞬間——。
扉が、軽くノックされた。
俺は体を起こした。
こんな時間に、誰だ。
扉を開けると——椿が立っていた。
「……椿?」
「静かにしろ」
椿は、俺の部屋に滑り込んだ。
周囲を確認してから、扉を閉める。
「何があった」
「明日の訓練の約束は、嘘だ」
喉の奥で言葉が消えた。
「どういう意味だ」
「私は——お前の訓練相手になるつもりはない」
言葉の意味が、分からなかった。
「だったら、なぜ——」
「一緒に行くためだ」
椿の声が、低く響いた。
「壁の外へ。お前と一緒に」
呼吸が止まった。
「……何を——」
「許可など、待っていたら——あの声の主が死ぬのだろう」
椿が、俺の目を見た。
迷いのない目だった。
「お前がそう思っているのは、分かる。私も——同じだ」
「同じ?」
「私も、待っていたくない。壁の中で怯えていたくない。外へ出て——自分の力を、確かめたい」
椿の目が、俺を捉えて離さなかった。
「だから——真、お前と行く」
言葉が出てこなかった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
椿は、短く息を吐いた。
「……なら、勝手に行くしかないな。私も付き合う」
その声は、静かだった。
けれど——決意に満ちていた。
「……本気か」
「本気だ」
椿が、俺から目を逸らさなかった。
「お前一人では、壁の外で三日も持たない。けれど、私がいれば——少しは、マシになる」
俺は、椿を見た。
一人で行こうとしていた。
誰も巻き込まないつもりだった。
それでも——。
「椿……」
「今度は——私も、動きたいんだ」
椿の声が、僅かに震えた。
「見ているだけは、もう嫌だ」
椿が、手を差し出した。
「受けるか、断るか。真が決めろ」
俺は——椿の手を、握った。
「……ありがとう」
椿の耳が、赤くなった。
視線を逸らして、小さく言った。
「……礼はいらないと言った」
薄い笑みが浮かんでいた。
「まずは——どうやって壁の外へ出るか、考えなければならない」
俺は、頷いた。
「ああ。一緒に考えよう」
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(第07話 了)
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