表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/25

第7話 外征の禁

黒藩の執務室に立った瞬間、息が詰まった。


 灰色の壁に囲まれた、窓のない部屋。

 空気そのものが重い。呼吸するたび、肺の底に鉄錆が溜まっていく気がした。


 この部屋に来る前、黙老に相談した。

 答えはひとつ——「まずは正面から当たれ。それで相手の出方が分かる」

 だから俺は、統制官の前に立っている。


 「用件は聞いた」


 黒藩は机の向こうで、書類から顔も上げなかった。

 乾いた声が、壁に反響する。


 「外征の許可を求める、と」


 「……ああ」


 俺は立ったまま、黒藩を見下ろした。

 いや——姿勢だけの話だ。この男の前にいると、自分がひどく小さくなる。見下ろしているはずなのに、見上げられている気がした。


 「灯ノ塔の地脈が急激に弱まっている。観測班の報告は、統制官も——」


 「却下する」


 言葉が切り落とされた。

 壁に当たって、そのまま床に落ちる音がした気がした。


 黒藩がようやく顔を上げた。

 眼鏡の奥の瞳が、俺を捉える。感情を凍らせた目だ。氷よりも、もっと冷たい。


 「滅びかけた小要塞のために、この塔で唯一夜の国の怪物を殺せる者を、危険に晒す?」


 「灯ノ塔には三十人近い人間が——」


 「では聞こう」


 黒藩が立ち上がった。

 長身の影が、俺に覆いかぶさる。


 「先月の外征隊。十五人で出て、何人が戻った」


 「……三人」


 「一昨年の調査隊。三十人で出て、何人が戻った」


 喉が詰まった。

 記録庫で見た数字が、頭の中で蘇る。


 「……七人」


 「五年前の大外征。百人規模の決死隊だ。何人が帰還した」


 「……十三人」


 「十三人だ」


 黒藩の声には、怒りすらなかった。

 ただ、冷たく事実を並べている。


 「壁の外へ出た者は、死ぬ。数字が証明している。そしてお前は、その数字の外にいる唯一の例外だ」


 「だったら、俺が行けば——」


 「例外が消えれば、この塔は終わる」


 黒藩が一歩、近づいた。


 「お前は壁の護りの最後の砦だ。地脈が枯れ、結界が薄れた時、怪物を殺せる者がいなければ——終ノ塔の百万は、灯ノ塔の三十人より先に滅ぶ」


 論理だ。

 冷徹な、正しい論理だ。

 言葉の意味は、理解できる。


 だが——。


 「俺は、あの声を聞いたんだ」


 「声?」


 「灯ノ塔から。毎夜——テレパシーで」


 黒藩の眉が、僅かに動いた。


 「彼女は——奈々という少女は、滅びの中で、それでも諦めないでいる。みんなを励まし続けている。最後の最後まで、希望を捨てないでいる」


 声が震えた。

 止められなかった。


 「そんな奴を、見捨てろって言うのか。このまま壁の中で怯えていれば、いつか助けが来る? 来ない。誰も行かなければ、彼女たちは——」


 「黙れ」


 黒藩の声が、俺の言葉を遮った。


 静かだった。

 怒っているのではない。冷徹に、事実を述べているだけの声だった。


 「お前は分かっていない」


 「何を——」


 「なぜこの塔が今日まで生き延びたか、だ」


 黒藩が俺の目を見た。


 「希望を抱いた者から、死んでいった」


 言葉が、胸に突き刺さった。


 「外へ出れば何かが変わる。壁の向こうには救いがある。そう信じた者たちが、隊を組み、壁を越え——一人また一人と、闇に呑まれた」


 黒藩の声に、何かが滲んでいた。

 怒りでも嘲りでもない。

 もっと——古い何か。


 「五十年前、私の父がそうだった」


 背筋が、こわばった。


 「外征隊の隊長として出発し、二度と戻らなかった。私は十二の時、父の遺品すら受け取れなかった。体は、闇の奥で消えた」


 「……」


 「希望は、人を殺す」


 黒藩の目が、俺を射抜いた。


 「だから私は、この塔から希望を取り除いた。外への夢を断ち、恐怖で人々を壁の内に留めた。それが——唯一、この塔を生かし続ける方法だからだ」


 何も言い返せなかった。

 反論の糸口さえ、掴めなかった。


 黒藩は、父親を亡くしている。

 希望を抱いて壁の外へ出た父を。

 その痛みが——この男の、冷たい論理を支えている。


 「……それでも」


 声を絞り出した。


 「俺は行く。灯ノ塔には、時間がない」


 「ならば、私がお前を止める」


 黒藩の声に、揺らぎはなかった。


 「お前が無断で壁を越えようとすれば、私は衛兵を動かし、お前を拘束する。必要とあれば、力ずくで」


 「……できるのか」


 「やってみるか?」


 黒藩の目が、細まった。


 「救世主の力がどれほどのものか、私は把握している。暴走する。枯渇する。制御できない。塔の人間を二、三人傷つけることは可能だろうが——その後、お前は孤立する」


 言葉が、喉に詰まった。


 「異端児が衛兵を傷つけた。それだけで、お前は塔の敵になる。黙老も栞も、お前を庇いきれなくなる。そうなれば——」


 「……分かった」


 俺は、奥歯を噛みしめた。


 「この場では、引き下がる」


 「賢明だ」


 「だが——」


 俺は、黒藩の目を見た。


 「俺は諦めない。どんな手を使っても、灯ノ塔へ行く方法を見つける」


 「脅しのつもりか」


 「事実だ」


 黒藩の目が、僅かに揺れた。

 それは——嘲りではなかった。

 もっと複雑な何かが、奥に潜んでいる気がした。


 「……面白い」


 その声は、低かった。


 「お前は、父に似ているな」


 言葉の意味を問い返す間もなく、黒藩は背を向けた。


 「行け。話は終わりだ」


 俺は扉へ向かった。

 背後で、扉が閉まる音がした。



      ◇



 廊下を歩いた。


 黒藩の声が、頭の中で反響している。


 ——希望は、人を殺す。


 ——お前は、父に似ている。


 拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込む。じくじくと、痛む。


 分かっていた。

 黒藩を説得するのが、簡単ではないことくらい。

 けれど——父親を失った男の、あの目。


 俺を見ていたのは、憎しみだけじゃなかった。

 もっと——複雑な何かだった。


 壁にもたれかかった。

 呼吸が荒い。視界が滲む。

 怒りなのか、悔しさなのか、分からない。


 廊下を歩く人々が、俺を避けていく。

 視線を逸らす者。囁き合う者。足早に通り過ぎる者。


 「……救世主だって」

 「異端児でしょ。化け物と同じなんじゃないの」

 「近寄らない方がいいわよ」


 声が、耳に入る。

 俺は——この塔の中で、孤立している。


 奈々が、待っている。

 灯ノ塔が、滅びかけている。

 なのに——俺は、何もできない。



      ◇



 どのくらい、そうしていただろう。


 足音が聞こえた。


 顔を上げると、一人の女が歩いてくるのが見えた。


 黒髪を結い上げ、背筋を伸ばした長身の女。

 終ノ塔の防衛隊の制式装備を纏い、腰には細身の剣を佩いている。


 凛とした、切れ長の目。

 姿勢が良く、立ち姿が美しい。

 だが——どこか、近寄りがたい雰囲気がある。


 同期だ。

 椿。

 防衛隊の訓練で、何度か顔を合わせたことがある。

 言葉を交わしたことは、ほとんどない。


 俺は異端児で、彼女は隊の中でも指折りの武の名手。

 接点など、あるはずもなかった。


 椿は俺の前で足を止めた。


 「……壁にもたれて、廊下を塞いでいる」


 声は、素っ気なかった。


 「通行の邪魔だ、真」


 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

 この塔で、俺を名前で呼ぶ者は少ない。


 「……悪い」


 俺は体を起こした。


 椿は、俺の顔をじっと見た。


 「統制官に会ってきたな」


 「……分かるのか」


 「顔に書いてある」


 椿の口元が、僅かに歪んだ。

 笑みには見えない。ただ、何かを確認するような表情だった。


 「断られたんだろう。外征の許可」


 「……ああ」


 否定する理由もなかった。


 「噂になっている。救世主が、外の小要塞を助けに行こうとしていると」


 「救世主、か」


 俺は苦く笑った。


 「その救世主は、外に出る許可すらもらえないらしいけどな」


 椿は何も言わなかった。

 ただ、俺の顔を見ている。

 居心地が悪くなって、視線を逸らそうとした——その時だった。


 「私も、出たいと思っていた」


 言葉が、俺の口を塞いだ。


 「……何?」


 「外だ。壁の外」


 椿の声には、感情が滲んでいなかった。

 ただ、事実を述べているだけのような、平坦な声。


 「この塔にいると、息が詰まる。壁の内側で怯えて、恐怖に縛られて、それが当たり前になっている」


 椿が、窓のない壁の方へ視線を向けた。

 窓がないのに——その向こうを、見ている目だった。


 「私には、それが耐えられない」


 俺は、椿を見た。


 「……お前も、外に出たいのか」


 「出たい、というより——確かめたいと言うべきか」


 椿の声が、低くなった。


 「守れなかった人間がいる」


 言葉が、静かに落ちた。


 「外征に出た者たちだ。私がもっと強ければ——もっと早く、壁の外で戦えていれば——あの人たちは死なずに済んだかもしれない」


 「……椿」


 「だから私は、強くなるために訓練してきた。いつか壁の外で戦えるようになるために」


 椿が、俺を見た。

 その目には——共感のような光があった。


 「真。お前も、そうなのではないか」


 俺は、何も言えなかった。

 肯定も否定も、できなかった。


 椿は、俺から目を逸らした。


 「お前のことは、聞いている。怪物を傷つけた。光の刃を持っている。異端児と呼ばれ、救世主とも呼ばれている」


 「……ああ」


 「お前は——どちらだと思う」


 「どちらでもない」


 答えは、勝手に口から出た。


 「俺は、ただ——守りたい人がいるだけだ」


 椿が、ふいにこちらを見た。

 一瞬、その目が揺れた気がした。


 「……そうか」


 短く言って、椿は視線を逸らした。

 その耳が——僅かに、赤くなっているように見えた。


 「お前の覚悟は、本物のようだな」


 「覚悟?」


 「許可が出なくても、行くつもりなのだろう。壁の外へ」


 俺は、否定しなかった。


 椿の表情が、僅かに緩んだ。

 今度は——笑みに見えた。


 「馬鹿なやつだ」


 「……自覚はある」


 「けれど——嫌いではない」


 椿が、踵を返した。


 「私は、訓練場へ行く。お前も、来るか」


 「……訓練?」


 「壁の外へ出るつもりなら、鍛えておいて損はない。お前の力——光の刃、だったか。制御が難しいと聞いている」


 俺は、椿の背中を見た。


 「なぜ、俺に」


 椿が、肩越しに振り返った。

 その耳は、まだ赤い。


 「……さあな」


 そう言って、椿は歩き出した。


 俺は——少し迷って、その後を追った。



      ◇



 訓練場は、いつものように静かだった。


 椿は、訓練場の隅に立ち、腰の剣を抜いた。


 「見せてみろ。お前の力」


 俺は、木刀を手に取った。


 「……暴走するかもしれない」


 「構わない。私が止める」


 椿の声には、自信があった。

 虚勢ではない。実力に裏打ちされた、静かな確信。


 俺は、木刀を構えた。


 意識を集中する。

 右手に——熱を。光を。


 「——っ」


 光が、木刀の先端から弾けた。

 白い刃が、宙に伸びる。


 ——やはり、安定しない。

 光が明滅し、形が歪む。


 「制御が難しそうだな」


 椿の声が、冷静に響いた。


 「力を出すことはできる。けれど、維持ができない——そういうことか」


 「……ああ」


 俺は光を消した。

 膝が、僅かに震えている。

 情けない。この程度で、限界が来る。


 「数回で、力が尽きる。それに、暴走すると——周りを傷つける」


 「厄介だな」


 椿が、剣を構えた。


 「けれど、使い物にならないわけではない。要は——一撃で決めればいい」


 「一撃?」


 「お前の力は、瞬発力に特化している。だったら、その瞬発力を活かせばいい。長く戦うのではなく、一瞬で敵を仕留める」


 椿が、一歩踏み込んだ。

 剣が、俺の喉元を捉える——寸前で止まった。


 「こういう風に、だ」


 反応が、できなかった。

 見えなかった。踏み込みも、斬撃も、何も。


 これが——椿の実力。

 俺とは、次元が違う。


 「お前は——強いな」


 「強くならなければ、守れないからな」


 椿が、剣を下ろした。


 「私が、基本を教える。お前の力を、どう活かすか。一撃で決めるための、剣の振り方。体の動かし方」


 「……なぜ、そこまで」


 言いかけて、やめた。

 同じことを聞いても、きっと答えは返ってこない。


 椿は、少し黙った。

 それから、低い声で言った。


 「昔、私は見ているしかできなかった」


 俺を見ずに、椿は続けた。


 「外征に出た仲間たちが、壁の向こうで死んでいった。私は——塔の中で、ただ待っていた。強くなりたいと思いながら、何もできなかった」


 「……」


 「お前は、一人で行こうとしている。許可もなく、仲間もなく」


 椿が、俺へ視線を移した。

 その目には——痛みがあった。


 「馬鹿だと思う。無謀だと思う」


 「……ああ」


 「それでも——お前の覚悟を、頭ごなしに否定する気にはなれない」


 俺は、椿を見返した。


 「……ありがとう」


 「礼はいらない」


 椿が、剣を構えた。


 「まずは、基本からだ。お前の体の動きは、素人丸出しだ。そのままでは、壁の外で三歩も歩けない」


 「……手厳しいな」


 「事実だ」


 椿の口元が、僅かに緩んだ。

 その瞬間——凛々しい武人の顔が、少しだけ幼く見えた。


 「生き残りたいなら、私の言うことを聞け。いいな、真」


 俺は、木刀を構え直した。


 「分かった。教えてくれ」



      ◇



 訓練は、地獄だった。


 椿の指導は、容赦がなかった。

 構えが崩れれば、即座に指摘される。

 足の運びが遅ければ、木刀で叩かれる。

 呼吸が乱れれば、やり直し。


 「足が止まっている。動け」


 「右肩が上がっている。力を抜け」


 「目線が下がっている。相手を見ろ」


 汗が、全身から噴き出した。

 呼吸が荒い。視界が霞む。

 それでも——止まるわけにはいかない。


 椿の動きを目で追うたび、自分の弱さを思い知らされる。

 彼女は、いくらでも俺を倒せる。いくらでも、傷つけられる。

 その実力差を見せつけられながら——それでも、手を抜かずに教えてくれている。


 「……っ」


 木刀を振った。

 渾身の一撃。


 椿が、軽く体を傾けた。

 俺の斬撃が、空を切る。


 「遅い。そして——読みやすい」


 椿の剣が、俺の胸を打った。

 軽い一撃。それでも足がもつれて、俺は尻餅をついた。


 「……くそ」


 椿が、剣を下ろした。


 「今日はここまでだ。明日も来い」


 「……ああ」


 俺は、立ち上がった。

 全身が痛い。息が上がっている。

 それでも——。


 「椿」


 「何だ」


 「ありがとう」


 椿は、少し黙った。

 それから、背を向けた。


 「……明日。同じ時間に」


 その声は、素っ気なかった。

 けれど——どこか、柔らかかった。


 「分かった」


 俺は、椿の背中を見送った。



      ◇



 その夜。


 俺は、寝台に横たわり、奈々を呼んだ。


 ——奈々。


 返事が来るまでの間が、いつもより長く感じた。


 ——真さん。


 声が届いた。

 いつもより——少し、弱い気がする。


 ——今日は、どうでしたか。


 俺は、少し迷った。


 ——外征の許可を、求めに行った。


 ——……そうですか。


 ——断られた。統制官に。


 沈黙が落ちた。

 奈々の気配が、僅かに揺れた気がした。


 ——……そう、ですか。


 ——でも、諦めてない。


 俺は、強く念じた。


 ——どんな手を使っても、お前のところへ行く。許可が出なくても、行く。


 ——真さん……。


 ——今日、同期の戦士と話した。椿という女だ。


 ——椿さん?


 ——訓練を手伝ってくれることになった。俺の力の使い方を、教えてくれるらしい。


 ——……良かったです。


 奈々の声に、温かさが戻った。


 ——真さんに、味方ができて。


 ——ああ。栞と黙老に加えて、もう一人増えた。


 ——少しずつ、前に進んでいるのですね。


 ——ああ。少しずつだけど——必ず、お前のところへ行く。


 沈黙が落ちた。

 奈々の気配が、穏やかに揺れている。


 ——真さん。


 ——なんだ。


 ——わたしも、頑張ります。


 声が、静かに響いた。


 ——あなたが来てくれるまで、ここで、みんなと一緒に。


 俺は、目を閉じた。


 ——ああ。お前なら、大丈夫だ。


 ——……はい。


 ——……待ってるからな。


 ——……はい。待っています。


 繋がりが、静かに薄れていった。

 奈々の気配が、遠くなる。


 俺は、天井を見上げた。


 許可など、待っていたら奈々が死ぬ。


 そう思った瞬間——。


 扉が、軽くノックされた。


 俺は体を起こした。

 こんな時間に、誰だ。


 扉を開けると——椿が立っていた。


 「……椿?」


 「静かにしろ」


 椿は、俺の部屋に滑り込んだ。

 周囲を確認してから、扉を閉める。


 「何があった」


 「明日の訓練の約束は、嘘だ」


 喉の奥で言葉が消えた。


 「どういう意味だ」


 「私は——お前の訓練相手になるつもりはない」


 言葉の意味が、分からなかった。


 「だったら、なぜ——」


 「一緒に行くためだ」


 椿の声が、低く響いた。


 「壁の外へ。お前と一緒に」


 呼吸が止まった。


 「……何を——」


 「許可など、待っていたら——あの声の主が死ぬのだろう」


 椿が、俺の目を見た。

 迷いのない目だった。


 「お前がそう思っているのは、分かる。私も——同じだ」


 「同じ?」


 「私も、待っていたくない。壁の中で怯えていたくない。外へ出て——自分の力を、確かめたい」


 椿の目が、俺を捉えて離さなかった。


 「だから——真、お前と行く」


 言葉が出てこなかった。

 胸の奥で、何かが軋んだ。


 椿は、短く息を吐いた。


 「……なら、勝手に行くしかないな。私も付き合う」


 その声は、静かだった。

 けれど——決意に満ちていた。


 「……本気か」


 「本気だ」


 椿が、俺から目を逸らさなかった。


 「お前一人では、壁の外で三日も持たない。けれど、私がいれば——少しは、マシになる」


 俺は、椿を見た。


 一人で行こうとしていた。

 誰も巻き込まないつもりだった。

 それでも——。


 「椿……」


 「今度は——私も、動きたいんだ」


 椿の声が、僅かに震えた。


 「見ているだけは、もう嫌だ」


 椿が、手を差し出した。


 「受けるか、断るか。真が決めろ」


 俺は——椿の手を、握った。


 「……ありがとう」


 椿の耳が、赤くなった。

 視線を逸らして、小さく言った。


 「……礼はいらないと言った」


 薄い笑みが浮かんでいた。


 「まずは——どうやって壁の外へ出るか、考えなければならない」


 俺は、頷いた。


 「ああ。一緒に考えよう」



────────────────────────────────

(第07話 了)

────────────────────────────────

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ