第6話 灯ノ塔の少女
走った。
灯ノ塔の地脈が急激に衰退している——その報が塔内に広まった瞬間、俺の足は勝手に動いていた。
どこへ行くのか、自分でも分からない。
ただ、立ち止まっているのが耐えられなかった。
奈々がいる場所が、滅びかけている。
毎夜声を交わしている彼女の世界が、今まさに崩れようとしている。
廊下を駆け抜ける。
すれ違う人々が、俺を見て顔を強張らせる。異端児だ、という目。いつもなら気になる視線が、今は何も感じない。
どこへ。
どこへ行けばいい。
足が止まったのは、記録庫の前だった。
◇
「あなた」
栞が、静かに顔を上げた。
彼女の前には古い地図が広げられている。
「……聞いたのか」
「はい。観測班の報告が、上層にも伝わりました」
俺は息を整えながら、彼女の前に立った。
「灯ノ塔の場所を教えてくれ」
栞は一瞬、瞳を伏せた。
それから、ゆっくりと地図の一点を指さす。
「ここです。終ノ塔から、南西に……」
言葉が止まった。
「……遠いのか」
「最短でも、片道十日以上。途中には『視るもの』の領域があります。これまで、そこを越えて帰還した外征隊はありません」
十日以上。
往復で二十日。
灯ノ塔に、そんな時間があるのか。
「別のルートは」
「ありません。少なくとも、記録にはありません」
喉の奥が焼けるように熱い。
俺は地図を睨みつけた。
「……俺なら、行けるかもしれない」
栞が、まっすぐ俺を見た。
「視るもの。沈黙の館。夜の住人の群れ。それらを、たった一人で越えるのですか」
「俺は——怪物を殺せる。光の刃があれば」
「力があることと、辿り着けることは違います」
返す言葉がなかった。
栞は、静かに地図を畳んだ。
「……でも、黙老さまは、あなたを信じています」
顔を上げると、栞が微かに笑っていた。
「調べておきます。少しでも安全なルートがないか。過去の外征記録で、使える情報がないか」
「……助かる」
「お礼は、帰ってきてからで」
栞の声には、どこか芯があった。
◇
訓練場へ向かった。
記録庫を出た後、俺は真っ直ぐに木刀を握りに行った。
考えても仕方がない。今の俺にできるのは、力をつけることだけだ。
木刀を構える。
振る。
一撃。二撃。三撃。
汗が額を伝い、頬を滴り落ちる。
腕が重い。呼吸が荒い。それでも止まらない。
奈々の声が、頭の中で響いている。
——灯が、もう、消えそうなの。
振る。
振り続ける。
その時だった。
右手が、熱を持った。
「——っ!」
光が弾けた。
木刀の先端から、白い光が刃のように伸びる。
制御できない。
握った手が震える。光の刃が暴れるように明滅し、周囲の柱をかすめる。
止めろ——と念じた瞬間、光は消えた。
木刀が、俺の手から滑り落ちる。
膝から力が抜けた。
数回で枯渇する。それは知っていた。
だが、暴走することは知らなかった。
「……まだ、全然だ」
呟いた声が、訓練場の静寂に吸い込まれた。
◇
その夜。
俺は寝台に横たわり、意識を研ぎ澄ませた。
奈々の気配を探る。
闘の向こう、遥か遠くに——。
——真さん。
彼女の声が、頭の奥で組み上がった。
俺は目を閉じたまま、応えた。
——聞こえてる。
——今日は……何かありましたか?
心を読まれたかと思った。
いや、違う。俺の焦りが、声に滲んでいたのだろう。
——灯ノ塔の地脈が急激に弱まってるって、観測班が言ってた。
沈黙が落ちた。
答えが来るまでの間が、永遠に長く感じられた。
——……そうですか。
奈々の声は、静かだった。
——ここにいると、分かるんです。壁の護りが、日に日に薄くなっていくのが。
——……どのくらい保つ。
——分かりません。一月かもしれないし、半月かもしれない。
声の端が、僅かにほつれた。
——でも、真さん。
——なんだ。
——わたしは、諦めません。
その言葉に、俺は何も返せなかった。
滅びゆく場所にいて、それでも諦めないと言える。
この子の強さが、俺の胸を焼いた。
◇
次の夜。
奈々は、灯ノ塔の人々のことを話してくれた。
——昔は三百人以上いたそうです。今は、三十人もいない。
言葉にならない重さが、俺の腹の底に沈んでいく。
——地脈が弱まるにつれて、みんな、少しずつ……。
続きは言わなかった。言わなくても、分かった。
——でも、残った人たちは、頑張っています。
声が、少しだけ柔らかくなった。
——おばあさんが、毎日、枯れかけた庭の花に水をあげているんです。『まだ咲くかもしれない』って。
俺は黙っていた。
何を言えばいいか、分からなかった。
——子どもたちは、壁の外のことを知らないから、怖がらないで遊んでいます。お父さんたちは、それを見て、少しだけ笑える。
——お前は、何をしてるんだ。
問いかけた。
——わたしは……。
奈々は、少し躊躇った。
——みんなのところを回って、話を聞いています。怖いこと、辛いこと、悲しいこと。誰かに言いたいけど、言えないこと。わたしが聞いて、一緒に泣いたり、笑ったりしています。
喉が詰まった。
——それで、わたしの声が届く人がいないか、毎晩探していたんです。外に、誰かいないか。この闇の向こうに、応えてくれる人がいないか。
声の裏で、何かを必死に呑み込んでいるのが伝わった。
——ずっと、誰にも届かなかった。でも、真さんだけが、応えてくれました。
指先が白くなるまで、シーツを握り込んでいた。
応えることしかできない。
今の俺には、それしかできない。
——奈々。
——なんですか?
——お前は、自分のことを考えないのか。
言葉が先に出ていた。
——みんなの話を聞く。みんなを励ます。でも、お前自身は? 怖くないのか。辛くないのか。
返事が来なかった。
長い、長い間。
俺は待った。
彼女が言葉を探しているのが、伝わってきた。
そして——。
——怖いです。
声が、掠れた。
——毎晩、怖くて眠れない時もあります。このまま、みんなと一緒に消えてしまうんじゃないかって。わたしの声も、誰にも届かないまま、闇に溶けてしまうんじゃないかって。
呼吸が止まった。
——でも、怖いって言っても、何も変わらない。だから、わたしにできることをするしかないんです。
——みんなを励ますこと。最後の最後まで、希望を捨てないこと。それがわたしの役目だから。
声が、低く通った。
——誰かが希望を持っていないと、みんな、壊れてしまうから。
俺は目を閉じた。
この子は——自分を削って、他人を支えている。
滅びゆく要塞の中で、最後の灯になろうとしている。
◇
その次の夜。
俺は、自分のことを話した。
——俺は、転生者だ。
言葉にした瞬間、心臓が跳ねた。
拒絶されるかもしれない。
気味悪がられるかもしれない。
それでも——知ってほしかった。
——前の世界で死んで、この終ノ塔に生まれ落ちた。
返事が、来なかった。
永遠のような時間が流れた。
俺の喉が、からからに乾いていく。
言うべきじゃなかったか。言うには早すぎたか。
——……転生。
奈々の声が、おずおずと返ってきた。
——だから、真さんには、不思議な気配があるのですね。この塔の人とは、どこか違う……遠い場所を知っている人のような。
驚きの後に、静かな理解があった。
拒絶ではなかった。
俺は頷いた。
見えないと分かっていて、それでも頷いた。
——前の世界で、俺は……誰かを守れなかった。
言葉が、喉に引っかかった。
——誰だったか、顔も名前も、もう思い出せない。でも、守れなかったという後悔だけが、残っている。
背筋に冷たいものが走った。
死の瞬間の記憶。
届かなかった手。
泣き叫ぶ誰かの声。
全てが霞んでいる。
でも、痛みだけは消えない。
——今度こそ、守りたいと思った。
声が震えるのを、止められなかった。
——だから、この世界で目覚めた時、何かができるなら、今度こそと思った。だけど……。
言葉が詰まった。
俺は、何をしている?
訓練場で木刀を振って、黒藩に睨まれて、壁の外にも出られず、ここにいる。
お前を、助けに行くこともできない。
——真さん。
奈々の声が、穏やかに落ちた。
——あなたは、もう守ってくれています。
——何?
——毎晩、わたしの声を聞いてくれること。わたしの恐怖を、わたしの弱さを、受け止めてくれること。
声の語尾が、消えかけた。
——それだけで、わたしは……救われているんです。
熱いものが、込み上げてきた。
——誰にも言えないことを、真さんには言える。怖いって言える。辛いって言える。それだけで、わたしは、もう少し頑張れるんです。
俺は何も言えなかった。
言葉が見つからなかった。
でも——それだけじゃ駄目だ。
声を聞くだけじゃ、足りない。
このままじゃ、灯ノ塔は滅ぶ。
奈々も、彼女が守ろうとしている人たちも、全員が闇に飲まれる。
◇
四日目の夜。
俺は、決心していた。
——奈々。
名前を呼んだ。
強く、はっきりと。
——はい。
声が、少し緊張した響きを帯びた。
——俺は、お前のところへ行く。
間が空いた。
——迎えに行くとは言った。でも、それは、いつかじゃない。もう、待てない。
言葉を選ぶ暇はなかった。
選んでいたら、言えなくなる気がした。
——灯ノ塔がどこにあるか、栞に聞いた。十日以上かかる。視るものの領域を越えなきゃならない。誰も帰ってきてない道だ。俺の力がどこまで通用するか、分からない。
それでも。
——それでも、お前を助けに行く。
心臓が、肋骨を叩いている。
無謀だと、分かっている。
終ノ塔の外へ出た者は、多くが死ぬ。十五人で出て三人しか帰らない。全滅することも珍しくない。
でも、俺は——唯一、怪物を殺せる。
あの光の刃があれば、道は拓けるかもしれない。
——真さん……。
奈々の声が、細く揺れた。
——無理をしないでください。あなたに何かあったら、わたしは……。
——無理じゃない。
言葉が、勝手に口を突いた。
——俺にしかできないことがある。外で怪物と戦える人間は、俺だけだ。だったら、俺が行くしかないだろう。
手のひらに、汗がにじんでいた。
——お前は、みんなを守ろうとしている。滅びゆく場所で、最後まで希望を捨てないでいる。そんなお前を、俺が見捨てられるわけないだろう。
返事が来なかった。
待った。
そして——。
——……わたしは、待っていいですか。
声が、掠れていた。
——あなたを待つことは、わがままでしょうか。
——わがままなんかじゃない。
即答していた。
——お前が待っててくれるなら、俺は——必ず、そこまで道を切り拓く。約束する。
——……約束。
声が、小さく繰り返した。
——真さんは、嘘をつかない人ですね。
——つかない。
——分かります。声で、分かるんです。あなたの心が、わたしに伝わってくるから。
胸の奥が軋んだ。
——だから、待ちます。
声が、ゆっくりと染み込むように届いた。
——あなたが来てくれるまで、わたしはここで、みんなと一緒に灯を守り続けます。花に水をあげて、子どもたちと笑って、誰かの話を聞いて。
——それが、わたしにできる約束です。
目の奥が、じわりと熱くなった。
◇
翌朝。
俺は、外征の許可を得るために動くことを決めた。
終ノ塔から壁の外へ出るには、正式な許可が必要だ。
黒藩が統べる評議会の承認がなければ、外征は認められない。
だが、黒藩は——「許可なければ外に出さない」と、俺に釘を刺している。
それでも、行かなければならない。
奈々が、あの場所で待っている。
廊下を歩きながら、考えた。
黒藩を説得できるか? 無理だろう。あの男は、俺を危険視している。救世主という存在そのものが、彼の秩序を揺るがすからだ。
なら、評議会を動かすか? 黙老は味方してくれるかもしれない。栞も、記録庫の情報を使って協力してくれるかもしれない。
だが、それでも——時間がかかる。
灯ノ塔には、時間がない。
答えは、まだ見えない。
でも、諦めるつもりはなかった。
◇
その夜。
俺は、いつものように意識を研ぎ澄ませた。
奈々の存在を探った。
だが——遠い。
いつもより、繋がりが薄い。
焦りが腹の底を抉った。
何かあったのか。灯ノ塔に、何かが——。
——真さん。
声が、ようやく届いた。
掠れた、弱々しい声。
——ごめんなさい。今日は、少し……疲れてしまって。
俺は息を吐いた。
安堵と、同時に別の不安が込み上げた。
——何があった。
——今日、また一人……。
声が途中で沈んだ。
続きは言わなかった。
俺は急かさなかった。
——でも、大丈夫です。
声の端に、笑みの気配が混じった。
——わたしは、まだ大丈夫。明日も、みんなのところを回ります。おばあさんの花に、一緒に水をあげます。子どもたちと、一緒に笑います。
鼻の奥が、つんと痛んだ。
——だから、真さんも、頑張ってください。
声が、柔らかく響いた。
——あなたが頑張ってくれているのは、分かります。何かを、動かそうとしているんですよね。
俺は頷いた。
見えなくても、伝わっている気がした。
——ああ。外へ出る方法を探している。許可がないと出られないから、それをどうにかしようとしてる。
——ありがとうございます。
声が、温かかった。
——無理はしないでください。でも……待っています。
奥歯を噛み締めた。
待たせない。
必ず、行く。
——奈々。
——はい。
——外征の許可は、どうにかして取る。取れなければ——。
言葉を切った。
その先を言うべきか、迷った。
——取れなければ?
奈々が、問いかけた。
——……取れなくても、行く。
俺は言った。
——許可があろうがなかろうが、お前を助けに行く。誰に止められても、行く。
答えが、来なかった。
そして——。
——……真さんは、怖い人です。
声に、微かな笑みが滲んでいた。
——そんなこと言われたら、わたし……もっと、頑張らないといけなくなります。
俺も、笑った。
自然と、口元が緩んだ。
——頑張れよ。俺も頑張るから。
——はい。
——……明日も、話そう。
——……はい。明日も。
声が途絶えた。
俺は目を閉じたまま、右手をポケットに伸ばした。
黙老から授かった護符が、体温で温まっている。
明日から、本格的に動く。
黙老に相談する。栞に協力を頼む。評議会を説得できる材料を集める。
それでも駄目なら——。
その時は、その時だ。
どんな手を使っても、外へ出る。
奈々が待っている。
灯ノ塔が、消えかけている。
護符を握りしめたまま、俺は静かに呼吸を整えた。
必ず、行く。
◇
「迎えに行く」
俺は、心の中で、もう一度呟いた。
——だが、外征には、塔の許可が要る。
それが、今の俺の前に立ちはだかる壁だった。
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(第06話 了)
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