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第5話 呼び声の予感

その夜、俺は声を聞いた。


 最初は、夢だと思った。

 眠りに落ちる直前——意識が薄れていくあの境界で、誰かが呼んでいる気がした。


 耳で聞いたのではない。

 頭の奥、心の深いところに、直接響いてくる。


 囁くような、細い声。


 誰のものかは分からなかった。

 ただ、遠い。途方もなく遠い場所から、必死で届こうとしている——そんな印象だけが残った。



      ◇



 翌朝、目が覚めた時、声のことは霞のように薄れていた。


 気のせいだ、と思った。

 壁際であの夜に聞いた声——「灯が消えそう」と告げた声——の残響が、夢に混じっただけだ。


 俺は訓練場へ向かった。

 木刀を振る。体を動かす。考えないようにする。


 黒藩に釘を刺された。

 外には出られない。許可なんて、もらえない。


 それでも俺にできることは、力をつけることだけだ。

 光の刃を長く保てるように。次に怪物が現れた時、今度は逃がさないように。


 だから、振る。

 何度でも振る。


 ただ——。



      ◇



 その夜も、声は届いた。


 寝台に横たわり、目を閉じた瞬間だった。


 ——どなたか。


 今度は、はっきり聞こえた。

 女の声だ。若い。俺と同じくらいか、もう少し下か。


 ——誰か、聞いてください。


 反射的に、起き上がった。

 部屋の中を見回す。誰もいない。壁と天井と、灰色の静寂だけ。


 幻聴か?

 いや、違う。この感覚は知っている。


 あの夜——壁の向こうから届いた、あの声と同じだ。

 頭の中に直接響く。テレパシー——そう呼ぶしかないもの。


 俺は目を閉じた。

 集中する。意識を研ぎ澄ます。


 ——聞こえているか。


 心の中で、そう念じた。

 答えは——なかった。


 返事のない暗闇が、部屋を満たしていた。



      ◇



 それから、三日が過ぎた。


 毎夜、声は届いた。

 最初は単語だけだったものが、少しずつ、言葉になっていく。


 ——わたしの声、届いていますか。


 ——どうか、聞こえていたら。


 ——もう、長くは……。


 内容は断片的だ。

 途切れ途切れで、時に声は掠れ、時に消えかける。


 それでも、分かることがある。


 この声の主は、どこか遠い場所にいる。

 そして——助けを求めている。


 俺は、毎夜応えようとした。

 心を集中させ、念じる。「聞こえている」「ここにいる」と。


 しかし、届いているのかどうかは分からなかった。

 声は一方通行のまま、夜ごとに俺の意識を揺さぶり続けた。



      ◇



 四日目の夜。


 いつものように、寝台に横たわった。

 意識が薄れていく。眠りの縁に落ちていく。


 その時——。


 ——あなたの声が、聞こえました。


 息が止まった。


 ——やっと、届いた。


 声は、前より明瞭だった。

 繊細で、でも確かな意志を持った声。


 俺は目を閉じたまま、意識を集中させた。


 ——聞こえている。


 心の中で、念じた。

 今度こそ届け、と。


 言葉は返ってこなかった。

 長い、長い間。


 そして——。


 ——よかった。


 返ってきた声には、涙が滲んでいた。


 ——ずっと、呼んでいました。誰かに届くことを、信じて。


 俺は呼吸を止めた。

 彼女の声が、かすかに震えている。


 ——でも、誰も応えてくれなかった。わたしの声は、どこにも届かないんだと……。


 言葉が途切れた。

 嗚咽を堪えているのが、伝わってきた。


 俺は——何を言えばいい。

 慰めの言葉か? 大丈夫だと言うのか?


 分からなかった。

 ただ、黙っているのは嫌だった。


 ——俺は、真。


 名乗った。

 それしか、思いつかなかった。


 ——真、さん……。


 彼女が、俺の名前を呼んだ。

 その瞬間、奇妙な感覚が走った。


 懐かしい。

 会ったこともないはずなのに、どこかで聞いたことがあるような——。


 気のせいだ。そう思おうとした。

 でも、意識の深いところで何かが疼いている。



      ◇



 ——わたしは、奈々と申します。


 彼女は、そう名乗った。


 ——奈々。


 俺は、その名前を心の中で繰り返した。


 奈々。


 知らない名前だ。

 当たり前だ。会ったこともないのだから。


 なのに、その音が耳に——いや、心に馴染む。

 まるで、ずっと前から知っていたかのように。


 ——あなたは、どこにいるのですか。


 奈々が問いかけてきた。


 ——終ノ塔だ。人類最後の……いや、たぶん、お前も知ってるか。この塔の名前くらいは。


 ——終ノ塔……。


 声のトーンが、微かに揺れた。


 ——やはり、終ノ塔の方でしたか。


 ——やはり?


 ——はい。わたしは、灯ノ塔にいます。


 灯ノ塔。

 その名前は、記録庫の文献にあった。終ノ塔以外の、別の小さな要塞。


 栞が見せてくれた記録にあった。

 かつて、人類は複数の要塞を築いたと。


 ——灯ノ塔は、夜の国の只中にある。終ノ塔から、とても遠い場所に。


 奈々の声は、静かだった。

 しかし、その静けさの奥に、何かを堪えている気配があった。


 ——地脈が、尽きかけています。


 言葉が、胸に刺さった。


 ——食料も、わずか。人も、減りました。


 ——待ってくれ。それは……。


 ——あと、どれくらい保つか。もう、誰にも分かりません。


 声は震えなかった。

 震えないように、必死で抑えているのだと分かった。


 掌に爪が食い込んでいた。

 寝台の上で、いつの間にか手を握り締めていた。


 滅びかけている。

 彼女のいる場所は、滅びかけている。



      ◇



 ——なぜ、俺に声を送ってきた。


 しばらくして、俺は問いかけた。


 ——どうして、終ノ塔に?


 答えは、すぐには来なかった。

 奈々は、言葉を探しているようだった。


 ——わたしには、遠くの声を聞く力があります。


 やがて、奈々は語り始めた。


 ——でも、終ノ塔の方々には、届かなかった。わたしの声は、弱すぎて。


 ——けれど、あなただけは、違いました。


 俺は息を詰めた。


 ——最初に声を送った時、あなたの呼びかけが返ってきた。「聞こえている」と。


 ——あれは……。


 あの夜だ——と、気づいた。壁際で聞いた声。同じ言葉を、彼女も聞いていた。


 ——それから、あなたの声を探しました。毎晩、毎晩。やっと、こうして……。


 言葉の端が和らいだ。


 ——話せて、嬉しい。


 喉が詰まった。

 彼女は滅びゆく場所にいて、俺に助けを求めている。


 なのに、俺には何もできない。

 黒藩に外征を禁じられている。壁の外に出る許可すらない。


 ——真さん。


 奈々が呼んだ。


 ——あなたの声を聞いていると、不思議と、怖くなくなるのです。


 ——……俺の声が?


 ——はい。


 声に、微かな温もりが宿った。


 ——理由は、分かりません。でも、あなたの声には……。


 途切れた。

 何かを探しているような、間。


 ——懐かしさを、感じるのです。


 背筋が、ぞくりと粟立った。


 懐かしさ。

 俺も、同じことを感じていた。


 この声を、この存在を——俺はどこかで知っている。

 会ったこともないはずなのに、魂の奥底で、彼女を覚えている。


 前の世界の残滓が、意識の底で騒いだ。

 守れなかった誰かの面影が、ぼんやりと浮かび上がる。


 ——俺も、だ。


 口が勝手に動いていた。


 ——お前の声を聞いていると、ずっと前から知っていたような気がする。


 何も聞こえない時間が、流れた。

 穏やかな、静けさだった。


 ——不思議ですね。


 返ってきた声が、柔らかく響いた。


 ——わたしたち、初めて話したのに。



      ◇



 それから、毎夜、俺たちは言葉を交わすようになった。


 日が暮れ、塔が眠りにつく頃——俺は寝台に横たわり、目を閉じる。

 意識を研ぎ澄ませると、奈々の声が届いてくる。


 彼女は、灯ノ塔のことを話してくれた。


 ——昨日、隣の部屋のおばあさんが、動かなくなりました。


 声が、ほんの少しだけ震えた。


 ——わたしが最後に会った時、笑ってくれたんです。「奈々ちゃんは強いね」って。


 俺は黙って聞いていた。


 ——でも、わたしは強くなんかない。泣きたい時も、逃げたい時も、ある。


 ——それでも、みんなの前では、笑っていようと思うんです。


 灯ノ塔の灯りは、もう弱いのだと言った。

 暖房も足りなくて、夜は凍えるほど寒いのだと。


 ——でも、わたしは、諦めません。


 その声には、芯があった。


 ——みんなを、励まし続けます。灯が消える、その日まで。


 強い子だ、と思った。

 滅びを前にして、希望を語り続けられる強さ。


 俺には——ない。

 少なくとも、まだない。


 ——お前は、強いな。


 言葉が先に出た。


 ——え?


 ——滅びかけてるのに、諦めないって言える。俺には、そんな……。


 言葉が詰まった。


 俺は、どうだ。

 怪物を逃がした。黒藩に何も言い返せなかった。訓練場で木刀を振ることしかできない。


 ——真さん。


 声が、静かに響いた。


 ——あなたも、強いですよ。


 ——俺が? 何もできてない。壁の外にも出られない。お前を助けに行くことも……。


 ——でも、あなたは、わたしの声に応えてくれました。


 言葉が止まった。


 ——誰も応えてくれなかった。どれだけ呼んでも、夜の闇に消えていくだけで。


 ——でも、あなただけは、聞いてくれた。


 声の端が揺れた。

 泣いているのかもしれない。


 ——それだけで、わたしは、救われたのです。


 返す言葉を持たなかった。

 ただ、腹の底が熱くなっていた。



      ◇



 七日目の夜。


 俺たちの会話は、いつもより長く続いていた。


 奈々は、灯ノ塔の風景を語ってくれた。

 小さな庭があること。枯れかけた木が一本あること。昔はもっと緑があったこと。


 俺は、終ノ塔のことを話した。

 訓練場のこと。図書室のこと。統制官に睨まれていること。


 ——大変ですね、真さん。


 奈々が、くすりと笑った。


 ——笑うな。マジで睨まれてるんだ。


 ——ふふ。でも、あなたは負けないでしょう?


 ——……どうだかな。


 ——負けませんよ。


 声は、確信に満ちていた。


 ——だって、あなたの声には、折れない何かがあるから。


 俺は黙り込んだ。

 折れない? 俺が?


 分からない。

 自分では、そんなもの見えない。


 でも——彼女がそう言うなら、そうなのかもしれない。


 ポケットの護符が、体温で温まっているのを感じた。

 黙老から授かった、あの金属片。


 味方がいる、と思った。

 この塔にも。そして——壁の向こうにも。


 ——奈々。


 俺は、彼女の名前を呼んだ。


 ——なんですか?


 ——俺は、お前を迎えに行く。


 答えが来なかった。


 ——今は無理だ。許可もない。力も足りない。でも……。


 言葉を探した。

 嘘をつきたくなかった。


 ——お前の声が聞こえる限り、俺は辿り着く。


 時間の感覚が消えるほどの間が空いた。


 そして——。


 ——……はい。


 声が、掠れていた。


 ——待っています。ずっと。


 ——待ってなくていい。俺が、行くから。


 ——いいえ。


 声が、穏やかに響いた。


 ——待つのは、辛いことではないのです。


 ——あなたが来ると信じて待つのは、希望ですから。


 喉の奥が締め付けられた。


 この子を——守りたい。

 会ったこともない。声しか知らない。なのに、強烈にそう思った。


 あの頃の記憶が、胸の奥で暴れた。

 守れなかった誰か。届かなかった手。後悔だけが残った、あの瞬間。


 今度こそ——。


 その思いが、喉の奥で燃えていた。



      ◇



 ——真さん。


 奈々が、静かに呼んだ。


 ——なんだ。


 ——あなたの声、あったかい。


 不意打ちだった。

 俺は、何も言えなくなった。


 ——こうして話していると、夜の寒さを忘れられます。


 ——灯ノ塔は、もう暖房も弱いから。地脈の力が足りなくて。


 ——でも、あなたの声を聞いていると、心が、暖かくなる。


 顔が熱くなっているのが、自分でも分かった。

 良かった。テレパシーで顔は見えない。


 ——そ、そうか。


 ——ええ。


 声に、微かな笑みが含まれている気がした。


 だが、その笑みの奥に——何かを感じた。


 距離が、近い。

 声を交わしているだけなのに、彼女の心が、俺の心に触れている。


 意識が、溶け合う感覚。

 心拍が、同じリズムを刻んでいる気がする。


 ——……奈々。


 ——はい。


 ——お前の心が、見える気がする。


 言葉にした瞬間、自分でも驚いた。

 何を言っているんだ。


 けれど——嘘ではなかった。

 彼女の恐怖、孤独、それでも捨てない希望。全部が、流れ込んでくる。


 ——わたしも……。


 奈々の声が、囁きのように細くなった。


 ——あなたの心が、伝わってきます。怖い、けれど折れない。孤独だけど、誰かを守りたい。……そういう、心が。


 胸が痛かった。

 嬉しいのか、怖いのか、分からない。


 会ったこともない相手に、ここまで心を許している自分が信じられない。

 なのに——彼女の声を聞いていると、それが自然なことのように思える。


 前世から繋がっている。

 そんな馬鹿な、と理性が否定する。


 けれど魂は、認めている。

 この声を、俺はずっと探していた。


 ——真さん。


 ——……なんだ。


 ——……怖くて、嬉しい。


 声が震えていた。


 ——あなたに心を見せるのは、怖い。でも、あなただけには、見せたいと思う。……こんなの、おかしいですよね。


 ——おかしくない。


 即答していた。


 ——俺も、同じだから。


 長い間が、流れた。

 でも今度は、言葉がなくても分かった。


 彼女も、同じことを感じている。

 この繋がりを、怖くて、嬉しくて、手放したくないと思っている。


 ——……また、明日も話してくださいますか?


 ——当たり前だ。


 ——約束ですよ?


 ——ああ。約束だ。


 声が、ふわりとほどけた。


 ——おやすみなさい、真さん。


 ——ああ。おやすみ、奈々。


 声が途絶えた。

 俺は暗闇の中で、天井を見つめていた。


 心が、まだ熱い。

 彼女の声が、まだ耳の奥に残っている。


 ——あったかい、か。


 呟いた。

 自分の声が、少しだけ柔らかくなっている気がした。


 右手で、ポケットの護符に触れた。

 黙老の言葉が、蘇る。


 『お主は、この塔の外から来た者じゃ』


 俺は——誰なんだ。

 なぜ奈々と、こんなにも心が通じる。


 答えは、まだ見えない。

 でも——見つけなければならない。


 彼女を守るために。

 この繋がりの意味を、知るために。



      ◇



 翌朝。


 俺が訓練場へ向かおうとした時、廊下が騒がしいことに気づいた。


 人々が、何かを囁き合っている。

 不安げな顔。怯えた目。


 何があった。


 俺は、近くにいた中年の男を捕まえた。


 「何かあったのか」


 男は俺を見て——一瞬、顔を強張らせた。

 異端児だ、という顔。でも、今はそれどころではないらしい。


 「灯ノ塔の……」


 男は、声を落として言った。


 「灯ノ塔の地脈が、もう保たないそうだ」


 血の気が引いた。


 「観測班が、昨夜の震動を検知した。灯ノ塔周辺の地脈の流れが……急激に弱まってる」


 「どういう意味だ」


 「分からない。でも、このままだと……」


 男は言葉を切った。

 言わなくても、分かった。


 滅ぶ。

 灯ノ塔が、滅ぶ。


 俺は走り出していた。



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(第05話 了)

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