第4話 壁の中の恐怖
呼び出しがあったのは、その翌日のことだった。
灰色の隊服を着た男が、訓練場にいた俺の前に立った。
目を合わせようとしない。声も硬い。
「統制官閣下が、お呼びです」
統制官。
この塔の最高権力者。名前だけは知っている。黒藩——そう呼ばれている男。
「俺を?」
「……はい。今すぐ、執務室へ」
隊員は、そのまま踵を返した。
俺についてくる気もない。道案内という形式だけを果たして、さっさと消えていく。
——まあ、そりゃそうか。
異端児と一緒に歩きたい奴なんて、いない。
◇
塔の上層へ向かう螺旋通路は、人の気配が薄かった。
下層は密集している。食堂、居住区、訓練場。人が溢れ、声が反響し、息苦しいほどの熱気がある。
上層は違う。広い廊下に、誰もいない。灰色の壁が続くだけ。
壁には古い紋章が刻まれていた。
何を意味するのかは知らない。ここが塔の中枢——権力の在処だということは、空気が告げていた。
執務室の前に着いた。
分厚い扉。両脇には、武装した衛兵が二人。
「……入れ」
中から声がした。
低く、抑揚のない声。
扉が開いた。
◇
広い部屋だった。
窓はない。塔の奥深く、外壁から遠い位置だからだろう。代わりに、壁一面に地図が貼られている。
——塔の内部構造図? いや、違う。
あれは、外の地図だ。
夜の国の地形。点在する怪物の出没地点。過去の外征ルートと、生還率。
数字が並んでいる。ほとんどが、赤い文字で「全滅」と記されていた。
「座れ」
声がした。
部屋の奥——執務机の向こうに、男がいた。
痩せた体躯に、統制官の重い礼装。
眼鏡のレンズ越しに、視線が俺を射抜いている。
冷たい。
それが、最初の印象だった。
「お前が、怪物を斬った異端の少年か」
質問ではなかった。確認だ。
「……ああ」
声が掠れた。情けない。それでも、頷いた。
「力が発現した。それは事実だろう。報告は受けている」
男——黒藩は、机の上の書類に目を落とした。
「しかし、怪物を逃がした。止めを刺せなかった。そして——塔の人間を、混乱させた」
俺は口を閉じた。
反論の材料が、何もない。
「お前は、この塔では異端だ」
黒藩の声には、感情がなかった。
怒りでも、蔑みでもない。ただ、事実を述べているだけ。
「転生者だの、救世主だの——そのような噂が広がっている。愚かな群衆は、一人の英雄に縋りたがる」
立ち上がった。
机を回り、俺の前に歩み寄ってくる。
距離が、縮まる。
威圧が、近づいてくる。
「そのような幻想は、秩序を乱す」
黒藩が、俺を見下ろした。
眼鏡の奥——暗い瞳が、俺を見ている。
「私が、この塔を統べている理由を知っているか」
知らない。
そう答えようとして——やめた。挑発だと気づいたからだ。
「……恐怖、ですか」
言葉が、口をついて出た。
自分でも驚いた。取り消せない。
黒藩の目が、わずかに細まった。
「そうだ」
肯定は、静かだった。
「壁の外には、視るものがいる。沈黙の館がある。夜の住人が、這い回っている。——我々が今日も生きているのは、壁を出なかったからだ」
一歩、後退した。
無意識だった。
「外への希望。外への憧れ。——そのような幻想が、どれだけの人間を殺してきたと思う」
黒藩は、背後の地図を指した。
赤い文字が、壁一面を埋め尽くしている。
「外征は必要悪だ。食料が尽きれば、出なければならない。しかし——それは、任務だ。希望ではない」
俺を見る目が、鋭くなった。
「お前のような存在は、人々に幻想を与える。『壁の外に出ても、生きて帰れる』という、危険な夢を」
「俺は——」
「黙れ」
一言で、俺の声が止まった。
「お前が何を思おうと、どうでもいい。私が許可しなければ、お前は外に出られない。そして、私は許可しない」
黒藩は、踵を返した。
「今日は、警告だ。——秩序を乱すな。私の目に、余計なものを映すな」
背を向けたまま、手を振った。
出て行け、という合図だ。
俺は立ち上がった。
足が、まだ強張っていた。
◇
執務室を出た後、俺は廊下を歩いていた。
足取りが、自分でも分からない。
ただ歩いている。どこへ向かっているのかも、分からないまま。
気づいたら、拳を握りしめていた。
爪が食い込んでいる。掌が、じんじんと痛い。
——これは、恐怖じゃない。
いや、恐怖もある。あの男の前で、体が竦んだのは事実だ。
でも、それだけじゃない。
壁の外に、誰かがいる。
あの夜に届いた細い声。「灯が消えそう」と、助けを求めている誰か。
あの男は、それを知らない。知っても、動かないだろう。
「秩序」のために。「規律」のために。
——壁の中で怯えてるだけじゃ、いつか全部終わる。
そう叫びたかった。
でも、言えなかった。
あの部屋で、あの男の前で、俺は何も言い返せなかった。
右手が、かすかに熱を持っている。けれど光は応えてくれない。
力があっても、何もできない。
許可がなければ、壁の外にすら出られない。
——クソ。
声にならない罵倒が、喉の奥で潰れた。
◇
食堂に着いた時、空気が変わった。
いつもより、静かだった。
人は多いのに、誰も喋っていない。
壁際に、衛兵が立っている。
昨日まで、こんなところに衛兵はいなかった。
「——統制強化だとよ」
俺の隣で、誰かが呟いた。
中年の男だ。俺と目が合うと、慌てて視線を逸らした。
食事を取りに行く列に並んだ。
前にいた女が、俺を見て——無言で、列を離れた。
別の場所へ移っていく。
俺の周りだけ、空間ができている。
配給係の老婆が、粥を器に注いだ。
その手が、かすかに震えている。俺の顔を見ないようにしながら、器を差し出す。
「……ありがとう」
返事はなかった。
席についた。
向かいには、誰もいない。両隣も、空席だ。
食べながら、周囲の会話に耳を傾けた。
「——外征希望の奴、連行されたってよ」
「黙ってろ。聞かれたら、俺たちまで——」
「もう嫌だ。息が詰まる」
「しっ。衛兵に見られてる」
声は、囁きに近い。
誰もが、怯えている。
壁の外の怪物じゃない。
壁の中の、人間を。
通路の向こうで、衛兵が誰かを引っ張っていく姿が見えた。
若い男だ。抵抗しようとして、殴られた。
周囲は、見て見ぬふりをしている。
俺も、動けなかった。
——何をしている。
自分に問いかけた。
答えは、出なかった。
◇
それから数日、俺は一人で訓練を続けた。
昼は木刀を振り、夜は図書室で古文書を読み漁る。
先日見つけた「視るもの」「沈黙の館」の記録の続きを探していた。
見つからない。
ページが破られていた箇所以降の情報は、どこにもない。
意図的に隠されている。
そう確信した頃——俺は、別の場所を探すことにした。
記録庫。
図書室よりも古い文献が保管されているという、塔の深層。
案内板も、標識もない。
噂は聞いていた。最下層に近い場所に、旧き記録を守る者がいると。
◇
記録庫への道は、暗かった。
灯りが少ない。壁の苔が、わずかに光っているだけ。
人の気配は、ほとんどない。
どれくらい歩いただろう。
ようやく、扉が見えた。
古い木製の扉。表面には、見たことのない紋様が刻まれている。
触れようとした瞬間——扉が、内側から開いた。
「……どなた」
声がした。
低く、静かな声。
扉の向こうに、人影がある。
灰銀の髪を緩く結い、眼鏡をかけた女性。
記録庫の埃と、古紙の匂いをまとっている。
フレーム越しの瞳には、静かな光がある。何でも見透かすような——けれど、どこか寂しげな。
「俺は——」
「知っています」
言葉を遮られた。
「怪物を斬った方。……救世主と呼ばれている方ですね」
俺は頷いた。
否定しても、意味がない。
「わたしは、栞と申します。この記録庫の管理者です」
栞——そう名乗った女性は、扉を大きく開いた。
「お入りください。……あなたなら、入る資格がある」
◇
記録庫は、迷宮のようだった。
天井の高い空間に、書棚が林立している。
古い紙の匂い。埃。そして——かすかに、何か別のもの。
「この場所を訪れる者は、ほとんどいません」
栞は、奥へと歩きながら言った。
「統制官閣下は、ここを危険視しておられます。『旧き知識は、秩序を乱す』と」
「……封じようとしている?」
「そうです」
立ち止まった。
振り返り、俺を見る。
「あなたは、何を探しておられますか」
直接的な問いだった。
遠回しに聞く気はないらしい。
「……視るもの、と、沈黙の館について」
答えた。
隠す理由がなかった。
「図書室の古文書で見つけた。続きのページが破られていた。誰かが、意図的に——」
「はい」
栞は、頷いた。
「破ったのは、統制官閣下です。……正確には、彼の指示で」
やはり、そうか。
想像通りだった。
「なぜ」
「恐怖を、管理するためです」
栞は、書棚の一つに手を伸ばした。
古い革表紙の本を取り出す。
「こちらを」
俺の手に、本が渡された。
開いた。黄ばんだページに、図が描かれている。
——視るもの。
巨大な影。山のような体躯。無数の目。
壁の向こうから、こちらを見つめている。
背中を、何かが這い上がる感覚。
この絵だけで、本能が警告を発している。
「近づくな、と記録にはあります」
栞の声が、静かに響く。
「彼らは、攻撃しない。ただ……見つめ続ける。見つめられた者は、帰ってこない」
ページをめくった。
今度は、建物の図。
奇妙な塔。灯りがついている。けれど、音がない。
入り口が、ぽっかりと開いている。
「沈黙の館」
その名前を呟いた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
「灯りは消えない。音は聞こえない。入った者は……」
栞は、言葉を切った。
本を閉じる。
「統制官閣下は、これらの情報を封じています。『知れば、外へ出たくなる者が増える。好奇心は人を殺す』と」
皮肉だ、と思った。
恐怖で人を縛るために、恐怖の正体を隠している。
「けれど、俺には教えてくれるのか」
「……はい」
栞は、俺を見つめた。
その瞳が、微かに揺れている。
「あなたは、違うから」
「違う?」
「この塔の人間とは、違う目をしている」
俺は何も言えなかった。
栞は続けた。
「わたしは、長い間……独りで、この記録を守ってきました」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「荒唐無稽だと、誰も信じてくれませんでした。『旧き予言など、迷信だ』と」
「予言?」
その言葉に、栞の表情が変わった。
迷うように、俺を見る。
「……まだ、早いかもしれません。でも——」
言葉を切った。
何かを決めたように、頷いた。
「黙老さまに、お会いください」
◇
記録庫の奥に、小さな部屋があった。
そこに、老人がいた。
塔で最も歳経た者——と、後で聞いた。
痩せた手で古い護符を握り、壁に背を預けて座っている。
視力は衰えているのだろう。目は閉じられていた。
けれど俺が部屋に入った瞬間——老人は、顔を上げた。
「……来たか」
低く、ゆっくりとした声。
「待っておった」
俺は立ち止まった。
待っていた?
「あの——」
「座れ、真」
名前を呼ばれた。
どこから知っている。俺は、まだ何も——
「話がある」
老人は、向かいの床を指した。
俺は従った。
床に腰を下ろす。老人との距離は、二歩ほど。
「お主が、怪物を斬った少年か」
「……ああ」
「光の刃で、夜の国の怪物を」
「ああ」
老人は、かすかに笑った。
笑いというには、あまりに静かだったが。
「予言の通りじゃな」
予言。
さっき、栞も言っていた言葉。
「どういう意味ですか」
「伝承がある」
老人——黙老は、目を開いた。
濁った瞳が、俺を見ている。
「『要塞に生まれし異なる魂が、夜を殺す』」
異なる魂。
夜を殺す。
全身の毛穴が開くような感覚が、走った。
「それが……俺だと?」
「さて」
黙老は、首を傾げた。
「お主は、どう思う」
質問を、質問で返された。
けれど——答えられなかった。
異なる魂。
俺は、転生者だ。この世界の人間じゃない。前の世界で死んで、ここに来た。
それを、この老人は知っているのか?
「お主の目は」
黙老が、言った。
「この塔の者の目ではない」
心臓が、跳ねた。
「遠い世界を、知っておる目じゃ。この塔しか知らぬ者には、ない光が宿っておる」
言葉が出てこなかった。
喉が詰まっている。
「予言は、百年以上前から伝わっておる。異なる魂が、夜を殺す——その意味を、誰も解き明かせなかった」
黙老は、古い護符を握りしめた。
「じゃが、お主を見て……儂は、確信した」
沈黙が、部屋を満たした。
「お主は、この塔の外から来た者じゃ」
この老人は——俺の正体を見抜いている。
「怖がらんでもよい」
黙老は、静かに言った。
「儂は、お主を縛る気はない。むしろ——」
言葉を切った。
何かを堪えるように、目を閉じる。
「——待っておった。恐怖で固めた秩序は、いずれ内から崩れる。夜に、光を灯す者を」
俺は、膝の上で拳を握った。
予言。救世主。異なる魂。
全てが、俺に向けられている。
「俺に……」
声が震えた。
情けない。けれど、止められなかった。
「力は一瞬で尽きる。怪物を逃がした。許可すらもらえない。壁の外には出してもらえない」
吐き出すように、言葉が漏れた。
「それが、俺の現実だ。——何ができるっていうんですか」
黙老は、黙って聞いていた。
そして——かすかに、頷いた。
「今は、それでよい」
老人の声は、穏やかだった。
「力は、育つ。知識も、経験も。……お主は、まだ始まったばかりじゃ」
護符を、俺の方へ差し出した。
「これを持っておれ」
受け取った。
古い金属。紋様が刻まれている。何の意味かはわからない。
「お主が迷った時、この部屋に来い。儂は——お主の味方じゃ」
俺は、護符を握りしめた。
◇
記録庫を出た時、外は暗くなっていた。
塔の灯りだけが、廊下を照らしている。
俺は、壁に背を預けて、立ち尽くしていた。
予言。救世主。異なる魂。
黙老の言葉が、頭の中で繰り返されている。
『お主の目は、この塔の者の目ではない』
——気づかれている。
俺が、何者なのか。
右手を、見つめた。
奥底で何かが脈打っている。けれど、目を覚ます気配はない。
力はある。
でも、使い方がわからない。
壁の外には、あの夜に届いた声がある。
助けを求めている、誰か。
俺は——どうすればいい。
答えは、まだ見つからなかった。
ただ一つ、わかったことがある。
この塔には、俺を見ている者がいる。
敵もいれば、味方もいる。
黒藩は、俺を封じようとしている。
黙老は、俺を待っていたと言った。
栞は、旧き知識を、俺に託そうとしている。
——壁の中にも、戦いがある。
俺は、廊下を歩き始めた。
右手の護符を、ポケットにしまった。
重みが、かすかに温かかった。
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(第04話 了)
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