第3話 唯一戦える者
騒ぎの方へ向かう足は、自然と速くなっていた。
通路を曲がるたびに、人々の声が大きくなる。
「救世主が」「何が起きた」「外征隊が」——断片的な叫びが、灰色の壁に反響している。
角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたものに、俺は息を呑んだ。
血だった。
壁に、床に、担架の上に。鉄錆の匂いが鼻を突く。
昨日見た外征帰還と同じだ。いや——もっとひどい。
担架を運ぶ隊員たちの顔は蒼白だった。運ばれてきた者の数は三人。うち一人は自力で歩いているが、残りは——動かない。
「何があった」
群衆の誰かが叫んだ。
「壁外だ……外征中に、奇襲を受けた……」
答えた男の声が震えている。隊服が引き裂かれ、腕を押さえていた。そこから血が滴っている。
「壁際まで逃げてきたが……まだ、追ってきてる……」
◇
その言葉で、周囲の空気が凍った。
追ってきてる。
結界の、すぐ手前まで。
——まずい。
地脈の護りは弱まっている。昨日、展望階で聞いた話が脳裏をよぎる。三十年前の半分もない。ギリギリの箇所が、いくつもある。
俺は、気づけば群衆をかき分けていた。
なぜ動いているのか、自分でもわからない。
ただ、右手が熱かった。昨日感じたのと同じ熱。今度は、もっとはっきりと。
指先から手首にかけて、何かが脈打っている。
「——来るぞ!」
隊員の誰かが叫んだ。
結界の境界線。薄い光の向こう側から、影が這い出してきた。
人の形じゃない。
四足で這うような、だが大きさは馬ほどもある、黒い塊。
——あれが、夜の国の怪物。
結界を越えた。
弱まった地脈の隙間を、縫うようにして。
隊員たちが武器を構えた。
だが、さっき聞いた言葉が頭をよぎる。逃げてきた、と。あの怪物から、逃げてきた。戦えなかったから、逃げてきた。
怪物が跳んだ。
隊員が武器を振り下ろすより早く、その爪が隊員の胸を裂いた。
血飛沫。悲鳴。倒れる体。
本能が叫んでいる。逃げろ、と。
なのに——足は退かなかった。
右手の熱が、止まらない。
まるで何かを求めているように。まるで、あの怪物を見て、反応しているかのように。
俺の手が、無意識に握り締められていた。
指先が、光っている。
——は?
自分の手を見下ろした。
手のひらから、淡い光が漏れている。白でも黄色でもない、なんとも言えない色の光。
怪物の複眼が、俺を捉えた。
考えるより先に、体が動いていた。
右手を振り上げた。
光が伸びた——刃のような形を成して、怪物の体に触れた瞬間。
音がした。
硬い何かを、断ち切る音。
刃が通らないはずの、夜の国の怪物の——その皮膚を、光の刃が、裂いていた。
◇
怪物が悲鳴を上げた。
人間の声じゃない。金属を引っ掻くような、耳を塞ぎたくなる絶叫。
黒い体が転がり、壁に激突した。
傷口から、何かが噴き出している。血じゃない。もっと黒くて、粘りのある液体。
——切れた。
呆然と、自分の手を見た。
光はまだ残っている。右手の上で、不安定に揺らめいている。形は——剣とも言えるし、そうでないとも言える。曖昧で、掴みどころのない輪郭。
怪物が立ち上がった。
傷を負っても、まだ動ける。目の数が減っていない。俺が切ったのは、体の一部だけ。致命傷じゃない。
赤い複眼が、俺を睨みつける。
殺意が肌を刺した。
直感でわかった。あの怪物は今、明確に俺を敵と認識している。傷を付けた相手として、殺すべき対象として。
喉が渇いた。
震えが、遅れて込み上げてくる。
それでも、怪物が再び跳びかかってくるのが見えた。
今度は——迎え撃った。
光の刃を横に薙いだ。
怪物の前足が、宙を舞った。
続けて、縦に振り下ろした。
首筋に刃が食い込み——そこで、光が消えた。
「っ——!」
力が、抜けた。
壁に手をついて、かろうじて体を支えた。
怪物はまだ生きている。
首筋から黒い液体を流しながら、這いずるように後退している。
——殺しきれなかった。
力が、続かなかった。
あと一撃。あと一撃あれば、止めを刺せたはずなのに。
怪物が、結界の外へ逃げていく。
追えない。体が、動かない。
視界が滲んでいる。汗か、涙か、自分でもわからない。
◇
静寂が、戻ってきた。
いや——静寂じゃない。周囲には人がいる。さっき逃げ惑っていた人々が、こちらを見ている。
誰も、何も言わない。
怪我をした隊員たちも、群衆も、全員の視線が俺に突き刺さっている。
その目の中にあるものが——わからない。
畏怖? 驚愕? それとも——恐怖?
「……何だ、あれ」
誰かが、呟いた。
「怪物を……斬った……」
「刃が通った……あいつの、あの光は……」
「救世主……」
その言葉が、どこからか上がった。
「救世主だ」
違う、と言いたかった。
俺は何も知らない。さっきの光が何なのかも、なぜ俺だけが怪物を傷つけられたのかも。
口を開こうとした。声が出なかった。
体に力が入らない。さっきの一瞬で、何かを大量に使い果たした感覚がある。
「……あの少年だ」
群衆の後ろから、声がした。
「前から、変わり者だと言われていた……塔で浮いていた、あの……」
「異端児……」
その言葉を聞いた瞬間、周囲の温度が変わった。
畏怖だけじゃない。
警戒。疑念。そして——恐れ。
「なぜ、あいつだけ……」
「普通じゃない……怪物と、同じ……」
違う。
そう叫びたかった。
俺は怪物じゃない。ただ——ただ、何かが起きただけだ。自分でもわからない何かが。
言葉が、喉で詰まった。
人々が、少しずつ距離を取り始めている。
さっき俺が助けたはずの隊員たちも、怯えた目を向けている。
◇
誰にも声をかけられないまま、俺は自分の部屋に戻った。
足取りは重かった。壁に肩を預けながら、ようやく狭い個室に辿り着いた。
粗末な寝台に倒れ込む。
右手を見つめている。
さっきの光は、もう出ない。何度握っても、何度念じても、掌の奥で何かが呼吸しているような感覚があるだけで、形にならない。
——何だったんだ、あれは。
怪物を切った。
あの隊員たちの刃が通らなかった怪物を、俺の光は切った。
なぜだ。
なぜ俺だけ。
この塔に住む人間の中で、俺だけが——。
手のひらを見つめたまま、考えを巡らせる。
出てくるのは、疑問ばかりだった。
一つだけわかったことがある。
あの力は、万能じゃない。
数回振るっただけで力尽きた。怪物を逃がした。止めを刺せなかった。
もしあの怪物が逃げずに攻撃を続けていたら——俺は、死んでいた。
外征隊の連中と同じだ。いや、もっと酷い。あいつらは武器を持ち、訓練を受け、チームで動く。俺は一人で、武器の使い方すら知らない。
怪物を殺せる力がある。
それでも——一瞬で尽きる。
戦い方を知らない。
体力もない。
経験もない。
あるのは、ただ——この右手だけ。
「……これで、何ができる」
呟いた声が、狭い部屋に落ちた。
右手の傷跡を見つめていると、別の誰かの手に見えた一瞬があった。
守れなかった誰か。伸ばしても届かなかった手。
今度こそ、と思った。
この世界で、今度こそ——誰かを守りたいと。
でも、この力で何ができる。
一瞬で尽きる光で、どうやってあの闇の中を行く。どうやって、あの声の主を——壁の向こうで助けを求めている誰かを、救いに行く。
俺は天井を見上げた。
灰色の、何の変哲もない天井。
◇
翌日から、塔の中での俺への扱いが変わった。
廊下を歩くと、人々が道を開ける。
目を合わせようとしない。
距離を取る。
食堂で席についた時だった。隣にいた中年の男が、ちらりとこちらを見て、すぐに立ち上がった。
何も言わず、別の席へ移っていく。
向かいにいた若い女が、顔を伏せた。
「……ごめんなさい、あの人、悪気はないの。ただ——」
その言葉は、最後まで続かなかった。
女も、目を伏せたまま立ち上がり、去っていった。
一人になった食卓で、俺は冷めた粥を啜った。
味がしなかった。
通路を歩いていると、母親に手を引かれた子供とすれ違った。
子供が、俺を見て言った。
「お母さん、あの人——」
「しっ。見ちゃいけません」
母親は足を速めた。子供は振り返りながら連れ去られていった。
その目に浮かんでいたのは、好奇心と——恐怖だった。
「救世主」と囁く者がいた。
「化け物の同類だ」と恐れる者もいた。
どちらの声も、俺の耳に届いていた。
感情が、よくわからなかった。
怒るべきなのか。悲しむべきなのか。それとも——当然のことだと、受け入れるべきなのか。
◇
その日の夕方、俺は訓練場にいた。
誰もいない広い空間。壁際に並んだ木刀が、埃を被っている。
木刀を一本、手に取った。
重い。握りが馴染まない。
それでも、振ってみた。
右から左へ、横薙ぎ。
縦に振り下ろす。
突き。
形も何もない、ただ振っているだけ。
汗が額に浮かんだ。息が上がる。
——弱い。当たり前だ。訓練なんかしたことがない。
木刀を握り直した。
俺だけが、外の怪物を殺せる。
それが本当なら——俺には、行くしかないんじゃないのか。
あの力は一瞬で尽きた。
なら、体を鍛えるしかない。
訓練も、経験もない。
なら、今から始めるしかない。
もう一度、木刀を振った。
フォームが崩れている。わかっている。わかっているけど、止まれなかった。
壁の向こうで、誰かが待っている。
「灯が消えそう」と言った、あの声が、まだ頭に残っている。
俺は木刀を振り続けた。
形になんかならない。
それでも——止まっているよりはマシだ。
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(第03話 了)
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