第2話 終ノ塔
あの夜から、眠れなくなった。
目を閉じれば、あの声が蘇る。消え入りそうな、震える声。「灯が、もう、消えそうなの」——壁の向こうから届いた、誰かの声。
そして、闇の中を横切っていった巨大な影。
俺はあれを見た。確かに見た。
だから今日も、塔の展望階に立っている。
壁の外を眺めながら、考えている。あの声の主は、どこにいる。
◇
終ノ塔。
天を貫く巨大な灰色のピラミッド。見上げれば首が痛くなるほど高く、見渡せば果てが霞むほど広い。積み重なった金属の階層は千を超え、その高さは七里に及ぶと言われている。
壁に囲まれた要塞。その外側に広がる永遠の闇。塔の麓を取り巻く淡い光の環——地脈の護りと呼ばれる結界が、かろうじて人類を守っている。
二つの世界を知る俺には、この光景が異様に映る。
現代日本には、こんなものはなかった。壁もない。化け物もいない。太陽があり、空は青く、夜には星が輝いていた。
今、空には何もない。
太陽は遠い昔に死に、星すらも見えない。あるのはただ、底知れぬ暗黒だけ。
「夜の国」と呼ばれるその闇には、人を喰らう怪物が巣食っている。
◇
展望階には、俺の他に数人の人影があった。
誰もが黙って外を見つめている。だが、その視線は壁の外ではなく、足元の淡い光——地脈の護り——に向けられていた。
「……また、薄くなったな」
白髪の老人が呟いた。誰に言うでもなく、ただ、呟いた。
隣にいた中年の女が頷く。
「三十年前の半分もないそうよ。あと百年持てば御の字だって」
「百年か。儂らは死んどるな」
「だから何よ。どうせ出られないんだから、同じことでしょう」
女の声には諦めが滲んでいた。怒りでも悲しみでもない。ただ、当たり前のこととして受け入れている。
——それでいいのかよ。
喉元まで言葉が出かかって、飲み込んだ。
言ったところで、何が変わる。この老人も、この女も、百年後のことなど考えても仕方ないと思っている。どうせ生きていないのだから、と。
苛立ちが胸の底でくすぶった。
同時に、どこか分かってしまう自分がいる。俺だって、壁の外に出る方法なんて知らない。出たところで、何ができる。
結界の光が、また少しだけ揺れた気がした。
風のせいだ。きっと、風のせいだ。
◇
塔には、人類最後の数百万が暮らしている。
一階層ごとに街があり、工房があり、畑がある。地下の深層では、わずかな農作物を育てている。人工の光と地熱を使って、かろうじて食料を生産している。
だが、それも限界に近い。
下層に降りていくと、人だかりができていた。
狭い通路に人々がひしめいている。灰色の壁、灰色の天井、灰色の服。色のない世界。
人だかりの中心を見て、足が止まった。
外征隊だ。
帰還した隊員たちが、担架を運んでいる。
「……三人か」
誰かが呟いた。
「十五人で出たんだぞ」
「知ってる。だから、三人しか帰ってこなかった」
担架の上には、動かない体が横たわっていた。いや——動かないのではない。既に息をしていないのだ。物言わぬ亡骸と、かろうじて生き延びた三人。
俺は、その光景から目を離せなかった。
隊員の一人が、膝をついて嗚咽していた。若い男だ。俺と、そう変わらない年齢に見える。
その背中を見ながら、胸の奥で何かが軋んだ。
怖い。
あれが、壁の外だ。あの闇の中に入れば、十五人のうち十二人が死ぬ。それが当たり前の世界。
なのに——。
安堵している自分がいた。
壁の外に出る理由がある。あの声を聞いた。あの声の主を助けに行くという、理由がある。
それは恐ろしいことなのに、どこかで俺は——自分の存在に、意味を見出しかけていた。
……気持ち悪い。
人が死んでいるのを見ながら、そんなことを考える自分が。
視線を外した。
担架が通り過ぎるまで、俺は壁に背をつけて待った。
◇
塔の上層に戻る途中、俺は図書室に立ち寄った。
埃っぽい書架の間を歩きながら、古い記録を探す。この塔の歴史、世界の成り立ち、外の怪物について——何か、手がかりになるものを。
「夜の国の脅威について」
そう題された古文書を開いた瞬間、首筋がざわついた。
本能的な警告。
読むな、と体が言っている。知らない方がいい、と。
俺は、それでもページをめくった。
——視るもの。
巨大な静止怪物。人類を見つめ続けている。近づくな。
——沈黙の館。
灯りが灯り続けている。音はない。入った者は、二度と還らぬ。近づくな。
それ以上は、読めなかった。
続きのページが破られていた。
誰かが意図的に破いたのか。それとも——知ってはいけないから、自分で破いたのか。
古文書を閉じた手が、かすかに震えていた。
さっき見た外征帰還の光景と、この古文書の警告が、頭の中で重なる。
壁の外は人の生きる場所じゃない。
それが、この世界の現実だった。
◇
夜になった。
この世界に夜も昼もないが、塔の中では時間が区切られている。照明が落ち、人々が眠りにつく時間帯を「夜」と呼んでいた。
俺は自分の部屋——狭い個室に戻り、粗末な寝台に腰を下ろした。
目を閉じると、かつての世界の残像が蘇る。
車のクラクション。人々の笑い声。コンビニの明るさ。駅のホーム。どこへでも行けた、あの世界。
今は違う。
壁の外へ出た者が生きて帰る方が奇跡だ。
それが、この世界の絶対的なルールだった。
◇
眠れない。
あの声が——夢の中で聞こえるあの声が、頭から離れない。
「灯が消えそう」と言った、あの声。壁の向こうから、俺を呼んでいた声。
あれは何だったのか。
幻聴か。夢の残滓か。それとも——本当に、誰かが俺を呼んでいるのか。
答えは出ない。
だが、一つだけ確かなことがある。
このままでは、全員死ぬ。
地脈は衰え、食料は尽き、外征の死者は増え続けている。壁の中にいれば安全だと言うが、その安全にも限りがある。百年。あるいは、もっと短いかもしれない。
誰かが、何かを変えなければならない。
外を変えなければ、いずれこの塔ごと滅びる。
俺は二つの世界を知っている。だからこそ、この閉塞が——この絶望的な現状が、はっきりと見える。
◇
翌朝、俺は再び展望階に立っていた。
夜の国を見下ろす。
果てのない闇。光のない世界。時折、遠くで何かが動く気配がする。巨大な何かが、闇の中を這いずっている。
北西の方角に、山のような影が見えた。動かない。ただ、そこにある。
俺は壁に手をついた。
指先が冷えていた。足が、動かない。
——逃げたいのか、俺は。
違う。逃げたいわけじゃない。
怖いだけだ。怖い、でも——。
あの声を聞いた時から、もう知らないふりはできなくなっていた。
壁の中にいても、未来はない。
人々は諦め、顔を背け、ただ静かに滅びを待っている。
それで、いいのか。
昨日見た外征隊の帰還が、まだ頭に残っている。
膝をついて泣いていた若い男。動かなくなった仲間たち。あれが、壁の外の現実。
——でも、あいつらは行った。
死ぬと分かっていても、外へ出た。
なぜだ。任務だからか。命令だからか。
それとも——何かを変えたかったのか。
俺の中で、何かが動いた。
今度こそ、という言葉が喉元まで出かかって、止めた。
そんな曖昧な決意じゃ足りない。
知らなきゃいけない。
この塔がどうなっているのか。地脈が何なのか。壁の外に出る方法があるのか。
そして——あの声の主が、どこにいるのか。
俺は壁から手を離した。
まだ何もできない。
でも、目を逸らさないことだけは、決めた。
◇
図書室に戻ろうとした時だった。
通路の向こうから、騒ぎの気配がした。
「——救世主だ」
「救世主が目覚めた」
誰かがそう叫んでいた。
救世主?
何のことだ。
騒ぎの方へ足を向けかけて——。
俺の右手が、一瞬だけ熱を持った。
錯覚か、と思った。
だが、確かに感じた。指先から手首にかけて、微かな熱。まるで何かに呼応するように、確かに灯った熱。
……何だ、今のは。
熱はすぐに消えた。
見下ろした手のひらは、いつも通りだった。何も変わっていない。
気のせいだ。きっと、気のせいだ。
そう思いながら、俺は騒ぎの方へ歩き出した。
────────────────────────────────
(第02話 了)
────────────────────────────────




