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第1話 転生

壁があった。


 天を衝くほどの、巨大な壁。

 見上げても果てが見えない。見渡しても終わりがない。人類を閉じ込める檻のように、世界を二つに分断していた。


 俺はその壁際に立って、闇を見つめていた。


 壁の向こうには、何もない。

 星もない。月もない。光の欠片すらない。

 ただ、底知れぬ暗黒だけが、そこにある。


 大人たちは、あの闇を「夜の国」と呼ぶ。

 それ以上は誰も語らない。口を開きかけては、何かを呑み込むように黙る。

 化け物がいる、とだけ聞いた。出れば死ぬ、とだけ聞いた。


 俺は十七年、この壁の内側で生きてきた。

 終ノ塔。人類最後の要塞。

 積み重なった石造りの階層、薄暗い照明、どこまでも続く螺旋の通路。塔の中に街があるのではなく、塔そのものが街だった。


 俺の名前は真。

 この塔の下層で育った、名もなき孤児。

 誰にも顔を覚えられず、誰からも期待されない。

 「異端児」と呼ばれることもあった。周囲の子供たちと、どこか噛み合わなかったから。


 理由は分かっている。

 俺には、前世の記憶がある。



      ◇



 どうやって死んだのか、今ではもう曖昧だ。

 ただ、最後の瞬間だけは覚えている。


 誰かの悲鳴が聞こえた。

 体が勝手に動いていた。走り出していた。

 光が視界を焼いて——衝撃が来て——それで、終わった。


 痛みは一瞬だった。

 恐怖よりも先に、後悔が来た。


 間に合わなかった。

 また、守れなかった。


 誰を守ろうとしたのか、もう思い出せない。名前も、顔も、記憶の底に沈んでいる。

 それでも、胸の奥に残る熱だけは消えなかった。

 焼けつくような悔恨。握りしめた拳の中で、何かがすり抜けていく感覚。


 意識が沈んでいく中で、俺は願っていた。

 次は、と。

 今度こそ、と。



      ◇



 気づいた時には、見知らぬ天井があった。


 石造りの部屋。粗末な寝台。窓の外には、巨大な塔のシルエット。

 自分の手を見下ろして、息を呑んだ。小さい。細い。傷一つない、子供の手のひら。


 夢だと思った。

 頬をつねった。痛かった。

 もう一度、強くつねった。やっぱり痛かった。


 転生、という言葉が頭をよぎった。

 馬鹿げている。そんなものは物語の中だけの話だ。

 それでも現実は、俺の常識を待ってくれなかった。


 窓辺に立って外を見た時、体が凍りついた。


 壁だった。

 塔を取り囲む、途方もない壁。

 その向こうには、ただ闇だけが広がっていた。


 本能が警告を発していた。

 あそこに出てはいけない。あの暗黒の中には、人間が決して踏み入れてはならない何かがいる。

 理屈じゃなかった。体が、魂が、知っていた。



      ◇



 それから、時が流れた。


 この世界のことは、少しずつ分かってきた。

 人類は滅びかけていた。壁の外——「夜の国」には化け物が巣食い、人を襲い、人を喰らう。かつて世界中に広がっていたはずの人類は、今ではこの終ノ塔に残る者だけ。


 壁がなければ生きられない。

 壁の外に出れば死ぬ。

 それがこの世界の常識だった。


 俺は塔の下層で育った。

 誰の子供でもない孤児。前世の記憶を持つせいで、同年代の子供たちとは話が合わない。

 大人たちは俺を気味悪がり、子供たちは俺を避けた。


 構わなかった。

 俺には、考えることがあった。


 なぜ転生したのか。

 なぜ前世を覚えているのか。

 なぜ、この閉ざされた世界に生まれ変わったのか。


 答えは見つからない。

 ただ、胸の奥に残る熱だけが、俺を前に進ませた。


 今度こそ。

 次は、誰かを——


 その先を言葉にすることが、なぜか怖かった。

 口にしたら、また同じことを繰り返す気がして。



      ◇



 十七歳になった頃から、夢を見るようになった。


 いつも同じ夢だ。

 闇の中に、誰かが立っている。


 顔は見えない。声も、はっきりとは聞こえない。

 ただ、儚げな輪郭だけが、闇に浮かんでいる。


 手を伸ばしても届かない。

 走っても追いつけない。

 それでも俺は、その影から目が離せなかった。


 会ったことがないはずなのに。

 名前も知らないはずなのに。

 魂を揺さぶるような懐かしさが、胸を締めつける。


 ——待っている。


 夢の中で、声が聞こえた気がした。

 かすかな、消え入りそうな声。


 ——ずっと、待っている。


 目が覚めると、涙が頬を伝っていた。


 なんだ、これは。

 俺は会ったこともない相手に、なぜこんなにも胸が苦しくなる。

 まるで——魂そのものが、誰かを覚えているみたいだった。



      ◇



 壁の向こうに、何があるのか。


 大人たちは教えてくれない。

 化け物がいる、出れば死ぬ。それだけを繰り返して、口をつぐむ。

 まるで何かを隠しているように。

 まるで、知られたくない真実があるように。


 俺は夜になると、よく壁際に立った。

 闇を見つめながら、考えていた。


 あの夢の中の誰かは、どこにいる。

 壁の内側か。それとも——


 考えるだけで、背筋が冷えた。

 壁の外。夜の国。化け物の巣窟。

 出れば死ぬと、誰もが口を揃える場所。


 それでも。

 夢の中の声は、確かに外から聞こえた気がした。

 闇の向こうから、俺を呼んでいた。そう思えてならなかった。


 根拠はない。証拠もない。

 ただの妄想かもしれない。

 それでも——俺の体は、そうじゃないと言っていた。



      ◇



 ある夜のことだった。


 俺は塔の上層から、夜の国を見下ろしていた。

 壁の向こうに広がる暗黒。星も月もない、完全な闇。


 その時だった。


 ——聞こえますか。


 声が、した。

 耳ではなく、頭の中に直接響く声。

 かすかで、消え入りそうで、それでも確かに。


 ——どなたか……どうか、応えて。


 心臓が跳ねた。

 夢の中の声と同じだった。あの、懐かしい声。


 ——灯が、もう、消えそうなの。


 俺は壁に両手をついた。

 返事をしようとした。声を出そうとした。

 だが、言葉が出ない。どう応えればいいか分からない。


 声は、それきり途絶えた。

 まるで蝋燭の火が風に揺れて消えるように、ふっと。


 俺は闇を見つめたまま、立ち尽くしていた。

 今のは何だ。幻聴か。夢の続きか。

 それとも——本当に、誰かが俺を呼んでいるのか。


 壁の向こう。

 夜の国のどこかで。


 拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込む。

 痛みだけが、今の俺に確かなものだった。



      ◇



 塔の中は、息苦しかった。


 誰もが壁の内側に閉じこもり、外を見ないようにして生きている。

 外のことを聞くと顔を曇らせ、話題を変える。

 まるで、考えること自体が禁じられているように。


 俺も、その一人だったはずだ。

 前世の記憶はあっても、この世界の常識には染まっていた。

 壁の外は危険。出れば死ぬ。だから誰も出ない。


 それでいいと思っていた。

 それが正しいと思っていた。


 でも——あの声を聞いてから、全てが変わった。


 壁の向こうに、誰かがいる。

 俺を呼んでいる誰かが。

 助けを求めている誰かが。


 それを知ってしまったら、もう目を逸らせなかった。



      ◇



 その夜も、俺は壁際に立っていた。


 耳を澄ませた。目を凝らした。

 あの声が、もう一度聞こえないかと。


 だが、闇は沈黙していた。

 風の音すらない。虫の声すらない。

 ただ、重く、冷たい静寂だけがあった。


 ——待ってろ。


 俺は闇に向かって呟いた。

 自分でも、誰に言っているのか分からなかった。


 ——必ず、行くから。


 馬鹿げた言葉だった。

 壁の外に出る方法など知らない。出たところで、化け物に喰われるだけだ。

 それでも、言わずにはいられなかった。


 前世で、俺は誰かを守れなかった。

 その記憶が、今も胸の奥で疼いている。

 同じ後悔を、二度は味わいたくなかった。


 頭上には、星のない夜空が広がっていた。

 塔の灯りだけが、かろうじて闇を押し返している。

 壁の向こうは、どこまでも暗かった。


 その時だった。


 壁の外から、低い音が響いた。

 地鳴りのような、呻き声のような。

 人間のものではない、何かの気配。


 俺は息を止めた。


 闇の中で、何かが動いた。

 巨大な、途方もなく巨大な何かの影が、壁の外を横切っていく。


 見上げていた。目が離せなかった。

 恐怖で足がすくんでいるのに、視線だけが影を追っていた。


 化け物だ。

 あれが、夜の国の——


 影は、ゆっくりと闇に消えていった。

 俺を見ていたのか、気づいてすらいなかったのか。

 分からない。


 ただ、一つだけ分かったことがある。


 あの闇の中に、誰かがいる。

 あんな化け物がうろつく場所に、俺を呼ぶ声の主が。


 拳が震えていた。

 恐怖か。怒りか。それとも——


 次は、と思った。

 今度こそ、と思った。


 壁の向こうに、何があっても。

 あの声を、見捨てるわけにはいかなかった。

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