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第10話「夜の国へ」



 目を開けた瞬間、俺は自分がどこにいるのか分からなかった。


 天井がない。

 星もない。

 ただ、どこまでも続く闇が——頭上に広がっている。


 岩壁に背を預けたまま、椿が俺の肩を揺すっていた。


「真。起きろ。交代だ」


 その声で、ようやく意識が戻った。

 ——そうだ。俺たちは壁の外にいる。


 終ノ塔を出て、夜の国を歩いている。

 昨夜、岩陰で休んだ。椿と交代で見張りをしながら眠った。指を絡め合ったまま眠ったことを、俺の身体はまだ覚えている。


「……すまない、寝過ぎたか」


「いや、予定通りだ。そろそろ出発する」


 椿は既に立ち上がり、腰の剣を確かめていた。

 武人の顔に戻っている。昨夜涙を見せた少女の面影は、鎧の下に隠れていた。

 でも——俺は知っている。その鎧の下に何があるか。


 俺も立ち上がった。

 身体の節々が軋む。岩の上で眠ったせいだ。それでも、不思議と気力は充実していた。


 椿が、俺の手を取った。


「行くぞ」


 短く応じて、二人で岩陰を出た。



            ◇



 その瞬間——俺は息を呑んだ。


 岩陰の中にいた時は、闇の一部しか見えていなかった。

 外に出て、初めて——夜の国の全景が、目の前に広がった。


「……これが」


 言葉が出なかった。


 永遠の闇。

 どこまでも続く黒。

 空には星もなく、月もなく、ただ重苦しい暗黒が——天蓋のように世界を覆っている。


 そして、その闇の中に——


 違う。

 闇じゃない。


 この空間には、何かがいる。

 呼吸している。見ている。待っている。


 恐怖で膝が震える。

 ——なのに、目が離せなかった。


「……何だ、あれは」


 椿の声が掠れていた。


 遠くに、山のような影が聳えていた。

 いや、山ではない。

 ——動かない。しかし、生きている。


 「視るもの」だ。


 栞の記録で読んだ。巨大な静止怪物。人類をただ見つめ続ける——不可知の恐怖。

 昨夜、迂回しながら横切った時に遠くで見た、あの影。今、改めて見ると——その規模が違う。


 塔の何倍もある。

 終ノ塔よりも、さらに——大きいかもしれない。


「直視するな」


 俺は椿の腕を掴んで、視線を逸らさせた。


「知ってる。……だが、これは」


 椿の手が、僅かに震えていた。

 武人の彼女でさえ——この光景には、声を失っている。


 足元を見た。

 地面は——脈打っていた。


 土ではない。何か別の、有機的な——肉のような質感。黒ずんだ色。ところどころにひび割れがあり、そこから赤黒い光が漏れている。


 地脈の残滓か。それとも——


 ——あるいは、この世界そのものの血管か。


 匂いが鼻を突いた。

 腐った甘い匂い。壁を出た時から感じていたが、今はさらに濃い。

 吐き気がこみ上げる。


 口で浅く吸え。鼻を使うな。


 俺は自分に言い聞かせた。

 椿が無言で同じことをしているのが、視界の端で分かった。


 空気そのものが——敵意を帯びている。

 塔の中では感じたことのない圧力が、全身にのしかかってきた。


 これが、夜の国。

 これが——壁の外。


 終ノ塔の人々が語っていた「怪物だらけ」という言葉が、いかに生ぬるかったか。

 今、俺は思い知っている。


 ——怖い。

 怖くて仕方ない。


 なのに、どこかで——引き込まれる感覚があった。

 この闇の奥に、何かがある。俺を待っている何かが。


 気のせいだ。そう思おうとした。

 思おうとしたのに、足は自然と前を向いていた。



            ◇



 経路図を広げた。


 栞が渡してくれた、百年前の外征隊の記録をもとにした地図。

 現在地を確認する。岩陰は、終ノ塔から南西に半日ほど進んだ場所。


 目的地は——灯ノ塔。

 さらに南西へ、片道十日以上。


 地図には、危険地帯の印がいくつも記されている。

 「視るもの」の領域。沈黙の館の周辺。夜の住人の縄張り。

 そして——空白の領域。


 空白は、記録がないという意味だ。

 百年前の外征隊が、そこまで辿り着けなかった。


「……この先、どこまで地図が通用するか分からない」


 俺は正直に言った。


 椿は無言で地図を見つめ、それから小さく首を動かした。


「分かってる。でも、行くしかない」


 地図を仕舞う。

 懐の護符に手を添えた。黙老からもらった護符と、栞が渡してくれた護符。二つ。

 これが——「視るもの」の視線を逸らす唯一の頼みだ。


 俺は右手を見た。

 光の刃を生み出す手。夜の国の怪物を唯一殺せる力。

 制御ができない。暴走する。数回使えば枯渇する。


 万能じゃない。

 救世主と呼ばれても、俺にできることは限られている。


 椿が俺の背中を軽く叩いた。


 それだけで——分かった。

 迷うな、と。


 歩き出す。

 足元の地面が、脈動に合わせて僅かに揺れた。



            ◇



 数時間歩いた。


 時間の感覚が狂う。

 空に太陽も月もない世界では、昼も夜も区別がつかない。

 ただ、闇と——遠くで蠢く何かの存在だけが、時を刻んでいた。


 椿と俺は、交互に前を行きながら進んだ。

 視界を広く保ち、足音を殺し、呼吸を浅くする。


 終ノ塔の訓練で叩き込まれた技術。

 ——だが、ここでは何一つ確実なことがない。


 塔の常識が、通用しない。


 方位を確認しようとした。地図と照らし合わせる。

 ——合わない。


「真。この岩、さっきも見なかったか」


 椿が低い声で言った。


 俺も気づいていた。

 同じ形の岩が、二度目だ。いや、三度目かもしれない。


「方位が狂ってる。……いや、違う」


 俺は立ち止まった。


「地形が、変わってる」


 椿の眉間に皺が寄った。

 彼女も理解したのだ。この世界では、地面そのものが動く。

 百年前の記録など、どこまで当てになるか分からない。


 懐の護符が、僅かに熱を持った気がした。

 ——反応してる。何かが近い。


 俺は護符を握りしめ、周囲を見回した。


 何もない。

 何も見えない。


 ——だが、何かがいる。



            ◇



 前方に——何かがいた。


 人型ではない。

 四足でもない。

 ただ、黒い塊が——地面から盛り上がっている。


 動かない。

 しかし——生きている。


 椿が剣の柄に手をかけた。

 俺は右手に意識を集中させた。


 光の刃。発動できるか——いや、まだ使うな。

 あれが襲ってくるまでは、力を温存しろ。


 黒い塊が——僅かに揺れた。


 背筋に冷たいものが走った。

 椿の肩が強張るのが、視界の端で見えた。


 ——怖い。

 逃げ出したい。


 なのに——目が離せなかった。

 あの黒い塊の中に、何かが見える気がする。形のない何かが。


 十秒。

 二十秒。

 三十秒。


 黒い塊は——そのまま、地面に沈んでいった。

 音もなく、痕跡も残さず。


 俺の手が震えていた。

 気づくと、椿の手も白くなるほど剣を握りしめていた。


「……行ったのか?」


「分からない。……だが、今は動かない方がいい」


 さらに一分、その場で待った。


 ——消えた。

 本当に、いなくなった。


 椿と目を合わせた。

 言葉はなかった。

 言葉にできない恐怖を、視線だけで共有した。


 あれは何だった。

 記録にもない。名前すらない。


 ——記録にないものが、この世界にはまだいくらでもいる。


 その認識が、重く胸に落ちた。


 俺たちは再び、足を進めた。



            ◇



 さらに数時間。


 地形が変わった。

 平坦だった大地が、次第に起伏を持ち始めていた。


 黒ずんだ岩が点在し、その隙間から赤黒い光が漏れている。

 地脈の残滓だ。——いや、地脈そのものの傷口かもしれない。


 足元が不安定になった。

 脈打つ地面の上を歩くのは、まるで巨大な生物の背中を歩いているようだった。


 何度か、怪物の存在に遭遇した。

 遠くで何かが動く振動。空気の流れの変化。そして——足元の脈動が、一瞬乱れる。


 その度に立ち止まり、呼吸を殺し、身を低くした。

 護符を握りしめ——通り過ぎるのを待った。


 戦わずに済んでいる。

 ——それは、運がいいだけだ。


 一度でも見つかれば、俺の力を使うしかない。

 そして、その力は——数回で尽きる。


「……休憩しよう」


 近くに、岩の窪みがあった。そこに身を寄せる。


 水を飲む。携行食を少しだけ口に入れる。

 体力を維持しなければ、先には進めない。


 椿が、俺の隣に腰を下ろした。


「私は——この世界を知らなかった」


 その言葉には、複雑な感情がこもっていた。


「塔の中で、外の恐ろしさは聞いていた。訓練でも、外征の記録を読んだ。でも——」


 椿は、闇を見つめていた。


「想像と、現実は違う。こんな場所を——十日以上歩くのか」


 その声には、弱音と——自分に対する苛立ちが混じっていた。

 弱音を吐いた自分を、彼女は許せないのだ。


「……椿」


「分かってる。分かってるんだ。歩けるかじゃない。歩くしかない。——でも」


 言葉が途切れた。

 彼女の拳が、膝の上で白くなっていた。


「……怖いのは当然だ」


 俺は言った。


「俺も怖い。膝ががくがくしてるし、今すぐ逃げ出したいくらいだ。……でも、それでも」


 椿が顔を上げた。


「お前がいるから、まだ立っていられる」


 椿の目が、一瞬だけ揺れた。

 ——それから、口元がわずかに緩んだ。


「……馬鹿。同じことを言わせるな」


 照れ隠しの言葉。けれど、その声には——確かな温かさがあった。



            ◇



 休憩を終え、再び歩き始めた。


 その時——俺は、奇妙な感覚に気づいた。


 足が、軽い。


 いや、軽いというのとは違う。

 ——歩きやすい。


 地面の凹凸が、なぜか足に馴染む。

 闇の中でも、進むべき方向が——分かる気がする。


 ……何だ、これは。


 俺は立ち止まった。

 右手を見た。


 ——温かい。

 微かに、熱を帯びている。


 光の刃を発動させたわけじゃない。

 なのに、手のひらが——脈打つ地面と、同じリズムで熱を持っている気がする。


 周囲を見回す。


 永遠の闇。敵意を帯びた空気。足元で脈打つ大地。

 ——何も変わっていない。


 なのに——


「……拒まれていない」


 俺は、無意識に呟いていた。


 この世界は、人間を拒んでいるはずだ。

 壁の外に出た者は死ぬ。それが、塔の常識だった。


 ——なのに、俺は、この闇に「拒まれている」という感覚がない。


 むしろ——


 懐かしい。


 ……馬鹿な。


 この世界のどこに、懐かしさを感じる理由がある。

 俺は前世の記憶を持っている。現代日本で死んで、この世界に転生した。

 夜の国に来たことなんて、一度もない。


 ——ないはずだ。


 なのに、足元の脈動が、心臓の鼓動と同期する感覚がある。

 闇の中に、知っている道がある気がする。


 分からない。

 分からないけど——怖い。


 怖いのに、懐かしい。


 その矛盾が、胸の奥で渦を巻いていた。


「真。どうした」


 椿が振り返っていた。


「……何でもない」


 俺は首を振った。

 頭を振って、違和感を払おうとした。


 払えなかった。


 ——この感覚は、後で考えろ。今は、奈々のところへ行くことだけを考えろ。


 俺は再び歩き出した。

 胸の奥に澱のように残った違和感を、無理やり押し込めて。



            ◇



 どれくらい歩いただろう。


 時間の感覚は、とっくに失われていた。

 ただ、足を動かし、前に進む。

 それだけを繰り返していた。


 遠くに、また「視るもの」の影が見えた。

 別の個体だ。最初に見たものより——さらに大きい。


 山のような巨体が、闇の中にただ聳えている。

 動かない。——だが、見ている。


 俺たちを。

 いや、俺たちだけではない。

 この世界の全てを——見つめている。


「迂回する」


 椿が口を引き結んだまま、了承の視線を返した。


 西側へ進路を変える。

 「視るもの」の領域に入らないよう、慎重に距離を取りながら。


 護符の存在を確かめた。

 栞が言っていた。「視るもの」は光に弱い、と。

 この護符は、地脈の余熱を宿している。いざという時に使えば、数秒の隙を作れる。


 ——だが、数秒で逃げ切れるのか。

 あれほど巨大なものから。


 考えるな。

 今は、見つからないことだけを考えろ。


 足を速めた。

 椿も、俺に続いた。



            ◇



 「視るもの」の領域を迂回し終えた頃——俺たちは、ようやく少し安全な場所を見つけた。


 岩の崖が、切り立っている場所。

 その下に、洞窟のような窪みがあった。


「ここで休もう」


 二人で窪みに入り、背中を岩壁に預けた。


 静寂が降りてきた。

 夜の国の、音のない静寂。


 椿が、俺の隣に座った。

 互いの呼吸が聞こえる距離。


「真」


 名前を呼ばれて、顔を向けた。


「——ここを、人が歩けるのか」


 椿の声が、掠れていた。


 武人の彼女が、初めて——弱音を漏らしていた。

 さっきよりも、さらに深い場所から出てきた言葉だった。


 俺は、その弱さを受け止めた。

 当然だ。この世界を見て、弱音を吐かない方がおかしい。


「歩く」


 俺は答えた。


「奈々が、待ってる」


 その言葉を口にした瞬間——奈々の声を、探した。


 テレパシー。

 二日前に途絶えたまま、まだ届かない。


 でも——繋がりは、感じる。

 細い糸のような、かすかな温もり。


 あいつは、まだ生きている。

 俺には、それが分かる。


 椿が、同じ言葉を繰り返した。


「奈々が、待ってる」


 その声は——祈りのように、静かだった。


 闇が、応えるように蠢いた。

 遠くで、何かが動く振動。


 俺たちは呼吸を殺し——それが通り過ぎるのを待った。


 夜の国は、まだ始まったばかりだ。

 灯ノ塔までは——まだ、遠い。


 けれど——隣に椿がいる。

 奈々の声を信じている。


 俺は——進む。



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(第10話 終)

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