第10話「夜の国へ」
◇
目を開けた瞬間、俺は自分がどこにいるのか分からなかった。
天井がない。
星もない。
ただ、どこまでも続く闇が——頭上に広がっている。
岩壁に背を預けたまま、椿が俺の肩を揺すっていた。
「真。起きろ。交代だ」
その声で、ようやく意識が戻った。
——そうだ。俺たちは壁の外にいる。
終ノ塔を出て、夜の国を歩いている。
昨夜、岩陰で休んだ。椿と交代で見張りをしながら眠った。指を絡め合ったまま眠ったことを、俺の身体はまだ覚えている。
「……すまない、寝過ぎたか」
「いや、予定通りだ。そろそろ出発する」
椿は既に立ち上がり、腰の剣を確かめていた。
武人の顔に戻っている。昨夜涙を見せた少女の面影は、鎧の下に隠れていた。
でも——俺は知っている。その鎧の下に何があるか。
俺も立ち上がった。
身体の節々が軋む。岩の上で眠ったせいだ。それでも、不思議と気力は充実していた。
椿が、俺の手を取った。
「行くぞ」
短く応じて、二人で岩陰を出た。
◇
その瞬間——俺は息を呑んだ。
岩陰の中にいた時は、闇の一部しか見えていなかった。
外に出て、初めて——夜の国の全景が、目の前に広がった。
「……これが」
言葉が出なかった。
永遠の闇。
どこまでも続く黒。
空には星もなく、月もなく、ただ重苦しい暗黒が——天蓋のように世界を覆っている。
そして、その闇の中に——
違う。
闇じゃない。
この空間には、何かがいる。
呼吸している。見ている。待っている。
恐怖で膝が震える。
——なのに、目が離せなかった。
「……何だ、あれは」
椿の声が掠れていた。
遠くに、山のような影が聳えていた。
いや、山ではない。
——動かない。しかし、生きている。
「視るもの」だ。
栞の記録で読んだ。巨大な静止怪物。人類をただ見つめ続ける——不可知の恐怖。
昨夜、迂回しながら横切った時に遠くで見た、あの影。今、改めて見ると——その規模が違う。
塔の何倍もある。
終ノ塔よりも、さらに——大きいかもしれない。
「直視するな」
俺は椿の腕を掴んで、視線を逸らさせた。
「知ってる。……だが、これは」
椿の手が、僅かに震えていた。
武人の彼女でさえ——この光景には、声を失っている。
足元を見た。
地面は——脈打っていた。
土ではない。何か別の、有機的な——肉のような質感。黒ずんだ色。ところどころにひび割れがあり、そこから赤黒い光が漏れている。
地脈の残滓か。それとも——
——あるいは、この世界そのものの血管か。
匂いが鼻を突いた。
腐った甘い匂い。壁を出た時から感じていたが、今はさらに濃い。
吐き気がこみ上げる。
口で浅く吸え。鼻を使うな。
俺は自分に言い聞かせた。
椿が無言で同じことをしているのが、視界の端で分かった。
空気そのものが——敵意を帯びている。
塔の中では感じたことのない圧力が、全身にのしかかってきた。
これが、夜の国。
これが——壁の外。
終ノ塔の人々が語っていた「怪物だらけ」という言葉が、いかに生ぬるかったか。
今、俺は思い知っている。
——怖い。
怖くて仕方ない。
なのに、どこかで——引き込まれる感覚があった。
この闇の奥に、何かがある。俺を待っている何かが。
気のせいだ。そう思おうとした。
思おうとしたのに、足は自然と前を向いていた。
◇
経路図を広げた。
栞が渡してくれた、百年前の外征隊の記録をもとにした地図。
現在地を確認する。岩陰は、終ノ塔から南西に半日ほど進んだ場所。
目的地は——灯ノ塔。
さらに南西へ、片道十日以上。
地図には、危険地帯の印がいくつも記されている。
「視るもの」の領域。沈黙の館の周辺。夜の住人の縄張り。
そして——空白の領域。
空白は、記録がないという意味だ。
百年前の外征隊が、そこまで辿り着けなかった。
「……この先、どこまで地図が通用するか分からない」
俺は正直に言った。
椿は無言で地図を見つめ、それから小さく首を動かした。
「分かってる。でも、行くしかない」
地図を仕舞う。
懐の護符に手を添えた。黙老からもらった護符と、栞が渡してくれた護符。二つ。
これが——「視るもの」の視線を逸らす唯一の頼みだ。
俺は右手を見た。
光の刃を生み出す手。夜の国の怪物を唯一殺せる力。
制御ができない。暴走する。数回使えば枯渇する。
万能じゃない。
救世主と呼ばれても、俺にできることは限られている。
椿が俺の背中を軽く叩いた。
それだけで——分かった。
迷うな、と。
歩き出す。
足元の地面が、脈動に合わせて僅かに揺れた。
◇
数時間歩いた。
時間の感覚が狂う。
空に太陽も月もない世界では、昼も夜も区別がつかない。
ただ、闇と——遠くで蠢く何かの存在だけが、時を刻んでいた。
椿と俺は、交互に前を行きながら進んだ。
視界を広く保ち、足音を殺し、呼吸を浅くする。
終ノ塔の訓練で叩き込まれた技術。
——だが、ここでは何一つ確実なことがない。
塔の常識が、通用しない。
方位を確認しようとした。地図と照らし合わせる。
——合わない。
「真。この岩、さっきも見なかったか」
椿が低い声で言った。
俺も気づいていた。
同じ形の岩が、二度目だ。いや、三度目かもしれない。
「方位が狂ってる。……いや、違う」
俺は立ち止まった。
「地形が、変わってる」
椿の眉間に皺が寄った。
彼女も理解したのだ。この世界では、地面そのものが動く。
百年前の記録など、どこまで当てになるか分からない。
懐の護符が、僅かに熱を持った気がした。
——反応してる。何かが近い。
俺は護符を握りしめ、周囲を見回した。
何もない。
何も見えない。
——だが、何かがいる。
◇
前方に——何かがいた。
人型ではない。
四足でもない。
ただ、黒い塊が——地面から盛り上がっている。
動かない。
しかし——生きている。
椿が剣の柄に手をかけた。
俺は右手に意識を集中させた。
光の刃。発動できるか——いや、まだ使うな。
あれが襲ってくるまでは、力を温存しろ。
黒い塊が——僅かに揺れた。
背筋に冷たいものが走った。
椿の肩が強張るのが、視界の端で見えた。
——怖い。
逃げ出したい。
なのに——目が離せなかった。
あの黒い塊の中に、何かが見える気がする。形のない何かが。
十秒。
二十秒。
三十秒。
黒い塊は——そのまま、地面に沈んでいった。
音もなく、痕跡も残さず。
俺の手が震えていた。
気づくと、椿の手も白くなるほど剣を握りしめていた。
「……行ったのか?」
「分からない。……だが、今は動かない方がいい」
さらに一分、その場で待った。
——消えた。
本当に、いなくなった。
椿と目を合わせた。
言葉はなかった。
言葉にできない恐怖を、視線だけで共有した。
あれは何だった。
記録にもない。名前すらない。
——記録にないものが、この世界にはまだいくらでもいる。
その認識が、重く胸に落ちた。
俺たちは再び、足を進めた。
◇
さらに数時間。
地形が変わった。
平坦だった大地が、次第に起伏を持ち始めていた。
黒ずんだ岩が点在し、その隙間から赤黒い光が漏れている。
地脈の残滓だ。——いや、地脈そのものの傷口かもしれない。
足元が不安定になった。
脈打つ地面の上を歩くのは、まるで巨大な生物の背中を歩いているようだった。
何度か、怪物の存在に遭遇した。
遠くで何かが動く振動。空気の流れの変化。そして——足元の脈動が、一瞬乱れる。
その度に立ち止まり、呼吸を殺し、身を低くした。
護符を握りしめ——通り過ぎるのを待った。
戦わずに済んでいる。
——それは、運がいいだけだ。
一度でも見つかれば、俺の力を使うしかない。
そして、その力は——数回で尽きる。
「……休憩しよう」
近くに、岩の窪みがあった。そこに身を寄せる。
水を飲む。携行食を少しだけ口に入れる。
体力を維持しなければ、先には進めない。
椿が、俺の隣に腰を下ろした。
「私は——この世界を知らなかった」
その言葉には、複雑な感情がこもっていた。
「塔の中で、外の恐ろしさは聞いていた。訓練でも、外征の記録を読んだ。でも——」
椿は、闇を見つめていた。
「想像と、現実は違う。こんな場所を——十日以上歩くのか」
その声には、弱音と——自分に対する苛立ちが混じっていた。
弱音を吐いた自分を、彼女は許せないのだ。
「……椿」
「分かってる。分かってるんだ。歩けるかじゃない。歩くしかない。——でも」
言葉が途切れた。
彼女の拳が、膝の上で白くなっていた。
「……怖いのは当然だ」
俺は言った。
「俺も怖い。膝ががくがくしてるし、今すぐ逃げ出したいくらいだ。……でも、それでも」
椿が顔を上げた。
「お前がいるから、まだ立っていられる」
椿の目が、一瞬だけ揺れた。
——それから、口元がわずかに緩んだ。
「……馬鹿。同じことを言わせるな」
照れ隠しの言葉。けれど、その声には——確かな温かさがあった。
◇
休憩を終え、再び歩き始めた。
その時——俺は、奇妙な感覚に気づいた。
足が、軽い。
いや、軽いというのとは違う。
——歩きやすい。
地面の凹凸が、なぜか足に馴染む。
闇の中でも、進むべき方向が——分かる気がする。
……何だ、これは。
俺は立ち止まった。
右手を見た。
——温かい。
微かに、熱を帯びている。
光の刃を発動させたわけじゃない。
なのに、手のひらが——脈打つ地面と、同じリズムで熱を持っている気がする。
周囲を見回す。
永遠の闇。敵意を帯びた空気。足元で脈打つ大地。
——何も変わっていない。
なのに——
「……拒まれていない」
俺は、無意識に呟いていた。
この世界は、人間を拒んでいるはずだ。
壁の外に出た者は死ぬ。それが、塔の常識だった。
——なのに、俺は、この闇に「拒まれている」という感覚がない。
むしろ——
懐かしい。
……馬鹿な。
この世界のどこに、懐かしさを感じる理由がある。
俺は前世の記憶を持っている。現代日本で死んで、この世界に転生した。
夜の国に来たことなんて、一度もない。
——ないはずだ。
なのに、足元の脈動が、心臓の鼓動と同期する感覚がある。
闇の中に、知っている道がある気がする。
分からない。
分からないけど——怖い。
怖いのに、懐かしい。
その矛盾が、胸の奥で渦を巻いていた。
「真。どうした」
椿が振り返っていた。
「……何でもない」
俺は首を振った。
頭を振って、違和感を払おうとした。
払えなかった。
——この感覚は、後で考えろ。今は、奈々のところへ行くことだけを考えろ。
俺は再び歩き出した。
胸の奥に澱のように残った違和感を、無理やり押し込めて。
◇
どれくらい歩いただろう。
時間の感覚は、とっくに失われていた。
ただ、足を動かし、前に進む。
それだけを繰り返していた。
遠くに、また「視るもの」の影が見えた。
別の個体だ。最初に見たものより——さらに大きい。
山のような巨体が、闇の中にただ聳えている。
動かない。——だが、見ている。
俺たちを。
いや、俺たちだけではない。
この世界の全てを——見つめている。
「迂回する」
椿が口を引き結んだまま、了承の視線を返した。
西側へ進路を変える。
「視るもの」の領域に入らないよう、慎重に距離を取りながら。
護符の存在を確かめた。
栞が言っていた。「視るもの」は光に弱い、と。
この護符は、地脈の余熱を宿している。いざという時に使えば、数秒の隙を作れる。
——だが、数秒で逃げ切れるのか。
あれほど巨大なものから。
考えるな。
今は、見つからないことだけを考えろ。
足を速めた。
椿も、俺に続いた。
◇
「視るもの」の領域を迂回し終えた頃——俺たちは、ようやく少し安全な場所を見つけた。
岩の崖が、切り立っている場所。
その下に、洞窟のような窪みがあった。
「ここで休もう」
二人で窪みに入り、背中を岩壁に預けた。
静寂が降りてきた。
夜の国の、音のない静寂。
椿が、俺の隣に座った。
互いの呼吸が聞こえる距離。
「真」
名前を呼ばれて、顔を向けた。
「——ここを、人が歩けるのか」
椿の声が、掠れていた。
武人の彼女が、初めて——弱音を漏らしていた。
さっきよりも、さらに深い場所から出てきた言葉だった。
俺は、その弱さを受け止めた。
当然だ。この世界を見て、弱音を吐かない方がおかしい。
「歩く」
俺は答えた。
「奈々が、待ってる」
その言葉を口にした瞬間——奈々の声を、探した。
テレパシー。
二日前に途絶えたまま、まだ届かない。
でも——繋がりは、感じる。
細い糸のような、かすかな温もり。
あいつは、まだ生きている。
俺には、それが分かる。
椿が、同じ言葉を繰り返した。
「奈々が、待ってる」
その声は——祈りのように、静かだった。
闇が、応えるように蠢いた。
遠くで、何かが動く振動。
俺たちは呼吸を殺し——それが通り過ぎるのを待った。
夜の国は、まだ始まったばかりだ。
灯ノ塔までは——まだ、遠い。
けれど——隣に椿がいる。
奈々の声を信じている。
俺は——進む。
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(第10話 終)
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