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第11話「行軍」



 三日目の——いや、朝という言葉は正しくない。


 この世界に朝はない。

 太陽も月もない永遠の闇の中で、ただ体内時計だけが時を刻んでいる。


 洞窟を出た俺と椿の前に、三つの人影があった。


 一瞬、身構える。

 だが——護符が反応しない。人間だ。


「……お前たちか」


 俺は息をついた。


 志願者たち。

 終ノ塔を出る時、俺たちとは別に裏門の北側から壁を越えた者たちだ。黒藩の目を欺くため、二手に分かれた。椿の発案だった。合流地点はこの洞窟の東側——だが、途中で道を失ったらしく、三日かかってようやく追いついてきた。


 老兵が一人。中年の女が一人。そして——まだ若い、俺と同じくらいの少年が一人。


「待たせた」


 老兵が低く言った。髭に砂が混じっている。外を三日歩いたのだ。無事なだけで奇跡だった。


 三人とも、疲弊していた。

 顔色が悪い。足取りが重い。闇の中を歩き続けることで、心身が削られている。


 俺たちと同じだ。

 いや——俺には、唯一戦える力がある。椿には、武の腕がある。

 だが、この三人には——何もない。


 それでも、来た。

 灯ノ塔へ向かう俺たちの後を追って、壁を越えてきた。


「出発する」


 俺は短く告げた。


 三人が無言で頷く。

 誰も、弱音を吐かなかった。

 吐く余裕すら、もうないのだ。



            ◇



 行軍は、一歩ごとに命を削る作業だった。


 足元の大地が波のように揺れる。

 空気が張りつめ、呼吸するだけで敵意を吸い込むような感覚。

 遠くで、何かが——いつも、何かが——蠢いている。


 経路図を頼りに進む。

 だが、地形は変わり続けている。昨日通った道が、今日にはない。

 記録にある目印が、跡形もなく消えている。


 俺は先頭を歩いた。

 椿が最後尾。志願者たちは、その間に挟まれる形で進む。


 護符を握りしめながら、周囲の気配を探る。

 怪物が近づけば、護符が熱を持つ。

 その僅かな警告だけが、俺たちの命綱だった。


 老兵——名は聞いていない、互いに名乗る余裕がなかった——が、不意に俺の隣に並んだ。


「あんた——本当に、怪物を殺せるのか」


 その声には、疑いはなかった。

 ただ、確認したいだけだ。自分が命を賭けている相手が、本物かどうか。


「殺せる」


 俺は答えた。


「ただし、数回だ。それ以上使えば、俺の力は尽きる」


 老兵が目を細めた。

 それだけで、彼は全てを理解した。


 救世主は万能じゃない。

 俺に頼りきれば、全員が死ぬ。


「……分かった」


 老兵は短く言って、俺の後ろに下がった。


 少年が——名は知らない、だが俺と同じくらいの年齢だと分かる——俺の背中をじっと見ていた。

 視線に、何か言いたげな熱があった。

 期待か。不安か。羨望か。

 全部かもしれない。


「……休憩」


 数時間歩いて、岩陰に身を寄せた。


 水を分け合う。食料を少しだけ口に入れる。

 誰も、必要以上に食べなかった。残りの行程を考えれば、節約するしかない。



            ◇



 再び歩き始めて、数時間。


 異変は、唐突に訪れた。


 護符が——熱い。

 今までで一番、強く反応している。


「止まれ」


 俺は低く叫んだ。


 全員が凍りついた。

 肺の奥で息を止める。音を立てない。

 それが、この世界で生き延びる唯一のルールだ。


 闇の向こうに——何かがいた。


 人型ではない。

 獣型でもない。

 ただ、黒ずんだ影が——地面から這い出ている。


 昨日見た、あの怪物と同じ種類か?

 いや——違う。こいつは、動いている。


 蠢く影が、ゆっくりと——こちらへ向かってきた。


 俺の右手が熱を帯びる。

 光の刃。今なら、発動できる。


 だが——あの異形を斬れるのか。

 斬れたとして、一体で終わるのか。


 考えている暇はなかった。


 影が——跳んだ。


 速い。

 塔の訓練で見た、どんな獣よりも速い。


「下がれッ!」


 俺は叫びながら、右手を振るった。

 光の刃が——闇を裂く。


 手応え。

 怪物の一部を、確かに斬った。


 歪んだ音が響いた。悲鳴とも呻きとも呼べない——ただ不快な振動が空気を伝わる。

 闇色の何かが後退する。


 ——だが、死んでいない。


 俺の攻撃は、致命傷になっていなかった。

 光の刃は確かに通用する。だが、この怪物は——図体がでかすぎる。


「もう一撃——」


 俺が踏み込もうとした、その瞬間。


 別の方向から——第二の影が現れた。


 俺の視界の外から。

 ——いや、違う。地面の下から。


 波打つ大地の中に、隠れていた。


「逃げろッ!」


 椿の声が響いた。


 俺は振り返った。

 志願者たちが散る。老兵が走る。中年の女が岩陰に身を投げる。


 そして——少年が、逃げ遅れた。


 第二の影が、少年に向かって伸びる。

 闇を凝縮したような触手——それ自体が一つの生物のような——


「くそッ!」


 俺は走った。

 光の刃を振るう。


 届かない。


 距離が——遠すぎる。


 少年の叫びが、一瞬だけ響いた。

 そして——消えた。


 異形が、少年を呑み込んでいた。

 痕跡すら、残っていなかった。



            ◇



 俺の足が、止まった。


 息が——詰まる。

 心臓が、冷たくなっていく。


 助けられなかった。

 俺がもっと速ければ。俺がもっと強ければ。

 俺が——


「真ッ! 動け!」


 椿の声が、俺を現実に引き戻した。


 闇色の怪物が——まだいる。

 最初の一体が、再び這い寄ってくる。


 俺は右手を上げた。

 光の刃を——


 ——発動しない。


 力が、枯渇しかけている。

 一度目の斬撃で、かなりの力を使った。

 今の俺に残っているのは——あと一回か、二回。


 それでも、やるしかない。


 俺は歯を食いしばり、右手に意識を集中させた。


 光が——弱々しく、灯る。


 怪物が、俺の前で立ち止まった。

 光を警戒しているのか。

 それとも——


 十秒。

 二十秒。

 三十秒。


 怪物は——地面に溶け込むように沈んでいった。

 闇の中に紛れ、どこへ消えたのか分からない。


 第二の異形も、消えていた。


 静寂が——戻ってきた。



            ◇



 俺は、膝をついた。


 息が荒い。

 手が震えている。

 右手の力は、ほとんど尽きていた。


 だが、それよりも——


 少年の顔が、脳裏から離れなかった。


 名前も知らない。

 話したことも、ほとんどない。

 ただ——俺と同じくらいの年齢だった。俺と同じように、外を目指していた。


 俺の背中を見ていた。期待を込めて。


 それだけの、繋がり。

 それだけの——命。


「……真」


 椿が、俺の隣に立っていた。


 振り返れなかった。

 今の俺の顔を、誰にも見せたくなかった。


「全員は、守れない」


 椿の声は、静かだった。


「分かっていたはずだ。外征とは——そういうものだ」


 分かっていた。

 頭では、分かっていた。

 塔の記録を読んだ。十五人で出て、三人しか帰ってこなかった話も知っている。


 だが——


 目の前で人が死ぬのは、記録とは違う。

 あの叫びが、まだ耳に残っている。

 助けを求める目が、まだ——


 俺の拳が、岩を叩いていた。


 気づいたら、殴っていた。

 皮が裂けて、血が滲む。

 痛い。でも——こんな痛みじゃ足りない。


「真!」


 椿が俺の腕を掴んだ。


「やめろ。手を壊してどうする」


「……俺が、もっと——」


「言うな」


 椿の声が、鋭くなった。


「その言葉は聞き飽きた。私も何度、自分に言った。『私がもっと速ければ』『私がもっと強ければ』——そう言って、何が変わった?」


 俺は、言葉を失った。


 椿の目が——痛みを湛えていた。

 俺だけじゃない。彼女もまた、堪えているのが分かった。


「お前のせいじゃない。お前は——最善を尽くした」


「最善なんかじゃ——」


「足りなくても、最善だったんだ」


 椿の声には、怒りがあった。

 俺に対してじゃない——たぶん。この世界に対して。この状況に対して。


「私だって——何もできなかった。剣を構えただけだ。お前と同じだ。それでも——私たちは、ここにいる」


 俺は、ようやく顔を上げた。


 椿の目が——潤んでいた。

 泣いているわけではない。ただ、堪えているのだ。

 彼女もまた——同じ痛みを抱えている。


 老兵と中年の女が、少し離れた場所にいた。

 老兵は拳を握りしめ、目を閉じていた。何かを噛みしめるように。

 女は地面を見つめたまま、動かない。


 誰も俺を責めなかった。

 責めてくれた方が、まだ楽だったかもしれない。


 これが、外征だ。

 これが——壁の外の現実だ。


 塔の中で怯えていた人々の気持ちが、今なら分かる。

 出れば死ぬ。

 その数字が、俺の目の前で証明された。



            ◇



 休む余裕はなかった。


 怪物がいつ戻ってくるか分からない。

 別の怪物が、この騒ぎを聞きつけてくるかもしれない。


 俺たちは、再び歩き始めた。


 志願者は、二人になった。

 老兵と、中年の女。

 二人とも、俺に声をかけなかった。


 当然だ。

 俺が救世主だから、自分たちは助かると思っていたはずだ。

 その幻想は——今、砕けた。


 俺は唯一戦える。

 だが、全員は守れない。


 救世主の看板が、虚しい。


「次からは、俺の手が届く範囲にいろ」


 俺は二人に言った。


 振り返らず、前を向いたまま。

 声が震えていたかもしれない。


「離れたら、守れない。……それだけは、頼む」


 老兵が、低く答えた。


「……ああ」


 それだけだった。

 それだけで——十分だった。


 足が動く。

 それだけが、今の俺にできることだった。

 考えるのは後だ。悼むのも後だ。

 今は——進むしかない。


 椿が、俺の隣を歩いていた。


 彼女もまた、無言だった。

 だが——時々、俺の方を見ていた。

 監視ではない。心配でもない。ただ——確認しているのだ。


 俺が、まだ立っているかどうか。


 ——あの不思議な感覚は、今も微かにある。


 夜の国に「拒まれていない」という違和感。

 この国に入った時から感じている、懐かしさに似た何か。

 考える余裕はないが——この世界と俺の間には、何かがある。


 今はまだ、分からない。



            ◇



 さらに数時間。


 地形が、また変わっていた。

 岩場が増え、足元が不安定になっている。

 蠕動する地面の上を、岩から岩へ飛び移るように進む。


 体力が削られる。

 精神も削られる。

 それでも——立ち止まれなかった。


 奈々の声を、探した。


 テレパシー。

 三日前から途絶えたまま。

 だが——繋がりは、まだある。


 細い糸のような、かすかな温もり。

 あいつは、まだ生きている。

 俺には、それが分かる。


 だから——進む。

 進むしかない。


 日没——いや、この世界に日没はない。

 ただ、身体が限界に近づいたところで、俺たちは足を止めた。


 岩の窪みに身を寄せる。

 四人で、背中を寄せ合う。


 誰も、話さなかった。

 話す気力が、残っていなかった。



            ◇



 どれくらい経っただろう。


 闇の中で、俺は目を開けていた。

 眠れなかった。

 目を閉じると——少年の顔が浮かぶ。


 あの叫び。

 あの、期待を込めた目。

 俺が——間に合わなかった距離。


 前世でも、同じだった。


 誰かを守ろうとして——手が空を掻いた。

 手を伸ばして——指が触れる前に、全部終わった。


 『また、握れなかった』


 死の間際に、そう思った記憶がある。

 何を握ろうとしていたのか、今でも思い出せない。

 だが——その悔しさだけは、身体が覚えている。


 映像が、断片的に浮かぶ。


 誰かの手。

 伸ばした俺の手。

 指が触れる寸前で——暗転。


 前世の記憶だ。

 完全には戻らない。断片だけが、こういう時に蘇る。


 今日も、同じだった。

 俺の手は——届かなかった。


「……眠れないのか」


 椿の声が、闇の中に響いた。


 隣を見た。

 彼女も、目を開けていた。


「……ああ」


「私もだ」


 椿が、俺の方へ身を寄せた。

 肩が触れる距離。


「さっきの言葉——聞いていなかったみたいだから、もう一度言う」


 椿の声は、静かだった。

 だが、どこか——優しさがあった。


「お前は、悪くない」


 その言葉が、胸に落ちた。


 俺は——答えられなかった。


 悪くない。

 そう言われても、信じられない。


 だが——


 前世でも、同じことを言われた気がする。


 『お前のせいじゃない』

 『最善を尽くした』

 『悪くない』


 誰かが、そう言ってくれた。

 俺は——それを、受け入れられなかった。

 受け入れられないまま、死んだ。


 今も——同じだ。


 椿の言葉を、素直に受け取れない。

 それでも——


 彼女がそう言ってくれることが、今は——少しだけ、救いだった。


「……ありがとう」


 絞り出した声で、俺は言った。


 椿は何も言わなかった。

 ただ——肩を、そっと預けてきた。


 温もりが、伝わる。

 闇の中で、その温もりだけが——確かなものだった。


 俺たちは、そのまま——朝を待った。

 朝など来ない世界で、ただ——次に歩き出す瞬間を。



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(第11話 終)

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