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第12話「視るもの」



 それは、在った。


 俺たちが岩の窪みを出て、半日ほど歩いた先。地形が開けた場所で、足が止まった。


 護符は反応していない。怪物が近づいているわけでもない。


 ただ、見えた。


 闇の向こうに、山があった。いや、山ではない。山に見える、何か。


 声が喉に張り付いた。


 遠くに見えるのに、近い。近くに見えるのに、遠い。距離感が狂う。そこに在るだけで、空間そのものが捩れているように感じる。


 椿が隣で息を呑んだ。老兵と女が、俺たちの後ろで石になった。


 視るもの。


 栞から聞いた。黙老が語った。古文書にも記されていた。巨大な静止怪物。人類をただ見つめ続ける存在。


 知識としては知っていた。だが、知識と現実は違う。


 それは動かなかった。微動だにしない。山のように聳え、永遠の闇の中に鎮座している。


 ただ、見ている。


 何を見ているのか。どこを見ているのか。


 掴めない。


 掴めないのに、見られている、と感じた。



            ◇



 俺は足を動かそうとした。


 動かない。


 身体が言うことを聞かない。脚の感覚が遠くなる。指先が冷たい。心臓だけが、やけにうるさい。


 これが、視るもの。


 栞の言葉が蘇る。『近づいた者は、帰ってこない』『視線を浴びた者は、正気を保てない』『なぜそこに在るのか、何をしたいのか、誰にも解らない』


 解らない。それが、怖い。


 昨日戦った異形は、解りやすかった。襲ってくる。殺そうとしてくる。だから、斬る。単純だ。


 だが、視るものは違う。


 襲ってこない。動かない。ただ、そこに在る。そして、見ている。


 俺を見ている。椿を見ている。全員を見ている。


 視線を感じる。目があるのかどうかすら判らない巨大な影から、確かに、視線を。


 それだけで、脚が鉛になる。それだけで、正気が削られていく。


「……っ」


 椿が地面に崩れ落ちた。


 振り返る。彼女の顔は、真っ白だった。


 武の名手。塔の防衛隊でも随一の腕を持つ女戦士。その椿が、歯を鳴らしている。


「椿」


 声をかけた。だが、彼女は答えない。


 目が虚ろだ。呼吸が浅い。手足が微かに痙攣している。


 恐怖で、身体が止まっている。


 無理もない。あれは、そういう存在なのだ。


 近づくだけで、人の心を壊す。戦おうとする以前に、立っていられなくなる。それが、視るもの。


 老兵と女も、地面に蹲っていた。声を上げることもできず、ただ縮こまっている。



            ◇



 俺は、まだ立っていた。


 なぜだか判らない。脚は重い。手も冷たい。今すぐ逃げ出したい。だが、立っている。


 視るものの視線が、俺に向いているのを感じる。重い。ただ見られているだけなのに、身体に圧がかかる。空気が重い。存在そのものが、重い。


 勝てない。


 直感で判った。俺の光の刃は、夜の国の怪物を傷つけられる。だが、あれは、違う。


 あの巨大さを前に、俺の力がどれほどのものか。傷をつけられるかも怪しい。仮に傷をつけても、殺せるとは思えない。


 昨日の異形とは、格が違う。あれは、この世界のもっと上位の存在だ。


 戦って勝てる相手ではない。


 逃げるしかない。いや、逃げられるのか。あの視線を浴びながら、背を向けて走れるのか。脚を動かせるのか。


 椿を見た。崩れ落ちたまま、動けない。彼女を抱えて走るのか。全員を? 俺一人で?


 無理だ。


 思考が、恐怖に塗り潰されそうになる。



            ◇



 その時、栞の声が蘇った。


『視るものは、光に弱い』

『護符に宿る地脈の余熱を使えば、数秒だけ、視線を逸らすことができる』

『その隙に、領域を抜けなさい』


 護符。


 俺は右ポケットに手を入れた。二つの護符が、そこにあった。黙老から授かったもの。栞から預かったもの。


 これで、数秒。数秒の隙を作れる。


 だが、どうやって。護符をどう使えば、光が出る。栞は詳しく説明してくれなかった。俺も、聞かなかった。


 馬鹿だ。こんな状況を想定していなかった。いや、想定はしていた。だが、想定と現実は違う。


 護符を握りしめた。温かい。地脈の余熱が、微かに脈打っている。


 これを、どうすれば。


 考える時間はなかった。


 視るものの視線が、集中した。俺に。俺だけに。


 全身の毛穴が逆立った。


 見られている。完全に、見られている。


 頭の中が真っ白になる。自分が誰なのか、ここがどこなのか、一瞬、境界が曖昧になった。


 これが、視線だけで人を壊す、という意味か。



            ◇



 俺は護符を掲げた。


 考えるより先に、身体が動いていた。光の刃を発動する時と同じだ。意識を集中する。護符に。地脈の余熱に。


 光れ。


 願うように。祈るように。俺の中の何かを、護符に流し込む感覚。


 護符が熱くなった。そして。


 閃光。


 白い光が、闇を裂いた。


 俺の目を焼く。一瞬、何も見えなくなる。だが、感じた。


 視線が、逸れた。重圧が、消えた。


 数秒。栞が言っていた、数秒だけの隙。


「走れッ!」


 俺は叫んだ。


 椿の腕を掴み、引き起こす。彼女の目が正気を取り戻していた。光に、視線が遮られている間に。


「——っ!」


 椿が走り出した。老兵と女も、這うように立ち上がり、走る。俺も護符を握りしめたまま、走った。


 背後で、何かが蠢く気配。視るものが、視線を戻そうとしている。


 間に合え。間に合ってくれ。


 俺たちは、岩陰に向かって走った。視るものの領域から、一刻も早く抜け出すために。



            ◇



 気づけば、岩の裏に転がり込んでいた。


 脚から力が抜け、地面に崩れ落ちる。


 息が荒い。心臓が破裂しそうだ。全身の筋肉が、悲鳴を上げている。


 だが、生きている。


 振り返った。視るものは、まだそこにあった。遠くに。山のように。だが、もう、視線は感じない。


 岩陰に隠れたことで、直接見えなくなったのか。それとも、興味を失ったのか。


 答えは出ない。だが、助かった。


「……っ、はぁ……はぁ……」


 椿が、俺の隣で息を整えていた。顔色は、まだ悪い。だが、彼女も生きている。


 老兵と女も、少し離れた場所で倒れていた。息がある。動いている。全員、生き延びた。


 護符を見た。一つ目の護符は、もう熱を持っていなかった。使い切ったのだ。


 残り、一つ。


 次に視るものと遭遇したら、あと一回しか凌げない。それも、数秒だけ。


 勝てる相手ではない。これからも、ああやって凌いでいくしかない。戦うのではなく、やり過ごす。


 それが、夜の国での生き方なのだ。



            ◇



 呼吸が落ち着いてきた頃、俺は椿を見た。


「……大丈夫か」


 椿は、俺の目を見なかった。拳を握りしめ、顔を俯けている。


「……情けない」


 その声には、怒りがあった。自分への。


「私は、動けなかった。あれを見た瞬間、脚が……」


 彼女は立ち上がった。膝に土がついている。それを払いもせず、視るものがいた方角を睨んだ。


「武の名手だと言われてきた。それなのに、あんなもの一つで、何もできなかった」


 俺は、何と言えばいいか判らなかった。


 椿の気持ちは判る。彼女は強い。終ノ塔で最も強い戦士の一人だ。その自負があるからこそ、あの無力感は堪えるのだ。


 だが、俺が言葉を探している間に、椿は深く息を吐いた。


「……いや。言い訳だな」


 彼女は、まだ視るものの方を見ていた。だが、目に光が戻っていた。


「怖かった。それは変わらない。でも、次は」


 彼女の手が、腰の刃に触れた。


「次は、あんな無様は晒さない」


 俺は、椿を見た。彼女は、もう俺を見ていなかった。前を向いていた。


 慰めは、要らなかった。彼女は、自分で立ち上がった。


 それが、椿だ。


「……俺も、怖かった」


 俺は言った。椿が振り向く。


「足が重かった。護符がなければ、俺も動けなかったと思う」


 嘘ではなかった。立っていられたのは、ほとんど偶然だ。なぜ立っていられたのか、自分でも判らない。


「でも、お前のおかげで動けた」


 椿の眉が、僅かに上がった。


「私の?」


「椿を置いて逃げるわけにはいかなかった。それだけだ」


 椿は、数秒、俺を見つめていた。それから、視線を逸らした。


「……馬鹿め」


 その声は、少しだけ、震えていた。



            ◇



 休息を挟んで、俺たちは再び歩き始めた。


 視るものの領域を迂回するルートを選ぶ。経路図には載っていない。百年前の外征隊は、ここを通らなかったのだろう。だが、他に道はない。


 足元の大地が、相変わらず波のように揺れる。闇は深く、どこまでも続いている。時折、遠くで何かが蠢く気配がする。


 俺たちは、無言で歩いた。話す気力が、残っていなかった。


 志願者たちの顔色は、さらに悪くなっていた。老兵は歯を食いしばって歩いているが、足取りが重い。女は、もう限界に近い。


 それでも、立ち止まれなかった。


 奈々が待っている。灯ノ塔が、滅びかけている。ここで足を止めれば、全部が終わる。



            ◇



 数時間後。俺たちは、岩場の窪みに身を寄せていた。


 休息。と言っても、眠れる状況ではない。


 暗闇の底で、俺は目を閉じられなかった。視るものの姿が、まだ脳裏に焼き付いている。


 あの巨大さ。あの静けさ。あの、理解できなさ。


 なぜ、あそこにいるのか。何を見ているのか。何がしたいのか。


 何一つ読めない。


 読めないから、怖い。


 怪物を殺せる力を持っていても、あれの前では無力だ。力では、どうにもならない敵がいる。それを思い知らされた。


 だが。


 視るものは、俺を殺そうとはしなかった。


 視線を浴びせはした。だが、襲っては来なかった。椿たちは動けなくなったのに、俺は立っていられた。なぜだ。


 右手が、微かに熱を持っていた。あの感覚。夜の国に入ってから、時折感じる違和感。この国が、俺を拒まない。


 それどころか。


 視るものの視線の中にいた時、俺は恐怖を感じていた。だが、同時に、何か別のものも感じていた。


 懐かしさ、ではない。もっと奇妙な感覚。


 あの存在が、俺を「敵」として見ていない。そんな気がした。


 俺と、この世界の間には、何かがある。まだ解らない。だが、いつか解る時が来る気がする。



            ◇



 不意に、声が聞こえた。


 違う。声ではない。音でもない。


 頭の中に、直接、何かが響いた。


『……なぜ、抗う』


 俺は、息を詰めた。


 それは、言葉だった。意味を持った言葉。


 テレパシーではない。奈々の声とは、まるで違う。もっと古い。深い。冷たい。


 振り返った。視るものがいた方角を見た。


 見えない。だが、感じる。あの存在が、まだそこにいることを。


『……なぜ、抗う』


 もう一度、響いた。同じ言葉。同じ声、いや、声ですらない何か。


 背筋を、冷たいものが走った。


 あれは、知性を持っている。


 ただの怪物ではない。ただ見つめ続けるだけの存在ではない。考えている。問いかけている。


 俺に、何かを問うている。


 なぜ、抗う。


 その問いの意味が解らない。だが、あれは、俺たち人類を見て、何かを思っている。


 俺は、答えられなかった。答える言葉を、持っていなかった。


 ただ、恐怖だけが残った。


 視るものは、ただの障害物ではない。この夜の国の、何かもっと根源的な存在。


 その奥に、もっと大きな何かがいる。


 夜の国そのものを統べる、得体の知れない意志。視るものでさえ、その一部に過ぎないのかもしれない。


 今の俺には、何も見えない。


 だが、一つだけ、確かなことがある。


 俺たちは、この世界のほんの表層を歩いているに過ぎない。この先に、もっと深い闇がある。もっと大きな何かが、待っている。


 それでも。


 奈々の名前を、心の中で呼んだ。


 それだけで、脚が動いた。


 俺は目を閉じた。声なき声の残響が、まだ頭の中に響いている。


『……なぜ、抗う』


 いつか、その問いに、答えられる日が来るのだろうか。


 今は見えない。だが、逃げない。逃げないことだけが、今の俺にできる唯一の答えだ。



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(第12話 終)

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