第24話「沈黙の国」
◇
沈黙の館を越えた先に、世界は広がっていた。
俺たちが足を踏み入れたのは、闇ですらなかった。
色がない。光も、影も、境目がない。ただ、無限に続く虚無の空間が、地平の果てまで広がっている。
沈黙の国。
その名を、俺は知っていた。栞が調べてくれた古い記録にあった、世界の最奥。夜の国の果て。誰も行き着いたことがなく、行き着いた者は二度と還らなかった場所。
足元は黒い砂だった。踏みしめると、ざり、と音が鳴るはずなのに、何も聞こえない。感触だけが足裏にある。砂は冷たかった。骨を刺すような、生命のない冷たさ。沈黙の領域に入ってからずっとそうだったが、ここはさらに深い。音という概念そのものが、この場所からは剥ぎ取られている。
口の中で唾を飲み込む。金属の味がした。恐怖の味だ。
振り返ると、生存者たちが立ち尽くしていた。六人。老人、子供を抱えた女、若い男二人、中年の男、痩せた女。誰もが虚ろな目をしている。極限の疲労と、この場所の異様さに、心が押し潰されかけている。
あと二日分の食料。水はさらに少ない。ここで立ち止まっている余裕はない。
椿が殿で全員を見渡している。茜が前方を睨んでいる。そして奈々は、俺の手を離さない。彼女の指は、まだ冷たかった。沈黙の館で引き込まれかけた影響が、まだ残っている。顔色は青白く、足取りも心許ない。それでも、彼女の瞳は俺を見ている。ちゃんと、ここにいる。
◇
何かが、いる。
その感覚は、沈黙の領域に入った時からあった。静かに、遠くから、俺たちを見つめている途方もない気配。
だが今は違う。近い。圧倒的に、近い。
そして、孤島であの気配を初めて感じた時から、ずっと胸の奥にある違和感。恐怖と、それと同じくらいの、郷愁。
懐かしい。
なぜだ。俺はこいつを知らない。会ったことがない。なのに、なぜ。
「……茜」
俺は声を出した。音にならない。口を動かした感触だけがあって、空気に何も伝わらない。
それでも、茜は俺を見た。彼女の顔が、強張っている。
「……見えるか」
俺は口の動きだけで問いかけた。
茜が、ゆっくりと前方を指差した。
その先に、それは在った。
◇
比較にならない。
夜の国で、俺は多くの怪物を見てきた。視るものの静止した威圧。夜の住人の群れの暴威。這うものの異形。だが、これは。
空間の中央に、何かが在る。輪郭が定まらない。見つめるたびに、違う形に見える。人型にも、渦巻く闇にも、無限に重なる眼球にも見える。概念として座す何か。
それは動かない。動く必要がないのだ。俺たちが、その前に立っている。それだけで、全てが終わる。
懐かしさが、また湧いた。
恐怖と郷愁。相反する感情が、同じ場所から湧き上がる。
俺の足元で、奈々が崩れ落ちそうになった。彼女のテレパシーの感受性が、沈黙王の存在を正面から受けている。
「奈々っ」
俺は彼女を支えた。腕の中で、奈々が震えている。目は開いているが、瞳が虚ろに揺れている。
『来たか』
声ではなかった。
頭の中に直接響く、言葉ではない何か。意味そのものが流れ込んでくる。
俺の体が、硬直した。動けない。呼吸すら、忘れている。
『異なる魂よ。待っていた』
沈黙王。その名が、脳裏に焼きついた。
『その者は、お前の半身か』
沈黙王の声なき声が問いかける。
俺は答えなかった。答える余裕がなかった。
『そうだ。魂が覚えている。かつて、この世界が一つであった頃。お前たちは、共にあった』
何を言っている。俺の頭が、混乱している。
『お前は、思い出さぬか。なぜ、この世界に呼ばれたのか』
◇
沈黙王の存在が、俺の中に入り込んでくる。
抵抗できない。視界が歪む。引っ張られる。そして、俺は見た。
遥か昔。この世界がまだ一つだった頃。
人類は、地上に暮らしていた。空には光があり、大地には緑があり、人々は壁に閉じ込められることなく生きていた。
そこに、それは現れた。
名もなき存在。どこから来たのかも分からない、計り知れない異物。人類の理解を超えた何か。
人々は戦った。だが、勝てなかった。それは、この世界の理に属していなかった。殺すことも、傷つけることも、触れることすらできなかった。
世界は蹂躙された。光は消え、大地は穢れ、人々は追い詰められた。
ビジョンの中で、俺は見た。逃げ惑う人々。燃え落ちる街。子供を抱えて走る母親。伸ばされる手。届かない手。
前世の記憶が、重なった。
あの日。俺が死んだ日。誰かを助けようとして、手を伸ばして、届かなかった、あの瞬間。
ビジョンの中の人々と、俺は同じ顔をしていた。
そして、最後の選択が行われた。
世界を、閉じる。
人類は、壁を築いた。自分たちを壁の中に閉じ込め、それを壁の外に残した。地脈の力で結界を張り、世界を二つに分かった。
壁の内側を、人類が住む世界。壁の外側を、夜の国と呼ばれる、怪物の世界。
だが、封印は完全ではなかった。
それは、壁の外で眠りについた。夜の国を統べる存在として、永遠に。そして、その影響下で、怪物たちが生まれ続けた。
人類は、壁の中で怯えながら生き延びた。地脈の力は少しずつ弱まり、いつか壁が崩れる日が来ることを知りながら。
『そして、予言が遺された』
沈黙王の呼びかけが、続ける。
『異なる魂が、夜を殺す』
黙老の言葉が、脳裏に蘇る。救世主の予言。俺が初めて聞いた、この世界の真実の欠片。
『この世界の理に属さぬ者。壁の外からでも、壁の内からでもなく、別の世界から来た者。その者だけが、私を傷つけることができる』
俺の手が、震えていた。
『お前が転生したのは、偶然ではない。呼ばれたのだ。この世界の理が、お前を選び、連れてきた』
違う。俺は。
『お前がなぜ怪物を殺せるのか。なぜ夜の国に拒まれないのか。なぜ、私に近づいても正気を保てるのか。そして、なぜ私の気配に懐かしさを感じるのか』
懐かしさの理由。
世界の理が俺を選んだ時、この存在と魂が一瞬触れた。俺がこの世界に呼ばれた瞬間、沈黙王の存在が、俺の魂に刻まれていた。だから、懐かしい。だから、拒まれない。
『お前は、この世界の外から来た鍵だ。封印を破るか、あるいは、封印を完成させるか。どちらかを為すために、呼ばれた』
◇
俺の膝が、折れた。
黒い砂の上に崩れ落ちる。手のひらが砂を掴む。冷たい。何の感触もない。
鍵。
この世界が勝手に呼んだ、道具。俺の人生とは関係なく、ただこの世界の都合で。
前世の記憶が、また蘇る。
あの日、俺は死んだ。誰も守れないまま。伸ばした手は、指先が触れたところで、それで終わりだった。そして、この世界に転生した。
救世主として。唯一、夜の国と戦える者として。
それは、俺の願いではなかったのか。
『願いは、方便だ』
沈黙王の存在が、俺の心を読む。
『お前は、守りたいと願った。だから選ばれた。世界の理は、その願いを利用した。お前の心と、世界の摂理が、たまたま同じ方向を向いていただけだ』
守りたいと願ったから。その願いすら、利用されていたのか。
俺は。
何者だ。
鍵か。道具か。救世主か。転生者か。
守りたいと思ったのは本物だ。でもそれすら利用されていた。なら、俺の何が本物だ?
どこからが俺で、どこからが世界の都合だ?
分からない。分からなくなる。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。自分が何者か分からなくなる恐怖。でも、それでも。
奈々の手を、離したくない。
その気持ちだけは、本物だと思いたい。
◇
奈々の手が、俺の頬に触れた。
冷たい指先。それでも、確かにある。
顔を上げると、奈々がいた。俺の前で、膝をついて、俺の顔を見つめている。顔色は青白いまま。体も震えている。それでも、彼女の瞳は俺を見ていた。
心に、直接。彼女のテレパシーが届く。
「聞こえました」
奈々の想いが、俺の心に流れ込む。
「全部、聞こえました。あなたが、何を見せられたのか」
彼女の手が、俺の胸元を掴んだ。俺の心臓の上。彼女の指先が、俺の心臓の鼓動を感じている。
「世界が、あなたを利用した。あなたの願いを、利用した。それは、酷いことです」
奈々の目に、涙が浮かんでいた。
「でも、真さん」
彼女の心が、強くなる。
「わたしが、あなたの声に応えたのは、世界の摂理じゃありません」
俺は、彼女を見た。
「あなたの声を聴いて、あなたを信じて、あなたを待っていたのは、わたし自身の心です」
奈々の手が、俺の心臓の上で強く握られる。
「呼ばれたとか、利用されたとか、そんなことは、どうでもいいんです」
彼女の瞳が、俺を射抜く。
「あなたが来てくれた。あなたが守ってくれた。あなたの手が、わたしに届いた。それだけが、真実です」
彼女の心臓の音が、俺の胸に伝わる。二つの鼓動が、同じリズムで脈打っている。
◇
椿が、俺の傍に立っていた。
彼女の顔も、青ざめている。沈黙王の存在は、彼女にも届いていたのだろう。俺が何を知らされたのか、彼女も理解している。
椿は何も言わなかった。ただ、俺の肩を掴んだ。強く。痛いほどに。
彼女の唇が動く。声にはならない。だが、その念が伝わる。
『私は、お前を見てきた』
椿の目が、俺を見ていた。凛とした、いつもの椿の目。
『塔で異端と呼ばれていた時も。外征で血を流しながら前に立った時も。全滅の跡で拳を握って立ち上がった時も』
椿の手が、俺の肩を離さない。
『世界の理が、お前を利用しようとしていたのだとしても。私が見てきたのは、お前自身だ』
椿の耳が、かすかに赤くなっている。
『お前が道具だと言うなら、私がそれを否定する。私の目で見てきた真は、道具なんかじゃない』
彼女は背を向けた。それ以上、何も言わなかった。それが、椿のやり方だった。
◇
茜が、俺の前に歩み出た。
彼女の目は、鋭い。沈黙王の存在を受けても、彼女だけは野生の勘で心を閉ざしていたのかもしれない。
茜の唇が動く。
『あんたが何に選ばれたとか、呼ばれたとか、正直よく分からん』
彼女の視線が、俺を貫く。
『でも、あたしに聞きたいことがある。答えろ』
俺は、茜を見た。
『視るものに背後を取られた時、あたしを庇って血を流したのは、予言のためか?』
俺は、首を横に振った。
『あたしの仲間が消えた沈黙の館を、一緒に越えてくれたのは、世界の摂理か?』
俺は、答えなかった。
『さっき奈々を引き戻した時、あんたの顔、あたしは見てた。泣きそうな顔で、それでも離さなかった。あれも、鍵の役目か?』
茜が、ふん、と鼻を鳴らした。
『違うだろ。あんたは、あんたの心で、あたしたちを守ろうとした』
彼女の目が、わずかに和らいだ。
『世界がどうとか、理がどうとか、そんなもんは知らん。あたしが見たのは、あんただ。世界ごとあんたに感謝してやる』
◇
俺は、三人を見た。
奈々。椿。茜。それぞれの形で、俺を見ている。
そして、その後ろには、六人の生存者がいた。
老人が、俺のところまで歩いてきて、俺の手を握った。皺だらけの、けれど温かい手。声は出せない。それでも、老人の目は俺に何かを伝えていた。生き延びろ、と。
子供を抱えた女が、子供の手を俺に向けさせた。小さな手が、空を掴んでいる。俺に向かって。
若い男たちが、拳を握って俺を見ていた。俺が、立ち上がるのを待っている。
黙老の言葉が、蘇った。
『汝は、異なる魂。この世界の外から来た者。夜を殺す者』
黙老は、俺の正体を知っていた。いや、正確には、予言として伝えていた。
『だが、予言は道を示すだけじゃ。歩むのは、汝自身の足じゃ』
栞の言葉も、蘇った。
彼女が調べてくれた古い記録。『扉を開く者が来る時、沈黙は破られる』
俺は、その鍵なのだろう。世界が用意した、封印を完成させるための道具。
だが。
俺は、道具になりたくて転生したわけじゃない。
◇
俺は、立ち上がった。
膝が震えていた。背中の傷が疼いていた。折れかけた肋が、呼吸のたびに軋んでいた。
それでも、俺は立った。
沈黙王を、見上げる。境界を持たぬ闇、目の前が霞むほどの存在。この世界を蝕んできた、全ての元凶。
『立つか』
沈黙王の呼びかけが、問いかける。
『鍵としての役目を、果たすのか』
俺は、答えなかった。
代わりに、手の中に、刃を呼んだ。
地脈の力が集まり、光が形を成す。夜の国の怪物を殺せる、唯一の武器。救世主の証。
『お前が私を殺せば、封印は完成する。夜の国は消え、壁の中の世界だけが残る。それが、世界の理が望む結末だ』
俺は、刃を構えた。
『だが、それでいいのか。鍵として死ぬのが、お前の望みか』
沈黙王の存在が、俺の心を探っている。
俺は、答えた。
「俺は、鍵だ」
声は出なかった。だが、想いは伝わる。
「世界が俺を呼んだ。俺の願いを利用した。それは、事実なんだろう」
沈黙王が、俺を見ている。輪郭のない圧力が、確かに俺を見つめている。
「でも、俺がここにいるのは、世界の都合だけじゃない」
俺は、後ろを振り返った。奈々が、いる。椿が、いる。茜が、いる。生存者たちが、いる。
「こいつらの視線が、折れかけた膝に力を入れてくれる。それは、世界に言われたからじゃない。俺の、俺自身の心だ」
俺は、沈黙王に向き直った。
「前の世界じゃ、指先が触れたところで、それで終わりだった。だから、今度こそ、と思った」
刃を握る手に、力を込める。
「その願いを利用されてたとしても。願い自体は、俺のものだ」
沈黙王が、沈黙している。当たり前だ。奴は沈黙そのものだ。
だが、俺には分かった。奴が、俺の言葉を、俺の心を、聞いているということが。
「俺の心で、夜を終わらせる」
俺は、刃を構えた。
「お前を殺して、封印を完成させるのか。それとも、お前を倒して、この夜を終わらせるのか」
沈黙王の気配が、わずかに揺らいだ。
「どちらを選ぶかは、世界の理が決めることじゃない。俺が、俺自身が、決める」
◇
『面白い』
沈黙王の呼びかけが、かすかに変わった。
嘲笑ではない。興味でもない。もっと古い、もっと深い、何か。
『千年。私はこの場所で待っていた。封印を完成させる鍵が、いつか来ることを』
沈黙王の気配が、膨れ上がる。
『だが、鍵は来なかった。誰一人、ここまで辿り着けなかった』
俺の体が、圧力で軋む。立っているだけで、精一杯だった。
『お前が初めてだ。異なる魂よ。私の前に立ち、私を見て、私に心を示した者は』
沈黙王が、動いた。
概念として座していた存在が、圧倒的な何かが、俺に向かって迫る。
『ならば、見せてみろ』
俺は、刃を振りかぶった。
『お前の心が、世界の理を超えるかどうかを』
◇
俺の背後で、奈々の心が響いた。
真さん。
俺は、振り返らなかった。振り返る余裕がなかった。だが、彼女の想いは届いている。
わたしは、ここにいます。
椿の念も、届いた。
私も、ここにいる。
茜の気持ちも。
あんたが負けたら、あたしたちも終わりだ。だから、勝て。
俺は、笑った。
笑う余裕なんてなかった。沈黙王を前に、奥歯が鳴るほど体がこわばっていた。それでも、笑った。
こいつらがいる。俺の後ろにいる。それだけで、膝に力が入る。
それは、世界の理が決めたことじゃない。俺が、選んだことだ。
沈黙王が、完全に姿を現した。
闇が凝縮したような存在。無数の眼が、俺を見つめている。声なき声が、沈黙の国に響く。
『お前は、世界の鍵だ』
沈黙王が、告げる。
『だが、鍵が何を開けるかは、確かに、お前自身が決めることだ』
俺は、刃を構えた。
「鍵が何を開けるかは、俺が決める」
俺の心が、沈黙の国に響く。
「お前を、ここで終わらせる」
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