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第23話「沈黙の館」



 光が、見えた。


 蒼白い光。

 静かで、言葉にならないほど古いもの。


 沈黙の領域を北へ迂回しながら進んでいた俺たちは、ついにその光を間近に見ていた。

 沈黙の館。

 夜の国の怪異の中でも、最も恐れられる場所。


 音のない世界に、その光だけが在った。

 見つめているだけで、心が吸い寄せられる。足が、自然と前へ出そうになる。


 ——美しい。


 本気でそう思ってしまった自分が、怖かった。


「……止まれ」


 俺は自分に命じるように呟いた。

 足を踏みしめ、光から目を逸らす。

 見つめ続けるな。近づくな。けれど、目を閉じるな。


 茜が教えてくれた、沈黙の館の鉄則だ。


 ——背中の傷が、じくりと疼いた。


 視るものとの戦いで負った裂傷。椿が処置してくれた包帯が、汗で緩んでいる。折れかけた肋も、呼吸のたびに軋んでいる。護符は、もうない。


 それでも、足を止めるわけにはいかない。



                   ◇



 茜の足が、止まっていた。


 彼女はあの光を見据えたまま、動かない。

 顔が青ざめている。いつも鋭い目が、今は何も映していないように虚ろだ。


「茜」


 俺は声をかけた。

 返事がない。


「茜!」


 肩を掴んで揺さぶると、彼女がびくりと体を強張らせた。

 目に、光が戻る。

 ——けれど、その目には恐怖が滲んでいた。


「……あたしの、集団」


 茜の声が掠れていた。


「全員、あの光に誘われて、消えた。あたしだけが、偵察で離れてて、生き残った」


 知っている。

 いつだったか、彼女が声を絞り出すように語ってくれた、最も深い傷。


「足が動かなかった。仲間が一人ずつ、光の中に入っていくのを見てた。止めようとしたのに、声が出なくて、体が動かなくて……」


 茜の手が白くなるほど弓を握りしめている。


「……逃げた。あたしだけ、逃げたんだ」


 その言葉が、音のない沈黙の領域に、ひどく重く響いた。



                   ◇



 俺は茜の前に立った。


 光が彼女の顔を照らしている。

 蒼白い、吸い込まれそうな光。

 見つめているだけで、心が溶けていきそうになる。


「茜。俺を見ろ」


 彼女の目を、俺の目に合わせる。


 ——励ましの言葉なら、もう掛けた。けれど、言葉だけじゃ足りない。


「お前がここまで導いてくれたから、俺たちは生きてる」


 俺は彼女の肩を掴んだまま、続けた。


「這うものを避ける道も、探り蟲の気配も、お前がいなきゃ俺たちは三日前に全滅してた。お前が生き延びたから、俺たちは今ここにいる」


 茜の目が、俺を見た。

 揺れている。

 恐怖と、過去と、それから——何か別のものが、混ざっている。


「……あんたは」


 彼女の声が途切れた。


「なんで、そんなこと言えるんだ。あたしが、逃げた奴だって、知ってるのに」


「逃げたんじゃない。生きて、俺たちを導いたんだ」


 俺は言った。


「仲間が死んだ。お前は生き残った。その罪悪感は分かる。——俺も、前の世界で、誰も守れなかった」


 茜の目が、わずかに広がった。


「けど、お前の知識がなかったら、夜の国で全滅してた。お前が生き延びたことには、意味がある。——だから、今度は一緒に越えよう」


 茜は、俺を見つめていた。

 長い沈黙。

 音のない世界で、彼女の息だけが聞こえる。


 やがて、茜は深く息を吐いた。


「……あんたは」


 声が、少しだけ落ち着いていた。


「本当に、変な奴だな」


 彼女は弓を構え直した。

 手は、まだ力が入りすぎている。

 それでも、目には光が戻っていた。


「行こう。——あの館を、越える」



                   ◇



 俺たちは再び歩き始めた。


 沈黙の館を北側に迂回しながら、最短で通過する。

 光は左手に見えている。

 言葉にならないほど美しく、静かで、途方もなく恐ろしい。


 生存者たちが、ふらついていた。


 六人の顔は、疲労で土気色になっている。

 三日以上、ろくに休んでいない。水筒はもう半分以下、食料もあと二日分しかない。沈黙の領域に入ってからは、音がないことで精神が削られている。


 ——疲れた者ほど、誘われる。


 栞が調べてくれた情報が、頭をよぎる。


「前を見ろ」


 俺は生存者たちに声をかけた。身振りも交えて、光から目を逸らすように促す。


「あの光を見るな。足を止めるな。——俺について来い」


 老人が頷いた。

 子供を抱えた女が、必死に目を逸らしている。

 若い男二人は、互いに支え合いながら歩いている。


 椿が後方で目を光らせている。

 誰かが光に向かって歩き出したら、すぐに止められるように。


 茜が先頭で、ルートを示している。

 彼女の足取りは、まだぎこちない。館の光を見た瞬間、仲間が消えていった光景が、まぶたの裏に甦ったのだろう。それでも、足は止まらない。あの時固めた覚悟は、言葉だけじゃなかった。


 ——越えられる。


 そう思った、その時だった。



                   ◇



 若い男が、一人、列を離れた。


「おい!」


 俺が声を上げた時には、もう遅かった。

 男は、ふらふらと光の方へ歩き出していた。


 表情がない。

 目が虚ろで、何も見ていない。

 それでも、足だけが、光に向かって動いている。


「止まれ! 戻って来い!」


 俺は駆け寄り、男の腕を掴んだ。


 ——冷たい。


 男の腕は、まるで死人のように冷たかった。

 力を込めて引き戻そうとするが、男の足は止まらない。

 光に向かって、一歩、また一歩と。


「くそっ……!」


 俺は男の前に回り込み、両肩を掴んで揺さぶった。肋骨が軋み、背中の傷が引き攣れる。痛みが奥歯に響く——構ってられない。


「目を覚ませ! あの光に入ったら、終わりだ!」


 男の目が、俺を見た。

 ——見ていなかった。


 俺の顔を見ているはずなのに、その瞳は何も映していない。

 まるで、男の中身が、もう光に吸い取られているみたいに。


「……行かせて」


 男が呟いた。

 声が、ひどく穏やかだった。


「あそこは、静かだ。もう、怖くない。もう、走らなくていい」


「馬鹿言うな! 終ノ塔に帰るんだろ! 飯を食って、眠るんだろ!」


 俺の声が、音のない世界に響く。

 ——いや、響かない。沈黙の領域が、俺の声を飲み込んでいる。


 男の足が、また一歩、前へ出た。



                   ◇



 椿が駆けつけて、男のもう片方の腕を掴んだ。

 二人がかりで引き戻そうとするが、男の力は異様に強い。


 ——いや、違う。


 男の力が強いんじゃない。

 何かが、男を引っ張っている。

 沈黙の館の光から、見えない力が伸びて、男の魂を引き寄せている。


「真!」


 茜が叫んだ。


「もう一人!」


 振り返ると、中年の女が列を離れていた。

 彼女も、光に向かってふらふらと歩き出している。


 ——まずい。


 俺の背筋に、冷たいものが走った。


 沈黙の館の力が、弱った者を次々と誘い込んでいる。

 このまま時間をかけていたら、全員が——



                   ◇



「奈々!」


 茜の声が、俺の耳を貫いた。


 振り返った瞬間、心臓が止まった。


 奈々が、光に向かって歩いていた。


 細い足が、一歩、また一歩と、蒼白い光の方へ進んでいく。

 長い髪が、風のない空気の中で揺れている。

 その目は、何も見ていない。


 ——奈々には、テレパシーの力がある。


 心を開き、遠くの声を聴く力。

 その感受性の高さが、今は裏目に出ている。沈黙の館の誘いは、心に直接呼びかけるものだ。奈々のように精神が開いた者ほど、強く引き込まれる。


「奈々っ!」


 俺は男を放り出して、奈々のもとへ走った。


 彼女の肩を掴み、自分の方へ向けようとする。

 ——動かない。


 奈々の体は、まるで根が生えたように動かなかった。

 いや、動いている。光に向かって、ゆっくりと。


「奈々、俺だ! 目を覚ませ!」


 俺は彼女の顔を両手で挟み、自分の目を見させようとした。


 奈々の目が、俺を見た。

 ——見ていなかった。


 透き通るような瞳が、俺の顔を通り抜けて、遠くの光を見つめている。


「……静か」


 奈々が呟いた。

 声が、ひどく穏やかで、どこか幸せそうだった。


「怖くない。痛くない。もう、何も……」


「駄目だ!」


 俺は叫んだ。


「俺を見ろ! 俺の声を聞け! ——お前は、ここにいるんだ!」


 奈々の足が、また一歩、前へ出た。



                   ◇



 俺は、奈々を抱きしめた。


 力いっぱい。彼女の体を自分の体に押し付けて、光から引き離そうとした。

 背中の傷が裂けるような痛みを訴える。折れかけた肋が悲鳴を上げる。——構うものか。


 ——けれど、奈々の足は止まらない。


 俺を抱えたまま、光に向かって歩いている。

 俺の重さが、まるで意味をなしていない。


 沈黙の館の力が、彼女の魂を引き寄せている。

 俺の体なんか、何の障害にもならない。


「……くそ」


 俺の声が掠れた。


「くそ、くそ、くそっ……!」


 理屈では、どうにもならない。

 力では、止められない。


 ——なら、どうする。


 頭が真っ白になりかけていた。

 奈々がいなくなる。あの光の中に消えていく。

 俺の腕の中から、運命の人が、消えていく——


 その時、体が勝手に動いた。


 考えるより先に、俺は心の奥から叫んでいた。



                   ◇



 声ではない。

 言葉ではない。

 体の芯から、何かが噴き出すように——彼女に呼びかける。


 ——奈々。


 ——俺はここにいる。


 ——お前の手を、離さない。


 俺の腕に力を込める。

 彼女の体を、自分の体に押し付ける。

 心臓の音を、彼女に伝えようとする。


 ——聞こえるか。


 ——俺の心臓が動いている。


 ——お前のために、動いている。


 奈々の足が、止まった。


 ——もう一度。


 俺は、もっと強く叫んだ。


 ——戻って来い。


 ——俺のところに、戻って来い。


 ——お前がいないと、俺は——


 奈々の体が、小さく痙攣した。



                   ◇



「……あ」


 奈々の唇から、声が漏れた。


 彼女の目が——まだ焦点が合っていない。

 虚ろな瞳が、ゆっくりと揺れている。

 どこにいるのか分からない、という顔。


「……真……さん……?」


 彼女の声は、まだ遠かった。


「わたし……どうして……ここ、は……」


 奈々の手が、宙を掻いた。

 何かを探すように。何かを掴もうとするように。

 ——その手が、俺の胸元の服を掴んだ。


 細い指が、力なく、けれど必死にしがみついている。


「光が……あの光が、呼んでいて……静かで、優しくて……でも」


 奈々の体が、がくがくと揺れ始めた。


「わたし、行こうとした……あの中に、消えようとした……」


「もういい」


 俺は彼女を抱きしめたまま言った。


「もういい。戻って来てくれた」


 奈々の腕が、俺の背中に回った。

 細い指が、俺の服を掴んでいる。しがみついている。


「怖い……」


 奈々の声が、震えていた——いや、彼女の体全体が震えていた。


「わたし、怖い……あの光が、まだ呼んでいる……わたしの中に、入り込もうとしている……」


「見るな。俺だけを見てろ」


 俺は彼女の顔を、自分の胸に押し付けた。

 光が見えないように。彼女の魂が、もう一度引き寄せられないように。


「……はい」


 奈々が頷いた。

 彼女の体が、まだ震えている。息が浅い。冷や汗が額に浮いている。

 ——けれど、足は止まっていた。



                   ◇



 椿と茜が、他の生存者を引き戻していた。


 若い男も、中年の女も、なんとか光から引き離すことができた。

 茜が弓の背で男の頬を叩き、椿が女の両肩を掴んで何度も名前を呼んで、ようやく正気に戻った。彼らは奈々ほど感受性が高くない分、引き戻すのは容易だった——とはいえ、それでも危なかった。


「——行くぞ」


 俺は奈々を支えながら、歩き出した。


「ここに留まるな。足を止めたら、また誘われる。——走れる奴は走れ。走れない奴は、誰かにしがみつけ」


 老人が、子供を抱えた女の手を取った。

 若い男二人が、互いに支え合いながら立ち上がった。


 茜が先頭に立った。

 彼女の足取りは、さっきより確かだった。

 館の光を見ても、もう足が止まらない。


「こっちだ。岩場を伝えば、館の影響範囲から出られる」


 椿が後方を守りながら、短く告げた。


「全員、茜について来い。私が後ろを守る」


 俺は奈々の手を握ったまま、歩いた。

 彼女の手は、まだ冷たい。

 けれど、指は俺の手を握り返している。


 ——生きている。


 まだ、生きている。



                   ◇



 どれくらい歩いたか、分からない。


 沈黙の領域では、時間の感覚が狂う。

 十分が一時間に感じられ、一時間が永遠に感じられる。

 自分の心臓の音が、不気味なほど大きく聞こえる——音のない世界では、自分の体が発する音だけが異様に際立つ。


 けれど、やがて——光が、遠くなっていった。


 蒼白い光が、背後に小さくなっていく。

 心を引き寄せる力が、弱まっていく。


 俺は足を止めて、振り返った。


 沈黙の館が、夜の底で静かに輝いている。

 見たことのない色の光。

 だが、もう俺の心は動かない。


「……通過した」


 茜が呟いた。


 彼女の声が、低く掠れていた。

 恐怖ではない。

 ——安堵と、何か別のもの。


「あたしの集団が消えた場所を……全員で、通過した」



                   ◇



 俺は奈々を見た。


 彼女は俺の腕の中で、まだ体を強張らせていた。

 顔は青ざめ、額に汗が浮いている。呼吸も浅い。

 ——それでも、目は俺を見ている。ちゃんと、焦点が合っている。


「……戻ってきてくれた」


 俺は、それだけ言った。


 奈々が、小さく頷いた。


「あなたの声が……聞こえました」


 彼女の声は、まだ弱々しい。


「遠くて、暗くて……でも、あなたの声だけが、はっきり聞こえて……」


 俺は何も言わなかった。

 ただ、彼女の手を強く握り返した。


 ——魂の繋がり。


 言葉にする必要はない。奈々には伝わっている。あの夜、俺たちが確かめ合った、前世から続く絆。沈黙の館の力も、それには勝てなかった。


 奈々の目に、涙が浮かんだ。


「……わたし、怖かった」


 彼女の声が途切れた。


「あの光の中、あなたがいなかったら……そのまま、消えてしまうところでした」


「消えさせない」


 俺は彼女を抱きしめた。


「絶対に。お前を、あんな場所には渡さない」



                   ◇



 茜が、俺たちの傍に立っていた。


 彼女の目が、俺を見ている。

 さっきまでの恐怖は、消えていた。

 代わりに、信じられないものを見るような目をしている。


「あんた、今……」


 茜の声が、掠れていた。


「あの館から、引き戻したのか」


 俺は首を横に振った。


「引き戻したんじゃない。奈々が戻って来てくれただけだ」


「いや」


 茜が言った。


「あたしは見てた。あの光に引き込まれた奴を、引き戻すなんて——誰にも、できなかった」


 彼女の声が、低くなった。


「あたしの仲間も、一度引き込まれたら、もう戻らなかった。何人も。何十人も。——でも、あんたは」


 茜は、俺と奈々を見た。


「……あんたら二人の間には、あたしには分からない何かがあるんだな」


「そうかもしれない。俺にも、全部は分からない」


 俺は正直に言った。


「ただ、奈々を失いたくなかった。それだけだ」


 茜は、しばらく俺を見つめていた。

 やがて、小さく息を吐いた。


「……あたしの常識が、あんたにだけ通じないな」


 彼女の口元が、わずかに緩んでいた。



                   ◇



 俺たちは、沈黙の館を越えた。


 六人の生存者も、全員無事だ。

 誰も、あの光の中に消えなかった。


 茜の集団を丸ごと奪った怪異を、俺たちは全員で通り抜けた。


 奈々は、俺の手を握ったまま歩いている。

 細い指が、俺の手を離さない。

 時折、俺の顔を見上げる。まだ顔色は悪いが、目には光が戻っている。


 沈黙の領域は、まだ続いている。

 音のない世界。巨大な気配が、遠くで俺たちを見ている。


 ——沈黙王。


 あの存在との対峙は、まだこれからだ。

 沈黙の館は越えた。でも、沈黙の国はまだ先にある。

 世界の真実も、俺の正体も、あの最奥で待っている。


 けれど、今は——奈々が戻って来てくれた。それだけでいい。


 俺は奈々の手を握り直した。

 彼女が、俺を見上げた。


「……今度は、わたしが、あなたの手を離さない番です」


 奈々が言った。

 声は、もう途切れていなかった。


「あなたの隣で——一緒に」


 俺は頷いた。


 沈黙の闇の中、俺たちは歩き続けた。

 声なき巨大な存在が、その先で、静かに待っていた。


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