第22話「孤島の試練」
◇
足音が消えた。
比喩ではない。本当に、自分の足音が聞こえない。
革底が岩を踏む感触はある。振動も伝わる。けれど音だけが、どこかに吸い込まれていく。
「……沈黙の領域」
茜が呟いた。その声も遠い。耳に届いているはずなのに、言葉の輪郭が霞む。
俺たちは岩場を歩いていた。
岸辺の道を抜け、三時間ほど進んだ先に広がっていたのは、黒い岩礁が点々と連なる異様な地形だった。
足場は不安定だ。岩と岩の間に黒い水が溜まり、どこが浅くてどこが深いのか分からない。油断すれば足を取られる。迂回しようにも、両側は切り立った崖と毒水の川に塞がれている。
まるで孤島だ。
夜の国の只中に、岩だけで出来た孤島が連なっている。
「……進むしかないな」
俺は低く呟いた。声が、自分の喉からではなく、どこか遠くから聞こえる。
奈々の手が、俺の腕に絡んでいる。
細い指が、わずかに震えていた。
「……音が、ないんです」
奈々が囁いた。
「わたしたちの息の音も、心臓の音も——この場所が、全部飲み込んでいる」
その通りだった。
沈黙の領域——茜が呼んだこの場所は、音そのものを食い殺している。
六人の生存者たちが、俺たちの後ろで固まっている。
子供が母親らしき女にしがみつき、口を動かしている。泣いているのかもしれない。声は届かない。
椿が振り返り、その子供に何か語りかけた。
唇の動きで「大丈夫」と言っているのが分かった。
大丈夫。
その言葉が、これほど空虚に響く場所はない。
◇
岩場を進む。
一歩一歩、足元を確かめながら。黒い水は膝下まで来ることもあり、靴の中が冷たく濡れた。
背中の傷が、鈍く疼いている。
椿が処置してくれた包帯が、汗と湿気で緩んでいる。折れかけた肋骨も、呼吸のたびに軋む。
護符は、もうない。
視るものに使い果たした。次に奴らが来たら、俺は生身で斬り合うしかない。
——いや。
視るものより、もっと大きなものが、この先にいる。
茜が言った言葉が、頭から離れない。
「館の先にもっと大きな何かがいる。この夜の国を統べてる」
沈黙王。
崖肌の古文字に刻まれていた「沈黙の守護者」。「扉を開く者」。
その意味は、まだ分からない。それでも——あの存在が、この夜の国の頂点にいることだけは、確信があった。
俺の右手が、無意識に刃の柄を握る。
怪物を殺せる力。この世界で、俺だけが持っている異能。
なぜ、俺だけが戦えるのか。
その答えは——まだ、手が届かない。
◇
三時間が過ぎた頃、俺たちは比較的広い岩礁に辿り着いた。
周囲より一段高くなっており、黒い水は寄せてこない。休憩には適していた。
「ここで少し休む」
俺が言うと、生存者たちが崩れるように座り込んだ。疲労が限界に近い。子供を抱えた女は、そのまま動かなくなった。
「水は、まだ半分ある」
椿が水筒を確認しながら言った。
「食料は——あと二日分。それ以上は持たない」
茜が懐から乾燥肉を取り出し、小さく千切った。
「この地形を抜けるのに、どれくらいかかる」
俺の問いに、茜は首を横に振った。
「あたしの知ってる場所じゃない。沈黙の領域は、地図にも残ってない。残せなかったんだろう——入った連中が、誰も帰らなかったから」
沈黙。
音のない沈黙が、その言葉を飲み込んだ。
奈々が俺の隣に座った。
彼女の肩が、わずかに触れている。
「真さん」
声は、やはり遠い。
「この場所——何かが、見ています」
俺は奈々を見た。
彼女の瞳が、闇の奥を見据えている。
「大きくて、静かで——怖ろしいほど、古い存在が。ずっと、わたしたちを見ている」
◇
奈々の言葉が、俺の中の何かを揺さぶった。
見られている。
その感覚は、俺にもあった。
沈黙の領域に入ってから、ずっと。
背中を這うような、巨大な視線。
視るものとは違う。
あの化け物どもは、人を見るというより、餌を見ていた。飢えと執着が滲んでいた。
けれど今感じているのは、それとは質が違う。
静かだ。
ただ、見ている。
感情がない。興味も、敵意も、何もない。
ただ——そこに在る。
俺は立ち上がった。
岩礁の端まで歩き、闇を見つめた。
黒い空。黒い水。黒い岩。
どこまでも暗黒が続いている。地平線すらない。ただ闇が、果てしなく広がっているだけだ。
その闇の、ずっと奥。
存在が——あった。
俺には見えない。
——それでも、分かる。
巨大な存在が、夜の国の最奥に鎮座している。
視るものたちを従え、沈黙の館を支配し、この世界の闇そのものを統べる頂点。
沈黙王。
俺の右手が、無意識に刃の柄を握り直していた。
なぜ、俺だけが戦えるのか。
なぜ、俺はこの世界に転生したのか。
世界は、なぜ閉じられたのか。
——奇妙だった。
恐怖はある。当然だ。視るものの何倍も巨大で、この世界そのものを統べているような存在。
震えるほど怖い。
それなのに——目が離せない。
いや、離したくないのかもしれない。
懐かしい、とすら感じている自分がいる。
——何だ、これは。
俺とあの存在の間に、何かがある。
繋がりのような、因縁のような——言葉にできない何かが。
それが一番、怖かった。
背筋が凍った。
体が動かない。手が震える。膝が、笑っている。
——それでも。
俺は、刃を握り直した。
震える手で、柄を握りしめた。
怖い。
逃げたい。
なぜ俺がこんな目に、とすら思う。
——でも、後ろには仲間がいる。
ここで崩れたら、全員を巻き込む。
だから、立っていろ。
◇
奈々が、俺の隣に立っていた。
「真さん——何か、感じましたか」
俺は頷いた。隠しても意味がない。
「沈黙王だ。……この領域を統べている存在が、夜の国の奥にいる。俺には見えない——けど、あいつは、俺を見ている」
奈々の顔が青ざめた。
それでも、彼女は逃げなかった。俺の腕を、両手で握りしめた。
「わたしにも——少しだけ、分かります」
奈々の声が、震えていた。
「あの存在と——あなたの間に、何かがある。繋がりのようなもの。説明できないけれど——わたしの中の、夢のような記憶が、それを感じている」
前世の魂。
奈々は、俺と同じく魂の記憶を持っている。夢のような形で、前世の欠片を覚えている。
その魂が、沈黙王と俺の間にある「何か」を感じ取っている。
——繋がり。
俺と沈黙王の間に、繋がりがある?
「……正直、分からないことだらけだ」
俺は言った。
「なぜ俺だけが戦えるのか。転生した理由も。沈黙王と俺に何の関係があるのかも——全部、手探りだ」
けれど。
「答えは、あの最奥にある」
俺は、闇を見つめた。
「俺が何者で、この世界がなぜこうなったのか。全部——あの沈黙の底にある」
◇
茜が近づいてきた。
「話は聞いた。あんたと、あの化け物の親玉に、何かあるってことだな」
俺は頷いた。
「理由までは、まるで掴めない。——ただ、俺を見ている。それだけは確かだ」
茜は腕を組んだ。
彼女の目が、かつてない真剣さで俺を見ていた。
「沈黙の館に、あたしの集団は消えた。全員——あの光に誘われて、帰ってこなかった」
俺は黙って聞いた。
「あたしは、ずっと逃げてきた。沈黙の館から、この領域から、全部」
茜の声が、低くなった。
「——でも」
彼女は、闇を見た。
「逃げても、どこにも行けない。終ノ塔に戻っても、いつか地脈が尽きる。夜の国のどこかに隠れても、いつか見つかる。逃げ続けた先に、生き延びる道なんてない」
その通りだった。
灯ノ塔は陥落した。
終ノ塔の地脈も、あと百年持たないと言われている。
人類は、壁の中で緩やかに滅びに向かっている。
逃げても、死ぬ。
戦っても、死ぬかもしれない。
——でも。
「前へ出れば、変わるかもしれない」
俺は言った。
「沈黙王と俺の間に何があるのか、見当もつかない。それでも——あいつが答えを持っているなら、俺はそこへ行く。世界がなぜ閉じたのか、俺が何者なのか、全部知った上で——なお抗えるかどうか、試す」
茜が、小さく笑った。
「物好きだな、あんたは。死にに行くようなもんだぞ」
「かもな。——でも」
俺は、視線を仲間たちに向けた。
奈々。椿。茜。そして、座り込んでいる六人の生存者たち。
視線が、一人ずつ彼らの顔を辿った。
奈々の、怯えながらも俺を見つめる瞳。
椿の、凛として揺るがない横顔。
茜の、苦い笑みを浮かべた口元。
生存者たちの、疲弊しきった、それでも光を失っていない目。
「こいつらと一緒に、終ノ塔の門をくぐる。朝になったら、皆で飯を食う。——そのためなら、沈黙王の領域だろうが、どこだろうが、足を踏み出す」
◇
その時——
茜の表情が、一瞬で変わった。
「——伏せろ」
囁きのような声。それでも、命令だった。
俺は反射的に奈々を庇い、岩陰に身を沈めた。椿も、音もなく生存者たちを押さえつける。
沈黙の中、茜の目だけが動いている。
闇の向こうを——凝視していた。
——何かいる。
俺も感じ取っていた。
沈黙王ではない。もっと近い。もっと小さい。
黒い水の向こう、岩礁の影に——蠢くものがあった。
夜の住人。
亜人型の群れ。三体。いや、四体か。
這うように移動している。音を立てずに。
——いや、この領域では、元から音がない。
茜の手が、弓に伸びた。
俺も、刃の柄を握る。
来るか。
——来なかった。
群れは、俺たちの岩礁から少し離れた場所を通り過ぎていった。
獲物を探しているのか、それとも別の目的か。どちらにせよ、俺たちには気づいていないようだった。
長い、長い沈黙。
群れの気配が完全に消えるまで、誰も動かなかった。
茜が、ようやく息を吐いた。
「……運がいいな、あんたら」
小声で言う。
「あいつらに見つかってたら、ここで終わりだった。護符なし、疲弊した生存者を抱えて、四体相手は無理だ」
椿が頷いた。
「先に進む。ここに留まるのは危険だ」
俺も同意した。
——休息は終わりだ。
◇
再び歩き始める。
岩場を渡り、黒い水を避け、沈黙の中を進む。
椿が立ち上がった。
「私も、同じ考えだ」
彼女の声は、いつもと同じように凛としていた。この沈黙の領域でさえ、椿の声だけは芯が通って聞こえる。
「退いても、緩やかに死ぬだけ。沈黙の館を避けて迂回すれば、食料も水も尽きる。全員が倒れる前に、足を止めるわけにはいかない」
茜が頷いた。
「最短経路は、沈黙の領域を抜けることだ。館を越えて、その先の沈黙の国を抜ければ——終ノ塔への道が開ける」
茜は一度言葉を切り、それから続けた。
「——ただし」
彼女の目が、闇の奥を見据えた。
「沈黙の館は、疲れた者を誘う。栞が調べてくれた巻物にもあった——光に惹かれて、帰ってこない。追ってはこない。あたしの集団は、そこで全員消えた。あんたらが同じ目に遭わない保証はない」
生存者の一人——若い男が、震える声を上げた。
「戻れないのか。来た道を引き返せば——」
茜が首を横に振る。
「来た道も、安全じゃない。さっきの夜の住人がいる。食料も持たない。戻る途中で全滅する」
「それでも——」
男が立ち上がりかけた。
その腕を、老人が掴んだ。
何も言わない。ただ、首を横に振った。
——言葉が出なくても、意味は伝わった。
戻っても、死ぬ。
男は、崩れるように座り込んだ。
俺は、自分の右手を見た。
怪物を殺せる力。この世界で、俺だけが持っている異能。
この力があれば、沈黙の館も——沈黙王さえも、斬れるのか。
手がかりすらない。
——それでも、試すしかない。
「行く」
俺は宣言した。
「退いても死ぬなら——俺は、前に出る。沈黙の館を越え、沈黙の国を抜け、答えを見つけて、皆で終ノ塔の門をくぐる」
◇
生存者たちを見た。
六人。子供が一人、中年の女が二人、老人が一人、若い男が二人。
全員、疲弊しきっている。
足は腫れ、顔は土気色で、目には恐怖と諦めが滲んでいる。
——それでも、まだ、生きている。
「聞いてくれ」
俺は、六人に向かって言った。
声は、やはり音にならない。けれど、俺は構わず続けた。身振りで、表情で、伝える。
「この先は、危険だ。でも、退いても道はない。一緒に抜けよう」
子供が、母親にしがみついた。
「無理だと思うかもしれない。俺だって、正直怖い」
若い男が何か言った。唇の動きで「本当に抜けられるのか」と読めた。
「保証はできない。——でも、俺は諦めない。お前たちを見捨てない。それだけは、絶対だ」
沈黙。
音のない沈黙の中で、六人の目が俺を見ていた。
老人が、ゆっくりと立ち上がった。
震える足で、俺の前まで歩いてきた。
そして——俺の肩を、軽く叩いた。
何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
けれど、その目には、信頼のようなものがあった。
他の五人も、ゆっくりと頷いた。
◇
俺たちは再び歩き始めた。
孤島のような岩礁を、一つ一つ渡っていく。黒い水を避け、足場を探し、沈黙の闇の中を進む。
奈々の手が、俺の手を握っていた。
細い指が、温かい。
「真さん」
奈々が、囁いた。
「わたしも——この闇の正体を、自分の目で確かめたいんです」
俺は、奈々の手を握り返した。
「一緒に、見届けよう。俺たちで——この世界の本当の姿を」
奈々が、小さく頷いた。
前世の魂が結んだ運命。
闇の中でも、彼女がいる限り、俺は前を向ける。
茜が先頭に立ち、椿が後方を守る。
俺は中央で、奈々と生存者たちを導く。
沈黙の領域を、俺たちは歩き続ける。
◇
何時間が過ぎたか、分からない。
時間の感覚が、この領域では狂う。闇は変わらず、音はなく、方向すら曖昧になる。
——けれど、何かが近づいている。
俺は足を止めた。
「茜」
俺が呼ぶと、茜も立ち止まった。振り返り、俺を見る。
「分かってる。あんたも感じてるんだろ」
夜の底に、光が見えた。
ほんの微かな、蒼白い光。
瞬いているわけではない。ただ静かに、闇の中に浮かんでいる。
美しい光だった。
見ているだけで、心が吸い寄せられそうになる。
「沈黙の館」
茜が、低く呻いた。
彼女の足が、止まった。
——動けないのだ。
顔が強張っている。かつて仲間を全て奪われた場所。
弓を構えようとした手が、白くなるほど握りしめられている。
あの光を見た瞬間、茜の中で何かが甦ったのだろう。
仲間たちの顔。彼らが光に誘われていく背中。止められなかった自分。
——逃げた。
その記憶が、茜の足を縛り付けている。
俺は、茜の肩に手を置いた。
「……茜」
彼女が、びくりと震えた。
「今回は、一人じゃない」
茜は、俺を見た。
その目に、怯えと怒りと、それから——覚悟のようなものが混ざっていた。
しばらくして、茜は深く息を吐いた。
「……あたしは、二度と逃げない」
震える手で、弓を構え直した。
「あの光に、近づくな。目を逸らすな。——けれど、見つめ続けるな」
栞が教えてくれた情報。疲れた者ほど誘われる。追っては来ない。
だから——足を止めなければいい。
「前に出よう」
俺は言った。
「あの光を避けて、最短で抜ける。館の正面は通らない。迂回できる道があるはずだ」
茜が頷いた。
今度は、足が動いた。
「……こっちだ。岩礁を伝えば、少し北に逸れられる」
俺たちは、再び歩き始めた。
蒼白い光が、夜の底で静かに輝いている。
その光の遥か奥に、沈黙王の気配が——ずっと、俺を見ていた。
◇
退いても死ぬ。
なら——前に出る。
俺の言葉に、皆が頷いた。
沈黙の領域を抜けた先に、沈黙の館がある。
その先に、沈黙の国がある。
そして、その最奥に——俺を待つ者がいる。
世界がなぜ閉じたのか。
俺が何者なのか。
全ての答えが、あの沈黙の底にある。
恐怖はある。
懐かしさを感じる自分が、一番怖い。
——それでも、俺は前に出る。
奈々を、椿を、茜を、六人の生存者を——皆と一緒に、終ノ塔の門をくぐるために。
沈黙の中、俺たちは歩き続けた。
声なき巨大な気配が、静かに、待っていた。
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