表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/26

第22話「孤島の試練」


 足音が消えた。


 比喩ではない。本当に、自分の足音が聞こえない。

 革底が岩を踏む感触はある。振動も伝わる。けれど音だけが、どこかに吸い込まれていく。


「……沈黙の領域」


 茜が呟いた。その声も遠い。耳に届いているはずなのに、言葉の輪郭が霞む。


 俺たちは岩場を歩いていた。

 岸辺の道を抜け、三時間ほど進んだ先に広がっていたのは、黒い岩礁が点々と連なる異様な地形だった。


 足場は不安定だ。岩と岩の間に黒い水が溜まり、どこが浅くてどこが深いのか分からない。油断すれば足を取られる。迂回しようにも、両側は切り立った崖と毒水の川に塞がれている。


 まるで孤島だ。

 夜の国の只中に、岩だけで出来た孤島が連なっている。


「……進むしかないな」


 俺は低く呟いた。声が、自分の喉からではなく、どこか遠くから聞こえる。


 奈々の手が、俺の腕に絡んでいる。

 細い指が、わずかに震えていた。


「……音が、ないんです」


 奈々が囁いた。


「わたしたちの息の音も、心臓の音も——この場所が、全部飲み込んでいる」


 その通りだった。

 沈黙の領域——茜が呼んだこの場所は、音そのものを食い殺している。


 六人の生存者たちが、俺たちの後ろで固まっている。

 子供が母親らしき女にしがみつき、口を動かしている。泣いているのかもしれない。声は届かない。


 椿が振り返り、その子供に何か語りかけた。

 唇の動きで「大丈夫」と言っているのが分かった。


 大丈夫。

 その言葉が、これほど空虚に響く場所はない。


                   ◇


 岩場を進む。

 一歩一歩、足元を確かめながら。黒い水は膝下まで来ることもあり、靴の中が冷たく濡れた。


 背中の傷が、鈍く疼いている。

 椿が処置してくれた包帯が、汗と湿気で緩んでいる。折れかけた肋骨も、呼吸のたびに軋む。


 護符は、もうない。

 視るものに使い果たした。次に奴らが来たら、俺は生身で斬り合うしかない。


 ——いや。


 視るものより、もっと大きなものが、この先にいる。


 茜が言った言葉が、頭から離れない。

 「館の先にもっと大きな何かがいる。この夜の国を統べてる」


 沈黙王。


 崖肌の古文字に刻まれていた「沈黙の守護者」。「扉を開く者」。

 その意味は、まだ分からない。それでも——あの存在が、この夜の国の頂点にいることだけは、確信があった。


 俺の右手が、無意識に刃の柄を握る。

 怪物を殺せる力。この世界で、俺だけが持っている異能。


 なぜ、俺だけが戦えるのか。

 その答えは——まだ、手が届かない。


                   ◇


 三時間が過ぎた頃、俺たちは比較的広い岩礁に辿り着いた。


 周囲より一段高くなっており、黒い水は寄せてこない。休憩には適していた。


「ここで少し休む」


 俺が言うと、生存者たちが崩れるように座り込んだ。疲労が限界に近い。子供を抱えた女は、そのまま動かなくなった。


「水は、まだ半分ある」


 椿が水筒を確認しながら言った。


「食料は——あと二日分。それ以上は持たない」


 茜が懐から乾燥肉を取り出し、小さく千切った。


「この地形を抜けるのに、どれくらいかかる」


 俺の問いに、茜は首を横に振った。


「あたしの知ってる場所じゃない。沈黙の領域は、地図にも残ってない。残せなかったんだろう——入った連中が、誰も帰らなかったから」


 沈黙。

 音のない沈黙が、その言葉を飲み込んだ。


 奈々が俺の隣に座った。

 彼女の肩が、わずかに触れている。


「真さん」


 声は、やはり遠い。


「この場所——何かが、見ています」


 俺は奈々を見た。

 彼女の瞳が、闇の奥を見据えている。


「大きくて、静かで——怖ろしいほど、古い存在が。ずっと、わたしたちを見ている」


                   ◇


 奈々の言葉が、俺の中の何かを揺さぶった。


 見られている。

 その感覚は、俺にもあった。


 沈黙の領域に入ってから、ずっと。

 背中を這うような、巨大な視線。


 視るものとは違う。

 あの化け物どもは、人を見るというより、餌を見ていた。飢えと執着が滲んでいた。


 けれど今感じているのは、それとは質が違う。


 静かだ。

 ただ、見ている。

 感情がない。興味も、敵意も、何もない。


 ただ——そこに在る。


 俺は立ち上がった。

 岩礁の端まで歩き、闇を見つめた。


 黒い空。黒い水。黒い岩。

 どこまでも暗黒が続いている。地平線すらない。ただ闇が、果てしなく広がっているだけだ。


 その闇の、ずっと奥。

 存在が——あった。


 俺には見えない。

 ——それでも、分かる。


 巨大な存在が、夜の国の最奥に鎮座している。

 視るものたちを従え、沈黙の館を支配し、この世界の闇そのものを統べる頂点。


 沈黙王。


 俺の右手が、無意識に刃の柄を握り直していた。


 なぜ、俺だけが戦えるのか。

 なぜ、俺はこの世界に転生したのか。

 世界は、なぜ閉じられたのか。


 ——奇妙だった。


 恐怖はある。当然だ。視るものの何倍も巨大で、この世界そのものを統べているような存在。

 震えるほど怖い。


 それなのに——目が離せない。


 いや、離したくないのかもしれない。

 懐かしい、とすら感じている自分がいる。


 ——何だ、これは。


 俺とあの存在の間に、何かがある。

 繋がりのような、因縁のような——言葉にできない何かが。


 それが一番、怖かった。


 背筋が凍った。

 体が動かない。手が震える。膝が、笑っている。


 ——それでも。


 俺は、刃を握り直した。

 震える手で、柄を握りしめた。


 怖い。

 逃げたい。

 なぜ俺がこんな目に、とすら思う。


 ——でも、後ろには仲間がいる。


 ここで崩れたら、全員を巻き込む。


 だから、立っていろ。


                   ◇


 奈々が、俺の隣に立っていた。


「真さん——何か、感じましたか」


 俺は頷いた。隠しても意味がない。


「沈黙王だ。……この領域を統べている存在が、夜の国の奥にいる。俺には見えない——けど、あいつは、俺を見ている」


 奈々の顔が青ざめた。

 それでも、彼女は逃げなかった。俺の腕を、両手で握りしめた。


「わたしにも——少しだけ、分かります」


 奈々の声が、震えていた。


「あの存在と——あなたの間に、何かがある。繋がりのようなもの。説明できないけれど——わたしの中の、夢のような記憶が、それを感じている」


 前世の魂。

 奈々は、俺と同じく魂の記憶を持っている。夢のような形で、前世の欠片を覚えている。


 その魂が、沈黙王と俺の間にある「何か」を感じ取っている。


 ——繋がり。


 俺と沈黙王の間に、繋がりがある?


「……正直、分からないことだらけだ」


 俺は言った。


「なぜ俺だけが戦えるのか。転生した理由も。沈黙王と俺に何の関係があるのかも——全部、手探りだ」


 けれど。


「答えは、あの最奥にある」


 俺は、闇を見つめた。


「俺が何者で、この世界がなぜこうなったのか。全部——あの沈黙の底にある」


                   ◇


 茜が近づいてきた。


「話は聞いた。あんたと、あの化け物の親玉に、何かあるってことだな」


 俺は頷いた。


「理由までは、まるで掴めない。——ただ、俺を見ている。それだけは確かだ」


 茜は腕を組んだ。

 彼女の目が、かつてない真剣さで俺を見ていた。


「沈黙の館に、あたしの集団は消えた。全員——あの光に誘われて、帰ってこなかった」


 俺は黙って聞いた。


「あたしは、ずっと逃げてきた。沈黙の館から、この領域から、全部」


 茜の声が、低くなった。


「——でも」


 彼女は、闇を見た。


「逃げても、どこにも行けない。終ノ塔に戻っても、いつか地脈が尽きる。夜の国のどこかに隠れても、いつか見つかる。逃げ続けた先に、生き延びる道なんてない」


 その通りだった。


 灯ノ塔は陥落した。

 終ノ塔の地脈も、あと百年持たないと言われている。

 人類は、壁の中で緩やかに滅びに向かっている。


 逃げても、死ぬ。

 戦っても、死ぬかもしれない。


 ——でも。


「前へ出れば、変わるかもしれない」


 俺は言った。


「沈黙王と俺の間に何があるのか、見当もつかない。それでも——あいつが答えを持っているなら、俺はそこへ行く。世界がなぜ閉じたのか、俺が何者なのか、全部知った上で——なお抗えるかどうか、試す」


 茜が、小さく笑った。


「物好きだな、あんたは。死にに行くようなもんだぞ」


「かもな。——でも」


 俺は、視線を仲間たちに向けた。

 奈々。椿。茜。そして、座り込んでいる六人の生存者たち。


 視線が、一人ずつ彼らの顔を辿った。

 奈々の、怯えながらも俺を見つめる瞳。

 椿の、凛として揺るがない横顔。

 茜の、苦い笑みを浮かべた口元。

 生存者たちの、疲弊しきった、それでも光を失っていない目。


「こいつらと一緒に、終ノ塔の門をくぐる。朝になったら、皆で飯を食う。——そのためなら、沈黙王の領域だろうが、どこだろうが、足を踏み出す」


                   ◇


 その時——


 茜の表情が、一瞬で変わった。


「——伏せろ」


 囁きのような声。それでも、命令だった。


 俺は反射的に奈々を庇い、岩陰に身を沈めた。椿も、音もなく生存者たちを押さえつける。


 沈黙の中、茜の目だけが動いている。

 闇の向こうを——凝視していた。


 ——何かいる。


 俺も感じ取っていた。

 沈黙王ではない。もっと近い。もっと小さい。


 黒い水の向こう、岩礁の影に——蠢くものがあった。


 夜の住人。

 亜人型の群れ。三体。いや、四体か。


 這うように移動している。音を立てずに。

 ——いや、この領域では、元から音がない。


 茜の手が、弓に伸びた。

 俺も、刃の柄を握る。


 来るか。


 ——来なかった。


 群れは、俺たちの岩礁から少し離れた場所を通り過ぎていった。

 獲物を探しているのか、それとも別の目的か。どちらにせよ、俺たちには気づいていないようだった。


 長い、長い沈黙。


 群れの気配が完全に消えるまで、誰も動かなかった。


 茜が、ようやく息を吐いた。


「……運がいいな、あんたら」


 小声で言う。


「あいつらに見つかってたら、ここで終わりだった。護符なし、疲弊した生存者を抱えて、四体相手は無理だ」


 椿が頷いた。


「先に進む。ここに留まるのは危険だ」


 俺も同意した。

 ——休息は終わりだ。


                   ◇


 再び歩き始める。

 岩場を渡り、黒い水を避け、沈黙の中を進む。


 椿が立ち上がった。


「私も、同じ考えだ」


 彼女の声は、いつもと同じように凛としていた。この沈黙の領域でさえ、椿の声だけは芯が通って聞こえる。


「退いても、緩やかに死ぬだけ。沈黙の館を避けて迂回すれば、食料も水も尽きる。全員が倒れる前に、足を止めるわけにはいかない」


 茜が頷いた。


「最短経路は、沈黙の領域を抜けることだ。館を越えて、その先の沈黙の国を抜ければ——終ノ塔への道が開ける」


 茜は一度言葉を切り、それから続けた。


「——ただし」


 彼女の目が、闇の奥を見据えた。


「沈黙の館は、疲れた者を誘う。栞が調べてくれた巻物にもあった——光に惹かれて、帰ってこない。追ってはこない。あたしの集団は、そこで全員消えた。あんたらが同じ目に遭わない保証はない」


 生存者の一人——若い男が、震える声を上げた。


「戻れないのか。来た道を引き返せば——」


 茜が首を横に振る。


「来た道も、安全じゃない。さっきの夜の住人がいる。食料も持たない。戻る途中で全滅する」


「それでも——」


 男が立ち上がりかけた。

 その腕を、老人が掴んだ。


 何も言わない。ただ、首を横に振った。

 ——言葉が出なくても、意味は伝わった。


 戻っても、死ぬ。


 男は、崩れるように座り込んだ。


 俺は、自分の右手を見た。

 怪物を殺せる力。この世界で、俺だけが持っている異能。


 この力があれば、沈黙の館も——沈黙王さえも、斬れるのか。


 手がかりすらない。

 ——それでも、試すしかない。


「行く」


 俺は宣言した。


「退いても死ぬなら——俺は、前に出る。沈黙の館を越え、沈黙の国を抜け、答えを見つけて、皆で終ノ塔の門をくぐる」


                   ◇


 生存者たちを見た。

 六人。子供が一人、中年の女が二人、老人が一人、若い男が二人。


 全員、疲弊しきっている。

 足は腫れ、顔は土気色で、目には恐怖と諦めが滲んでいる。


 ——それでも、まだ、生きている。


「聞いてくれ」


 俺は、六人に向かって言った。


 声は、やはり音にならない。けれど、俺は構わず続けた。身振りで、表情で、伝える。


「この先は、危険だ。でも、退いても道はない。一緒に抜けよう」


 子供が、母親にしがみついた。


「無理だと思うかもしれない。俺だって、正直怖い」


 若い男が何か言った。唇の動きで「本当に抜けられるのか」と読めた。


「保証はできない。——でも、俺は諦めない。お前たちを見捨てない。それだけは、絶対だ」


 沈黙。

 音のない沈黙の中で、六人の目が俺を見ていた。


 老人が、ゆっくりと立ち上がった。

 震える足で、俺の前まで歩いてきた。


 そして——俺の肩を、軽く叩いた。


 何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。

 けれど、その目には、信頼のようなものがあった。


 他の五人も、ゆっくりと頷いた。


                   ◇


 俺たちは再び歩き始めた。


 孤島のような岩礁を、一つ一つ渡っていく。黒い水を避け、足場を探し、沈黙の闇の中を進む。


 奈々の手が、俺の手を握っていた。

 細い指が、温かい。


「真さん」


 奈々が、囁いた。


「わたしも——この闇の正体を、自分の目で確かめたいんです」


 俺は、奈々の手を握り返した。


「一緒に、見届けよう。俺たちで——この世界の本当の姿を」


 奈々が、小さく頷いた。


 前世の魂が結んだ運命。

 闇の中でも、彼女がいる限り、俺は前を向ける。


 茜が先頭に立ち、椿が後方を守る。

 俺は中央で、奈々と生存者たちを導く。


 沈黙の領域を、俺たちは歩き続ける。


                   ◇


 何時間が過ぎたか、分からない。


 時間の感覚が、この領域では狂う。闇は変わらず、音はなく、方向すら曖昧になる。


 ——けれど、何かが近づいている。


 俺は足を止めた。


「茜」


 俺が呼ぶと、茜も立ち止まった。振り返り、俺を見る。


「分かってる。あんたも感じてるんだろ」


 夜の底に、光が見えた。


 ほんの微かな、蒼白い光。

 瞬いているわけではない。ただ静かに、闇の中に浮かんでいる。


 美しい光だった。

 見ているだけで、心が吸い寄せられそうになる。


「沈黙の館」


 茜が、低く呻いた。


 彼女の足が、止まった。

 ——動けないのだ。


 顔が強張っている。かつて仲間を全て奪われた場所。

 弓を構えようとした手が、白くなるほど握りしめられている。


 あの光を見た瞬間、茜の中で何かが甦ったのだろう。

 仲間たちの顔。彼らが光に誘われていく背中。止められなかった自分。


 ——逃げた。


 その記憶が、茜の足を縛り付けている。


 俺は、茜の肩に手を置いた。


「……茜」


 彼女が、びくりと震えた。


「今回は、一人じゃない」


 茜は、俺を見た。

 その目に、怯えと怒りと、それから——覚悟のようなものが混ざっていた。


 しばらくして、茜は深く息を吐いた。


「……あたしは、二度と逃げない」


 震える手で、弓を構え直した。


「あの光に、近づくな。目を逸らすな。——けれど、見つめ続けるな」


 栞が教えてくれた情報。疲れた者ほど誘われる。追っては来ない。


 だから——足を止めなければいい。


「前に出よう」


 俺は言った。


「あの光を避けて、最短で抜ける。館の正面は通らない。迂回できる道があるはずだ」


 茜が頷いた。

 今度は、足が動いた。


「……こっちだ。岩礁を伝えば、少し北に逸れられる」


 俺たちは、再び歩き始めた。


 蒼白い光が、夜の底で静かに輝いている。

 その光の遥か奥に、沈黙王の気配が——ずっと、俺を見ていた。


                   ◇


 退いても死ぬ。

 なら——前に出る。


 俺の言葉に、皆が頷いた。


 沈黙の領域を抜けた先に、沈黙の館がある。

 その先に、沈黙の国がある。

 そして、その最奥に——俺を待つ者がいる。


 世界がなぜ閉じたのか。

 俺が何者なのか。

 全ての答えが、あの沈黙の底にある。


 恐怖はある。

 懐かしさを感じる自分が、一番怖い。

 ——それでも、俺は前に出る。


 奈々を、椿を、茜を、六人の生存者を——皆と一緒に、終ノ塔の門をくぐるために。


 沈黙の中、俺たちは歩き続けた。

 声なき巨大な気配が、静かに、待っていた。


────────────────────────────────

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ