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第22話「つかの間」

岩窪みの奥は、嘘のように静かだった。


 俺たちは、三日ぶりに——怪物の気配のない場所を見つけた。


 天井は低く、奥行きも十歩ほどしかない。だが入口は狭く、外からは見えにくい。地脈の熱が岩肌を温めており、夜の国の冷気から守られている。


 茜が言った。


「悪くない。ここなら——少しは休める」


 その言葉を聞いた瞬間、生存者たちの顔から力が抜けた。


 中年の女が子供を抱きしめ、岩壁にもたれかかった。他の四人も、思い思いの場所に腰を下ろした。彼らの目には、疲労と安堵が同時に浮かんでいた。


 椿が入口の近くに立ち、外を警戒している。茜は窪みの奥を確認してから、俺の傍に戻ってきた。


「探り蟲の気配もない。視るものの縄張りからは離れたみたいだな」


「……助かった」


 俺は素直に言った。


 ここまで来るのに、どれだけの時間が経っただろう。崖肌の古文字を読み解き、探り蟲をやり過ごし、沈黙の館への道を歩き続けた。


 息をつく暇もなかった。


 今、こうして座っているだけで——体の芯が軋むのが分かる。



       ◇



 奈々が、俺の隣に座った。


 彼女の手が、俺の腕に触れる。指先の冷たさが、張り詰めていた何かをほどいていくようだった。


「……傷、痛みますか」


 奈々は、俺の背中を見つめていた。椿が巻いてくれた包帯の端が、服の隙間から覗いている。


「動ける程度には」


「嘘が下手ですね、椿さんと同じこと言ってます」


 奈々が、小さく笑った。笑ったけれど、目は笑っていなかった。


「椿さんが包帯を替えてくれてる時、見ていました。あなたの背中——」


 彼女の声が、途切れた。


 俺は何も言えなかった。傷の状態は、俺自身が一番分かっている。化膿はしていないが、深い。歩くたびに、肉が軋む。


「……なあ」


 俺は話題を変えた。


「終ノ塔に帰ったら、栞を紹介する」


「栞さん……」


 奈々の目が、少し揺れた。


「わたしは、まだお会いしたことがないですけど——記録庫の方ですよね。あなたの話を聞くと、とても大切な方なんだと」


「ああ」


 俺は頷いた。


「お前が終ノ塔に来たら、二人で話してほしい。きっと——合う気がする」


 奈々は、こちらに、そっと頭をもたせかけた。


「……楽しみです」


 その声に、僅かな寂しさが混じっていた。


 俺は、それに気づいていた。けれど——今は、何も言えなかった。



       ◇



 しばらくして、俺は一人で岩場の隅に座っていた。


 奈々は少し離れた場所で、子供の世話をしている中年の女を手伝っている。椿は入口で見張りを続け、茜は外の様子を窺いに出ていた。


 束の間の静寂。


 その中で——俺は、ふと、思い出していた。


 終ノ塔を発つ前のことを。


 記録庫で、栞と二人きりになった時のことを。



       ◇



 ——あの夜、記録庫は薄暗かった。


 古い紙と埃の匂いが満ちる、塔の最深部。壁際の灯火が揺れ、本棚の影を長く伸ばしている。


 俺は外征の準備を終え、最後の確認のために記録庫を訪れていた。


 栞が、俺を待っていた。


 灰銀の髪を緩く結い、レンズの向こうの目で俺を見つめている。いつもより——その頬が、上気しているように見えた。


「これを——持っていってください」


 彼女の声は、わずかに掠れていた。


 小さな巻物を、俺の前に差し出す。


「沈黙の館についての、古い記録です。断片的ですが——何かの役に立つかもしれません」


 俺は、その巻物を受け取った。


 細かい文字がびっしりと書かれている。几帳面で、小さくて、でも読みやすい。栞の字だ。


「……これだけじゃない」


 彼女は、更に別の巻物を広げた。


「灯ノ塔への道は、三つの経路があります。大斜面経由、西回り迂回、そして峡谷を直接降りる経路——」


 彼女は地図を指さしながら、詳細な説明を続けた。這うものの棲息地帯、視るものの密集地域、地脈の熱で安全な水が得られる場所——。


 全部、彼女が独りで調べたものだ。


 誰にも頼まれていないのに。


「……随分、調べてくれたんだな」


「わたしに、できることはこれくらいですから」


 栞は視線を落とした。


 炎の影が壁を這い、彼女の横顔に揺らいでいる。いつもは物静かな顔が——今夜だけは、何かに揺れているように見えた。


「外には出られない。戦うこともできない。でも——記録なら、読めます」


 彼女の声が、小さくなった。


「あなたの役に立てるなら——それだけで、わたしは——」


 言葉が、途切れた。


 栞の肩がこわばっていた。


 俺は——何も考えずに、彼女に近づいた。



       ◇



「——栞」


 俺は、彼女の名前を呼んだ。


 栞は顔を上げた。レンズの奥の瞳が、ほんの少し潤んでいる。


「わたし……」


「お前の知識が、俺を生かしてきた」


 俺は、真っ直ぐに言った。


「視るものの弱点も、地脈の護りの仕組みも、救世主の予言のことも——全部、お前が教えてくれたからだ」


「それは——わたしの、役目で——」


「役目だけじゃないだろ」


 俺は、一歩踏み込んだ。


 栞が、息を呑んだ。


 俺と彼女の間には、もう一尺もなかった。


 彼女の瞳に、揺らぐ炎の光が映っている。灰銀の髪から、紙の黄ばみと——彼女自身の、体温のような温かさが伝わってきた。


「お前は——俺のことを、信じてくれた」


 俺の声が、低くなった。


「他の誰も信じなかった予言を、お前は信じた。俺が壁の外に行くと言った時も——お前だけが、止めなかった」


「だって——」


 栞の声が、揺れた。


「あなたは——わたしの話を、怖がらずに聞いてくれたから」


 彼女の目から、涙がこぼれた。


「誰も——誰も、わたしの言葉を信じてくれなかった。荒唐無稽だと笑われて、危険だと言われて——記録を閉じろと命じられて——」


「栞——」


「でも、あなただけが——」


 彼女の声が、途切れた。


 その時——栞の手が、俺の手首を掴んでいた。


 彼女自身、気づいていないようだった。無意識に、俺の腕に縋りついている。細い指が、強く、必死に。


 俺は——彼女の頬に、手を伸ばした。


 涙を、指先で拭った。


 栞の体が、固まった。けれど——逃げなかった。


「お前の言葉は——正しかった」


 俺は告げた。


「崖肌の古文字も、封じの代償の記録も——全部、お前が最初に見つけた真実だった。お前は——独りで、正しい場所に立っていたんだ」


 栞の瞳が、大きく見開かれた。


 そして——



       ◇



 彼女の唇が、俺の名を呼んだ。


 声にはならなかった。


 けれど——俺には、聞こえた。


 俺は、栞を抱き寄せた。


 小柄な体が、俺の腕の中に収まった。彼女の体温が、俺の胸に伝わってきた。紙の匂いと、彼女自身の匂い。


 栞は、最初、身を強張らせていた。


 長く独りでいた人間の、警戒。誰かに触れられることへの、不慣れ。


 けれど——少しずつ、彼女の体から力が抜けていった。


「……怖かった」


 栞が、俺の肩口に顔を埋めたまま呟いた。


「ずっと——怖かった。誰も信じてくれない。誰も聞いてくれない。わたしだけが、この真実を抱えて——」


「もう一人じゃない」


 俺は返した。


「お前の言葉は、俺が聞く。お前の真実は、俺が——世界に見せる」


 栞の体が、強張った。


 嗚咽が、俺の肩を濡らした。


 俺は、彼女の背中に腕を回した。華奢な肩甲骨。長く独りで、この重荷を背負ってきた体。


 栞が、顔を上げた。


 涙で濡れた目が、俺を見つめている。眼鏡がずれていた。


 彼女の唇が、わずかに開いた。


「あな——」


 言いかけて、止まった。


 代わりに——彼女の指が、俺の頬に触れた。


 自分でも気づいていないような、おそるおそるの仕草で。


 俺は——彼女の唇に、自分の唇を重ねた。



       ◇



 それは、長い口づけではなかった。


 触れるだけの、静かな——けれど、確かな接触。


 栞の唇は、わずかに冷たかった。柔らかくて、震えていて、でも——俺が触れた瞬間、ほんの少しだけ温かくなった。


 唇が離れた時、栞の顔は真っ赤だった。


「わ、わたし——こういうの——」


 彼女の声が、裏返った。


「したこと、なくて——その——」


「俺も——」


 不意に、笑いが込み上げてきた。


「慣れてない」


 栞は、目を見開いた。それから——彼女も、小さく笑った。


 初めて見る、栞の笑顔だった。


 記録庫でいつも見せる、控えめな微笑みとは違う。もっと柔らかくて、幼くて、無防備な——素顔。


「あなたが——」


 栞は、俺の腕の中で、額を俺の鎖骨に押し当てた。


「あなたが、帰ってきてくれたら——その時は——」


「その時は?」


「もっと——ちゃんと、伝えたいことが、あります」


 彼女の声は、小さかった。


 けれど——俺には、はっきりと聞こえた。


「——約束だ」


 俺は答えた。


「戻る。そして——お前の話を、聞く」


 栞は、俺の腕の中で——頷いた。



       ◇



 俺は、岩場の隅で——目を開けた。


 記録庫の記憶が、まだ体に残っている。


 栞の唇の感触。彼女の体温。涙で濡れた頬。


 ——約束した。


 戻ると。


 栞の知識が、何度も俺たちの命を救ってきた。大斜面の迂回路、峡谷の降下地点、這うものの習性——全部、彼女が調べてくれたものだ。


 俺は、懐から一枚の紙を取り出した。


 あの夜、栞が渡してくれた巻物。沈黙の館についての記録。


 細かい文字がびっしりと書かれている。原典からの抜粋と、彼女自身の注釈。


『沈黙の館は、光を放つ。その光を見た者は、足が動かなくなる。疲れた者、弱った者ほど、引き寄せられる』


 茜が、かつて証言した内容と一致していた。


『館に入った者は、二度と還らない。しかし、館は"追ってこない"。近づかなければ、安全』


 俺は、その一節を何度も読み返した。


 巻物の最後に、栞の字で——こう書かれていた。


『あなたへ。わたしは、外には出られません。でも——この記録が、あなたの道を照らすことができたら。あなたが——生きて還ってくれたら。それだけで、わたしは——』


 文章は、そこで途切れていた。


 俺は、巻物を大切に折りたたみ、懐にしまった。


 ——待ってろ。


 戻る。



       ◇



「……あなた」


 声に、俺は顔を上げた。


 奈々が、傍に戻ってきていた。


「どうした。何か考え事をしていたように見えましたけど」


「ああ……栞のことを、思い出してた」


「栞さん……」


 奈々は、俺の隣に腰を下ろした。


 肩が触れ合うほどの近さだった。


「わたしは、まだお会いしたことがないですけど——あなたの話を聞くと、とても大切な方なんですね」


 俺は、小さく頷いた。


「ああ。お前が終ノ塔に来たら、紹介する」


「……楽しみです」


 奈々の声に、僅かな寂しさが混じっていた。


「帰ったら——色々、話すことがある」


 俺は呟いた。


「お前にも、栞にも、椿にも。……全員に」


 奈々は、俺の腕に手を絡めてきた。


「……はい」



       ◇



 入口で見張りをしていた椿が、振り返った。


「真。少し、休め。私と茜で交代する」


「……いいのか」


「顔色が悪い。傷も——まだ完全には治っていないだろう」


 俺は、反論できなかった。


 背中の傷は、まだ痛む。峡谷の降下で再び開いた傷口は、椿が処置してくれたが、完治には程遠い。


「分かった。頼む」


 椿は頷き、再び外を向いた。


 俺は、岩の冷たさに背を預けた。奈々が、俺の腕に額を預けてきた。


 その温度を感じながら——俺は、目を閉じた。



       ◇



 それから、俺たちは四時間ほど休息を取った。


 交代で見張りを立て、眠れる者は眠り、食料を分け合った。水筒の水は、まだ半分以上残っている。地脈の濾過水のおかげで、渇きに苦しむことはなかった。


 生存者たちの顔に、少しだけ生気が戻った。


 完全な回復には程遠いが——これ以上、ここに留まるわけにはいかない。


「そろそろ出発しよう」


 俺は声を上げた。


 誰も反論しなかった。



       ◇



 俺たちは、再び歩き始めた。


 岸辺の道は、相変わらず暗かった。黒い川が、静かに流れている。


 三時間ほど歩いた頃、俺は足を止めた。


 空気の質が——変わっている。


 温度ではない。怪物の気配でもない。


 もっと根本的な何かが——変わった。


 静けさ。


 そうだ。静けさだ。


 今までの「静けさ」とは、質が違う。


 風の音さえ、消えている。地脈の蒸気が立ち上る音も、川の流れる音も——全てが、遠くなっている。


「……感じるか」


 茜に訊いた。


 茜は、険しい顔で頷いた。


「ああ。これは——」


 彼女の声が、強張った。


「——沈黙の、領域だ」



       ◇



 俺は、周囲を見渡した。


 景色は、変わっていない。黒い川、切り立った崖、地脈の赤い光。


 しかし——世界が、厚い膜で覆われたようだった。


 音が、消えている。


 自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。


「全員、止まれ」


 俺は短く告げた。


 生存者たちが、足を止めた。彼らの顔にも、不安が浮かんでいる。


「この先は——」


 俺は、前方を見据えた。


 闇の奥に、何かがある。


 見えない。だが——在る。


 巨大で、静かで、圧倒的な何かが。


「沈黙王の——領域が、近い」


 茜が、掠れた声で呟いた。


「あたしの集団が呑まれた沈黙の館は——この先のどこかにある。でも、この静けさは——館だけじゃない」


「どういう意味だ」


「館の先に——もっと大きな何かがいる。視るものより、沈黙の館より——もっと巨大な存在が。この夜の国を——統べてる」


 俺は、右手を見下ろした。


 何の変哲もない手。傷だらけで、汚れている。


 だが——この手だけが、夜の国の怪物を殺せる。


 なぜだ。


 その問いの答えが——沈黙の国にある。



       ◇



 俺は、懐から栞の巻物を取り出した。


 最後の一節を、もう一度読んだ。


『この先は——沈黙の領域。生きて還った者は、いません』


 栞の字。


 几帳面で、小さくて、でも——俺を案じる温かさが、滲んでいた。


 記録庫で、彼女を抱きしめた感触が蘇る。華奢な体。涙で濡れた頬。触れた唇の、わずかな震え。


 ——栞。


 心の中で、呼びかけた。


 ——お前の知識で、ここまで来た。この先は——俺が、切り拓く。


 返事は、ない。


 それでも——俺は、前を向いた。


「行こう」


 誰も、反論しなかった。


 奈々が、俺の手を取った。椿が前に立ち、茜が後方を警戒した。


 俺たちは、歩き出した。


 沈黙の領域へ。


 世界の真実へ。


 そして——全員を連れて、終ノ塔へ帰るために。



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(第二十一話 了)

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