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第20話「岸辺の道」

岸辺の道は、果てが見えなかった。


 峡谷を降りてから、俺たちは黒い川に沿って歩き続けていた。片側は切り立った崖、もう片側は毒の川。道幅は十人が並べるほどあったが、どこまで行っても景色は変わらない。


 闇と岩と、地脈の赤い光。


 それだけが、延々と続く。


「……また文字だ」


 奈々が、崖肌を見つめて呟いた。


 俺は足を止めた。


 確かに、そこにあった。風化した岩の表面に、薄く刻まれた古い文字。峡谷で見つけたものと同じ書体だ。


「読めるか」


 奈々は崖に近づき、指先で文字の輪郭をなぞった。


 その仕草に、目を奪われた。細い指が岩肌を這う様は、まるで古い書物を繙くように優雅で——彼女は灯ノ塔で育ったはずだ。終ノ塔の古文書など、読んだことがないはずだ。


 なのに——奈々の指は、迷いなく文字を追っていた。


「……『かつて、光があった』」


 奈々の声が、静かに響いた。


「『人は、光の下に栄え……空を覆う闇を知らなかった』」


 息が止まった。


 それは——夜の国が生まれる前の、世界の姿だった。


「『やがて、"それ"が目覚めた』」


 奈々の声が、わずかに震えた。


「『人は——"それ"を、封じるしかなかった』」


 誰も口を開かなかった。


 風だけが岩肌を擦り、遠くで地脈の熱が蒸気を立てている。その音が、妙に耳に残った。


「……どういう、ことだ」


 俺は声を絞り出した。


 奈々は崖肌を見つめたまま、動かなかった。


「この世界は——」


 彼女の声が、低く響いた。


「——誰かが、意図的に閉じたんです」



       ◇



 俺たちは、岩棚に腰を下ろした。


 生存者たちは少し離れた場所で休息を取っている。中年の女が子供を抱きしめ、残りの四人は壁にもたれて目を閉じていた。疲労と恐怖で、誰も言葉を発しない。


 椿が見張りに立ち、茜は川の様子を窺っている。


 俺と奈々は、二人きりで向き合っていた。


「最初から、おかしいと思っていたんです」


 奈々が、膝を抱えながら言った。


「灯ノ塔の古い記録にも、似たようなことが書いてありました。『世界が閉じた日』という言葉。でも、その意味は——誰も、教えてくれなかった」


「お前が、読めたのか」


 奈々は小さく息を吐いた。


「分かりません」


 彼女は顔を伏せた。


「指が、勝手に動いたんです。まるで——昔、何度も読んだことがあるみたいに」


 前世の記憶。


 その言葉が、頭をよぎった。俺たちは、前世で繋がっていた。夢の中で、何度も手を伸ばし合った。届かなかった。それでも——覚えていた。


 奈々にも、同じものがあるのだろうか。


 前世の、記憶の欠片。この世界の真実に、触れたことがある記憶。


 ——栞が言っていた言葉が、不意に蘇った。


 終ノ塔を発つ前、記録庫で俺に告げた言葉。


『旧き記録には、"封じの代償"という一節がある。世界を分かったのは、誰かを守るためではなく——何かを閉じ込めるため、と』


 あの時は、意味が分からなかった。


 今、この崖肌の文字と——繋がった。


「栞が言っていた」


 俺は呟いた。


「『封じの代償』。世界を分かったのは——何かを閉じ込めるため、だと」


 奈々の目が、見開かれた。


「終ノ塔の記録と、灯ノ塔の記録と、この崖の文字が——同じことを言っている」


「……同じ」


 奈々が、その言葉を繰り返した。息が浅くなっているのが分かった。


「続きは」


 俺は訊いた。


 奈々は目を伏せた。指先が微かに震えている。


「……読めませんでした。文字が欠けていて。でも——」


 彼女は顔を上げた。


 その目に、俺は見たことのない光を見た。恐怖と、それを押し殺す意志。怯えているのに——知りたいという渇望が、瞳の奥で燃えている。


「——『封じるために、世界を分かった』。そう、書いてあったんです」


 胃の底が抜けるような感覚がした。


 世界を、分かった。


 それは——壁を作った、ということではないのか。


 夜の国と、終ノ塔を隔てる壁。灯ノ塔を囲んでいた壁。あの巨大な構造物は、何かを「閉じ込める」ために作られた。


 頭が追いつかない。理解しようとして、理解を拒む何かがある。世界の根底が、足元から崩れていく感覚。


 これは——


 俺が知っていた世界と、違う。


 壁は守るためのものだと思っていた。怪物から人を守る、ための。


 違った。


 壁は——何かを、閉じ込めるためにあった。


「"それ"って——何だ」


 俺の声が、掠れた。


 奈々は小さく首を横に動かした。


「分かりません。でも——」


 彼女の視線が、俺の右手に落ちた。


「——あなたの力と、関係があると思うんです」



       ◇



 俺は、自分の右手を見下ろした。


 何の変哲もない手。傷だらけで、汚れている。けれど——この手だけが、夜の国の怪物を殺せる。


 なぜだ。


 その問いは、外征を始めた時からずっと、俺の中にあった。


「夜の国は、俺を拒まない」


 声に出してみた。


 奈々が、静かに頷いた。


「感じていました。あなたが外にいる時——わたしには、分かるんです。あなたが、この闇に馴染んでいるって」


「馴染んでいる……」


「言い方が、変ですね。でも——怖がっていないわけじゃないのに、あなたの存在だけが、この闇の中で浮いていない」


 俺は黙った。


 奈々の言葉は、俺自身が薄々感じていたことと重なっていた。


 夜の国に出た時、恐怖はあった。怪物を前にすれば、足が竦む。それでも——どこかで、俺は「場違い」だと感じていなかった。壁の中にいた時の方が、むしろ居心地が悪かった。


 まるで——俺は、この闇の側の存在であるかのように。


「栞が言っていた」


 俺は呟いた。


 終ノ塔の記録庫にいる、あの少女。世界の真実の断片を握っている、静かな巫女。


「『旧き記録には、救世主の予言がある』と。『異なる魂が夜を殺す』——それが、俺のことだと」


「異なる魂……」


 奈々が、その言葉をなぞった。


「あなたは——転生者。前の世界から来た」


「ああ」


「だから——この世界の理の、外にいる?」


 俺は答えられなかった。


 分からない。俺が転生した理由も、この力を持っている理由も。何一つ、分かっていない。


 ただ——


「繋がっている」


 俺は言った。


「世界が閉じた理由と、俺がここにいる理由。何かで、繋がっている。それだけは——確信がある」


 根拠はなかった。


 けれど、魂が告げていた。


 俺の存在は、この世界の「封印」と無関係ではない。夜の国の怪物を殺せることも、前世の記憶を持っていることも、奈々とテレパシーで繋がっていたことも——全部が、一つの大きな真実に繋がっている。


 その答えは——


「沈黙の国」


 奈々が言った。


 俺は顎を引いた。


「黙老が言っていた。『沈黙の国に、答えがある』と」


「この道の先——沈黙の館を越えた場所に」


「行かなきゃならない」


 拳を強く握りしめた。


「帰還するためにも。真実を知るためにも——俺たちは、沈黙の国を通る」


 奈々は、俺の拳を両手で包んだ。


 その手は細く、冷えていた。けれど——確かに、俺を握り返している。


「わたしも——知りたいんです。この世界の本当のことを」


 彼女の声は、怯えを押し殺すように低かった。


 だからこそ——その言葉は、真っ直ぐ胸に刺さった。



       ◇



 休息の後、俺たちは再び歩き始めた。


 崖肌には、断続的に文字が刻まれていた。風化して読めないものが多かったが、いくつかの単語だけは、辛うじて判別できた。


『——封じ——』

『——守護者——』

『——扉——』

『——眠り——』


 断片的な言葉。けれど、それだけで十分だった。


 この道そのものが、かつて人の手で作られたという証拠。世界を「分かった」者たちが残した、痕跡。


 俺は歩きながら、考え続けた。


 封じられた"それ"とは何か。沈黙王と関係があるのか。怪物たちは、封じられた何かの欠片なのか。


 答えは出ない。


 ただ——一つだけ、はっきりしていることがあった。


 俺は、この真実を知らなければならない。逃げることも、目を逸らすことも、許されない。


 なぜなら——


 隣を歩いていた奈々が、俺を見上げた。


 その目が問いかけている。何を考えているのか、と。


「……なんでもない」


 言いかけて、やめた。


 説明するより——やるしかない。知って、それでも守る。それだけだ。


 奈々は何も訊かず、ただ俺の手を取った。


 その温度が、答えだった。



       ◇



 五時間ほど歩いた頃、道が少し広くなった。


 崖が後退し、川との間に平坦な岩場が広がっている。怪物の気配もなく、茜の勘でも「今は安全」とのことだった。


「ここで長めの休息を取ろう」


 俺は言った。


 生存者たちの顔に、安堵の色が浮かんだ。彼らは限界だった。峡谷の降下で老兵を失い、怪物の恐怖に晒され続け、心身ともに疲弊しきっている。


 中年の女が、子供を岩の上に座らせた。子供はすぐに目を閉じ、女の膝にもたれかかった。他の生存者たちも、思い思いの場所で体を休めている。


 椿が傍に来た。


「傷の具合は」


「痛むが、動ける」


「……嘘が下手だな」


 椿の声は、いつもより柔らかかった。その目には、責めるでもなく、ただ——こちらを見定める光があった。


「背中を見せろ。包帯を替える」


 俺は素直に従った。


 椿の手が、傷口に触れる。痛みが走ったが、彼女の処置は的確だった。手際よく古い包帯を剥がし、傷口を確認し、新しい布を巻いていく。


 その指先が、思いのほか繊細だった。剣を握る手とは思えないほど。


「酷いな」


 椿が呟いた。


「化膿はしていない。だが、傷が深い。本来なら、歩くべきではない」


「そんな余裕はないだろ」


「分かっている」


 椿の手が、止まった。


「……だから、言っているんだ。無茶をするなら——私も、一緒に無茶をする」


 俺は振り向こうとしたが、椿に押さえられた。


「動くな。まだ終わっていない」


 声が、かすかに震えていた。


 俺は黙って、処置が終わるのを待った。



       ◇



 茜が、川辺から戻ってきた。


「水、あと半日分ってところだな」


 俺は眉を顰めた。


「この川は飲めないんだろ」


「飲んだら内臓が溶ける。でも——」


 茜は、崖の方を指さした。


「岩の隙間から、別の水が染み出してる場所がある。舐めてみたが、毒の気配はなかった。多分、地脈の熱で濾過された水だ」


「大丈夫なのか」


「あたしが先に飲む。何時間か経って、あたしが死ななければ安全だ」


 俺は視線を茜に向けた。


 彼女は、当たり前のことを言うように、肩をすくめた。


「夜の国じゃ、そうやって生き延びてきた。毒かどうか分からないものは、まず自分で試す。死んだら、他の奴が食べない。簡単だろ」


 簡単じゃない。


 そう言いかけて、俺は口を閉じた。


 茜にとっては、それが普通だったのだ。十年以上、独りで夜の国を生き延びてきた。仲間がいない以上、自分の身体で「実験」するしかなかった。


「……俺が先に飲む」


「馬鹿言うな」


 茜は鼻で笑った。


「自分を安く使うな。あんたの命はあんただけのもんじゃないだろ。ここにいる全員の道を斬る刃が、あんたなんだから」


「でも——」


「でもじゃない」


 茜の目が、俺を真っ直ぐ見た。


 いつもの荒っぽさとは違う、静かな光があった。


「あんたが前に出るのは、怪物相手だけでいい。水の毒見くらい、あたしに任せろ」


 言い返せなかった。


 茜の言葉には、反論を許さない重みがあった。それは——俺を認めている証拠でもあった。


「……分かった。頼む」


「最初からそう言え」


 茜は背を向け、崖の方へ歩いていった。


 その背中を見ていて——ふと、気づいた。


 茜の足取りが、わずかに覚束ない。疲労か。それとも——何か、考え事をしているのか。


 十年以上、独りで夜の国を生きてきた女。


 彼女が「仲間」のために毒見を買って出るということが、どういう意味なのか——今なら、少しだけ分かる気がした。



       ◇



 奈々が、俺の隣に座った。


 彼女は何も言わず、ただ俺に寄り添っていた。その温かさが、疲れた体に染みた。


「久しぶりだな」


 ぽつりと言った。


「何がですか」


「こうして——何もない時間」


 奈々は小さく息を吐いた。


「そうですね。灯ノ塔を出てから、ずっと……走り続けていた気がします」


 外征に出てから、どれだけの時間が経っただろう。怪物と戦い、仲間を失い、真実の断片に触れ——息をつく暇もなかった。


 今、こうして座っているだけで、どこか不思議な感覚がある。


「……怖くなってきた」


 俺は言った。


 奈々の目が、こちらを見た。


「この静けさが、怖い。何か来るんじゃないかって——いつも、そう思う」


「分かります」


 奈々は頷いた。


「わたしも、灯ノ塔にいた時——束の間の静けさが、一番怖かった。次に何が起きるか分からないから」


「それでも——」


 俺は息を吐いた。


「今は、休むべき時間なんだろうな」


 奈々は、俺の肩にもたれかかった。


 淡い髪が、腕に触れた。柔らかい。灯ノ塔の薄暗がりで育ったせいか、彼女の肌は透き通るように白い。


「はい。だから——少しだけ、このままでいさせてください」


 俺は黙って、彼女の頭に手を置いた。


 風が吹いていた。


 温かい、地脈の風。その音だけが、俺たちの周りを満たしていた。



       ◇



 その時だった。


 茜が、鋭く声を上げた。


「——止まれ!」


 俺は反射的に立ち上がり、奈々を背後に庇った。


 崖の方角。茜が弓を構え、岩陰に身を寄せている。


 何か——いる。


「動くな」


 茜の声は、低く抑えられていた。峡谷で「這うもの」に遭遇した時と、同じ声色。


 俺たちは息を殺した。


 闇の中で、何かが動いた。岩の隙間から、黒い影がゆっくりと這い出してくる。


 蛇——ではない。


 それは、腕ほどの太さの、白い蟲だった。節のある体が、岩肌をゆっくりと這っている。頭部には、触覚のようなものが二本。音もなく、俺たちのいる方向に向かっていた。


「夜の国の探り蟲」


 茜が囁いた。


「視るものの目。見つかったら、群れが来る」


 心臓が跳ねた。


 視るものの目——つまり、あの巨大な怪物に俺たちの位置を伝える、偵察役。


 蟲は、俺たちの五十歩ほど手前で止まった。触覚がゆっくりと動いている。空気の匂いを探っているのか。


 動いたら、見つかる。


 見つかったら——視るものが来る。


 護符は、ない。


 俺の右手が、無意識に刃の柄を握りしめた。


 一匹だけなら、殺せる。だが——殺した瞬間、死の信号が送られないか。


 分からない。


 分からないから、動けない。


 三十秒が、永遠に感じられた。


 蟲は——やがて、ゆっくりと方向を変えた。俺たちとは別の方向に、岩肌を這い始める。


 茜が、わずかに弓を下げた。


 五分ほど経って——蟲の姿が、完全に闇に消えた。


「……行ったか」


 茜が呟いた。


「今すぐここを離れる。偵察されたってことは、この辺りに視るものの縄張りがある」


 俺は頷いた。


 生存者たちを起こし、俺たちは再び歩き始めた。


 束の間の休息は、終わった。



       ◇



 二時間後、茜が戻ってきた。


「生きてる。水は安全だ」


 俺は安堵した。


 茜の言葉を受けて、全員が水筒を補充した。生存者たちの顔に、少しだけ生気が戻った。飢えと渇きは、人の心を削る。水があるというだけで、生きる希望が繋がる。


 ただ——これで完全に安心できるわけではない。視るものの縄張りに近い。いつまた探り蟲が現れるか分からない。


「ここからは——」


 俺は全員を見渡した。


「——もう少しだけ、歩く。できるだけ進んでおきたい」


 誰も反論しなかった。


 俺たちは再び、岸辺の道を歩き始めた。


 崖肌の文字は、次第に少なくなっていった。それでも、時折現れる断片的な言葉が、俺たちに何かを語りかけていた。


『——眠りは、永遠ではない——』


 その一節を見た時、俺の足が止まった。


 眠りは、永遠ではない。


 それは——封じられた"それ"が、いつか目覚めるということではないのか。


 俺は振り返らず、前を向いた。


 今は、考えても仕方がない。


 目の前には、まだ長い道が続いている。沈黙の館を越え、沈黙の国を通り、終ノ塔に辿り着く。その先で——全ての真実を知る。


 それまでは——歩くしかない。



       ◇



 夜の国に、「夜」という概念はない。


 永遠の闇があるだけだ。だから、「眠る」タイミングは、体が限界を告げた時に決まる。


 俺たちは、十二時間ほど歩いた後、再び休息を取ることにした。


 岩場に火を焚くことはできない。怪物を呼び寄せるからだ。代わりに、地脈の熱が岩を温めている場所を探し、そこで身を寄せ合った。


 生存者たちは、すぐに眠りに落ちた。


 椿と茜が交代で見張りに立ち、俺と奈々は岩陰で横になった。


「……真さん」


 奈々の声が、闇の中で響いた。


「ん」


「わたし——怖いです」


 俺は、彼女の方を向いた。


 奈々の目が、薄い地脈の光を反射して、かすかに輝いていた。


「この先に、何があるか分からない。沈黙の館も、沈黙の国も——わたしの集団を呑み込んだものと、同じかもしれない」


 彼女の声は、震えていた。


 だが——不思議と、弱々しくは聞こえなかった。


「でも——それでも、知りたいんです。世界が、どうしてこうなったのか。あなたが、なぜ夜を殺せるのか。全部、知りたい」


「……俺は、怖い」


 正直に答えた。


「お前を守れないかもしれない。また誰かを失うかもしれない。その恐怖は——消えない」


「だから——」


 奈々は、俺の手を取った。


 冷えていた指先が、俺の掌の中で少しずつ温まっていく。


「——一緒に、怖がりましょう」


 その言葉が、胸に落ちた。


 一緒に、怖がる。


 強がらなくていい。怯えていい。それでも——隣にいる。


 俺は奈々の手を、強く握り返した。


 ——本当に、これでいいのか。


 そんな考えが、頭をよぎった。


 守ると言っておきながら、俺自身が怯えている。彼女に不安を与えているんじゃないか。


 けれど——奈々は、俺の弱さを受け入れた。


 だから俺も、彼女の怖さを受け入れる。


 それが、今の俺にできる全てだった。


「……隣にいる」


 声に出した。


 奈々の目尻が、柔らかく下がった。


 その表情を見ながら、俺は目を閉じた。


 束の間の安らぎ。


 その先には、沈黙の領域が待っている。俺たちを飲み込もうとする、最大の恐怖が。


 それでも——俺たちは、まだ生きている。


 それだけで、前に進める。



       ◇



 目を覚ました時、俺は自分がどれだけ眠っていたか分からなかった。


 隣で奈々が寝息を立てている。その顔は穏やかで、恐怖の影はなかった。


 俺は静かに起き上がり、見張りに立っている椿の元へ行った。


「代わろうか」


「いや。もうすぐ茜と交代だ」


 椿は川の方を見つめたまま言った。


「……考えていたのか」


「何をだ」


「世界が閉じた理由。お前の力の意味」


 俺は椿の隣に立った。


「考えるしかないだろ。答えは——まだ、見つからないけど」


「見つからなくても、いい」


 椿が言った。


 俺は彼女に視線を向けた。


「今は——ただ、生きて帰ることだけを考えろ。真実は、生きていれば分かる。死んでしまえば、何も分からない」


 椿らしい言葉だった。


 合理的で、揺るぎない。


「……そうだな」


 俺は黙って顎を引いた。


「一人も欠けさせない。必ず、帰る」


 椿は、かすかに口元を緩めた。


 その表情を見るのは、久しぶりだった。


「帰ろう。終ノ塔に」


 俺たちは、黒い川を見つめた。


 その先には、沈黙の館がある。茜の集団を呑み込んだ、最大の恐怖が。


 それを越えなければ、帰れない。


 右手に力が籠もった。


 封じられた"それ"。眠りは永遠ではない。なぜ俺だけが戦えるのか。


 全ての答えは——沈黙の国にある。


 俺は、そこへ行く。



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(第二十話 了)

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