第18話「帰路」
◇
夜の国に、道はない。
あるのは、踏み固められた土でも、整えられた石畳でもない。ただ岩と砂と、這い出る怪物の気配だけだ。
俺たちは、その中を歩いている。
奈々を抱えた腕が重い。背中の傷が、一歩ごとに熱を持つ。折れかけた肋が、呼吸のたびに軋む。
それでも、止まれない。
◇
奈々を含めて、生存者は七人。
老兵が先頭を歩き、中年の女が子供の手を引いている。残りの三人は、疲労で目が虚ろだ。誰も、余計な言葉を口にしない。
椿が後方を警戒し、茜が斥候として先を見ている。連携は取れている。だが、全員の足取りが重い。
◇
二時間ほど歩いた頃。
茜が足を止めた。弓を構え、闇の奥を睨む。
「来る」
低い声。背筋が凍りついた。
「何匹だ」
「三匹。中型。……足が速い」
俺は奈々を椿に預けた。
「すぐ終わらせる」
椿が奈々を受け取った。一瞬だけ視線が絡み、椿はすぐに生存者たちの前に立った。
「全員、私の後ろに」
◇
右手に熱を集中させた。光の刃が掌から伸びる。
闇の中から、三つの影が飛び出してきた。
一匹目が跳躍する。刃を振るう。腕が一撃で斬り落とされ、怪物が悲鳴を上げた。返す刃で首を断つ。血飛沫が顔にかかる。
二匹目が横から迫った。茜の矢が顔面を貫き、怪物が転がる。俺はその隙に心臓を突いた。
三匹目。最も大きい。
牙が俺の肩を狙って飛んできた。身を捻って避けるが、背中の傷が脈打ち、動きが鈍った。
爪が脇腹を掠める。浅い。だが、熱い痛みが走った。
「真!」
茜の矢が怪物の目を射抜いた。その瞬間、俺は刃を振り下ろした。頭蓋が割れ、怪物が崩れ落ちる。
◇
息が荒い。視界の端が白く霞む。
脇腹を押さえた。手が赤く濡れた。浅い傷だ。だが、出血がある。
「動けるか」
茜が近づいてきた。
「ああ」
「嘘をつくな。脇腹、やられてる」
茜が布を取り出し、傷口に押し当てた。痛みが走る。
「歩きながら止血する。休んでる暇はない」
◇
奈々を椿から受け取った。
彼女の手が、俺の袖を強く握った。顔色が蒼い。
「怪我を……」
「かすり傷だ」
「嘘」
奈々の声が硬い。怒っているのか、怯えているのか、分からない。
俺は彼女を抱え直した。
「心配するな」
「心配します」
その声は、震えていなかった。芯がある声だった。
◇
一時間ほど歩いた頃。
茜が戻ってきた。
「この先、岩場が続く。足場が悪い。生存者には厳しいな」
低い声で報告する。俺は頷いた。
「迂回できるか」
「できなくはない。だが、遠回りになる。半日は余計にかかる」
半日。その半日で、何人が脱落する。
「岩場を行く」
茜が一瞬だけ俺を見た。何かを言いかけて、やめた。
◇
岩場に差しかかった。
茜の言う通り、足場が悪い。滑りやすい岩が重なり、傾斜がきつい。両手を使わなければ登れない場所もある。
俺は奈々を背負い直した。
「重くない?」
奈々の声が、耳元で聞こえた。
「軽い」
嘘だ。軽くはない。けれど、重いとも言えない。
この重さは、俺が背負うべきものだ。
◇
老兵が足を滑らせた。
咄嗟に椿が腕を掴み、引き上げる。老兵の顔が蒼白だった。礼を言う余裕もなく、荒い息を吐いている。
「すまん」
「謝るな。進め」
椿の声は硬い。けれど、冷たくはない。
俺たちは、誰一人見捨てる気がない。たとえ、それが無謀だとしても。
◇
岩場を抜けるのに、三時間かかった。
予想より長い。生存者の体力が、想定以上に削られていた。
岩陰で休息を取る。奈々を地面に下ろし、毛布をかけた。
「少し休め」
「真さんも」
「俺は大丈夫だ」
大丈夫じゃない。視界が、時々歪む。背中の傷が、じくじくと膿みかけている。脇腹の傷も、止血はしたが動くたびに痛む。肋の軋みが、深呼吸のたびに鋭い痛みに変わる。
けれど、弱音は吐けない。
リーダーが崩れれば、全員が崩れる。茜が言った言葉だ。
◇
椿が近づいてきた。
「真。傷を見せろ」
有無を言わせない口調だった。
「後でいい」
「後では遅い。今、見せろ」
俺は黙って背中を向けた。椿が息を呑む気配がした。
「ひどい。化膿しかけている。脇腹も開いている」
「動けなくなったら、処置すればいい」
「馬鹿か」
椿の声が低く震えた。怒りだ。純粋な怒り。
「お前が倒れたら、全員が終わる。分かっているのか」
「分かってる」
「分かっていない。だから、今すぐ処置する」
◇
椿が薬草を傷口に押し当てた。激痛が走り、歯を食いしばった。
「痛いか」
「いや」
「嘘をつくな」
椿の手つきは丁寧だった。けれど、その背中には、何かを堪えているような硬さがあった。
奈々のことを、椿は知っている。俺と奈々が、運命で結ばれていることを。
そして、茜との夜のことも、きっと察している。
それでも、椿は俺の傷を手当てしている。何も言わずに。
◇
処置が終わった。
「すまない」
「謝るな」
椿が立ち上がった。その横顔は、闘いの前のように硬い。
「私は私の役目を果たす。お前は、お前の役目を果たせ」
それだけ言って、椿は離れていった。
何か、言うべきことがある気がした。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
◇
茜が俺の隣に座った。
「椿、強いな」
ぼそりと呟く。
「ああ」
「あんたのこと、好きなんだろ」
答えなかった。茜は鼻で笑った。
「分かりやすいんだよ、ああいうの。あたしとは、違う」
「茜」
「何も言うな」
茜が立ち上がった。
「今は、生き延びることだけ考えろ。それ以外は、後だ」
その言葉は、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
◇
休息を終え、また歩き始めた。
奈々を抱え直す。彼女の体温が、腕の中で伝わってくる。弱々しいけれど、確かに生きている。
「真さん」
「ああ」
「傷、痛い?」
「そうでもない」
「本当に?」
「本当だ」
嘘だ。痛い。歩くたびに、脇腹がズキズキする。背中は熱を持って膿みかけている。肋が軋むたびに、息が詰まる。
けれど、痛いと言ったところで、何が変わるわけでもない。
◇
歩きながら、奈々が話し始めた。
「声だけだった頃」
俺は黙って聞いた。
「あなたの声を聞くと、怖くなくなりました」
「俺も、同じだった」
本当だ。テレパシーで繋がっていた頃、奈々の声だけが、俺をこの世界に繋ぎ止めていた。
「会えないかもしれないって、何度も思いました」
「約束したからな」
「約束」
奈々の声に、熱が宿った。
「前の世界でも、約束していた気がするんです。夢の中で、何度も」
◇
前世の記憶。俺も、断片的に覚えている。
「覚えてるのか」
「夢のように。でも、確かに、あなただった」
沈黙が落ちた。
夜の国の闇が、俺たちを包んでいる。怪物の気配は、今のところない。沈黙の館の方角を、怪物さえ避けているからだ。
その沈黙の中で、奈々の声だけが聞こえる。
「怖いんです」
「何が」
「また、離れてしまうのが」
◇
奈々の腕が、俺の首に回った。しがみつくように。
「今は、もっと怖い。声だけの頃より」
分かる。俺も、同じだ。
声だけの頃は、まだ希望だった。会えるかもしれないという希望。
今は、現実だ。失うかもしれないという現実。
◇
岩場の影に、小さな窪みを見つけた。
風を防げる。一時間だけ、休息を取ることにした。
生存者たちが身を寄せ合う。老兵と中年の女が、子供を挟んで座った。残りの三人は、岩に背をもたせかけて目を閉じている。
椿が入口付近で見張りにつく。茜は、少し離れた場所で闇を睨んでいる。
俺は奈々を窪みの奥に下ろした。
◇
他の生存者たちは、すぐに眠りに落ちた。
限界を超えた疲労が、意識を奪っていく。当然のことだ。
奈々は眠れないでいた。俺の隣に座ったまま、小さく肩を震わせている。
「眠れそうにないか」
「ごめんなさい」
「謝るな」
奈々の髪を、そっと撫でた。絹のように滑らかな髪が、指の間をすり抜ける。
「真さん」
「ああ」
「怖いって言ってもいいですか」
「いい」
「怖い」
その声は、とても小さかった。
「失うのが、怖い。また独りになるのが、怖い」
◇
「俺も」
言った。
「俺も、怖い」
奈々が顔を上げた。涙で濡れた瞳が、俺を見つめている。
「前の世界で、守れなかった」
正直に話した。けれど、昨夜とは違うことを言った。
「だから今度は、守りたい。お前を。この手で。絶対に」
奈々の手が、俺の頬に触れた。冷たい指先だった。
◇
奈々が何か言おうとした。けれど、言葉にならなかった。
代わりに、彼女は俺の胸に顔を埋めた。強く。
「わたしも、守りたい」
掠れた声。
「あなたを。わたしは弱いけど。それでも」
俺の服を掴む指に、力が込もる。
「あなたがいるから、わたしは前を向ける」
◇
その言葉が、胸の奥を焼いた。
守られるだけじゃない。この少女も、俺を支えようとしている。
◇
奈々が顔を上げた。
涙の跡が光る頬。上気した肌。わずかに開いた唇。
その目が、俺を見ている。怯えと、信頼と、もう一つ別の熱が混ざった目で。
「真さん」
声が、いつもより低かった。
「言いたいことがあるんです」
俺は黙って待った。
「声だけだった頃から、ずっとあなたのことを、思っていました」
分かっている。俺も、同じだ。
「会いたかった。触れたかった。あなたの手を、握りたかった」
奈々の手が、俺の手を探り当てた。指が絡む。
「今、握っています」
「ああ」
「離したくない」
◇
俺は奈々の手を握り返した。
彼女の手は華奢で、冷たく、けれど握り返す力は想像以上に強かった。
「離さない」
言った。
「約束する」
◇
奈々の瞳から、また涙が零れた。
けれど、今度は悲しみの涙ではなかった。
「真さん」
彼女が身を起こした。俺の顔に、近づいてくる。
吐息が、頬にかかった。
◇
唇が、触れた。
かすかに。やわらかく。塩味がした。涙の味だ。
奈々の唇は震えていた。けれど、離れようとしなかった。
俺も、離さなかった。
◇
長いキスだった。
声だけだった頃には、できなかったこと。触れたいと思っても、届かなかったこと。
それが、今、形になっている。
唇を離した時、奈々の頬が赤く染まっていた。暗闇の中でも分かるほどに。
「あなたの、味がする」
奈々が、泣き笑いのような表情を浮かべた。
◇
俺は奈々を抱き寄せた。
彼女の体が、俺の胸に収まる。軽くて、頼りなくて、それでいて確かな熱を持っている。
「真さん」
「聞いてる」
「もっと、近くに」
その声は、掠れていた。怯えではない。別の何かだ。
「いいのか」
「分からない」
奈々が顔を伏せた。頬が紅潮している。
「でも。今は、あなたの温もりが、欲しい」
◇
俺は奈々を抱きしめた。
毛布を引き寄せ、二人の体を覆った。岩場の窪みの奥で、闇に紛れて。
理性が囁いている。こんな状況で、こんなことをしていいのか。すぐそこに生存者がいる。椿や茜も近くにいる。明日の保証もない。
けれど、体が動いた。
奈々の指が、俺の胸元に触れた。鎧の隙間から、直接肌に触れる。冷たい指先が、熱い肌に沈んだ。
「あたたかい」
奈々が呟いた。
俺は彼女の肩に手を置いた。薄い衣の布地越しに、彼女の体温が伝わってくる。
◇
俺の手が、奈々の肩から首筋へ滑った。彼女の体が、かすかに跳ねた。
「真さん」
声が掠れていた。
俺は奈々の顔を両手で包んだ。手のひらに、火照った頬の熱が伝わってくる。涙はもう乾いていた。
「怖いか」
「少し」
奈々が目を伏せた。
「でも。怖いだけじゃない」
「どういうことだ」
「分からない。胸が苦しい。怖いのに、離れたくない。恥ずかしいのに、もっと触れてほしい」
その声は、困惑と渇望が混ざっていた。
「変、でしょうか」
「変じゃない」
俺も、同じだ。こんな状況で、こんなことを考えている自分が信じられない。けれど、止められない。
◇
俺は奈々の唇に、もう一度口づけた。
今度は、さっきよりも深く。
彼女の吐息が、俺の口の中で溶けた。舌が触れた。奈々の体が強張り、そしてゆっくりと力が抜けていった。
指が、俺の背中に回った。傷口に触れないよう、そっと。
毛布の中で、体温が混ざり合っていく。
奈々の体が、俺の体に密着した。薄い衣越しに、彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。速く。強く。
俺の手が、彼女の背中を撫でた。肩甲骨の線をなぞった。彼女の体が、小さく跳ねた。
「ん」
名を呼ぶ声が、吐息に変わった。
◇
奈々の衣の肩紐が、するりと滑り落ちた。
白い肩が、暗闇の中で仄かに光っている。
俺の手が、その肩に触れた。冷たい。けれど、どこか熱い。
奈々が俺を見上げた。瞳が潤んでいる。恐怖と期待が同居した目だ。
「真さん」
声が、震えていた。
「怖い。でも、やめないで」
その言葉が、俺の中の何かを壊した。
◇
灯りが、消えた。
闇の中で、二人の呼吸だけが聞こえていた。
◇
どれくらい、時間が経っただろう。
奈々が俺の胸に顔を埋めていた。呼吸は穏やかだった。
乱れた毛布。散った衣。奈々の首筋に、赤い痕がかすかに残っている。
俺は彼女の髪を撫でながら、天井の岩を見上げていた。
この温もりを、絶対に守る。
◇
毛布の中で、奈々の指が俺の手を探り当てた。
「起きていたのか」
「うん」
小さな声。
「ありがとう」
「何が」
「来てくれて。守ってくれて。今、ここにいてくれて」
俺は彼女の手を握った。
「礼を言うのは、俺の方だ」
「なんで」
「お前がいるから、俺は戦える」
◇
奈々が身を起こした。
暗闇の中で、彼女の顔がかすかに見える。頬が上気している。唇が、わずかに腫れている。体が気だるそうに揺れている。
「真さん」
「ああ」
「わたし、あなたのことが、好きです」
その言葉は、声だけの頃には言えなかったものだ。
俺も、同じ言葉を返した。
◇
外で、茜の声がした。
「そろそろ動くぞ。怪物の気配が、少し近づいてる」
現実が、戻ってきた。
俺は奈々が衣を整えるのを待ってから、毛布を畳んだ。
◇
生存者たちを起こした。
誰もが疲弊しきった顔をしていた。けれど、立ち上がる。歩き出す。生きるために。
椿が俺を見た。その目に、何かを悟った気配があった。けれど、何も言わなかった。
茜も、一瞬だけ俺と奈々を見た。表情を読み取ることはできなかった。
◇
また、歩き始めた。
奈々を支えた腕が、さっきよりも軽く感じた。気のせいかもしれない。けれど、足取りは確かに違った。
守る理由が、より明確になった。
◇
四時間ほど歩いた頃。
茜が足を止めた。
「見ろ」
前方を指差す。
闇の中に、深い裂け目が見えた。底が見えない。風が、その裂け目から吹き上がってくる。冷たく、重い風だ。
「峡谷だ。ここを越えなきゃ、先には進めない」
茜の声は平坦だった。けれど、その目には緊張があった。
俺は峡谷の縁に立ち、下を覗き込んだ。何も見えない。ただ、深い闇が口を開けているだけだ。
◇
奈々が俺の腕の中で、前を見た。
「あそこを、越えるの?」
「ああ」
「怖い」
「任せろ。俺が道を作る」
俺は奈々を抱き直した。
◇
奈々が、かすかに微笑んだ。
「あなたと一緒なら、夜の国も怖くない」
その言葉に、腹の底から力が湧いた。
俺は頷いた。
その先に、底の見えない峡谷が口を開けていた。
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(第18話 終)
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