第17話「灯ノ塔陥落」
◇
瓦礫が、遠ざかっていく。
振り返らなかった。
奈々を抱えたまま、一歩、また一歩と闇を踏みしめる。背中の傷が脈を打つたびに熱を持ち、呼吸のたびに肋が軋んだ。
それでも足を止めるわけにはいかない。
灯ノ塔は死んだ。地脈の光は、もう、どこにもない。
◇
「……どこまで行けばいいんだ」
老兵の声が闇に溶けた。誰も答えない。
終ノ塔まで、海沿いの近道を使っても五日か六日。この人数で。この状態で。
果てしなく、長い。
◇
三時間ほど歩いただろうか。
茜が足を止めた。
「これ以上は無理だ」
低い声。振り返れば、生存者たちの顔が蝋のように白い。老人は立っているのがやっと、子供は母親の服にしがみついたまま泣き疲れて眠り、中年の女は老兵に支えられてかろうじて歩いている。
誰の目にも明らかだった。もう限界を超えている。
◇
岩陰を見つけた。茜が周囲を確認し、椿が入口付近で槍を構える中、生存者たちがへたり込んだ。
奈々を岩に背をもたせかけ、毛布をかけた。目を開けた奈々が、俺を見上げる。
「……真さん」
「少し休む。眠れるなら眠っておけ」
奈々は首を振った。目元に涙の跡が残っている。
「……眠れない」
◇
「お父様が……」
奈々の唇が震えた。言葉を探すように、視線が宙をさまよう。
「わたしが、守ってあげられなかった……」
何と言えばいいのか、分からなかった。彼女の父を知らない。彼女が失ったものの重さを、本当には理解できていない。
「お前のせいじゃない」
言った。
「お前は最後まで、地脈を守ろうとしていた。あの老人が言っていただろう」
奈々の手が、膝の上で握りしめられた。指の関節が白くなる。
「でも……」
「お前のせいじゃない」
繰り返した。自分にも言い聞かせるように。
◇
少し離れた場所で、椿が闇を睨んでいた。その横顔は硬く、何かを飲み込んでいる。
茜は岩の上に座り、弓を膝に抱えて耳を澄ませている。昨夜のことが、まだ二人の間に残っている。
だが今は、それを話す余裕がなかった。
◇
生存者の老人が激しく咳き込んだ。身体が揺れ、痰が絡む音が響く。
近づいた。
「大丈夫か」
老人が顔を上げた。目の焦点が定まらない。
「……終ノ塔に……辿り着けるかな……」
声が掠れていた。
「辿り着く」
答えた。
「必ず、全員で」
老人の唇が、かすかに緩んだ。
「……若いな……」
諦めと、わずかな希望が混ざった声だった。
◇
休息を始めて一時間ほど経った頃。
茜が音もなく岩から降りた。弓を構え、闇の奥を睨む。
「来る」
低い声。背筋が凍りついた。
「何匹だ」
「……多い。数えてる余裕はない」
椿が武器を構えた。
「全員起こせ」
◇
生存者たちを起こした。
咳き込んでいた老人が、立ち上がれなかった。岩にしがみつき、足が折れる。
「……すまん……足が……」
老兵が老人の腕を取った。
「担ぐ。黙って掴まれ」
「いい……俺は……」
「黙れ。担ぐって言ってんだ」
老兵の声は荒く、必死だった。誰も見捨てる気はなかった。
奈々を抱き上げた。腕にかかる重みが、ひどく頼りない。
「行くぞ」
言った瞬間、闇の向こうで咆哮が上がった。
◇
怪物が現れた。
一匹じゃない。三匹。五匹。さらに影が増える。塔の崩壊で、周囲の怪物が集まってきたのか。あるいは俺たちの血の匂いを追ってきたのか。
護符は、もう、ない。背中の傷は塞がっていない。
それでも。
「逃げろ」
言った。
「俺が引きつける」
椿が振り向いた。
「無茶だ、一人で」
「一人じゃない」
茜が弓を構えた。
「あたしも残る。あんた一人に任せられるか」
椿が一瞬だけ躊躇い、すぐに頷いた。
「……分かった。生存者を先に連れていく」
奈々を椿に預けようとした。
◇
奈々の指が、俺の服を掴んで離さなかった。
「……嫌……」
声が震えていた。
「離れたく、ない……」
「奈々」
目を合わせた。
「必ず追いつく。先に行け」
奈々の唇が開いて、閉じた。何かを言おうとして、言葉にならなかった。
椿の腕が奈々を受け取った。
「預かる」
椿の声は硬かった。俺と奈々の間を一瞬だけ視線が行き来し、何かを飲み込むように息を吐く。
「……必ず、戻れ」
◇
椿が生存者たちを連れて離脱した。老兵が老人を担ぎ、中年の女が子供を抱えている。全員が必死に、闇の中へ走っていく。
その背中を守るように、俺と茜が残った。
「さあな。何匹来ようと、やるしかないだろ」
茜が矢をつがえた。闇の中で、怪物の目が光っている。
◇
右手に熱を集中させた。光の刃が掌から伸びる。
一匹目が跳躍してきた。
刃を振るう。首が飛ぶ。血飛沫が闇を染め、腐臭が鼻腔を刺した。
二匹目が横から迫った。茜の矢が顔面を貫き、怪物が悲鳴を上げて転がる。
三匹目。四匹目。大きい個体と小さい個体。動きが違う、狙いが違う。連続で斬り伏せる。息が上がる。背中の傷が脈打ち、視界の端が白くなりかけた。
◇
「真!」
茜の声。
「後ろから!」
振り向く暇がなかった。衝撃が背中を襲い、怪物の爪が傷口を抉る。
声にならない悲鳴が喉から漏れた。足から力が抜け、片膝をついた。視界が揺れる。血が背中を伝って地面に落ちる。
怪物が俺を見下ろしている。
殺される。
その瞬間、茜の矢が怪物の目を貫いた。
◇
怪物が後ずさる。その隙に刃を振るい、崩れ落ちた。
「立て!」
茜が叫んだ。
「まだ来る!」
腰が笑っている。視界が白く霞む。それでも刃を構えた。
五匹目。六匹目。七匹目。
茜が矢を射ち、俺が斬る。その繰り返し。腕が重い。息が苦しい。いつまで続くんだ。
◇
八匹目を斬り伏せた時、不意に怪物の気配が薄れた。
退いていく。
なぜだ。理由が分からない。
だが、茜の顔色が変わった。
「……あの方角だ」
低く呟く。
「何が」
「沈黙の館。あっちの方角に、もっと大きな気配がある。……奴らは、それを避けてる」
沈黙の館。茜の集団を全滅させた怪異。入ったら二度と還らない。
その方角へ向かって、俺たちは進もうとしている。
背筋が凍った。だが、追ってくる気配はない。今は、これでいい。
◇
「……行った……か……」
茜が息を切らしながら言った。
「ああ……たぶん……」
足から力が抜けた。地面に崩れ落ちる。
「おい!」
茜の声が遠くに聞こえた。
「しっかりしろ! ここで死ぬな!」
死ぬか。それはダメだ。まだ奈々を、守っていない。
無理やり目を開けた。茜の顔が、すぐ近くにあった。
「……大丈夫だ……」
「大丈夫に見えるか、馬鹿」
茜が俺の背中を見た。表情が険しくなる。
「……ひでえ傷だ。応急処置、するから動くな」
◇
茜が手持ちの薬草を傷口に押し当てた。痛みが走り、奥歯を噛んだ。
「……なんで一人で前に出ようとするんだ」
茜の声が低かった。
「あんたが死んだら、全員終わりだぞ」
「……分かってる」
「分かってないから、こうなってんだろ」
茜の指が布を巻きつける。乱暴だが手際はいい。夜の国で、何度もこうして傷を治してきたのだろう。
「……ありがとう」
「礼はいい」
茜が立ち上がった。
「立てるか」
「……ああ」
腕を掴まれ、引き起こされた。足が震えている。だが、立てる。
「追いつくぞ。椿たちが待ってる」
◇
歩き始めた。茜が隣にいる。闇の中を、二人で進む。
奈々は無事だろうか。椿は生存者を守れているだろうか。
不安が喉の奥で固まり、息が詰まった。
◇
しばらく歩いた先で、人影が見えた。椿だ。その後ろに生存者たちがいる。
全員、いる。
いや。
数が足りない。
老人がいない。咳き込んでいた、あの老人が。
◇
椿の顔を見た。表情が硬い。
「……何があった」
聞いた。
椿が目を伏せた。
「……間に合わなかった」
低い声。
「走っている途中で……倒れた。起き上がれなかった」
息が止まった。
「……どこだ」
「少し後ろだ。置いてきた……時間がなかった……怪物が追ってきていた……連れていく余裕が……」
椿の声が震えていた。武人として、仲間を守れなかった。その痛みが、声に滲んでいる。
◇
後ろを振り返った。闇の中に、何も見えない。老人の姿も、声も。
死んだのか。あの老人が。俺が引きつけている間に。
「……また守れなかった」
言葉が勝手に漏れた。喉の奥が焼けるように熱い。
足が笑いそうになった。
◇
「真」
茜の声が聞こえた。
「今は、立て」
分かっている。分かっている、だが。
「生存者が見てる。あんたが崩れたら、全員が崩れる」
そうだ。リーダーなんだ。俺は。
唇の内側を噛み切った。血の味が広がる。
立ち続けた。生存者たちの顔を見た。恐怖。疲労。絶望。
希望を見せなきゃいけない。俺が。
◇
「進む」
言った。声が震えていた。だが、言い切った。
「止まっても、何も変わらない。進む」
◇
奈々が椿の腕の中で、俺を見ていた。頬を涙が伝っている。
老人のことを知っているのだろう。灯ノ塔で、一緒にいた人だ。奈々が励ましてきた人だ。
その人が、死んだ。
奈々に近づいた。椿から奈々を受け取る。軽い身体が腕の中に戻ってくる。
「……ごめん」
奈々が言った。
「わたしが……もっと早く気づいていれば……」
「お前のせいじゃない」
同じ言葉を繰り返した。
「誰のせいでもない」
嘘だ。俺のせいだ。もっと早く戻っていれば。もっと強ければ。救えたかもしれない。
だが、その言葉は飲み込んだ。今、言うべきじゃない。奈々を余計に苦しめるだけだ。
◇
闇の中を、また歩き始めた。
奈々を含めて、生存者は七人になった。老兵と、中年の女と、子供と、灯ノ塔から逃げ延びた者たち。誰もが限界に近い。だが、歩いている。生きている。
◇
奈々の体温が、腕の中でかすかに伝わってくる。血の気がなく、熱がない。だが、生きている。
「……真さん」
奈々の声がかすかに聞こえた。
「……ありがとう」
「何が」
「……生きてて、くれて」
その言葉が、喉の奥に刺さった。
届かなかった手がある。救えなかった命がある。それでも、生きている。俺も、奈々も。
◇
どれくらい歩いただろう。空がわずかに変わった気がした。夜の国に朝はない。だが、闇の濃さが少しだけ薄まった気がした。錯覚かもしれない。
茜が足を止めた。
「……ここで休む」
岩場があった。窪みがあり、風を防げそうだ。
「見張りはあたしがやる。あんたは傷を休めろ」
「俺が……」
「黙れ」
茜の声が鋭かった。
「あんたが倒れたら全員が死ぬって、さっき言っただろ」
その通りだ。俺が倒れたら、この場にいる全員が終わる。だから休む。それも戦いだ。
◇
岩の窪みに、生存者たちが身を寄せ合った。子供が母親の膝で眠っている。老兵が壁にもたれて目を閉じた。
椿が入口近くに座り、武器を膝に置いている。その視線が一瞬だけ奈々に向き、すぐに逸らされた。何かを堪えているように、唇が薄く結ばれている。
奈々は俺の隣にいた。指が俺の袖を掴んで、頑として解こうとしない。
「……眠れるか」
聞いた。
奈々が首を振った。
「……目を閉じると……お父様が……みんなが……」
声が震えていた。
◇
何て言えばいいんだ。俺には慰める言葉がない。同じ痛みを知らない。
いや、知っている。前世で、同じものを見た。届かなかった。間に合わなかった。
「俺も」
言った。
「目を閉じると、見える。前の世界で……救えなかった人たちの顔が」
奈々の瞳が揺れた。
「……真さんも……?」
「ああ」
どうしてこんなことを話しているのだろう。奈々を余計に辛くさせるだけかもしれない。だが、一人じゃない、と伝えたかった。
「だから分かる。眠れないのも。忘れられないのも」
奈々の指が、俺の袖を強く握った。
「でも、それでも前に進まなきゃいけない」
奈々が黙っていた。
「死んだ人は、もう戻らない」
言葉が喉を焼いた。
「だが、生きてる人は、まだ救える」
奈々の瞳から涙が滑り落ちた。だが、その目は、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「……救って、くれる……?」
「ああ」
◇
奈々が俺の胸に顔を埋めた。小さな嗚咽が聞こえた。声を殺して、泣いている。
背中をそっと撫でた。他にできることがなかった。
しばらくして、奈々の呼吸が静かになった。嗚咽が止み、身体から少しずつ力が抜けていく。俺の心音を聞きながら、意識が遠ざかっていくのだろう。
腕の中の体が、わずかに重くなった。泣き疲れて眠ったのだ。
良かった。少しでも眠れたなら。
◇
椿がこちらを見ていた。目が合った。椿はすぐに視線を逸らし、闇の向こうを睨んだ。
何かを言いたそうに見えた。だが、何も言わなかった。
茜との夜。椿の沈黙。奈々との運命。俺は、どうすればいい。
今は考えるな。今は、生き延びることだけを考えろ。
◇
目を閉じた。背中がまだ痛む。だが、意識が沈んでいく。疲労が限界を超えていた。
夢を見た。前世の記憶。誰かの手を握ろうとしている。だが、届かない。指先が空を掴む。
そして。
◇
目が覚めた。暗闇の中。奈々がまだ腕の中にいた。眠っている。
良かった。夢はただの夢だ。
茜が入口に座っていた。振り向いた。
「……起きたか」
「ああ。どれくらい寝た」
「三時間ってとこだ」
三時間。短い。だが、これ以上は無理だ。
「動くぞ」
「ああ」
茜が頷いた。
「怪物の気配は今のところない。……あの方角を避けてるみたいだ」
沈黙の館の方角。怪物さえも近づかない場所。
俺たちは、その方向へ進んでいる。
◇
生存者たちを起こした。誰もが疲弊しきった顔をしていた。だが、諦めていない。立ち上がる。歩き出す。生きるために。
奈々を抱き上げた。目を開けた奈々が、俺の顔を見上げた。
「……行くの……?」
「ああ」
「……終ノ塔まで……」
「必ず」
◇
奈々の腕が俺の首に回った。しがみつくように。
その温もりが、全身に染みた。
二度と、独りにはさせない。
◇
夜の底を、また歩き始めた。
奈々を含めて、生存者は七人。老人はもういない。その重みが、足を引きずるように残っている。
だが、前に進む。救えなかった命を背負って。生きている命を守るために。
◇
灯ノ塔の残骸が、闇に溶けて消えた。振り返らなかった。前だけを見た。
奈々の手を握り直した。血の気のない指。熱がない。
だが、確かに生きている。その指が、握り返してきた。
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(第17話 終)
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