第16話「オールデンの乙女」
◇
灯ノ塔が——見えた。
傾いた壁。崩れかけた門。地脈の光が、か細く揺れている。
走った。
背筋に熱い痛みが走る。呼吸のたびに肋が軋んだ。
構わなかった。
あの塔の中に——奈々がいる。
門に辿り着いた時、五人とも息が上がっていた。老兵が膝をつく。中年の女が、彼の腕を支えている。
「ここが……」
椿が息を整えながら呟いた。
「灯ノ塔……」
門は半ば崩れていた。石が散らばり、壁には無数の亀裂が走っている。
それでも——まだ立っている。
まだ、消えていない。
◇
門をくぐった。
塔の内部は、終ノ塔とは比べ物にならないほど狭かった。螺旋状の階段。崩れた壁。至る所に、戦闘の跡がある。
血の臭いが、鼻腔を刺した。
古い血だ。しかし新しい血の臭いも、混じっている。
「人の気配がある」
茜が低く言った。
「上だ。……かなり弱っている」
階段を上る。
一歩ごとに、胸の奥で何かが脈打った。繋がり。声が途絶えてから、ずっと残っていた細い糸。
それが——近づいている。
◇
三階に辿り着いた時、人影が見えた。
数人の生存者が、壁際に座り込んでいる。老人、子供、女——誰もが衰弱しきった顔をしていた。
俺たちを見て、目を見開く。
「……誰だ」
老人の声が掠れていた。
「外から——」
「終ノ塔から来た」
答えた。
老人の目が、さらに大きくなった。
「終ノ塔……救援か……?」
「いや」
首を振った。
「正式な救援じゃない。俺たちだけだ」
老人の表情が、一瞬曇った。
けれど、すぐに、何かを諦めたように目を閉じた。
「そうか……来てくれただけで、充分だ」
声が震えていた。
◇
「奈々は」
聞いた。
「奈々という名の少女は、どこにいる」
老人が目を開けた。
「奈々……お嬢様か」
お嬢様。
胸の奥で、何かが跳ねた。
「知っているのか」
「知っている。……地脈の間にいる」
老人が、奥を指差した。
「塔の最上階だ。お嬢様は——最後まで、地脈を守ろうとしている」
最後まで。
その言葉が、腹の底に重く落ちた。
◇
最上階への階段を上る。
背中の傷が、限界を訴えていた。視界が揺れる。足がもつれそうになる。
止まれない。
ここまで来た。
あと少しだ。
階段を上りきった。
扉があった。重い石の扉。けれど、半開きになっている。
その隙間から、淡い光が漏れていた。
地脈の光。
手を伸ばした。
扉を、押し開けた。
◇
光が——あった。
部屋の中央に、地脈の結晶が浮かんでいた。青白い光を放ちながら、ゆっくりと回転している。
その光が、弱い。点滅するように揺れている。消えかけた蝋燭のように。
そして——
結晶の前に、少女がいた。
淡い髪。細い体。白い服は汚れ、裾は破れている。
膝をついて、結晶に手を伸ばしていた。
——奈々。
声にならなかった。
喉が詰まった。
◇
少女が——振り向いた。
目が合った。
淡い色の瞳。疲労で窪んだ目元。それでも——その奥に、確かな光がある。
少女の唇が、動いた。
「……あなた……?」
声。
テレパシーじゃない。肉声。
今まで、頭の中でしか聞いたことのなかった声が——目の前で、響いている。
「……真、さん……?」
言葉が出なかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
代わりに——一歩、踏み出した。
◇
少女の——奈々の目に、涙が浮かんだ。
「本当に……来て、くれた……」
声が震えている。
「ずっと……待って……」
言葉が途切れた。
奈々の体が、傾いだ。膝が折れる。
駆け寄った。
腕が——間に合った。
奈々の体を、抱き止めた。
◇
軽かった。
あまりにも軽かった。
腕の中の体は、羽のように軽い。骨と皮だけになっている。
どれだけ、飢えていたのか。どれだけ、一人で耐えていたのか。
奈々の顔を見た。
目を閉じている。気を失ったのだろう。疲労が、限界を超えていた。
けれど、息はある。
脈もある。
生きている。
「……奈々」
名前を呼んだ。
何度も、頭の中で呼んできた名前。
今——初めて、声にした。
◇
奈々の目が、ゆっくりと開いた。
俺の顔を見て——一瞬、表情が揺れた。
「……夢、じゃ……」
「夢じゃない」
答えた。
「俺だ。真だ」
奈々の手が、俺の腕を掴んだ。
指が冷たい。震えている。
確かめるように、腕を握り返す。
「……あたたかい」
奈々が呟いた。
「本当に……いる……」
◇
奈々の瞳から、涙が滲んだ。
一粒、二粒。
止まらなくなった。
声を上げずに、静かに泣いている。
「ずっと……怖かった……」
奈々の声が、途切れ途切れに聞こえた。
「みんな、いなくなって……お父様も……」
お父様。
灯ノ塔の統制官。奈々の父。
——死んだのか。
「一人で……地脈を守らなきゃって……でも、もう……限界で……」
奈々の体が、震えている。
「あなたの声が聞こえなくなって……もう、終わりだって……」
言葉が詰まった。
◇
「ごめん」
言った。
「遅くなった」
奈々が首を振った。
「ううん……来てくれた……それだけで……」
涙が、俺の腕に落ちた。
「わたし……諦めかけてた……もう、誰も来ないって……でも……」
奈々の手が、俺の服を掴んだ。
弱い力。それでも——離さない、という意志がある。
「声が、聞こえた……あなたの声が……近づいてきて……」
奈々の唇の端が、かすかに持ち上がった。
「夢かと思った……でも、違った……」
◇
奈々の顔を見た。
疲弊しきった顔。汚れた髪。痩せ細った体。
——それでも。
美しいと思った。
声でしか知らなかった少女が、目の前にいる。
ずっと、会いたいと思っていた。
その人が——今、腕の中にいる。
「奈々」
名前を呼んだ。
奈々が、目を上げた。
「お前に会いたかった」
言葉が、勝手に出ていた。
「ずっと——会いたかった」
◇
奈々の瞳が、揺れた。
涙を溜めた目が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「わたしも」
奈々の声は、かすかだった。
「わたしも……ずっと……」
言葉が途切れる。
代わりに——奈々の体が、俺の胸に寄りかかった。
冷たい体。けれど確かに生きている温もりがある。
奈々の息が、首筋にかかった。
「……やっと、会えた」
その声に——全身の力が、抜けそうになった。
◇
気づけば、長い時間が過ぎていた。
足音が聞こえた。
振り向くと、椿と茜が入口に立っていた。
椿の目が一瞬細まり、視線が俺と奈々の間を行き来した。唇が薄く結ばれる。何かを飲み込むように、ひとつ息を吐いた。
茜は無言で壁に背をもたれ、視線を逸らしている。昨夜のことを思い出したのか、頬がわずかに強張っていた。
「……見つけたか」
椿が言った。声は平静を装っていたが、どこか硬い。
「ああ」
頷いた。
「見つけた」
椿が一歩近づいた。奈々の姿を見て、目を細める。
「衰弱がひどい。水と食料を」
茜が背嚢から、携帯食と水筒を取り出した。
「あたしが持ってる分、使え」
声はぶっきらぼうだったが、動きに迷いがなかった。
◇
奈々に水を飲ませた。
最初は一口。ゆっくりと、喉を通していく。
携帯食も、少しずつ口に運んだ。
奈々の手が、俺の袖を握ったままだった。離すつもりがないらしい。
——離れたくない。
その気持ちが、痛いほど伝わった。
「ゆっくり食べろ」
言った。
「急いで食べると、体が受け付けない」
奈々が頷いた。
小さな口が、ゆっくりと動く。
◇
しばらくして、奈々の顔に少しだけ血の気が戻った。
まだ弱い。けれど、さっきより、ましだ。
「……ありがとう」
奈々が言った。
その目が、俺を見上げている。
「あなたが……来てくれなかったら、わたし……」
「考えるな」
遮った。
「もう大丈夫だ。俺が来た」
奈々の目が、また揺れた。
しかし今度は涙ではなかった。
何か、別の感情が浮かんでいる。
◇
「ずっと、不思議だったの」
奈々が言った。
「あなたの声を聞いた時……初めてなのに、懐かしいって思った」
息が止まった。
「俺も……同じだった」
答えた。
「お前の声を聞いた時。初めて聞いたはずなのに——」
言葉を探した。
「——ずっと前から、知っていた気がした」
奈々の瞳が、大きく見開かれた。
◇
「前世」
奈々が呟いた。
「……本当にあるのかしら」
「分からない」
正直に答えた。
「でも——俺は、何かを覚えている。前の世界の記憶。死の瞬間。そして——」
奈々の顔を見た。
「誰かを、守れなかった後悔」
奈々の息が、止まった。
「……わたしも」
奈々の声が、震えていた。
「夢で……見たの。知らない場所。知らない時代。でも——あなたがいた」
俺の心臓が、跳ねた。
「わたしの手を、握ろうとしてた。でも——届かなかった」
その言葉が——全身を貫いた。
◇
——また、握れなかった。
前世の記憶。死の瞬間に浮かんだ、最後の想い。
奈々も——同じ夢を見ていた。
「……今度は」
声を絞り出した。
「今度は、握れた」
奈々の手を——握った。
痩せた手のひら。氷のように冷たい。
けれど確かに、ここにある。
「もう手を放さない」
言った。
「今度こそ——握り続ける」
奈々の目から、涙が溢れた。
しかし今度は——笑っていた。
◇
地脈の結晶が、ひときわ大きく揺れた。
光が——点滅する。
「……限界が近い」
茜の声が聞こえた。
「地脈が——もう、持たない」
椿が周囲を見回した。
「生存者は」
「下に数人いた。老人と子供と女だ」
「全員で、何人だ」
老人の話を思い出した。
「七、八人……いや、十人もいないだろう」
椿の表情が引き締まった。
「全員を連れて、脱出する」
◇
奈々が、俺の袖を引いた。
「……脱出……?」
「ああ」
頷いた。
「この塔は持たない。全員を連れて、終ノ塔に戻る」
奈々の顔が、蒼白になった。
「でも——外は……夜の国は……」
「分かっている」
奈々の目を、真っ直ぐに見た。
「俺が——守る」
◇
奈々の唇が、微かに開いた。
目の中に、恐怖と希望と困惑が入り混じっていた。
「……守る……?」
「ああ」
右手を見た。掌の奥で、熱が脈打っている。
「俺だけが——夜の国の怪物を殺せる。この力がある限り、お前たちを守る」
奈々が、俺の右手を見た。
信じたい。でも、怖い——その相反する感情が、震える瞳に浮かんでいる。
「あなたの……その力……」
「何か、知っているのか」
奈々が首を振った。
「……分からない。でも——感じる。あなたの力は——わたしたちと、同じものだって」
同じもの。
どういう意味だ。
聞こうとした——その時。
◇
塔が——揺れた。
地鳴りのような音。壁に亀裂が走る。
地脈の結晶が、激しく点滅した。
「来る……!」
茜が叫んだ。
「下から——怪物の気配だ!」
椿が武器を構えた。
「脱出しろ! 今すぐ全員を連れて——」
轟音が響いた。
壁が——崩れる。
塔の下層から、咆哮が聞こえた。
◇
奈々を抱き上げた。
「行くぞ」
「待って——地脈の結晶を——」
「置いていけ」
奈々の顔が歪んだ。
「でも——これがなくなったら、塔は——」
「塔はもう終わりだ」
厳しく言った。
「お前が生きていることの方が、大事だ」
奈々が——黙った。
涙が、頬を滑り落ちた。
「……ごめんなさい、お父様……」
その呟きが、喉の奥を焼いた。
◇
階段を駆け下りた。
茜が先導し、椿が後衛を固めている。老兵と女は、下層の生存者と合流するために先に降りていた。
奈々を抱えたまま、走る。
傷口が脈打ち、胸の内側から針が刺さるような痛みが続いた。
どうでもよかった。
この腕の中の——この少女を、守る。
それだけだ。
◇
三階に辿り着いた。
老兵が、生存者を集めていた。老人、子供、女——合わせて八人。全員が衰弱しきっている。
「動ける者は」
聞いた。
「四人だ」
老兵が答えた。
「残りは、抱えるか担ぐしかない」
椿が生存者を見回した。
「私が一人担ぐ。真は——」
「奈々を離さない」
椿の言葉に被せた。
「老兵、一人頼めるか」
「やる」
老兵が頷いた。目に、決意がある。
「茜——」
「あたしは先導と警戒だ。空いた手はない」
茜がぶっきらぼうに言った。
しかし、その目は真剣だった。
「中年の女に、子供を任せろ。あたしが道を切り開く」
◇
塔が、また揺れた。
下層から、怪物の足音が響いてくる。複数。——多い。
「時間がない」
椿が言った。
「今すぐ出る」
全員が動き始めた。
走れる者は走り、走れない者は担がれ、抱えられ——塔の出口へ向かう。
奈々が、俺の首に腕を回した。
しがみつくように。
「……怖い……」
「大丈夫だ」
答えた。
「俺がいる」
奈々の体が、微かに緩んだ。
信じてくれている。
その信頼が——重い。
◇
塔の出口が見えた。
半壊した門。その向こうに、夜の国の闇が広がっている。
しかし出口の手前で、茜が足を止めた。
「止まれ」
低い声。
「何だ」
「前から——来る」
目を凝らした。
闇の中で、何かが蠢いている。
一匹じゃない。三匹。四匹。——いや、もっと。
怪物が——塔を囲んでいた。
◇
息を呑んだ。
後ろから怪物が追ってくる。前にも怪物がいる。
挟み撃ちだ。
「くそ……」
椿が歯を食いしばった。
「突破するしかない」
「何匹だ」
茜が前を睨みながら答えた。
「見える範囲で六匹。……たぶん、もっといる」
六匹。
昨日の塔で——三匹、五匹で、もう限界だった。
それ以上を——この状態で。
奈々を抱えたまま。
傷を引きずって。
「真」
奈々が囁いた。
「……無理、しないで……」
「無理する」
答えた。
「お前を守るためなら——何でもする」
◇
右手に、熱を集中させた。
光の刃が——掌から伸びる。
今まで以上に、強く。鋭く。
——不思議だった。
奈々を抱えているのに——力が、湧いてくる。
守りたい。
この腕の中の、この少女を。
前世で握れなかった手を、今度こそ——
「俺が先頭を切る」
言った。
「椿、茜——援護を頼む」
二人が頷いた。
「行くぞ」
◇
門を飛び出した。
同時に、怪物が襲いかかってきた。
一匹目——右から跳躍してくる。
左腕で奈々を抱えたまま、右手の刃を振るった。
怪物の首が飛んだ。
二匹目が、正面から迫る。
避けた。刃を突き出す。怪物の胸を貫いた。
三匹目が、背後から——
「させない!」
椿の声。
武器が振るわれ、怪物の足を止めた。
振り向いて、刃を横に薙ぐ。怪物を両断した。
◇
四匹目、五匹目が同時に来た。
茜の矢が、一匹の目を貫いた。動きが止まる。
その隙に、もう一匹を斬り捨てた。
六匹目が——違う方向から襲った。
老兵が——庇った。
槍を振るい、怪物の顎を突き上げる。殺せない。けれど、止められた。
駆け寄り、とどめを刺した。
六匹。——まだ来る。
闇の奥から、さらに影が湧いてくる。
◇
七匹目。
八匹目。
九匹目——
斬った。
守りたい者が腕の中にいる。その重みが、疲労を忘れさせた。
息が上がる。視界が揺れる。背中の傷口が熱を持っている。
それでも——止まれない。
止まったら、死ぬ。
奈々が死ぬ。全員が死ぬ。
「真!」
椿の声。
「左から——!」
振り向く。
十匹目が——跳躍していた。
間に合わない。
——護符。
懐から、最後の護符を取り出した。
栞が渡してくれた、黙老の護符。
それを——握りしめた。
◇
光が、弾けた。
護符から放たれた閃光が、怪物を怯ませた。
その一瞬で——刃を振り下ろした。
十匹目が、崩れ落ちた。
護符の光が——消えた。
もう、残っていない。
「今だ!」
叫んだ。
「離脱する!」
全員が、闇の中へ駆け出した。
◇
走り続けた。
気づいた時には、灯ノ塔の影が遠ざかっていた。
怪物の気配も——薄れている。
追ってこない。
——いや、追えなかったのか。
振り返った。
灯ノ塔が——傾いていた。
さっきより、明らかに傾きが増している。
地脈の光が——消えかけていた。
◇
「止まれ」
言った。
全員が、足を止めた。
息が上がっている。誰もが限界に近い。
けれど、全員がいる。
数を数えた。
生存者八人。老兵と女。茜。椿。
そして——腕の中の、奈々。
全員、生きている。
「……抜けた」
椿が呟いた。
「全員、無事だ」
◇
奈々が、俺の顔を見上げた。
疲弊しきった顔。けれど、その目は、真っ直ぐにこちらを見ている。
「……すごかった」
奈々が言った。
「あなた……あんなにたくさんの怪物を……」
「まだ終わりじゃない」
答えた。
「ここから——終ノ塔まで、戻らなきゃいけない」
奈々の表情が、曇った。
「……帰れるの……?」
「帰る」
言い切った。
「必ず——帰る」
◇
奈々の手が、俺の服を掴んだ。
さっきより——強い握り。
「……信じる」
奈々が言った。
「あなたを——信じる」
その言葉が、胸に沁みた。
「俺も——お前を信じる」
答えた。
奈々の口元に、弱々しいが確かな笑みが浮かんだ。
◇
背後で——轟音が響いた。
振り返った。
灯ノ塔が——崩れ始めていた。
壁が砕け、屋根が落ち、塔全体が傾いでいく。
地脈の光が——完全に消えた。
「……お父様……」
奈々が呟いた。
瞳が濡れ、涙が滲んで止まらなくなった。
「……さようなら……」
俺は——ただ、奈々を抱き締めた。
少しでも——その痛みを、分けられるように。
◇
灯ノ塔が——倒れた。
瓦礫の山になって、闇に沈んでいく。
誰もが——黙って見ていた。
奈々の故郷。守ろうとしたもの。父の墓。
それが——消えていく。
「……もう、戻れない」
奈々の声が、震えていた。
「でも——」
俺の顔を見上げた。
「あなたがいる」
頬を涙が伝っている。
「あなたがいるから——わたしは、まだ生きていられる」
◇
奈々の手を——握り直した。
骨ばった指。冷たい。
けれど、確かに、握り返してくる。
「約束を守れた」
言った。
「迎えに来るって——言っただろ」
奈々が、息を呑んだ。
涙が、また溢れた。
「……覚えて……」
「忘れるわけがない」
奈々の顔を——見つめた。
「お前のことは——一日だって、忘れなかった」
◇
奈々の唇が、震えた。
何かを言おうとして——言葉にならなかった。
代わりに——奈々の指が、俺の服の袖を強く握った。
冷たい指。けれど、優しい。
「……ありがとう」
奈々が言った。
「来てくれて——ありがとう」
俺は——奈々の肩を引き寄せた。
この温もりを——逃さないように。
◇
闇の中で、新しい咆哮が響いた。
怪物が——また近づいてくる。
灯ノ塔が消えたことで、抑えられていた何かが解放されたのかもしれない。
「動くぞ」
言った。
「ここにいたら——追いつかれる」
椿が頷いた。茜が弓を構えた。
生存者たちが、立ち上がる。
誰もが疲弊しきっている。けれど、諦めていない。
「終ノ塔まで——どれくらいだ」
茜に聞いた。
「来た道を戻るなら——十日以上」
十日。
この人数で。この状態で。
——長い。
長すぎる。
◇
奈々が、俺の袖を引いた。
「……別の道が、あるかもしれない」
「別の道?」
「お父様が——言ってた」
奈々の目が、記憶を辿っている。
「海沿いに、近道があるって。危険だけど——距離は、半分くらいで済むって」
海沿い。
茜が眉をひそめた。
「……干上がった古い海か。あそこは——」
「知ってるのか」
「通ったことはない。でも——話だけは聞いた」
茜の表情が、険しい。
「あそこには——沈黙の館がある」
◇
沈黙の館。
茜の集団を全滅させた、怪異。
入ったら——二度と還らない。
「避けて通れるか」
「分からない」
茜が首を振った。
「でも——遠回りより、確率は高いかもしれない」
椿が口を開いた。
「決めろ、真」
全員の目が——俺を見ていた。
リーダー。
いつの間にか——そう見なされている。
重かった。
けれど、逃げるわけにはいかない。
◇
「海沿いを行く」
決断した。
「時間がない。遠回りしている余裕は——ない」
茜が頷いた。
「あたしが、先導する」
「頼む」
椿が俺の隣に並んだ。
「私は——お前と一緒に、全員を守る」
「ああ」
奈々を抱き直した。
この腕の中の少女を——必ず、終ノ塔に連れて帰る。
それが——今の、俺の全てだ。
◇
闇の中へ——踏み出した。
守ると決めた者が、また増えた。
前世で守れなかった分まで、今度こそ——
胸の奥で、覚悟が静かに燃え上がった。
決死の帰還行が——始まった。
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(第16話 終)
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