第15話「暗き塔」
◇
闇の奥に、それは聳えていた。
大斜面の底を半日ほど進んだ先——周囲の岩より明らかに高く、天を突くように立つ黒い構造物。輪郭は歪み、至る所に亀裂が走っている。崩れかけた塔。
足が止まった。
茜が隣で息を呑んだ。
「暗き塔だ」
いつもの棘がない。代わりに、声の奥底に潜む緊張。
「あたしの長老が言ってた。灯ノ塔へ行くには、必ずこいつを越えなきゃいけない——って」
塔の足元から、低い唸りが響いていた。
風じゃない。
生き物の声だ。
◇
塔の麓に近づくにつれ、空気が変わった。
腐った肉と、焦げた骨の臭い。鼻腔を刺す刺激臭が、息をするたびに喉を焼く。
「怪物の巣か」
椿の声が低い。
「そうだ」
茜が顎をしゃくった。
「あの塔には、怪物が棲みついてる。視るものじゃない——もっと直接的な、狩る側の化け物だ」
老兵が杖代わりの槍を握り直した。
「迂回できないのか」
「できない」
茜が首を振る。
「この先は断崖だ。崖沿いに行けば三日以上かかる。灯ノ塔の地脈が——持たない」
奈々。
声が途絶えてから、どれくらい経った。繋がりだけが、糸のように細く胸の奥で脈打っている。
まだ生きている。
時間がない。
腹の底が冷えた。膝が笑いそうになる。
——それでも。
「突破する」
声を張った。
「塔の中を抜けて、向こう側に出る」
◇
椿が隣に並んだ。
「作戦は」
「茜が先導。俺が前衛で怪物を斬る。椿は後衛で、老兵と女を守れ」
椿の目が細まった。
「お前一人で前を任せろと」
「他に手がない」
右手を見た。掌の奥で、脈打つ熱が確かにある。地脈と同じリズム。この国に——拒まれていない、あの奇妙な感覚。
「俺の刃だけが、あいつらを殺せる。だから——俺が前に出る」
椿は何かを言いかけた。
口を開いて、閉じた。
代わりに——短く頷いた。
「分かった。だが、無理をするな。倒れたら、私が引きずってでも連れ戻す」
「頼む」
茜がこちらを見た。
「……本気か」
「ああ」
「あの塔には、何匹いるか分からない。あんたの力が尽きたら、全員死ぬぞ」
「分かってる」
茜の視線が泳いだ。呆れか、諦めか。それとも——。
「……勝手にしろ」
茜が弓を手に取った。
「あたしは逃げ道を探す。どうしようもなくなったら、その道を使え」
◇
塔の入り口は、崩れかけた石門だった。
門をくぐった瞬間、肌が粟立つ。
外よりも濃い闘気。闇の中で何かが蠢く気配。見えない。確実にいる。
茜が無言で手を上げた。止まれ、の合図。
全員が足を止める。
茜の目が闇を走査している。夜の国で生き延びてきた狩人の目。
「三匹」
囁き声。
「左に二匹。右に一匹。……動くな。あいつらは音で獲物を探る」
息を殺した。
心臓がうるさい。
闇の奥で、何かが蠢いた。
低い唸り。獣というよりも、もっと歪んだ、この世のものとは思えない響き。
護符が懐で熱を帯びた。残り一つ。使えば、あと一度だけ視るものを凌げる——だが、ここで使うわけにはいかない。
茜の手が、また動いた。
ゆっくりと、左へ。
全員が、音を立てずに動く。
◇
塔の中は、予想以上に広かった。
螺旋状に上へと続く通路。崩れた石段。至る所に散らばる骨——人のものか、怪物のものか、判別できない。
茜が先導し、俺が続く。椿が最後尾で、老兵と女を守っている。
通路を進むたびに、怪物の気配が近づいた。
やつらは——確実に、こちらに気づいている。
まだ襲ってこない。
獲物が深く入り込むのを、待っている——そんな気がした。
「茜」
小声で呼んだ。
「出口は」
「もう少し先だ。塔の反対側に、抜け道がある」
「どれくらいで着く」
「普通なら——半刻。でも……」
茜の声が途切れた。
直後——闇が、動いた。
◇
最初の一匹が、右から飛び出してきた。
四足の体躯に、鱗に覆われた表皮。頭部に三対の目。その全てがこちらを見ている。口が裂けるように開き、牙が並ぶ。
人の胴体ほどある巨体が、驚くほどの速度で迫った。
「来た——!」
右手を振る。
光が閃いた。
掌から噴き出す熱が、刃を形作る。怪物の首筋を裂く感触——生き物を断つというより、闇そのものを切り裂くような手応え。
鮮血が噴いた。体が崩れる。
終わりじゃない。
「左からも来る!」
茜の声。
振り向いた。
二匹目が、すでに飛びかかっていた。
刃を横に薙ぐ。
怪物の腹を裂く。内臓が飛び散った。それでもまだ動いている——生命力が、異常だ。
とどめを刺そうとした瞬間、三匹目が背後から襲いかかった。
「真っ!」
椿の声が響いた。
振り向く暇がない。
背中に衝撃——爪が、肩甲骨を抉った。
◇
痛みで視界が白くなる。
膝が折れそうになった。
倒れたら終わりだ。
歯を食いしばって、体を回転させた。
光の刃が、三匹目の顎を貫く。
怪物が絶命する。
二匹目がまだ生きていた。半分千切れた腹を引きずりながら、こちらに這ってくる。
「終わらせる……っ!」
刃を振り下ろす。
怪物の頭蓋を両断した。
——三匹。倒した。
膝から力が抜けた。
「真!」
椿が駆け寄ってきた。
「背中……傷が……」
「大丈夫だ」
嘘だ。
背中が燃えるように熱い。血が、背骨を伝って流れている。
立てる。まだ立てる。
「行くぞ」
肩を押さえながら、立ち上がった。
「ここで止まったら、全員死ぬ」
◇
茜が先導を再開した。
歩きながら、茜が背後からこちらを見ていた。
「あんた……正気か」
「正気だ」
「嘘だな。あの傷で動ける人間はいない」
「動いてるだろ」
茜は黙った。
ただ——足早に前を進み始めた。
出口を、急いでいる。
背中の傷が、呼吸のたびに悲鳴を上げる。脇腹の古傷も、また疼き始めている。体の限界が、近づいているのが分かる。
止まれない。
奈々が、待っている。
◇
塔の中腹で、再び怪物が現れた。
今度は、五匹。
「多い……!」
椿が武器を構えた。
「私も前に出る」
「駄目だ。お前の武器じゃ、あいつらは殺せない」
「足止めくらいはできる!」
言い返す暇がなかった。
五匹が、一斉に襲いかかってきた。
最初の一匹を斬った。
二匹目の牙を避けた。
三匹目の爪が、腕を掠めた。
四匹目が——老兵に向かって飛ぶ。
「じいさん!」
体を割り込ませた。
怪物の体当たりを、真正面から受け止める。衝撃で体が吹き飛ばされた。背中が壁に叩きつけられる。
息ができない。
刃は、怪物の首を貫いていた。
四匹目が倒れた。
残り一匹。
五匹目が、椿に向かって牙を剥いた。
「椿っ——!」
声を上げた瞬間——矢が飛んだ。
茜の矢だった。
矢は怪物の目を貫き、動きを止めた。
その隙に、走った。
刃を振り上げる。
怪物の頭蓋を、縦に両断する。
◇
五匹が倒れた。
その場に膝をついた。
「真!」
椿と茜が、同時に駆け寄る。
「……大丈夫」
息を整える。
視界が揺れている。背中の傷と、体当たりの衝撃で、意識が飛びそうだった。
茜がしゃがみ込んだ。
「一人で前に出すぎだ」
「他に……手がなかっただろ」
「だからって——」
茜の言葉が途切れる。
何かを言いかけて——飲み込んだ。
代わりに、茜の指がこちらの腕を掴んだ。
「立て。出口は、もうすぐだ」
その指が、強張っていた。
◇
茜に支えられながら、歩いた。
椿が反対側の肩を支える。老兵と女が、後ろを固めている。
三人の連携が——いつの間にか、一つになっていた。
茜が道を切り開く。椿が背中を守る。俺が、怪物を斬る。
誰かが欠けたら、全員が死ぬ。
そんな綱渡りの連携が——不思議と、しっくりきた。
「あと少しだ」
茜の声が聞こえた。
「あの角を曲がれば、出口がある」
角を曲がる。
光が——見えた。
塔の反対側に開いた、崩れた出口。その向こうに、夜の国の闇が広がっている。
「出られる……!」
駆け出そうとした——その瞬間。
背後で、地鳴りが響いた。
◇
振り向いた。
闇の奥から、何かが這い出してくる。
さっきまでの怪物とは——桁が違う。
体長は、人の三倍以上あった。八本の足が、石の床を削りながら這う。胴体は節くれ立った甲殻に覆われ、頭部には——人の顔に似た何かがある。
喉が引き攣った。
茜が息を呑む。
「……巣の主だ」
巣の主。
塔に棲む怪物たちを統べる、頂点の存在。
それが——こちらに向かって、ゆっくりと這ってくる。
「逃げろ」
声が出た。
「俺が抑える。お前たちは、先に出口を——」
「馬鹿言うな」
茜の声が、鋭く遮った。
「あんた一人で、あれを抑えられるわけがない」
「でも——」
「でもじゃない」
茜が弓を構えた。
「あたしが目を潰す。椿が足を止める。あんたが——急所を斬れ」
椿が頷く。
「三人で、やる」
◇
巣の主が、咆哮を上げた。
空気が震える。石壁に亀裂が走った。
同時に——三人が動いた。
茜の矢が、巣の主の顔面に吸い込まれた。三本立て続けに。人に似た顔が歪み、目が潰れた。
「今だ!」
椿が飛び出した。
武器を振るい、巣の主の前足を斬りつける。夜の国の怪物を殺せない刃でも——足止めには、なる。
巣の主が椿に向かって爪を振るった。
椿が転がって避ける。
その隙に——走った。
背中の傷が悲鳴を上げる。折れかけた肋が呼吸のたびに刺す。
関係ない。
右手に光を集中させた。
今まで以上の熱が、掌から溢れ出す。
刃が——巨大に、眩しく膨れ上がった。
不思議な感覚があった。この闘気が、俺を拒んでいない。むしろ——呼応している。
「死ね……っ!」
巣の主の甲殻の隙間——節と節の継ぎ目に、刃を突き立てた。
そのまま——横に薙ぐ。
甲殻が裂けた。
巣の主が痙攣する。八本の足がでたらめに暴れた。
飛び退いた。
巣の主が——崩れ落ちた。
動かなくなった。
◇
三人が、肩で息をしながら立っていた。
老兵と女が、出口の近くで座り込んでいる。無事だった。
「……勝った」
茜が呟いた。
「勝ったぞ」
椿が、剣を鞘に収めた。
「三人の連携がなければ、不可能だった」
その通りだった。
茜が目を潰さなければ、接近できなかった。椿が足を止めなければ、斬れなかった。俺が斬らなければ、殺せなかった。
三人のうち、誰が欠けても——負けていた。
「行こう」
声を絞り出した。
「出口の向こうに、灯ノ塔がある」
◇
塔を抜けた先は、平坦な岩場だった。
怪物の気配はない。暗き塔を越えたことで、領域を出たらしい。
老兵が、岩に腰を下ろした。
「……すまんな。足手まといになった」
「そんなことはない」
首を振った。
「あんたたちがいたから、背後を気にせずに戦えた」
老兵は視線を逸らした。ただ、中年の女の手を握っている。
椿が周囲を見回した。
「野営できそうな場所を探す。全員、限界だ」
「ああ」
頷いた。
正直——もう立っているのがやっとだった。
◇
野営地は、岩の窪みを利用した簡素なものだった。
火は焚けない。怪物を呼び寄せるからだ。
代わりに、地脈から滲む微かな熱が、夜の冷気を和らげていた。
老兵と女は、すぐに眠りに落ちた。限界を超えた疲労が、意識を奪っていた。
椿も、岩に背を預けて目を閉じている。
起きているのは——俺と、茜だけだった。
◇
茜が、無言で隣に座った。
背中の傷に、布を当ててくれる。茜の集団が使っていたという、止血用の薬草が塗られていた。じんわりと痺れるような感覚が傷口に広がり、痛みが少しだけ遠ざかる。
「じっとしてろ」
茜の指が、傷の周りを拭う。
「動くと、また開く」
「……ありがとう」
「礼は要らない」
茜の声は、いつもより低かった。
その手が——傷の上で、少しだけ止まった。
「……馬鹿みたいだ」
「何が」
「あんたが」
茜の目が、こちらを見ていた。
「一人で前に出て。一人で全部背負って。死にかけて——それでも、まだ立とうとしてる」
言葉を探した。
「なんで」
茜の声が掠れる。
「なんで、そんなことができるんだ」
◇
茜の目が、いつもと違っていた。
警戒の色がない。壁がない。
剥き出しの、素の目。
「……分からない」
正直に答えた。
「ただ——止まったら、全部終わる気がして」
「全部って」
「奈々のこと。椿のこと。……お前のことも」
茜の瞳孔が開いた。
「あたしの——」
「お前たちを——この闇の中に、置いていけない」
言葉が、勝手に出ていた。
「だから——止まれない」
茜はしばらく黙っていた。
それから——小さく、息を吐いた。
「……やっぱり、馬鹿だ」
◇
茜の指が、背中から離れた。
代わりに——隣に座り直した。肩が触れる。
「あたしは」
茜が、前を見たまま言った。
「仲間を、見捨てた」
唇が動いたが、言葉にならなかった。
茜が話し始めるのを、待った。
「沈黙の館が——光を出した時。あたしは、偵察に出てた。戻ったら、全員がいなくなってた」
知っている話だった。
茜がS2で全てを吐露した、その後の続き。
「あの話は——した」
茜の声が、低く続いた。
「でも、言えなかったことがある」
「言えなかったこと」
「今日——あの巣の主を見た時」
茜の顎が引き結ばれた。
「あたしは——また逃げそうになった」
息を呑んだ。
「足が動かなくなりそうだった。あの時と同じだ。光が見えて、集団が消えて、あたしだけが——」
声が途切れた。
「でも」
茜が、こちらを見た。
「あんたが前に出た」
その目が、揺れていた。
「あんたが前に出たから——あたしも、弓を構えられた」
◇
茜の体が、微かに震えていた。
何年も抱えてきたものが、今、形を変えて零れ落ちている。
「あたしは——逃げたんだ」
茜の声は、消え入りそうだった。
「仲間を置いて。助けに行くこともできないまま。——あの日から、あたしは一人で生きてきた」
茜の顔を見た。
涙は、出ていなかった。
目の奥に、ずっと抱えてきた痛みが見える。
「だから」
茜が、こちらを見た。
「あんたが——分からない」
首を傾げた。
「仲間を守るために、自分を削って前に出るなんて。あたしには——できなかった」
茜の唇が噛み締められていた。
「できなかったのに——あんたは、できてる。それが——」
言葉が途切れた。
◇
何を言うべきか、分からなかった。
茜の痛みを——軽々しく否定したくなかった。
「俺も」
言葉を探しながら、口を開いた。
「逃げたことがある」
茜が、視線を向けた。
「前世で。誰かを守れないまま——死んだ」
記憶が蘇る。死の瞬間の、途切れそうな意識。握ろうとして、握れなかった手。
「だから——今度こそ、って思ってる。でも……それは、強さじゃない」
茜の目を見た。
「怖いから、前に出てるだけだ。また守れなかったら——って思うのが、怖いから」
茜は応えなかった。
ただ——見つめていた。
「だからお前の気持ちは、分かる」
続けた。
「逃げた痛みも。動けなかった後悔も。……同じだ」
◇
茜の体が、ゆっくりと傾いた。
肩が——俺の腕に触れた。もたれかかるように。
「……分からない」
茜の声が、耳元で聞こえた。
「あんたといると——全部、分からなくなる」
「何が」
「今まで信じてきたこと。一人でいれば、もう失わなくて済むって。誰かを大事にしたら、また痛いだけだって」
茜の指が、俺の袖を掴んだ。
「でも——」
声が、掠れた。
「あんたを見てると——それが、嘘みたいに思えてくんだ」
◇
茜の体温が、腕に伝わってきた。
細い体。その中に強い芯がある。夜の国で生き延びてきた、狩人の体。
「茜」
名前を呼んだ。
茜が、顔を上げた。
近かった。
吐息が、触れる距離。
茜の目が、揺れていた。警戒と——別の何かが、入り混じっている。
「なんで」
茜が呟いた。
「なんであんたは——あたしを、見捨てないんだ」
「見捨てる理由がない」
答えた。
「お前は、俺たちを導いてくれた。お前がいなかったら、ここまで来れなかった」
「そんなの——」
「本当のことだ」
茜の顔を見た。
「お前は、逃げたんじゃない。生き延びたんだ」
茜の表情が凍った。
◇
茜の唇が、微かに開いた。
何かを言おうとして——言葉にならなかった。
代わりに——茜の手が、俺の頬に触れた。
冷たかった。指が強張っている。
「……あんた、ほんとに」
茜の声は、掠れていた。
「世話の焼ける奴だな」
なじる響きは、どこにもなかった。
茜の顔が、近づいた。
唇が——触れた。
◇
茜の唇は、冷たかった。
すぐに熱くなる。
舌が、唇をなぞった。息が絡む。
茜の体が、俺の腕の中に入り込んできた。細い体。どこか必死で——縋りつくような熱がある。
唇が離れた。
茜の目が、潤んでいた。
「……分かんない」
茜が呟く。
「あんたのこと。あたしのこと。何も、分かんない」
「俺も」
答えた。
「分からない。……でも」
茜の顔を見た。
「お前が、ここにいることは分かる」
茜の体が強張った。
また——唇が重なった。
◇
どれくらい、そうしていたか分からない。
気づいた時には、茜の体が俺の上にあった。
茜の指が、俺の服の裾を掴んでいた。引き上げようとしている。
——が、指が止まった。
茜が身を離そうとした。
「……やっぱり、ダメだ」
「茜」
「あたしなんかが——」
その手が、離れなかった。
離そうとしているのに——指が、服を掴んだまま離れない。
「……いいのか」
聞いた。
茜の目が、こちらを見た。
恐れと——渇望が、混ざった目。
「分かんない」
茜が言った。
「分かんないけど——今、ここで。あんたに触れてないと——壊れそうなんだ」
その声が、胸を貫いた。
茜の体を——抱き寄せた。
◇
茜の肌が、腕に触れた。
岩陰で、二人の影が重なった。
茜の息が、荒くなっていく。俺の息も。
互いの体温が、溶け合うように混ざっていく。
茜の髪が、頬を撫でた。短く切った髪から、土と汗の匂いがする。
——それが、妙に安心した。
生きている匂い。
死の世界を歩いてきた、生の匂い。
背中の傷が痛む。茜の薬草が効いて、少しずつ遠ざかっている。それよりも、茜の体温の方が強かった。
茜の体が、俺の上で揺れた。
服が——ずれた。
肩から、鎖骨のラインが露わになった。
「……見るな」
茜が言った。
顔を背ける。
——が、目は逸れない。
「見るなって——」
声が裏返った。
その声が——答えだった。
◇
茜の唇が、首筋に触れた。
歯が、軽く肌を噛む。
痺れるような感覚が、背筋を走った。
同時に——茜の体が、より深く重なった。
肌と肌が、直接触れ合う。
茜の心臓の音が、胸を通じて伝わってくる。速い。俺と同じくらい。
「あたしは——」
茜が呟いた。耳元で。
「ずっと、一人だったんだ」
知っていた。
「誰かに触れるなんて——久しぶりで」
茜の声が裏返る。
「怖くて——」
それ以上は、続かなかった。
代わりに——茜の体が、強く抱きついてきた。
強張っていた。
怖くて。離れたくない。
その気持ちが、痛いほど伝わった。
◇
茜を抱き締めた。
傷ついた背中が痛む。胸の奥で骨が鳴る。
——それよりも、茜の体温の方が強かった。
「大丈夫だ」
囁いた。
「俺は——ここにいる」
茜の体が、一瞬固まった。
それから——ゆっくりと、力が抜けた。
茜の顔が、俺の胸に埋まった。
小さな嗚咽が、漏れた。
泣いている。
今まで、誰の前でも見せなかった涙を——今、こぼしている。
◇
どれくらい、そうしていたか分からない。
茜の嗚咽が収まった頃——茜の指が、また動いた。
今度は——迷いがなかった。
服が、するりと滑り落ちた。
茜の肩が、微かな光の中で浮かび上がった。
傷だらけの肌。夜の国で生き延びてきた証。
——痛々しくて。美しかった。
茜の目が、こちらを見た。
「……嫌じゃないのか」
聞いた。
首を振った。
「嫌なわけがない」
茜の唇が、微かに——緩んだ。
笑顔を見たのは、初めてだった。
◇
二人の影が、岩陰で一つになった。
茜の息が、俺の息と重なる。
互いの体が、互いを求め合った。
言葉はなかった。
触れ合うことで、伝えていた。
生きている。
ここに、生きている。
死の世界を歩いてきて——それでも、まだ生きている。
その実感が——二人の間で、静かに燃えていた。
茜の腕が、俺の首に回った。
肌と肌が、限界まで近づいた。
灯りが——消えた。
◇
朝が——来ていた。
夜の国に朝はない。——が、微かに、空気が変わっていた。
地脈の光が、少しだけ明るくなっている。
人工の薄明。
目を開けると——茜が、隣で眠っていた。
服は、まだ乱れたままだった。
茜の寝顔は——今まで見たことがないほど、穏やかだった。
警戒の色がない。壁がない。
ただ——安らかに、眠っている。
◇
茜の目が、ゆっくりと開いた。
こちらを見て——一瞬、肩がびくりと跳ねた。
昨夜のことを、思い出したのだろう。
茜の頬が、赤くなった。
「……見るな」
そっぽを向いた。
「見てない」
「嘘だ。今、見てた」
「見てない」
茜がこちらを睨んだ。
——が、その目に、いつもの棘はなかった。
「……物好きが」
小さく呟いて——茜は服を直し始めた。
◇
起き上がると、背中の傷が痛んだ。
——が、昨日よりは、ましだった。茜の薬草が、効いているらしい。
椿が、少し離れた場所で起きていた。
こちらを見て——視線だけで返した。
微かに目を逸らす。
何かを——察したのかもしれない。
「出発しよう」
口を開いた。
「灯ノ塔は、もうすぐだ」
◇
五人が、歩き始めた。
老兵と女は、休息で少し回復していた。まだ疲労は残っている——が、歩ける。
茜が先導した。
俺が続き、椿が後衛。
暗き塔を抜けた先の道は、想像より平坦だった。
怪物の気配も、薄くなっている。
——が、何かがおかしい。
前方に見える空気が、微かに濁っている。
茜が足を止めた。
◇
「見えた」
茜の声が、低かった。
前を見た。
薄明の向こうに——何かが、見えた。
滅びかけた、小さな構造物。
傾いた壁。崩れた塔。
——傾きすぎている。
胸が締めつけられた。
その中心に、微かな光が灯っていた。
地脈の残り火。
——が、弱い。あまりにも弱い。今にも消えそうだ。
「灯ノ塔だ」
声が、喉から絞り出された。
椿が隣に並んだ。
「塔が……傾いている」
「ああ」
茜が顎を引いた。
「もう——持たないかもしれない」
その言葉が、胸を刺した。
奈々。
繋がりが——かすかに脈打っている。まだ生きている。
——が、残された時間は、思っていたよりずっと短い。
「急ごう」
椿が言った。
「ここまで来て——間に合わなかったら、意味がない」
茜が頷く。
「走れるか」
「走る」
答えた。
◇
足が、勝手に動いた。
走り出していた。
背中が痛む。脇腹の古傷が疼いた。
関係なかった。
塔が傾いている。地脈が消えかけている。
——あの中に、奈々がいる。
奈々。
待ってろ。
今——行く。
────────────────────────────────────────
(第15話 終)
────────────────────────────────────────




