表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/26

第15話「暗き塔」



 闇の奥に、それは聳えていた。


 大斜面の底を半日ほど進んだ先——周囲の岩より明らかに高く、天を突くように立つ黒い構造物。輪郭は歪み、至る所に亀裂が走っている。崩れかけた塔。


 足が止まった。


 茜が隣で息を呑んだ。


「暗き塔だ」


 いつもの棘がない。代わりに、声の奥底に潜む緊張。


「あたしの長老が言ってた。灯ノ塔へ行くには、必ずこいつを越えなきゃいけない——って」


 塔の足元から、低い唸りが響いていた。


 風じゃない。


 生き物の声だ。



            ◇



 塔の麓に近づくにつれ、空気が変わった。


 腐った肉と、焦げた骨の臭い。鼻腔を刺す刺激臭が、息をするたびに喉を焼く。


「怪物の巣か」


 椿の声が低い。


「そうだ」


 茜が顎をしゃくった。


「あの塔には、怪物が棲みついてる。視るものじゃない——もっと直接的な、狩る側の化け物だ」


 老兵が杖代わりの槍を握り直した。


「迂回できないのか」


「できない」


 茜が首を振る。


「この先は断崖だ。崖沿いに行けば三日以上かかる。灯ノ塔の地脈が——持たない」


 奈々。


 声が途絶えてから、どれくらい経った。繋がりだけが、糸のように細く胸の奥で脈打っている。


 まだ生きている。


 時間がない。


 腹の底が冷えた。膝が笑いそうになる。


 ——それでも。


「突破する」


 声を張った。


「塔の中を抜けて、向こう側に出る」



            ◇



 椿が隣に並んだ。


「作戦は」


「茜が先導。俺が前衛で怪物を斬る。椿は後衛で、老兵と女を守れ」


 椿の目が細まった。


「お前一人で前を任せろと」


「他に手がない」


 右手を見た。掌の奥で、脈打つ熱が確かにある。地脈と同じリズム。この国に——拒まれていない、あの奇妙な感覚。


「俺の刃だけが、あいつらを殺せる。だから——俺が前に出る」


 椿は何かを言いかけた。


 口を開いて、閉じた。


 代わりに——短く頷いた。


「分かった。だが、無理をするな。倒れたら、私が引きずってでも連れ戻す」


「頼む」


 茜がこちらを見た。


「……本気か」


「ああ」


「あの塔には、何匹いるか分からない。あんたの力が尽きたら、全員死ぬぞ」


「分かってる」


 茜の視線が泳いだ。呆れか、諦めか。それとも——。


「……勝手にしろ」


 茜が弓を手に取った。


「あたしは逃げ道を探す。どうしようもなくなったら、その道を使え」



            ◇



 塔の入り口は、崩れかけた石門だった。


 門をくぐった瞬間、肌が粟立つ。


 外よりも濃い闘気。闇の中で何かが蠢く気配。見えない。確実にいる。


 茜が無言で手を上げた。止まれ、の合図。


 全員が足を止める。


 茜の目が闇を走査している。夜の国で生き延びてきた狩人の目。


「三匹」


 囁き声。


「左に二匹。右に一匹。……動くな。あいつらは音で獲物を探る」


 息を殺した。


 心臓がうるさい。


 闇の奥で、何かが蠢いた。


 低い唸り。獣というよりも、もっと歪んだ、この世のものとは思えない響き。


 護符が懐で熱を帯びた。残り一つ。使えば、あと一度だけ視るものを凌げる——だが、ここで使うわけにはいかない。


 茜の手が、また動いた。


 ゆっくりと、左へ。


 全員が、音を立てずに動く。



            ◇



 塔の中は、予想以上に広かった。


 螺旋状に上へと続く通路。崩れた石段。至る所に散らばる骨——人のものか、怪物のものか、判別できない。


 茜が先導し、俺が続く。椿が最後尾で、老兵と女を守っている。


 通路を進むたびに、怪物の気配が近づいた。


 やつらは——確実に、こちらに気づいている。


 まだ襲ってこない。


 獲物が深く入り込むのを、待っている——そんな気がした。


「茜」


 小声で呼んだ。


「出口は」


「もう少し先だ。塔の反対側に、抜け道がある」


「どれくらいで着く」


「普通なら——半刻。でも……」


 茜の声が途切れた。


 直後——闇が、動いた。



            ◇



 最初の一匹が、右から飛び出してきた。


 四足の体躯に、鱗に覆われた表皮。頭部に三対の目。その全てがこちらを見ている。口が裂けるように開き、牙が並ぶ。


 人の胴体ほどある巨体が、驚くほどの速度で迫った。


「来た——!」


 右手を振る。


 光が閃いた。


 掌から噴き出す熱が、刃を形作る。怪物の首筋を裂く感触——生き物を断つというより、闇そのものを切り裂くような手応え。


 鮮血が噴いた。体が崩れる。


 終わりじゃない。


「左からも来る!」


 茜の声。


 振り向いた。


 二匹目が、すでに飛びかかっていた。


 刃を横に薙ぐ。


 怪物の腹を裂く。内臓が飛び散った。それでもまだ動いている——生命力が、異常だ。


 とどめを刺そうとした瞬間、三匹目が背後から襲いかかった。


「真っ!」


 椿の声が響いた。


 振り向く暇がない。


 背中に衝撃——爪が、肩甲骨を抉った。



            ◇



 痛みで視界が白くなる。


 膝が折れそうになった。


 倒れたら終わりだ。


 歯を食いしばって、体を回転させた。


 光の刃が、三匹目の顎を貫く。


 怪物が絶命する。


 二匹目がまだ生きていた。半分千切れた腹を引きずりながら、こちらに這ってくる。


「終わらせる……っ!」


 刃を振り下ろす。


 怪物の頭蓋を両断した。


 ——三匹。倒した。


 膝から力が抜けた。


「真!」


 椿が駆け寄ってきた。


「背中……傷が……」


「大丈夫だ」


 嘘だ。


 背中が燃えるように熱い。血が、背骨を伝って流れている。


 立てる。まだ立てる。


「行くぞ」


 肩を押さえながら、立ち上がった。


「ここで止まったら、全員死ぬ」



            ◇



 茜が先導を再開した。


 歩きながら、茜が背後からこちらを見ていた。


「あんた……正気か」


「正気だ」


「嘘だな。あの傷で動ける人間はいない」


「動いてるだろ」


 茜は黙った。


 ただ——足早に前を進み始めた。


 出口を、急いでいる。


 背中の傷が、呼吸のたびに悲鳴を上げる。脇腹の古傷も、また疼き始めている。体の限界が、近づいているのが分かる。


 止まれない。


 奈々が、待っている。



            ◇



 塔の中腹で、再び怪物が現れた。


 今度は、五匹。


「多い……!」


 椿が武器を構えた。


「私も前に出る」


「駄目だ。お前の武器じゃ、あいつらは殺せない」


「足止めくらいはできる!」


 言い返す暇がなかった。


 五匹が、一斉に襲いかかってきた。


 最初の一匹を斬った。


 二匹目の牙を避けた。


 三匹目の爪が、腕を掠めた。


 四匹目が——老兵に向かって飛ぶ。


「じいさん!」


 体を割り込ませた。


 怪物の体当たりを、真正面から受け止める。衝撃で体が吹き飛ばされた。背中が壁に叩きつけられる。


 息ができない。


 刃は、怪物の首を貫いていた。


 四匹目が倒れた。


 残り一匹。


 五匹目が、椿に向かって牙を剥いた。


「椿っ——!」


 声を上げた瞬間——矢が飛んだ。


 茜の矢だった。


 矢は怪物の目を貫き、動きを止めた。


 その隙に、走った。


 刃を振り上げる。


 怪物の頭蓋を、縦に両断する。



            ◇



 五匹が倒れた。


 その場に膝をついた。


「真!」


 椿と茜が、同時に駆け寄る。


「……大丈夫」


 息を整える。


 視界が揺れている。背中の傷と、体当たりの衝撃で、意識が飛びそうだった。


 茜がしゃがみ込んだ。


「一人で前に出すぎだ」


「他に……手がなかっただろ」


「だからって——」


 茜の言葉が途切れる。


 何かを言いかけて——飲み込んだ。


 代わりに、茜の指がこちらの腕を掴んだ。


「立て。出口は、もうすぐだ」


 その指が、強張っていた。



            ◇



 茜に支えられながら、歩いた。


 椿が反対側の肩を支える。老兵と女が、後ろを固めている。


 三人の連携が——いつの間にか、一つになっていた。


 茜が道を切り開く。椿が背中を守る。俺が、怪物を斬る。


 誰かが欠けたら、全員が死ぬ。


 そんな綱渡りの連携が——不思議と、しっくりきた。


「あと少しだ」


 茜の声が聞こえた。


「あの角を曲がれば、出口がある」


 角を曲がる。


 光が——見えた。


 塔の反対側に開いた、崩れた出口。その向こうに、夜の国の闇が広がっている。


「出られる……!」


 駆け出そうとした——その瞬間。


 背後で、地鳴りが響いた。



            ◇



 振り向いた。


 闇の奥から、何かが這い出してくる。


 さっきまでの怪物とは——桁が違う。


 体長は、人の三倍以上あった。八本の足が、石の床を削りながら這う。胴体は節くれ立った甲殻に覆われ、頭部には——人の顔に似た何かがある。


 喉が引き攣った。


 茜が息を呑む。


「……巣の主だ」


 巣の主。


 塔に棲む怪物たちを統べる、頂点の存在。


 それが——こちらに向かって、ゆっくりと這ってくる。


「逃げろ」


 声が出た。


「俺が抑える。お前たちは、先に出口を——」


「馬鹿言うな」


 茜の声が、鋭く遮った。


「あんた一人で、あれを抑えられるわけがない」


「でも——」


「でもじゃない」


 茜が弓を構えた。


「あたしが目を潰す。椿が足を止める。あんたが——急所を斬れ」


 椿が頷く。


「三人で、やる」



            ◇



 巣の主が、咆哮を上げた。


 空気が震える。石壁に亀裂が走った。


 同時に——三人が動いた。


 茜の矢が、巣の主の顔面に吸い込まれた。三本立て続けに。人に似た顔が歪み、目が潰れた。


「今だ!」


 椿が飛び出した。


 武器を振るい、巣の主の前足を斬りつける。夜の国の怪物を殺せない刃でも——足止めには、なる。


 巣の主が椿に向かって爪を振るった。


 椿が転がって避ける。


 その隙に——走った。


 背中の傷が悲鳴を上げる。折れかけた肋が呼吸のたびに刺す。


 関係ない。


 右手に光を集中させた。


 今まで以上の熱が、掌から溢れ出す。


 刃が——巨大に、眩しく膨れ上がった。


 不思議な感覚があった。この闘気が、俺を拒んでいない。むしろ——呼応している。


「死ね……っ!」


 巣の主の甲殻の隙間——節と節の継ぎ目に、刃を突き立てた。


 そのまま——横に薙ぐ。


 甲殻が裂けた。


 巣の主が痙攣する。八本の足がでたらめに暴れた。


 飛び退いた。


 巣の主が——崩れ落ちた。


 動かなくなった。



            ◇



 三人が、肩で息をしながら立っていた。


 老兵と女が、出口の近くで座り込んでいる。無事だった。


「……勝った」


 茜が呟いた。


「勝ったぞ」


 椿が、剣を鞘に収めた。


「三人の連携がなければ、不可能だった」


 その通りだった。


 茜が目を潰さなければ、接近できなかった。椿が足を止めなければ、斬れなかった。俺が斬らなければ、殺せなかった。


 三人のうち、誰が欠けても——負けていた。


「行こう」


 声を絞り出した。


「出口の向こうに、灯ノ塔がある」



            ◇



 塔を抜けた先は、平坦な岩場だった。


 怪物の気配はない。暗き塔を越えたことで、領域を出たらしい。


 老兵が、岩に腰を下ろした。


「……すまんな。足手まといになった」


「そんなことはない」


 首を振った。


「あんたたちがいたから、背後を気にせずに戦えた」


 老兵は視線を逸らした。ただ、中年の女の手を握っている。


 椿が周囲を見回した。


「野営できそうな場所を探す。全員、限界だ」


「ああ」


 頷いた。


 正直——もう立っているのがやっとだった。



            ◇



 野営地は、岩の窪みを利用した簡素なものだった。


 火は焚けない。怪物を呼び寄せるからだ。


 代わりに、地脈から滲む微かな熱が、夜の冷気を和らげていた。


 老兵と女は、すぐに眠りに落ちた。限界を超えた疲労が、意識を奪っていた。


 椿も、岩に背を預けて目を閉じている。


 起きているのは——俺と、茜だけだった。



            ◇



 茜が、無言で隣に座った。


 背中の傷に、布を当ててくれる。茜の集団が使っていたという、止血用の薬草が塗られていた。じんわりと痺れるような感覚が傷口に広がり、痛みが少しだけ遠ざかる。


「じっとしてろ」


 茜の指が、傷の周りを拭う。


「動くと、また開く」


「……ありがとう」


「礼は要らない」


 茜の声は、いつもより低かった。


 その手が——傷の上で、少しだけ止まった。


「……馬鹿みたいだ」


「何が」


「あんたが」


 茜の目が、こちらを見ていた。


「一人で前に出て。一人で全部背負って。死にかけて——それでも、まだ立とうとしてる」


 言葉を探した。


「なんで」


 茜の声が掠れる。


「なんで、そんなことができるんだ」



            ◇



 茜の目が、いつもと違っていた。


 警戒の色がない。壁がない。


 剥き出しの、素の目。


「……分からない」


 正直に答えた。


「ただ——止まったら、全部終わる気がして」


「全部って」


「奈々のこと。椿のこと。……お前のことも」


 茜の瞳孔が開いた。


「あたしの——」


「お前たちを——この闇の中に、置いていけない」


 言葉が、勝手に出ていた。


「だから——止まれない」


 茜はしばらく黙っていた。


 それから——小さく、息を吐いた。


「……やっぱり、馬鹿だ」



            ◇



 茜の指が、背中から離れた。


 代わりに——隣に座り直した。肩が触れる。


「あたしは」


 茜が、前を見たまま言った。


「仲間を、見捨てた」


 唇が動いたが、言葉にならなかった。


 茜が話し始めるのを、待った。


「沈黙の館が——光を出した時。あたしは、偵察に出てた。戻ったら、全員がいなくなってた」


 知っている話だった。


 茜がS2で全てを吐露した、その後の続き。


「あの話は——した」


 茜の声が、低く続いた。


「でも、言えなかったことがある」


「言えなかったこと」


「今日——あの巣の主を見た時」


 茜の顎が引き結ばれた。


「あたしは——また逃げそうになった」


 息を呑んだ。


「足が動かなくなりそうだった。あの時と同じだ。光が見えて、集団が消えて、あたしだけが——」


 声が途切れた。


「でも」


 茜が、こちらを見た。


「あんたが前に出た」


 その目が、揺れていた。


「あんたが前に出たから——あたしも、弓を構えられた」



            ◇



 茜の体が、微かに震えていた。


 何年も抱えてきたものが、今、形を変えて零れ落ちている。


「あたしは——逃げたんだ」


 茜の声は、消え入りそうだった。


「仲間を置いて。助けに行くこともできないまま。——あの日から、あたしは一人で生きてきた」


 茜の顔を見た。


 涙は、出ていなかった。


 目の奥に、ずっと抱えてきた痛みが見える。


「だから」


 茜が、こちらを見た。


「あんたが——分からない」


 首を傾げた。


「仲間を守るために、自分を削って前に出るなんて。あたしには——できなかった」


 茜の唇が噛み締められていた。


「できなかったのに——あんたは、できてる。それが——」


 言葉が途切れた。



            ◇



 何を言うべきか、分からなかった。


 茜の痛みを——軽々しく否定したくなかった。


「俺も」


 言葉を探しながら、口を開いた。


「逃げたことがある」


 茜が、視線を向けた。


「前世で。誰かを守れないまま——死んだ」


 記憶が蘇る。死の瞬間の、途切れそうな意識。握ろうとして、握れなかった手。


「だから——今度こそ、って思ってる。でも……それは、強さじゃない」


 茜の目を見た。


「怖いから、前に出てるだけだ。また守れなかったら——って思うのが、怖いから」


 茜は応えなかった。


 ただ——見つめていた。


「だからお前の気持ちは、分かる」


 続けた。


「逃げた痛みも。動けなかった後悔も。……同じだ」



            ◇



 茜の体が、ゆっくりと傾いた。


 肩が——俺の腕に触れた。もたれかかるように。


「……分からない」


 茜の声が、耳元で聞こえた。


「あんたといると——全部、分からなくなる」


「何が」


「今まで信じてきたこと。一人でいれば、もう失わなくて済むって。誰かを大事にしたら、また痛いだけだって」


 茜の指が、俺の袖を掴んだ。


「でも——」


 声が、掠れた。


「あんたを見てると——それが、嘘みたいに思えてくんだ」



            ◇



 茜の体温が、腕に伝わってきた。


 細い体。その中に強い芯がある。夜の国で生き延びてきた、狩人の体。


「茜」


 名前を呼んだ。


 茜が、顔を上げた。


 近かった。


 吐息が、触れる距離。


 茜の目が、揺れていた。警戒と——別の何かが、入り混じっている。


「なんで」


 茜が呟いた。


「なんであんたは——あたしを、見捨てないんだ」


「見捨てる理由がない」


 答えた。


「お前は、俺たちを導いてくれた。お前がいなかったら、ここまで来れなかった」


「そんなの——」


「本当のことだ」


 茜の顔を見た。


「お前は、逃げたんじゃない。生き延びたんだ」


 茜の表情が凍った。



            ◇



 茜の唇が、微かに開いた。


 何かを言おうとして——言葉にならなかった。


 代わりに——茜の手が、俺の頬に触れた。


 冷たかった。指が強張っている。


「……あんた、ほんとに」


 茜の声は、掠れていた。


「世話の焼ける奴だな」


 なじる響きは、どこにもなかった。


 茜の顔が、近づいた。


 唇が——触れた。



            ◇



 茜の唇は、冷たかった。


 すぐに熱くなる。


 舌が、唇をなぞった。息が絡む。


 茜の体が、俺の腕の中に入り込んできた。細い体。どこか必死で——縋りつくような熱がある。


 唇が離れた。


 茜の目が、潤んでいた。


「……分かんない」


 茜が呟く。


「あんたのこと。あたしのこと。何も、分かんない」


「俺も」


 答えた。


「分からない。……でも」


 茜の顔を見た。


「お前が、ここにいることは分かる」


 茜の体が強張った。


 また——唇が重なった。



            ◇



 どれくらい、そうしていたか分からない。


 気づいた時には、茜の体が俺の上にあった。


 茜の指が、俺の服の裾を掴んでいた。引き上げようとしている。


 ——が、指が止まった。


 茜が身を離そうとした。


「……やっぱり、ダメだ」


「茜」


「あたしなんかが——」


 その手が、離れなかった。


 離そうとしているのに——指が、服を掴んだまま離れない。


「……いいのか」


 聞いた。


 茜の目が、こちらを見た。


 恐れと——渇望が、混ざった目。


「分かんない」


 茜が言った。


「分かんないけど——今、ここで。あんたに触れてないと——壊れそうなんだ」


 その声が、胸を貫いた。


 茜の体を——抱き寄せた。



            ◇



 茜の肌が、腕に触れた。


 岩陰で、二人の影が重なった。


 茜の息が、荒くなっていく。俺の息も。


 互いの体温が、溶け合うように混ざっていく。


 茜の髪が、頬を撫でた。短く切った髪から、土と汗の匂いがする。


 ——それが、妙に安心した。


 生きている匂い。


 死の世界を歩いてきた、生の匂い。


 背中の傷が痛む。茜の薬草が効いて、少しずつ遠ざかっている。それよりも、茜の体温の方が強かった。


 茜の体が、俺の上で揺れた。


 服が——ずれた。


 肩から、鎖骨のラインが露わになった。


「……見るな」


 茜が言った。


 顔を背ける。


 ——が、目は逸れない。


「見るなって——」


 声が裏返った。


 その声が——答えだった。



            ◇



 茜の唇が、首筋に触れた。


 歯が、軽く肌を噛む。


 痺れるような感覚が、背筋を走った。


 同時に——茜の体が、より深く重なった。


 肌と肌が、直接触れ合う。


 茜の心臓の音が、胸を通じて伝わってくる。速い。俺と同じくらい。


「あたしは——」


 茜が呟いた。耳元で。


「ずっと、一人だったんだ」


 知っていた。


「誰かに触れるなんて——久しぶりで」


 茜の声が裏返る。


「怖くて——」


 それ以上は、続かなかった。


 代わりに——茜の体が、強く抱きついてきた。


 強張っていた。


 怖くて。離れたくない。


 その気持ちが、痛いほど伝わった。



            ◇



 茜を抱き締めた。


 傷ついた背中が痛む。胸の奥で骨が鳴る。


 ——それよりも、茜の体温の方が強かった。


「大丈夫だ」


 囁いた。


「俺は——ここにいる」


 茜の体が、一瞬固まった。


 それから——ゆっくりと、力が抜けた。


 茜の顔が、俺の胸に埋まった。


 小さな嗚咽が、漏れた。


 泣いている。


 今まで、誰の前でも見せなかった涙を——今、こぼしている。



            ◇



 どれくらい、そうしていたか分からない。


 茜の嗚咽が収まった頃——茜の指が、また動いた。


 今度は——迷いがなかった。


 服が、するりと滑り落ちた。


 茜の肩が、微かな光の中で浮かび上がった。


 傷だらけの肌。夜の国で生き延びてきた証。


 ——痛々しくて。美しかった。


 茜の目が、こちらを見た。


「……嫌じゃないのか」


 聞いた。


 首を振った。


「嫌なわけがない」


 茜の唇が、微かに——緩んだ。


 笑顔を見たのは、初めてだった。



            ◇



 二人の影が、岩陰で一つになった。


 茜の息が、俺の息と重なる。


 互いの体が、互いを求め合った。


 言葉はなかった。


 触れ合うことで、伝えていた。


 生きている。


 ここに、生きている。


 死の世界を歩いてきて——それでも、まだ生きている。


 その実感が——二人の間で、静かに燃えていた。


 茜の腕が、俺の首に回った。


 肌と肌が、限界まで近づいた。


 灯りが——消えた。



            ◇



 朝が——来ていた。


 夜の国に朝はない。——が、微かに、空気が変わっていた。


 地脈の光が、少しだけ明るくなっている。


 人工の薄明。


 目を開けると——茜が、隣で眠っていた。


 服は、まだ乱れたままだった。


 茜の寝顔は——今まで見たことがないほど、穏やかだった。


 警戒の色がない。壁がない。


 ただ——安らかに、眠っている。



            ◇



 茜の目が、ゆっくりと開いた。


 こちらを見て——一瞬、肩がびくりと跳ねた。


 昨夜のことを、思い出したのだろう。


 茜の頬が、赤くなった。


「……見るな」


 そっぽを向いた。


「見てない」


「嘘だ。今、見てた」


「見てない」


 茜がこちらを睨んだ。


 ——が、その目に、いつもの棘はなかった。


「……物好きが」


 小さく呟いて——茜は服を直し始めた。



            ◇



 起き上がると、背中の傷が痛んだ。


 ——が、昨日よりは、ましだった。茜の薬草が、効いているらしい。


 椿が、少し離れた場所で起きていた。


 こちらを見て——視線だけで返した。


 微かに目を逸らす。


 何かを——察したのかもしれない。


「出発しよう」


 口を開いた。


「灯ノ塔は、もうすぐだ」



            ◇



 五人が、歩き始めた。


 老兵と女は、休息で少し回復していた。まだ疲労は残っている——が、歩ける。


 茜が先導した。


 俺が続き、椿が後衛。


 暗き塔を抜けた先の道は、想像より平坦だった。


 怪物の気配も、薄くなっている。


 ——が、何かがおかしい。


 前方に見える空気が、微かに濁っている。


 茜が足を止めた。



            ◇



「見えた」


 茜の声が、低かった。


 前を見た。


 薄明の向こうに——何かが、見えた。


 滅びかけた、小さな構造物。


 傾いた壁。崩れた塔。


 ——傾きすぎている。


 胸が締めつけられた。


 その中心に、微かな光が灯っていた。


 地脈の残り火。


 ——が、弱い。あまりにも弱い。今にも消えそうだ。


「灯ノ塔だ」


 声が、喉から絞り出された。


 椿が隣に並んだ。


「塔が……傾いている」


「ああ」


 茜が顎を引いた。


「もう——持たないかもしれない」


 その言葉が、胸を刺した。


 奈々。


 繋がりが——かすかに脈打っている。まだ生きている。


 ——が、残された時間は、思っていたよりずっと短い。


「急ごう」


 椿が言った。


「ここまで来て——間に合わなかったら、意味がない」


 茜が頷く。


「走れるか」


「走る」


 答えた。



            ◇



 足が、勝手に動いた。


 走り出していた。


 背中が痛む。脇腹の古傷が疼いた。


 関係なかった。


 塔が傾いている。地脈が消えかけている。


 ——あの中に、奈々がいる。


 奈々。


 待ってろ。


 今——行く。



────────────────────────────────────────

(第15話 終)

────────────────────────────────────────

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ