第14話「大斜面」
◇
夜の国の果てに、それはあった。
岩陰を出て半日ほど歩いた先——目の前に広がったのは、底の見えない巨大な斜面だった。
「なんだ、これ……」
声が勝手に漏れた。
岩肌が剥き出しになった、ほとんど垂直に近い傾斜。遥か下に、かすかに光る地脈の筋が見える。その深さを思うと、膝が震えた。
茜が隣に立った。
「大斜面だ」
いつもの素っ気なさはなかった。代わりに、静かな緊張があった。
「あたしも、ここまで来たのは初めてだ。でも——聞いたことはある。この先に行くには、これを降りるしかない」
◇
風がない。音もない。
ただ、腐った甘い匂いだけが、下から這い上がってくる。岩の粉が唇に張りつき、舌の奥にざらついた苦味が残る。
椿が横に並んだ。
「経路図には——」
「載ってない」
首を振った。
「栞から貰った地図は、百年前のものだ。あの頃は、ここまで来た記録がそもそもない」
椿の顔が僅かに曇った。
「では、どうやって降りる」
「降りるしかない。足場を探しながら」
老兵が、杖代わりの槍を地面に突いた。
「無茶だな。あの傾斜を、この足で降りろというのか」
中年の女が、黙って老兵の腕を掴んだ。支えている。二人とも、疲労で顔色が悪い。老兵の歯が、微かに食いしばられていた。
肋骨が、息をするたびに軋む。あの四腕の怪物に吹き飛ばされた傷は、まだ癒えていない。
それでも——立ち止まるわけにはいかない。
「降りるぞ」
言い切った。
「先に行く。足場を確認しながら、お前たちに伝える」
茜の視線が刺さった。
「馬鹿言え。あんたが先に行ったら、死ぬ」
「だったらどうする」
「あたしが先に行く」
茜が弓を背に回した。
「この国で生き延びてきたのは、あたしだ。岩の登り降りなら、あんたより慣れてる」
言葉を探した。
茜の目には、三日前とは違う光があった。もう、独りで生きることを選んでいない目。
「……頼む」
それだけ言った。
茜の唇が僅かに動いた。笑みではない。拒絶でもなかった。
◇
降下が始まった。
茜が先頭を行き、続く。椿がその後ろ、老兵と女が最後尾。
岩肌は、滑る。
手を伸ばして掴んだ突起が、いくつも崩れた。足を置いた棚が、体重を乗せた瞬間に砕けた。砕けた岩が下へ転がり、音が遥か遠くまで響いて、消えない。
「こっちだ」
茜の声が、上から降ってくる。
「右に二歩。そこに足場がある」
指示に従って足を動かした。
確かにあった。人の足が乗るくらいの、わずかな棚。
闇の中で、茜の目だけが、足場を捉えている。夜の国で生き延びてきた狩人の目。
それがない。
茜の声を信じて、足を動かすしかなかった。
◇
どれくらい降りただろう。
時間の感覚が、溶けていた。
腕が震える。指が痺れる。岩の粉が傷に染みて、擦り剥けた掌に血の鉄臭さが滲む。
後ろで、椿の息が荒くなっていた。
「真」
椿の声が届いた。
「大丈夫か」
「大丈夫だ」
嘘だった。
大丈夫なわけがない。落石が下へ転がっていくたびに、その音が果てしなく遠くまで響く。
この斜面の底がどこにあるのか、分からない。
落ちたら、死ぬ。
当たり前のことが、頭の中で繰り返し響いていた。
護符は残り一つ。懐の中で、微かに熱を持っているのが分かる。視るものに遭遇すれば、あと一度だけ凌げる——だが、それを使い切ったら、もう切り札はない。
茜の声が、また上から降ってきた。
「少し休める場所がある。もう少しだ」
◇
茜が見つけた場所は、岩壁に開いた窪みだった。
五人がなんとか入れる程度の、狭い空間。背中を壁につけて、足を伸ばすのがやっとだ。
老兵が、崩れるように座り込んだ。中年の女がその隣で膝を抱え、老兵の肩に手を置いた——疲労の中でも、互いを支えようとする仕草だった。
二人とも、限界に近い。
椿も、茜も、同じだった。
体力の消耗が、想像以上だった。
壁にもたれかかりながら、闇を見つめた。
奈々。
声が届かない。
灯ノ塔へ向かう旅の途中で、奈々の声は途絶えた。繋がりだけが、細い糸のように残っている。
生きている。それだけは分かる。
けれど——あとどれくらい持つのか。
「真」
椿の声が、隣から聞こえた。
「考えすぎるな」
「……ああ」
「今は、休め。体力を回復させることが、先だ」
椿の手が、腕に触れた。温かかった。
目を閉じた。
◇
眠れなかった。
目を閉じても、体が休まらない。
闇の中で、何かが蠢く気配がする。遠くで、低い振動が響いている。化け物か、それとも——。
目を開けて、窪みの外を見た。
斜面が続いている。どこまでも、どこまでも。
この国は、おかしい。
最初に夜の国へ足を踏み入れた時から、感じていた違和感が、ここに来て強くなっていた。
地形が変動する。百年前の記録が通用しない。怪物がいるだけじゃない。この世界そのものが——何か、異様だ。
右手を見た。
光の刃を生み出す手。夜の国の怪物を、唯一殺せる力。
この力が——なぜ、あるのか。
その答えが、まだ分からない。
◇
「あんた」
茜の声が、暗闇の中から聞こえた。
見ると、茜が俺の方を見ていた。窪みの入り口で、見張りをしているらしい。
「眠れないのか」
「ああ」
茜の隣に移動した。
椿と老兵と女は、浅い眠りに落ちている。
「交代するか」
「いい。あたしは、もともと眠れない」
茜の目が、斜面を見つめていた。
「この国で寝たら、死ぬ。それが、身体に染み付いてる」
何も言えなかった。
茜が生き延びてきた時間の重さが、その言葉にあった。
「なあ」
茜が、不意に言った。
「あんた、この国——おかしいと思わないか」
茜を見た。
「何が」
「地形だ」
◇
茜の指が、斜面を指した。
「この大斜面。自然にできたものじゃない」
「どういう意味だ」
「見ろ」
茜が、岩壁に手を触れた。
「岩の切り方が、真っ直ぐすぎる。崖の角度が、均一すぎる。——これは、誰かが削ったんだ」
息を呑んだ。
言われてみれば、そうだった。
自然の崖なら、もっと凸凹があるはずだ。もっと不規則に、岩が突き出ているはずだ。
だが、この大斜面は——まるで、巨大な刃で一気に削り取ったように、滑らかだった。
「でも——こんな規模の地形を、誰が」
「分からない」
茜の声は、地面を這うように低かった。
「でも、あたしはこの国で育った。この国の地形を、誰よりも見てきた。——だから、分かる。この国は、自然にできたんじゃない」
心臓が跳ねた。
「どういうことだ」
「この国は——誰かが、造ったんだ」
◇
造った。
その言葉が、頭の中で反響した。
夜の国は、誰かが造った——?
馬鹿な。こんな広大な世界を、誰が造れる。
けれど——茜の言葉には、説得力があった。
感じていたからだ。
この世界の、異様さを。
地形が動く。闇が濃すぎる。怪物がいるだけでは説明がつかない、根本的な歪み。
「それだけじゃない」
茜が続けた。
「あたしの集団が全滅した場所——沈黙の館の近くにも、同じものがあった。人工的な——痕跡が」
「痕跡」
「直線すぎる谷。均一すぎる岩壁。まるで——誰かが、この世界を設計したみたいな」
唇を噛んだ。
設計。
その言葉が、胸に刺さった。
背筋を何かが這い上がる。
知りたい。この世界の真実を。でも同時に——知ることが怖かった。答えに近づくほど、自分が何者か問われる気がして。
◇
栞が言っていた。
塔を出る前、栞が渡してくれた知識の中に、気になる記述があった。
『壁の向こうには、知ってはいけないものがある』
椿も、同じことを言っていた。幼い頃、古参の兵士から聞いたと。
そして——黙老。
あの老人は、外に行くことを止めなかった。むしろ、背中を押した。
『世界が閉じた理由も、転生の謎も、なぜお主だけが戦えるかも——沈黙の国に答えがある』
黙老は、知っているのだ。
この世界の、真実を。
探している答えが、何なのかを。
「なあ、茜」
声を絞り出した。
「お前の集団——沈黙の館に呑まれる前に、この世界について何か言ってなかったか」
茜の顎が僅かに上がった。何かを思い出すように、視線が遠くへ向いた。
「……一人だけ」
「誰だ」
「集団の長老。もう死んじまったけど——あの爺さんが、一度だけ言ってた」
茜の声が、掠れた。
「『この世界は、閉じられている。誰かが、閉じた。だから——開ける方法があるはずだ』」
◇
開ける方法。
その言葉が、脳裏で炸裂した。
この世界は、閉じられている。
壁の内側に人類が押し込められ、壁の外には怪物が蔓延る。
それが、自然の成り行きではないとしたら。
誰かが——意図的に、この世界を「閉じた」のだとしたら。
右手が熱を持った。
地脈と同じリズムで、脈打つ熱。
この力が——この世界と、何かで繋がっている感覚。
視るものの前で、唯一立っていられた理由。
夜の国に「拒まれていない」「懐かしい」と感じた、あの奇妙な感覚。
断片が、少しずつ像を結び始めていた。
けれど同時に、胸の奥が震えている。
知りたいのか。知りたくないのか。答えに辿り着いた時、今の自分でいられるのか——分からない。
◇
茜が、こちらを見た。
「あんた、何か知ってるのか」
「知らない」
正直に言った。
「でも——感じてる。この世界が、俺を拒まないことを。俺だけが、この闇の中で怪物を殺せる理由を」
茜の唇が引き結ばれた。
「それが、どういう意味か分かってるのか」
「分からない」
首を振った。
「でも——知りたい。知らなきゃいけない気がする」
そう言いながら、言葉の裏で別の声が囁いていた。
本当に知りたいのか。知った時、お前は耐えられるのか。
茜はしばらく見つめていた。
それから——小さく息を吐いた。
「あんたって奴は」
「何だ」
「分からないことに、自分から踏み込んでいく。——肝が太いのか、ただの馬鹿か」
その声には、前と違う響きがあった。
呆れと——どこか、信頼に近い何か。
◇
窪みの中で、椿が身じろぎした。
目を開けて、こちらを見た。
「何を話している」
「世界の話だ」
椿に向き直った。
「この世界は——誰かが、造ったらしい」
椿の眉が僅かに動いた。
「造った」
「大斜面の地形が、人工的すぎる。茜が気づいた」
椿は茜を見た。茜は無言で頷いた。
椿の目が斜面を見つめた。
「……確かに」
低い声だった。
「この傾斜は異様だ。自然にできたものとは思えない」
椿の手が、自分の武器に触れた。
「だが——それが本当なら。この世界を造ったのは、一体誰だ」
答えを持っていなかった。
ただ、一つだけ、分かっていることがあった。
◇
「灯ノ塔に行けば、分かるかもしれない」
言った。
「奈々のいる場所に——世界の真実がある気がする」
椿が見た。
「なぜ、そう思う」
「分からない。ただ——そう感じるんだ」
奈々の声が、途絶える前に言っていたこと。
『灯ノ塔の、地脈が……もう、ほとんど……』
地脈。
世界を守っていた力が、尽きかけている。
それが——この世界の核に、近い場所だからだとしたら。
「……根拠がない」
椿が言った。
けれど、その声に否定はなかった。
「でも——今は、それしかない」
頷いた。
「ああ。だから、行く」
茜がこちらを見た。
「……懲りない奴だ」
その言葉には、もう棘がなかった。
◇
休息を終えて、再び降下が始まった。
茜が先頭。続く。椿、老兵、女の順。
岩壁を降りるたびに、人工的な痕跡が目についた。
削り跡。直線。均一な角度。
自然の崖ではありえない、設計された地形。
誰が。
なぜ。
その問いが、頭の中で渦を巻いていた。
栞の知識。黙老の予言。茜の証言。
それらが頭の中で声のように重なり始めている。
この世界は、偶然こうなったのではない。
意図して——閉じた者がいる。
人類を壁の中に押し込め、怪物を壁の外に配置し、地脈で護りを作った。
それが、この世界の構造だとしたら。
自分は——その構造の中で、何者なのだろう。
◇
降下は、さらに続いた。
腕の感覚がなくなっていく。指が、岩を掴む力を失いつつある。
肋骨の軋みが、もう慣れた痛みとして居座っている。呼吸のたびに、体の内側で何かが軋むのを感じながら、それでも手足を動かし続けた。
護符が懐で熱を持ったまま、静かに脈打っている。残り一つ。次の視るものに遭えば、凌げるのはあと一度だけ。
止まれない。
頭上から、茜の声が落ちてきた。
「もう少しだ。底が見えてきた」
下を見た。
確かに——遥か下に、平らな地面が見えていた。
大斜面の底。
そこに降りれば、灯ノ塔への道が続いているはずだ。
「行けるか」
後ろを振り返った。
椿が頷いた。顔色は悪いが、目は生きている。
老兵と女は——限界に近かった。けれど、まだ動いている。老兵の足がぐらついた時、女の手が素早く支えた。二人で一人分の命をつなぎながら、それでも降りてくる。
茜が、最後の降下を始めた。
続いた。
◇
大斜面の底に、足がついた。
五人全員が、なんとか降り切った。
老兵が膝から崩れ落ちた。中年の女がその隣で座り込んだ。
正直、限界だった。
足が震えている。腕が上がらない。
けれど——生きている。
全員が、まだ生きている。
「少し、休もう」
言った。
「この先に何があるか分からない。体力を回復させてから、進む」
椿が頷いた。茜も無言で同意した。
斜面の底の岩陰に身を寄せた。
◇
休息の間、考え続けていた。
この世界が、造られたものだという事実。
その意味を。
栞の言葉、黙老の予言、茜の長老の言葉——それらが頭の中で断片的に交差する。
『壁の向こうには、知ってはいけないものがある』
『沈黙の国に答えがある』
『この世界は、閉じられている。だから、開ける方法があるはずだ』
同じことを指している。
誰かが、意図的に「閉じた」。
人類を守るためか。それとも、何かを封じるためか。
見当もつかない。
けれど——ここにいる意味が、その答えの中にある気がした。
右手の掌が、じわりと熱い。答えに近づくほど、この熱が強くなる気がする。
◇
「真」
椿の声が隣から聞こえた。
椿を見た。
「何を考えている」
「世界のこと」
正直に答えた。
「この世界が、誰かに造られたなら——俺がここにいる意味も、造られたのかもしれない」
椿の目が僅かに見開かれた。
「どういう意味だ」
「転生した。前世の記憶を持って、この世界に生まれた。そして、夜の国の怪物を殺せる力を持っている」
自分の右手を見た。掌の内側から、脈打つ熱を感じる。
「それが——偶然だと思うか」
椿はしばらく黙っていた。
それから——手に、自分の手を重ねた。
「分からない」
椿の声は静かだった。
「でも——偶然であろうとなかろうと、お前がここにいることは、事実だ」
「ああ」
「そして、私がお前の隣にいることも、事実だ」
椿の目が、こちらを見た。
凛々しく、まっすぐな目。
「答えは——灯ノ塔で見つければいい。今は、進むことだけを考えろ」
目元だけで、笑った。
「ああ」
◇
茜が、こちらを見ていた。
腕を組んで、岩に背をもたせかけて。
「あんたら、いいコンビだな」
皮肉はなかった。どこか——羨ましそうな響きがあった。
「茜」
茜を見た。
「お前のおかげで、ここまで来れた」
茜の視線が一瞬逸れた。
「……別に。案内しただけだ」
「それでも」
言った。
「お前がいなかったら、降りられなかった。——ありがとう」
茜はしばらく黙っていた。
それから、顔を背けた。
「……礼なんか言うな。気持ち悪い」
けれど、その声は——柔らかかった。
◇
休息を終えて、再び歩き出した。
大斜面の底から、さらに奥へ。
灯ノ塔へ向かう道を、進む。
さっきの会話が、頭の中で反芻されていた。
誰かが「閉じた」世界。
人工的な地形。設計された構造。
そして——この世界に「拒まれない」という感覚。
一本の糸が、全てを貫いている気がした。
まだ、像は曖昧だ。
けれど——その像が、確かに形を取りつつあった。
◇
歩きながら、呟いた。
「この世界は——誰かが、『閉じた』……」
茜がこちらを見た。
椿も、振り返った。
「なら——なぜ」
自分の右手を見つめた。
「そして——なぜ、俺だけが、ここで戦えるんだ」
答えは、まだない。
けれど——その答えが、灯ノ塔にあると、確信していた。
奈々のいる場所に。
世界の真実が眠る場所に。
足を止めなかった。
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(第14話 終)
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