邪馬台編 第一章 風の噂
トヨの一族に生まれた少女カガリ、祭司名トヨメ、魏が記録した名前、邪馬觚と呼ばれるその娘が、まだ神殿で見習いをしていた頃、卑弥呼はすでに老いていた。
といっても、それは齢の話ではない。神を降ろし続けてきた年月の重みが、女王の背に見えぬ荷のように積もっているという意味だった。トヨメは女王の傍らに控え、その荷の重さを、いつか自分も負うことになるのだと、まだ実感のないまま教えられていた。
「今日の託宣は、何を映した」
卑弥呼がそう尋ねるのは、いつも神事の後だった。トヨメの役目は、まだ神を降ろすことではなく、降ろされた言葉を覚え、後で女王に問われるままそれを語り直すことだった。記憶することが、この頃のトヨメにとっての修行のすべてだった。
「西の海が騒がしい、と。それだけにございました」
「それだけ、か」
「はい」
卑弥呼は、それ以上を問わなかった。神託というものは、はっきりと形を持たぬまま降りてくることが多い。西の海が騒がしいというその一言が、何を意味するのか、女王自身にも分からぬのだろう、とトヨメは思っていた。
だが、その年の終わり近くになって、対馬から通ってきた交易の者が、妙な話を持ち込んだ。
海の彼方、遥か西南の大陸で、呉という国が、船団を組んで東の海を探らせているという噂だった。目的地は分からない。ただ、その船団が向かう先が、あるいはこの倭の地であったかもしれぬ、という話だった。
「まことか」
女王がそう問うと、交易の者は首を振った。
「まことかどうかは、手前にも分かりませぬ。ただ、そういう噂が半島の向こうから流れてきた、というだけのこと」
卑弥呼はしばらく黙っていた。トヨメは、その沈黙の中に、何か普段とは違う気配を感じ取った。女王が本気で案じているときの沈黙だった。
「その船団は、まだこちらへは来ておらぬのだな」
「来てはおりませぬ。噂だけが、先に流れて参りました」
卑弥呼は頷き、それ以上その話に触れなかった。だが、その晩の神事で降ろされた言葉には、いつもより長く、西の海についての言葉が続いた。トヨメはそれを一言も漏らさず覚え、後で女王に語り直した。
「海の向こうから来る者は、まだ届かず。届かぬまま、去る」
そう語ったとき、女王は初めて、安堵とも呼べぬ、複雑な息を吐いた。
「届かぬのならば、良い」
「なぜにございますか」
卑弥呼はトヨメの顔をしばらく見つめてから、答えた。
「届いてしまえば、我らはまだこの国の形を持たぬ。持たぬうちに大国の影に触れれば、飲み込まれるだけだ。届かぬ今のうちに、我らはこの国の形を作らねばならぬ」
トヨメには、その言葉の意味が、まだ十分には分からなかった。ただ、女王の目に浮かんだ、遠い西の大陸を見据えるような光だけは、はっきりと覚えている。
その頃、呉の船団は夷洲からの帰路にあった。それがどれほど近くまで迫っていたのか、トヨメが知るのは、ずっと後になってからのことである。




