邪馬台編 序章 トヨメの名
その日、カガリはまだ、自分がなぜ呼び出されたのか分かっていなかった。
女王の御前に上がるのは、これが初めてではない。だが、いつもは他の巫女見習いたちと共に、大勢の中の一人として控えるだけだった。今日は違った。誰もいない祭殿に、女王とカガリ、二人だけだった。
「近う寄れ」
女王の声は、神事のときの張りのある声とは違い、ひどく静かだった。カガリは膝で躙り寄り、女王の前に座した。
「そなた、この頃、託宣の言葉を一言も違えず覚えていると聞いた」
「はい」
「昨年の、豊作を占うた託宣を言うてみよ」
カガリは、言われるままに、去年の言葉を諳んじた。一言一句、抑揚まで、覚えている通りに。女王はそれを黙って聞き、最後まで聞き終えると、小さく頷いた。
「間違うておらぬ。あの時、私自身の口から出た言葉を、私はもう半ばも覚えておらぬというに」
「畏れながら、女王様のお言葉は、風に流れてしまうものかと」
「そうだ。神から降りた言葉は、私の口を通り過ぎていくだけのものだ。留まらぬ。だからこそ、留める者が要る」
女王はそう言って、カガリの目をまっすぐに見た。子供に向ける目ではなかった。まだ幼いカガリには、その目の重さの意味が、すぐには分からなかった。
「カガリよ。今日より、そなたにトヨメの名を授ける」
「トヨメ、と」
「古くより、豊かなる実りを祈る者は、その恵みを『トヨ』と呼ぶ。メ、とは、その恵みを負う女を言う。トヨメとは、神の言葉を留め、国の豊かさを守る者に与えられる名だ」
カガリは、その言葉の重さを、すぐには量りかねた。名を授かるということが、これほど厳かなものだとは、思ってもみなかった。
「これより後、そなたは神事の場では、トヨメと呼ばれる。カガリという名は、そなたの母がつけた名として、そなた自身の内に仕舞っておくがよい。名は人の魂を縛る。軽々しく他国の者へ明かすものではない。」
「畏まりました」
「トヨメとは、一人の名ではない。役目の名だ。そなたの前にも、この名を負うた者があった。そなたの後にも、この名を負う者が現れよう。人は名を忘れる。役目だけが残る。」
女王のその言葉を、カガリ――いや、この日からトヨメとなった少女は、長く覚えていることになる。何十年も後、自分がこの名を、まだ知らぬ形で誰かに譲り渡すことになるとも知らずに。
「神の声を覚え、人へ伝える者は、国の豊かさを守る者でもある。忘れるな」
「忘れませぬ」
その日から、少女はトヨメと呼ばれるようになった。だが、夜、一人で臥所に横たわるとき、少女は胸の内で、まだ幼い声で、自分自身の本当の名を、そっと呼んでみるのだった。
カガリ。
誰にも聞かれぬ、自分だけの名前だった。




